第2話

「悪い」


 秋人は短髪の生え際を恥じいるように掻いた。二重瞼に四角い輪郭。顔立ちは間違いなく秋人であるが、美冬の記憶に刻み付けられている姿は中学まで。どちらかといえば線の細い少年だったので、がしりとした体つきと、薄暗い中でもわかる目尻の線が笑顔を作るたびにくっきりと入るのを見て美冬は戸惑い、そしてずいぶんと老けているな、と自分の年齢を棚に上げ、おじさんじゃないの、と思うのだった。


 秋人は「雪がさ、珍しいよな」と口にしながら玄関に入ると、美冬が戸を閉めている間に猫がいるのを見つけて、「飼ってんのか、黒いな」と腰をかがめた。クロは美冬の足にまとわりつき、秋人の手を避ける。彼は「名前は? 雌か、こいつ」と屈めていた背を伸ばして朗らかに言った。


「雌だよ。クロ」


「まんまの名前だな」


「そうだね。まあ、本当はべつの名前だったんだけど、春樹が――夫が『クロ、クロ』と呼ぶばかりしてさ。そっちが定着したの。似合ってるからいいけどね」


 しん、と一瞬、周囲が張りつめ、

「旦那、いま海外だって?」

 と秋人が言った。


「うん。春には戻るよ。そうしたら、この玄関もさ、リフォームすんの。あと水回りと、庭もいじろうかと。秋人はこっちに戻って来てたの? O県にいるのかと思ってた。あっちで働いてたんでしょう?」


「ああ。向こうで生活してるよ。ちょっと戻って来てて」と言葉を切り、「美冬は仕事してんの?」と話を向けた。


「ぼちぼちね。それで」


 美冬は秋人を中に上げるかどうか迷った。美冬自身は寒さを感じていなかったが、外から来た秋人は暖房にあたりたいかもしれない。雪が積もっていたのだ、さぞかし寒かったろうと思う。


「あがって」


 美冬は促すように手で廊下を示した。うたた寝していた部屋に案内しよう。生活感がにじみ出ている部屋だが、こたつもあるし、さっきまでいたので部屋も温もっている。年齢が上がるにつれて秋人とは関係に距離ができてしまっていたが、昔は互いの家で寝泊まりだってした仲だ。べつに見栄を張る相手でもない。だが、秋人は「いや、ここで。すぐ終わるから」と首を振る。


「ちょっとだけ、話しておきたいことがあって来たんだ。その、昔のことなんだけど、いま言っておかないと、もう話す機会もないと思って」


 何を、と美冬は返しそうになって、すぐに察した。秋人が言わんとしているのは中学の頃、疎遠になるきっかけとなったあのことだろう。


 通学路の方向が同じこともあり、中学になっても美冬と秋人は自転車で横並びに走って登下校をすることがあった。あくまで幼馴染の関係であり、約束して一緒に登校しているわけでもなく、会えば話す程度だったのだが、二年に進級したばかりの頃、「二人がキスをしていた」との噂が出たのである。


 もちろん全くのでたらめで、美冬の友人たちは信じなかったのだが、男子を中心に噂は下品さを増していき、たいしてよく知らない子にもすれ違いざま、くすくすと笑われるようになった。学校中がこの噂を好んでいるようだった。


「いまからエッチすんのかよ」


 たまたま家の近所で会って二言三言交わしていた場面を、同級生の男子に見つかり、そう大声で叫ばれたこともある。交わしていた言葉は「噂が気持ち悪いから、秋人から男子に文句言ってよ」と喧嘩ごしのもので、勘繰られるような親しさを見せていたわけではない。言った男子もからかい以上のつもりはなかったのだろう。それでも、その醜悪な好奇心に満ちた笑みに、美冬は嫌悪を通り越して死にたくなるような絶望感でいっぱいになった。


 そうして美冬は秋人と顔を合わさないように登下校の時間を変更して、見かけてもあいさつひとつしないように注意した。それでも噂は止まない。学校で美冬は、周囲を仲の良い女子の輪でガードしてもらい、無遠慮な視線や言葉から自身を守った。手洗いを筆頭に潔癖さが増して、体の線が出る洋服も着なくなったが学校は通い続けた。


 秋人のほうでも噂を苦にしていたはずだが、彼はひとりでいることが多く、さらには悪いことに噂を強く否定しなかった。ある種平気そうなその素振りは美冬には裏切りに思え、また、秋人があいまいな態度をとったことで噂に拍車がかかった――秋人自身がこの噂を広めたように映った。


 確信めいたものはなかったが、低学年くらいのころから、美冬は秋人に対して恋心に近いものを抱いていた。一緒に遊ぶと楽しい相手だったし、高学年になった頃には「好きな子はいるか」の話題には、まず一番に秋人の顔が浮かんだ。彼が他の女子を好きになるといやだな、くらいにはおぼろげに嫉妬して、その気配がないことに安堵していた。


 それがこうして噂になり、秋人の中途半端な態度を目の当たりにして痛みを分かち合うこともできないと知ると、美冬は自分の思い違いに腹立たしくなった。彼にとって美冬はあまり重要な存在ではないようだ。


 そんな中、同じ塾に通っていた他校の生徒に美冬は告白を受けた。相手はかろうじて苗字がわかる程度の認識しかない子だったが、噂を完全に消したい、秋人を嫌いだと確信したいがために、美冬はその告白に乗った。


 その告白相手が、美冬の夫、春樹だ。


 春樹は欠点らしい欠点がなく、美冬に対して肯定的で、また同年代の割には落ち着きがあり温厚だった。別れるきっかけもないまま、ぬくぬくとした関係が続き、二十五になったときに二人は結婚した。


 中学のときから付き合っていた相手と結婚したというと、周りは「純愛だ、素敵だ」と褒めているのかからかっているのかわからない態度をとるが、美冬は交際のきっかけがきっかけなだけに、後ろ暗いような、春樹に対して申し訳ない、ずるい秘密を抱えている気がして、この話題は避けたくなるのだった。


 深夜訪ねて来た秋人は、懐かしがるように玄関とその向こうにつづく廊下に視線を向けている。やっぱり中へ案内しようかと美冬はサンダルを脱ぎ、たたきに上がりながら彼を振り仰いだ。秋人は美冬の視線に気づくと笑顔を見せ、それから眉をへの字に曲げた。


「あのときは……、本当に悪かった。中学のとき」


「ああ、うん」


 美冬は自分を抱くように腕を組むとわずかに彼を見おろす形になって視線を送る。ちょうど美冬と秋人の間にクロが座り、力なく伸ばした尾を左右に動かした。そちらへ目を向けつつ、美冬が秋人の言葉を待っていると、彼は「あのときはさ、実はこの噂がきっかけで」と口にして、悩ましげな表情で首をゆるゆると横に振る。


「いまさらなんだけど。夢でも見たと思って聞き流してくれていいんだ。ただ、言わずにいくのは嫌でさ。わがままなんだけど、こうして突然、来ちゃったんだ。本当に悪いと思ってる、今日も昔も」


「いいよ。だけど、引っ越しでもするの? 遠いの?」


 言い方にひっかかり美冬が問うと、秋人は「え、ああ」と頬を掻く。「そうなんだ、ずっと遠くに行くことになって。もう会うのは最後だと思う」


「帰省もないってこと? 海外?」


「ま、そんなところ。美冬の旦那は暑い国にいるんだっけ。かあさんが『美冬ちゃんのところは責任ある仕事をしている立派な人だ』みたいなこと言ってたけど」


「まあ、私よりは活躍してるよ。秋人も仕事関係?」


 秋人は答えるわけでもなく、また頬を掻くと、そのまま急に頭を下げて美冬に詫びた。「悪かった。最低だった。美冬が傷ついていることわかってて、何もしなかった。あのとき、おれ、美冬のこと好きで、噂きっかけでカレカノになれたらいいなって思ってたんだ。だから何言われても黙ってた。あそこまで噂がひどくなるとは思わなかったけど、そのあとも何もしなくて」そうして、土下座でもするようにしゃがむ。美冬は口を開き、言葉なく彼を凝視した。


「す、好きだった?」


 やっと出た声は裏返り気味で滑稽だった。秋人は顔を下に向けたまま、「そう、めっちゃ好きだった」とくぐもった声を返す。


「は、そ、そうなの。でも、あんな噂で付き合うとか」


「そう、いまならわかる。でも当時はチャンスみたいに思ってた。『噂を本当にすればいいんじゃねー』くらいに」


「馬鹿すぎる」


「おっしゃる通り」


「私、あのことで秋人のこと大嫌いになったのに。よくもまあ……、でも、いいよ。それきっかけで春樹と付き合うことになったし、夫としては最高だもん。むしろ、ありがとう」


「それきっかけ?」


 即座に顔を上げる秋人に、美冬は「そ、そうだよ。噂が辛くて、彼に相談して仲良くなったんだから」と突っぱねる。


「そうか。うん、いい人みたいだもんな。仲良くやってんだろ? こっちに戻って住むって聞いたときは驚いたけど、次は単身赴任だからな、美冬、苦労してんじゃないかと思ったけど、楽しそうだな」


「苦労なんかしてないし。春樹はね、早いうちに捕まえといて正解だった相手なの。それに春には戻るし、リフォームするし、もう一匹猫飼おうかなって思ってる」


「おばちゃんたちは元気か?」


「元気、元気。おばあちゃんたちも元気なんだよ、ただ、ぼけ気味だけどね。それで、秋人は昔のこと言うためにわざわざ夜中に来たわけ?」


 むっとしてあごを上げ気味に美冬が問うと、秋人は「悪い」と頭を下げ、反動をつけて丸めていた体を伸ばした。美冬と視線の高さが同じになる。向かい合う秋人の目元には柔和な雰囲気が漂っていた。


「美冬の旦那に、一度は会っておきたかったな」


「かっこいいよ。癒し系。良いパパになりそうなタイプ」


「いるのか?」


 すっと秋人の視線が美冬のお腹に移動する。「いるわけないでしょ、いたら誰の子ってなるじゃない」美冬はお腹に手をやって斜めに構える。


「そっか。そうだな」


 秋人は声を出して笑った。つられてむっつり顔を作っていた美冬も笑顔になる。


「末永く健康で長生きして仲良く楽しく過ごしてくれ」


 まだ笑いながら秋人はそう言うと、「じゃあ」と右手を上げた。


「もう帰るの?」


「ああ。もう用事は片付けたしな。美冬が夜に男連れ込んだなんて噂が立つとまたお前に嫌われる」


「夜中に誰も見てないと思うけど」


「わかんねーぞ、どこで何見てるかなんて。おれさ。美冬にはっきりと謝ってなくて、ずっと逃げてたからさ。だから、言わずには旅立てないと思って、勝手だとは思ったけど、来たんだ。許してくれとは頼めないけど……」


「いいよ、もう気にしてない。秋人がガキだった、て話でしょう? さっきも言ったけど、夫との馴れ初めにつながったからいいんだって。それより、そっちは良い人いないわけ? もしかして結婚してる?」


 美冬は戸口から半身を出して去ろうとしている秋人を追って、サンダルに右足を乗せたが、彼は「いいよ、上にいて」と彼女を留める。なあん、とクロが境界線を張るように、美冬と秋人の間に立ちふさがった。


「じゃあな、美冬。ちなみにおれは、独身、彼女ナシ、募集中でもない」


「あっそ。……同窓会があっても顔出さない?」


「無理だな。それに、もし次会うことになっても、五十年は先でありたいな。いや、六十、七十年でもいっか。とにかく、美冬は元気でいろよな」


「あ」


 と、美冬がサンダルを履き、クロをまたごうとしたところで玄関戸はぴしゃりと閉じた。すぐに「あのさ」と開けたが、外には月光を浴びる白い雪が、パウダーを降ったように積もる庭があるだけ。不思議と足跡もなく、秋人の姿はどこにもなかった。

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