我思うゆえに我あり (了)

 人形の力みはどれくらいだっただろうか。ひどく長い間だったように思えたし、あっという間だったような気もする。やがて何事かが起きた。人形の下腹部からなにごとかが下の方へ押し出されてゆく。それは輝きであった。目映い、太陽のような明るい理性の輝き。わしは唾を飲み込んだ。そして一つの啓示であった。


「cogito, ergo sum――我思う故に我有り」

「cogito, ergo sum――我思う故に我有り」


 そんな言葉が弾けた。

 そして輝きは弾け、辺りはまた蝋燭と賢者の石の光だけになった。カタリと人形が体勢を崩し、後ろへ倒れる。それを軍人は力強く支えた。人形は最早何も動かなかった。しかし僅かにいろ弱くなった賢者の石の光の中、その表情に何事かを成し遂げた女にだけ見られる笑みが浮かんでいるように感じられた。そしてそんな成し遂げた人形を支えながら軍人は涙を流していた。彼は呟いていた。“彼の物”のイコンの前で彼は呟いていた。

「良いのだな。無しで。“彼の物”の加護無しで、我々は生きてゆけるのだな。そして“彼の物”の予定しない荒野にいま我らは投棄されたのだな」

 軍人の言葉は、難解で、わしには半分も理解できなかった。だがなにか神とその取り巻きにとって良くないことが起き、人間とそれを愛する物に良いことが起きたことがわかった。教会関係者はざわめきだした。いまの啓示をどう受け止めるのか、判断に苦しんだのだろう。みなが司教を見た。その判断を待った。このことはひどく罪作りなことなのではないか。ちっぽけな人間ごときの思考が神の存在に先行するなど、あってはならない冒涜ではないのか。ビスト司祭はフードの中からくごもった声を出した。

「こ、これほど神を冒涜する言葉など聞いたことがない。“彼の者”無しで我らが存在しえるなど! “彼の者”の庇護無しでこの世を生きることができるなど!」

「では!」

 はやり立つ協会関係者を司教は手を上げて制止した。

「いや、だから許そう。……この言葉が席巻するとき我々の力は一時的に弱まるだろう。だがいずれ我々は力を取り戻す。これも一つの艱難(かんなん)である」

 わしはほうと心の中で思った。思っていたより、このビスト司教とやらは大人物やも知れぬ。とにかく判断は出た。これで今日の試しはお終いであった。軍人は人形をしまい、そっとねぎらいの言葉を書けるとその鞄を閉じた。

「では、わしらはこれで」

「結局何が起きたのじゃ? なにかが光ったのはわかったが」

 まだ状況を理解できない神父が去り際のわしに問うた。

「世界が転向(ケーレ)したのです」

 わしは答えた。わしにもわかったのはそれぐらいだった。

 

“猫”亭に戻り、変装をとくと軍人はさっさと荷物をまとめはじめた。そばで見ていると軍人は言った。

「十年ずっと悩んでいたのだ。全てを疑い、神さえも疑い、娘を疑い、自分でさえも疑っていた。だがいまや信じる事柄ができた。考える己と言う存在だ。これほど喜ばしいことはない」

 それは自分の思考を整理するかのようであった。さらに言葉を続ける。

「今日はっきりとした。思考は神に先行する。神が世界を作ったのではない。そうかもしれぬが、思考が、思考こそが世界を形作るのだ。このことを理解する者達が増えるのは時間がかかるだろう。だが、いずれこの理解は当たり前のことになる」

「さようで」

 わしはよくわからぬままに答えた。まあわしが生きている内にはそんな大それた転向は起きることはあるまい。わしは問うた。

「新教と旧教の争いもいずれなくなりますかな?」

「後世の世では無意味であったと理解するようになるだろう。だが単純に神の信仰の仕方だけで我々は争っていたわけではない。それが忘れ去られることを俺は恐れる」

「……」

 確かに軍人の言う通り神の信仰の仕方の違いなどうわべのことでしかなかった。飢えや苦しみ憤り、そして名声や財産を求めて――さまざまな理由が先の戦争にはあった。いつの世にあっても戦争の理由は複雑なのだ。それを単純に神の名に帰されて単に馬鹿馬鹿しいことだったと断言されるのは今を生きるわしら達にとって屈辱的な評価であろう。わしは言った。

「……これからいかがなさりますかな」

「本を書く。俺の思想は広めるのに時間がかかろう。だがやり遂げなくてはならない。この啓示をくれた俺の娘のために」

「それがよろしいかと。時に娘子(むすめご)はどうされておりますかな?」

「……」

 軍人は無言で鞄を開けた。そのなかで人形――いや、軍人の娘は疲れたように目を閉じていた。その顔には未だ微笑みがあり、腹は何事もないようにへこんでいた。軍人は娘の顔をそっと撫でて言う。

「いままで心配させたな。最早迷いはない。大丈夫だ」

 わしも大いなる仕事を終えた人形に向かって軽く頭を下げた。軍人は鞄を閉じる。そしてわしに言った。

「ではもう行く。二度と会うことはあるまい」

 そう言って軍人は“猫”亭の主人に逗留費を払いこの町を離れていった。その軍人の言葉通り、わしと軍人は今に至るまで、再び会ったことはない。だがやがて一冊の本がわし宛に届いた。わしはあまり物を持たない性分だが、その本だけはいまも大事に取ってあり、まれに読み直すこともある。

 もう一つ記しておく事柄がある。あの後しばらくしてビスト司教が賢者の石を持って姿を消したのである。どこへいったのかはとんとわからぬ。だが、東方へ向かったとの風の噂をどこかで聞いた。

 最後に夢の話だ。軍人から本が届いた夜。久しぶりにわしは人形の夢を見た。人形はというよりあの軍人はまた新たな知恵を孕み始めたようだ。その子が育つにはまた時間がかかるだろう。だが今度は独力で誕生をなしとげるとわずかに膨らんだ腹を差すって笑って言った。そう、もはや理性の扉は解き放たれたのだ。あやしげなまじないの品など必要あるまい。

 これでわしの話はおしまいである。

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『捏(こ)ねられた猫』亭 陋巷の一翁 @remono1889

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