雪を溶く熱

竹神チエ

第1話

 うたた寝をしていた美冬は、爪先に当たるさわりとした毛並みの感触に目を覚ました。飼い猫のクロだ。こたつから抜け出る瞬間彼女の足に触ったのだろう。クロは器用に鼻を使ってカバーを押し上げると、襖の前で姿勢正しく座った。と顔だけ回して美冬を見る。壁かけ時計に目をやると夜の十二時になろうとしていた。テレビでは見ていたはずのバラエティ番組が終わり、テレビショッピングの陽気な声がしている。


 美冬は手にしていた編みものをこたつの上に置くと襖に手を伸ばした。編み棒を持ったまま眠っていたため、肩がこわばり、つったような痛みがある。襖を滑らせるとクロは一歩廊下に出たが、くるりと反転してじっと美冬を見上げた。


「ごはんでもほしいの? もう寝る時間だよ」


 クロは黄色の瞳をわずかに細めると尾を大きくゆらんと振った。飼い主に早くこたつから出て来い、というわけか。仕方なく美冬は温もりをはぐようにこたつから足を引き抜くと立ち上がる。「寒いなあ」とこぼしながら、トコトコと先を行くクロのあとをついて廊下に出ていった。


 クロはエサ皿がある台所の角まで行くかと思えば、そこを通り過ぎ、玄関へ向かっていく。廊下は薄暗く灯りをつけようかと迷う。が、ふと外の明るさが目に入り、美冬はカーテンに手を伸ばした。


 塀で囲まれた前庭に冬が積もっている。丸く刈り込んだ大小のサツキと星を散りばめたような斑入りのアオキ、背丈ほどの塀の瓦や灯篭にも数センチ程だが雪がのっている。月光は目立たなかったが、雪は自らが発光するように白くほんわりと浮きあがって幻想的だ。


 美冬が生まれたのは雪が降る晩だったと聞くが、このあたりでは雪がちらつくことも珍しい。積もるのは数年に一度、それもすぐに溶けてしまうものばかりだ。だからか、美冬は雪をみると三十を前にしても童心のように胸が騒ぐ。


 朝にはなくなっているだろうな。


 予報では明日は晴天、気温もぐっと上がるとのこと。日が昇りきる前に目を覚ませば溶ける前に雪に触ることができるだろうか。小さな雪だるまでも作って春樹に画像を送ったら面白がるかもしれない。彼はいま年中気温が高い国にいるので、庭に積もった雪を見せてあげたい。


 美冬の夫、春樹は春から海外で単身赴任をしていた。美冬はひとり実家に残り生活をしている。慣れ親しんだ家とはいえ、田舎の古くただっぴろい日本家屋にいると、深夜ともなればどことなく不気味だ。美冬はきゅっと心臓が怖がるように縮こまるのを感じて苦笑した。美しい光景は恐怖と裏腹なのかもしれない。足下ではクロも興味深そうに雪が積もる庭を眺めていた。


「出ちゃあだめだよ。雪、もしかして初めて見るかな?」


 クロを飼い始めたのは昨年の五月だ。里親を探している知り合いがいて、野良の子だったクロを引き取った。雌猫で真っ黒一色、食いしん坊だが太りもせず、ほっそりとした体形をしている。


 ずっと猫を飼いたいと思っていた美冬は、念願の猫との暮らしに満足していた。アパート暮らしではなかなか猫を飼うことも難しかったろう。クロの存在は、当初実家に戻ることに難色を示していた美冬が、ここでの暮らしも悪くないと思うようになった要因でもある。


 元々結婚当初は春樹と二人、アパートを借りていた。それが、美冬の両親が母の実家で祖父母と共に暮らすことになり、空き家になるのはもったいないと、新婚の二人にここに住んだらどうかと提案してきたのだった。


 せっかく家を出て同じ市内とはいえ独り立ちしたつもりでいた美冬は、この提案をあまり快い誘いとは思わなかった。一方、子どもの頃からずっと賃貸暮らしだった春樹は嫁の実家で暮らすことに抵抗がないようで「家賃も浮くし、大きな車を買っても駐車場に困らないよ」と賛成。彼は畳だらけの古びた家でも「庭付き一軒家だ」と何もかもが楽しい様子でわずかの苦もない。


 最初こそ「出戻りみたいでいやだ」と不機嫌だった美冬も、次第に自分が育った家で今度は春樹とふたりで暮らすのも、どこか奇妙で面白いものだと思うようになった。ずっと住むならとリフォームの計画も立て、新生活は順調であった。


 それが春樹の転勤が急に決まり、いまでは何部屋もある一軒家にひとり暮らし。美冬も仕事を持っていたがキャリアを積んでいくような職種でもなく、まだ子どももなかったため、彼についていくこともできた。しかし、猫がいることや、庭木の世話はどうするの、といったことを理由にここに残ったのである。期間は一年程であり、春樹も「リフォームは僕が帰って来るまで待ってね」というだけで嫌な顔ひとつ見せなかった。


 だから美冬は自分の決断を正解だったと思っていた。それでも度々虚しいような孤独を感じる。美冬は、たいしたわけもなく海外に行くチャンスを放棄した自分を恨めしく思う時もあるのだった。


 なあん、とクロが催促するように鳴いた。尾をまっすぐ上に伸ばし、先導するように先を行く。美冬はカーテンを閉じると猫のあとを追った。クロは数回、美冬を確認するように振り返り、立ち止まっては待つような仕草をする。玄関が近づくといっそう駆け足になって暗い闇の中を突き進んでいった。


 美冬は灯りをつけようかと柱のそばを手探りしたが、その手を下ろした。すりガラスがはまった玄関戸から、ぼんやりと白い灯りが差していて、その戸の前にクロが行儀よく胸を張って座っているのだ。


 美冬は足下に用心しながら猫のそばへと移動した。


「クロ、外に出るのは禁止」


 と、じゃり、と路を踏む音がした。じゃっじゃっとその音はつづく。


 はっとして身をすくめる美冬に、クロが落ち着けというように体を擦りつける。クロを抱きかかえようとした美冬だが、猫は腕をすり抜け背後に回ってしまった。


「クロ」


 小声で呼びかけるのと同時に、玄関の向こうで。


「遅い時間にごめん」


 低いがよく響く声だ。


「おれ、秋人だけど、美冬、ちょっと開けてくんないかな」美冬がとっさに息を止める間に、さらに「話したいことがあって」と相手は続ける。


「……秋人?」


 美冬は玄関戸に近寄りながら恐る恐る問いかけた。秋人はいわゆる幼馴染で幼稚園から中学までずっと一緒。幼少期は遊びに行ける距離に同じ年頃の子が秋人しかいなかったため、しょっちゅう互いの家を出入りしていた。


 それでも最後に彼と言葉を交わしてから、もう十年以上経つ。高校は別々になり、それからは顔を合わせることもなくなった。駅や通りで何度か遠くから見かけることはあったが、そのときも会話はせず、避けるようにすれちがった。疎遠になったきっかけはあったが、そうでなくても狭いコミュニティのようで密集度の低い田舎では、同じ地区内に住んでいても顔を見ずに生活することは思いのほか容易なことだった。


 親から、秋人は他県の大学に進学して、そのまま向こうで就職したと聞いていた。その彼が美冬の家に、それも深夜に訊ねて来るとは。


 美冬は不気味さに戸惑いつつも、もしかしたら近場でトラブルでもあったのだろうか、と思いをめぐらせた。ただ、そう考えるにしても秋人の声には不安は見えても焦りのようなものはない。久しぶりに耳にした彼の声が本当にあの秋人だろうかと疑問が胸の内で渦巻いていく。


 なあん、とクロがか細く鳴いた。すり寄りながら、美冬のふくらはぎを頭でつんと押す。クロが「大丈夫だ」というように美冬をまっすぐに見る。


「何か、あったの?」


 美冬は怯みながらも玄関戸のロックを外した。カチャリと響く音に警戒心が募ったが、秋人は自ら戸を引くこともなく、「悪い、美冬」と立ったまま待っている。ぼやけたすりガラス越しのシルエットは記憶にある秋人よりずっと大きく、黒々とした熊のようだ。


 開けたら襲い掛かってくるだろうか。美冬は寸の間脳裏を過ったが、「こんな時間に本当にごめんな」と情けない声を出す幼馴染に、過剰に意識する自分がみっともなく思えてきた。「いま開ける」美冬は引き戸を思い切って大きく引いた。


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