アッペティート

深川夏眠

appetito


 ありきたりのネタばかり拾ってきたって使えないよ、高井戸くん――と編集長に嫌味を言われた。帰路、ぼんやり歩いていたら呼び込みに捕まって、不本意ながらに足を踏み入れる羽目になった。

「いらっしゃいませ。如月きさらぎリコです。初めまして」

 透き通ったきれいな声だ。張りもある。レッスンを受けさせて夜の女王のアリアでも歌わせてみたい気がした。

 喧噪の中、グラスを掲げ、ややあって隣の席の会話が耳に飛び込んできた。この頃××の奥様を見かけない……等々。

「あっちで話題になってる人って……」

上山谷かみやまたに夫人」

「ご無沙汰してるから、近々挨拶しないと……」

 これは方便ウソ。たった今、初めて聞いた名前だが、不審さを感じさせずに話を引き出すためだった。

「面白い方ですよね。お得意様の接待だって言って年配の女性がいらっしゃるなんて。お陰でお客様が増えて助かってたんですけど」

 帰宅して調べ、噂の人物が何者か判明した。様々な装身具を制作する会社の社長だった。元は夫が取り仕切っていたが、彼が謎の失踪を遂げたのち女史が経営を引き継いだとか。食通としても一部ではよく知られているらしい。連絡先を突き止め、「麗しき女社長の食卓」というテーマで取材したいと伝えたところ、拍子抜けするほどアッサリ色よい返事を得た。


 教えられた住所は、ごく普通のマンションだった。出迎えてくれたのは上山谷夫妻の息子だろうか、執事にしては貫録のない、精々その見習い風の美男。

「撮影や録音はお断わりしています」

 システムノートと万年筆を取り出し、残りはバッグごと預けた。応接室には艶冶えんやな女性がオペラに耳を傾けながら悠然と腰を下ろしていた。型どおりの挨拶を済ませると、が小さな焼き菓子を並べたペストリースタンドを運んで紅茶を淹れてくれた。

「社長を夜の街でお見かけしなくなったと小耳に挟みまして」

「ある日ふと、世の中の多くの愉しみを知らずに生きてきた気がして、羽を伸ばし始めたんです、わたくし。夫とはたびたび口論になりましたけど、向こうだって、どこぞの女とよろしくやっていたんですから、不公平じゃありませんか、ねえ?」

「ご主人は、どうなさったんですか?」

「帰ってこなくなったから捜索願を出しました。いずれ、法的に死亡したと見なされますでしょう。でも、あの子が……ご紹介が遅れました、一人息子のジンといいます。血は繋がっていませんが。あの子に引き合わされて、夜遊びは卒業しました」

 どうやら親子ほど年の違う愛人と暮らすに当たって、養子縁組の手続きを取ったと見える。彼女の夫はまだ死んだと決まっていないので、形式上は夫婦になれないからだろう。

「高井戸さん、小説をお書きにならない? わたくしたちの馴れめを、お知りになりたいのでしょう。お話しします。ただ、仮名でなくては困るし、適当に加工していただきたい部分もありますから、ノンフィクションというわけにはまいりませんの」

 僕は万年筆をクルクル回しながら、

「わかりました。やってみます」


 わたくし、ひょんなことから夫を殺してしまいました。重いクリスタルガラスの花瓶で殴り倒して。いろいろお付き合いがございますから、相談できる人もおりましてね。すぐ駆けつけてくださって。詳しい話も聞かず、任せっきりにしてしまいました。

 数日後、届いたにパーティの招待状が同封されていました。迎えを寄越すから盛装でお待ちください――って。やって来たのが、わたくしに宛がわれたエスコート、つまり、その子。盡でした。

 郊外の邸宅の玄関ホールでドミノマスクを渡されました。お客は全部で二十人くらい。最初はビュッフェの会場みたいな部屋に通されて。スプマンテを片手にフィンガーフードを摘んでいたんです。フォアグラとか、のパテが載った……。しばらくして、ゲスト同様、仮面で顔を半分覆った男性が現れ、本題に入りました。気の利いた夜食だなんて言って暢気につついていたのが、人体を食材としたタルティーネだった、って。卒倒する人もいれば、吐き気を堪えて退出する人もいました。

 人数は半分ほどに減りました。続きの間に通されますと、先ほどのアンティパストだったのでしょう、すぐにプリモピアットが出てきました。リゾットでした。具は茸と……の肉を羊腸に詰めたサルシッチャを刻んだもので、ほんのりした塩味が快く、微炭フリッ酸水ツァンテを含んで口の中を清めると、次の料理への期待が湧き上がってきました。供されたのはスペッツァティーノ。トマト煮込み、ね。素材はぎゅうでも豚でも鶏でも構わないのですが……初めての歯応えでした。独特の弾力がありつつ、スッとほぐれて。一口噛むごとに、顎や歯の動きと心臓の鼓動が同調し、いかにも直ちに、咀嚼するや否や、わたくし自身の血肉と化していくかに思えました。

 一座は興奮しながら、うっかりすると笑ってしまいそうなほど厳粛な雰囲気に包まれました。おときの席に連なった心地とでも申しましょうか。が亡くなったのは紛れもない事実で、わたくしたちは神妙に故人を供養したのです。共犯者として。全員、満足の溜め息と共に食事を終えました。ドルチェはサングィネッロのジェラート。これはちょっとした洒落のつもりだったのでしょうね。でも、もしかしたら……。

 お開きになり、また車に揺られました。自宅の前に着くと盡が一緒に降り立ち、散会の際に渡された手提げ袋を差し出しました。挨拶状らしき封があって、読めと言いたげな目色。は毒々しいラベルりの缶詰一式。メッセージカードに曰く、についてのお支払いに追加料金が発生しました、つきましては今後、半永久的に、本日の同伴者の身分を保証し、お世話をお願いしたく……云々。

 今宵のエスコートは、言わばで、秘密を共有するに当たってしかるべきポジションに据えろというのでしょう。お安い御用でした。


「ありがとうございました。ただ……一杯食わされた可能性は、ありませんか? とても手が込んでいますよね。リブロースのステーキなどと違って、材料が非常に細かく、形を留めていない。イベントの主催者は、ごく普通の獣肉カルネを殺害された人間と偽って、あなた方をパニックに陥らせたのでは。平常心を失わせ、弱みに付け込んで法外なサービス料を上乗せするために」

 盡が離れたまま微かに鼻で笑った。

「だって、本当にヒトの肉だったかどうかなんて、わからないじゃないですか。調だって見ていないんですし」

 千紗女史が盡に目で合図すると、彼はパントリーから小さな紙袋を出して僕の前に置いた。

「では、確かめてご覧になったら?」

 お土産にどうぞと勧められたのは、話に出てきた缶詰だった。僕は万年筆を弄び、冷めてしまった紅茶の残りに口をつけた。すると、典雅なBGMを掻き分けて、奥の部屋から生き物の叫びが放たれた気がした。甲高い、瀕死の小鳥のような……。

「楽しい時間でしたわ、高井戸さん。原稿をお書きになったら、お知らせくださいね」

 半ば追い出される格好で玄関へ。また、何ものかの悲鳴が細い矢のように空気を切り裂いた――はずなのだが、盡は一顧だにせず顔色を変えなかったし、千紗女史が客間のソファから立ち上がる気配もなかった。


 帰宅して証拠を検分した。万年筆には小型カメラが内蔵されていて、一部始終を録画していた。千紗女史の顔半分やの様子が映っていたが、重要なのは音だ。その場では気づかなかったが、滞在中、数回、誰かが助けを求めていた。相当、衰弱しているらしい。だが、健康な状態だったら、なかなか魅惑的な美声に違いない。専門家の猛特訓を受ければ見事なコロラトゥーラを披露できそうな……。

 知り合いの警察官に相談した。千紗女史が若い女の子を監禁しており、僕の注意を逸らすために悪質な冗談を述べたふしがあるから、悲鳴のぬしを助けてほしい――と。

 如月リコ嬢は程なく救出されたが、上山谷は逐電していた。マンションの防犯カメラは僕の訪問の三日前、盡がトランクを運び込む姿を捉えていた。華奢な人なら身体からだを折り曲げれば中に収まるであろう大きさの。

 リコは強いショックを受け、満足な受け答えもできなくなっていたが、切れ切れに漏れた言葉を繋ぎ合わせると、街頭で千紗女史を見かけたので挨拶したら、何者かに羽交い締めにされ、車に押し込まれて薬を呑まされ、意識を失ったよし

 僕とリコは、あの晩、店で一度会ったきりだったし、彼女に教わるまで千紗女史を知らなかったのだから、取材と拉致の因果関係は説明しようがない。あるいは、近くに盡か、彼の仲間が座っていて、咄嗟に犯罪のプランを練ったのだろうか。何の目的で? まさか、仮にリコの体力がもたずに短期で絶命したとしたら、を踏むつもりだったのか。それより先に警察が動き出したのを察して遁走したか……。

 リコは錯乱しかかって髪を掻き毟り、ボロボロの状態だった。不安で一人暮らしの部屋に戻りたくないと言うので、好きなだけいていいと応じたら、ようやくこわっていた頬が緩んだ。いたいけな小動物に似た愛らしさだ。庇護欲と嗜虐性を同時に刺激するような……。

 さて、これからどうするか。彼女が実家に帰りたいと言うなら送り届けてやってもいい。だが、その前に僕の欲望が抑えきれなくなったら。千紗女史の語りが喚起した忌まわしい美食のイメージ、まるで眼前に並べられたように鼻腔に立ち込める芳香、そして、舌の上に広がる風味が脳を支配し、腹がはち切れるまで貪りたいという浅ましいほどの食欲が噴出してしまったら……。

 そのときは、まず、を開けるとしよう。




               appetito【fine】

           〔BGM〕Prefab Sprout "Appetite"



*本作はカクヨム自主企画「いっぱい食べる君が好き」

 https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054897223950

 のために書き下ろし、文字数制限に合うよう編集した圧縮版です。

 完全版(縦書き)はRomancerにて無料でお読みいただけます。

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=147968&post_type=rmcposts

**完全版と圧縮版の間を取った【ミドル級】もございます。

 https://twitter.com/fukagawanatsumi/status/1530420520184709120


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アッペティート 深川夏眠 @fukagawanatsumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ