最終話
翌朝、美冬の目が覚めたのは、もう昼に近い時刻だった。こたつに入ったまま寝てしまったようで、肩は冷え、背中が痛む。寝返りを打ちながら起き上がると、頭の近くにはぐちゃぐちゃになった編み物の残骸があった。クロが遊んだのだろう。猫はこたつの台の上から、遅い起床の美冬をにらみつけている。
「おはよう、クロ。そうだ、雪!」
廊下側の襖を開け、飛び出してカーテンを開けたが、前庭には雪の気配すら残っていない。太陽がまぶしく輝いていた。地面は雪解けの湿りもなく、からりとして冬の乾燥した空気に満ちている。
「ああ、もう。雪だるま作り損ねた」
せめて庭の様子だけでも撮っておけばよかった。美冬は隣にちょこんと座るクロに「雪は溶けるんだよぅ」とぼやく。
「春樹に見せたかったなあ」
美冬は少しでも雪が残っていないかと、しばらく首を伸ばして外を見ていたが、なーあんっ、とクロが強く鳴く。「はいはい、ごはんごはん」美冬とクロは台所へと向かった。
この日は午後から仕事で帰りは遅くなりそうだった。ちょっと豪華なフードをエサ皿に入れ、自分は厚切りの食パンをトースターをセットしたあと、美冬はオムレツを作ることにした。
卵をボウルに割り入れていると、固定電話が鳴る。美冬は、セールスかな、と面倒に思ったが手を止め、一心不乱にエサ皿に頭をくっつけているクロのそばを通って廊下に出た。玄関近くに置いてある電話にかかってくるのは、たいてい興味のないセールスか地元の連絡網くらいだ。ソーラーパネルはいりません、などと頭に浮かべながら受話器を取ると、美冬は「もしもし」と平坦な声を出した。
「あ、美冬?」
相手は地元に住む同級生だった。高校までは付き合いがあったが、声を聴くのは久しぶりだ。
「なに、どうしたの?」
懐かしい人ばかり続くと、おかしくなって口元がゆるんだ美冬だったが、次の瞬間、相手の言葉に心臓が跳ねあがった。
「聞いた? 三浦くん、バイク事故で昨日亡くなったって……」
三浦くん。三浦秋人のことだ。美冬の幼馴染、あの秋人が昨夜、雪でスリップした大型車とぶつかり、バイクで転倒、そのまま亡くなったという。即死だとのことで現場は地元近くの見通しのいい通りだったそうだ。秋人は数日前に帰省していて、高校時代の友人に会いに行った帰りだった。
そういう情報がどこまで正確なのか不明だが、電話口では淡々と、だが興奮も隠せないような様子で話しているのを美冬は何の感情もなく聞いていた。自分が適度な愛想を見せながら答えている声が、人ごとのように耳に届く。まだ葬儀の日時は決まっていないようだが、たぶん市内にある葬儀場でやるだろうとのことだった。
「美冬、行く?」
どこへ、と言葉が浮かび、「美冬?」の声に何の話をしていたのか思い出す。美冬は電話なのに激しく首を振り、「いや、遠慮しとく」と口早に答えると相手の反応も待たずに電話を切った。
――昨夜というのは、あのあとだろうか。
いや、でも高校時代の友人だというし、事故があった場所も全然違う。美冬を訪ねたあと、友人に会いに行ったのだろうか。でも……
美冬が職場に行くと、近場の事故ということで話題はバイク事故で亡くなった若者の話で持ちきりだった。秋人に非があるような口ぶりで話す人もいたが、だいたいは同情的だ。
事故があった時刻は深夜前のようで、秋人が美冬に会いに来たあとバイクに乗り、事故に遭ったとは考えにくかった。突然のことで混乱していた美冬は、昨夜の出来事は自分の記憶違いだろうかと疑った。昨日ではなくその前日だったか、いや、そもそも本当に秋人は自分を訪ねてきたのだろうか。あれは……
葬儀は市内で行うとのことだったが家族葬らしく、その連絡も地区で回ってきたものではなく、噂レベルのささやきで知ったことだった。日時はわからなかったし、わかったとしても棺に横たわる秋人を目にする勇気はなく、美冬は誰とも連絡をとることもせず、なるべく何事もなかったかのように普段通りに過ごした。ただ、夜になると目が覚め、さまようように玄関口に向かってしまい、あとを心配そうに飼い猫のクロがついて回るのだった。
そうして実感もなく、職場でも余計な関心を持たれないまま日々は過ぎていき、雪が再び降ることもなく春を迎えようとしていた。
その日は午後には帰宅していて、早めの夕食をとった美冬は、暗くなる前に運動しようと近所を散策していた。空は茜色に染まりつつある。ナイロン製の薄いジャケットを羽織っていただけだが、歩いているうちに体が温まって少し汗ばむほどだった。
探せばもうつくしも生えているのではと、あぜ道に視線をやりながら、気づけば小学校時代に歩いていた通学路を進み、普段はいかない路を曲がっていた。
ふと記憶がよみがえり、下校時に秋人と草船を作り用水路に浮かべ競争をしたことや、田んぼに水着袋を落とした時に彼が足を汚して拾ってくれたことなどが、突然、鮮明に目の前に見えたような気がした。笑い声やそのときの自分の心の動き、当時の視線の高さ、目に映る景色。宿題の量に一喜一憂して、うまくかみ合わない大人との会話に苛立ったあの空気感、焦る呼吸、戸惑い、雲の上を歩いたらきっとこうだと空想した無邪気さ、そして淡い恋心……
長く立ち止まっていたはずはなかった。「美冬ちゃん?」と声をかけられたとき、美冬は急に呼吸が戻ったような動悸を感じた。
そばにいたのは六十代くらいの女性で、ふっくらとした体形で、美冬と似た薄手のナイロンパーカを着ている。犬の散歩中だったのか、手にはリードがあり、はっはっと息づかいを繰り返す大型犬が横にいる。利口そうなシェパードで美冬と目が合うと小首をかしげる仕草をしてまるで笑ったようだった。
「旦那さん、春には戻って来るんだってね?」
女性はそう言い、目尻に皺を作った。くっきりと長く伸びるその線に目を止めて、美冬は相手が誰であるかやっと気づいた。記憶よりぐんと老け、雰囲気も変わっていたのですぐにはわからなかったが、秋人の母親だった。
もっと細身でママさんバレーをずっとやっていた彼女ははつらつとした雰囲気の女性だったはずだ。目の前にいるのは中年をすぎ、老齢が間近に迫っている、おばあちゃんの言葉が似合いそうな人。声も覚えているよりも低く、時代がいっきにスキップして美冬はタイムスリップでもしたかのように戸惑ってしまった。
「あ、はい。まだ予定ははっきりしてないんですけど」
もごもごと美冬は返事をする。秋人の母親は「忙しいのね」と微笑みを浮かべたまま、ずっと美冬に視線を投げかけてきていたが、美冬は、「はあ、まあ」と愛想のない言葉しか出てこなかった。
「美冬ちゃん」と、彼女はしみじみと名前を呼んだ。「秋人と遊んでくれてありがとうね」くしゃりと泣き顔のような笑みをすると、「じゃあね」とリードを強く引いて横を過ぎていく。美冬は「はい」とだけつぶやき、肩を丸めて頭をわずかに下げた。はっはっと犬の呼吸が遠のいていき聞こえなくなると、美冬は顔を上げ、振り向いた。
秋人の母親の姿はもうなく、角を曲がったのか、見えるのは風に揺れる枯草ばかりだった。日が落ち始め、夜が忍び寄り、空気が冷えていく匂いがする。その瞬間、美冬はすうと氷を飲み込んだように喉と胃が冷たくなった。わけもなく悲しくなり、破裂したように目が濡れ、鼻の奥が緩んでいく。歩き出せずに美冬は佇み、空の色が変化していくのを眺めた。
辛いのだろうか、悲しいのだろうか。涙の訳を理解できなかった。ただ血のように熱く胸を打つ感情に涙は止まらず、足も一歩も出せずにいた。私は秋人を好いていたのだろうか。もしあのようなことがなく、幼馴染の関係が続いていたら、今ごろ、べつの人生が待っていたのだろうか。美冬は巡る思考に叫び出したくなった。何もかもひどく辛辣で不幸に思えた。
私は秋人が好きだった。いまも好きだろう。ただこの愛は恋愛のそれではなく、また、当時もし秋人が真っ当な態度で告白してきたとしても、応じたとは思えなかった。
そうだ、きっと拒絶しただろう。美冬は確信めいた予感がした。
幼馴染でよかったのだ、ずっと仲の良い幼馴染がよかったのだ、子どものまま、幼い淡い恋心を抱えているまま、そのときのまま過ごしていたかったのだ。それは過行く時の否定にすぎない、恋ではない、きっと、きっとそうだろう、私が好いていたのは幼馴染と共有した時間であり、喜びであり、理不尽さや葛藤も柔らかなお菓子のように存在したあの日々を慈しむ、ある種のノスタルジー的な子供時代の否定でもあるのだ。あの当時はすべてが深刻で痛々しく嘆きに充ちていたのだから、記憶のそれとはまたべつの色をして、この身に迫っていたことだろう。私はあの日々をもうずっと遠くに置いてきていたのだ、何があったわけもなく、必然の傷はたしかにどうあろうとやって来ただろう、どのような選択をしたとしても、私は傷つき、戸惑い、後悔してこの日を、この時、この年数と日付と時刻を迎えていたはずだ、そうであるに違いない。
美冬が涙が渇いたことを自分で知り、猫が待つ家に急ぎ戻ろうとしたとき、ジャケットのサイドポケットで短い着信音がした。携帯を取り出して確認すると、画像が一枚表示してあり、送り主は春樹だった。『見つけた』のコメントが添えられている画像は美冬を笑顔にした。
雨上がりだろう空に、虹が幾重にもかかっていた。ひとつふたつではない虹のアーチはどこが互いの区切りなのかわからないまま色を重ね、変化させて伸びている。美冬は通話ボタンを押した。春樹は待っていたかのようにすぐに反応する。
「あのさ」
美冬は歩きながら話した。月が輝きは始めている。
「この前、不思議なことがあってね。夜中に目が覚めて――」
雪を溶く熱 竹神チエ @chokorabonbon
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