いつか、あざやかな
洞施
いつか、あざやかな
「モデルになってくれない?」
唐突なその一言に乗ったのは、自分に自信があったからじゃない。彼の掴みどころのない蒼い瞳が、私をどう映しているのか知りたくなったから。
服装も、ポーズも、会話すら好きにしていいと言われた。ただ目の前にいてくれ、と。
「そんなのがモデルで描けるものなの?」
流石にポーズくらい決めて描くものだろう。そう思って尋ねると「おかしなことを聞くんだね」と返された。
「君がそこにいる以上の条件なんてないよ。わざわざ写真を描き出したいのかい? それくらいなら、カメラを学んだ方が有意義だ」
彼の言っている言葉は分かるようで分からない。けれど、絵の具を含んだ筆はキャンバスの上を駆け巡り、私には乱雑な色の散布にしか見えないまだら模様を描き続けていた。
同じ高校の生徒であるというだけの共通点。初めの内は単なる興味も手伝って何かと彼に尋ねていた。
クラスは? ――2年1組。
じゃあ、家族構成は? ――両親と兄が一人。
家族と仲いいの? ――普通じゃないかな。悪くはないよ。
絵、好きなの? ――たぶんね。
真剣にキャンバスを見つめているのに『たぶんね』なんて答える。楽しいから絵を描いているんじゃないのか、と不思議に思った。その目に反射する光がキラキラと明るく輝くように見えていたからだろう。少なくとも、嫌々でないことは分かっていた。
昼食を終えた後の少ない休み時間。十五分程度のそれ。たったそれだけの時間でも、日が重なれば尋ねることが減り。同じ日々を繰り返すだけの私に話題はなく。二人の間で交わされる言葉も徐々になくなっていった。
特にすることもない私は、ただ筆を走らせる彼を眺めた。
私なんかより、余程絵になるだろうに。僅かにやっかみながらもそう感じてしまう。
確かに男の子だと分かるのに、女子である私よりも繊細な輪郭をしている。どこが、と問われても雰囲気が、としか言えないのだけれど。
飄々とした受け答えに細かさや厳しさを見出せはしないのに、それでも彼はどこか張り詰めた糸のような空気を纏っていた。軽やかなアッシュの髪も、蒼い瞳も、透けるような肌の色も、その空気を濃密に彩るだけだ。時に絵の具を滲ませる指は筋張ってほっそりとしている。それもまた、緊張感を漂わせているようだった。
「ここは、窮屈かい?」
不意に尋ねられて、私は言葉を探す。彼が何を問いたいのか。その意図を、知りたいと思った。
「ここは、自由だよ。他は……自由だって感じたことないけど」
「そうなんだ」
続いた言葉は、ひどく小さな声だったけれど。聞き間違いじゃなければいいと思った。
――じゃあ、僕と同じだね。
それから数日は、沈黙と絵の具の匂いが美術室を満たした。変わらないことは心地良い。でも、変わってもいいと感じていた。何を期待しているのか、私自身が見えていなくとも。
「今日の放課後、時間空いてるかな」
いつものように予鈴を聞き流したところで、彼が尋ねてきた。
「空けるけど、どうして?」
「描けたから」
「そう……」
描けた。描き上がってしまったのか。そう思った。ほんの十五分のささやかな拘束時間が終わってしまったのだ。
本鈴を待たずに美術室を出た。いつもと同じ午後の授業は、いつもよりも息詰まる胸の重さを与えてきた。何故こうも重く感じるのか、私はもう理解していた。
見たい、けれど、終わりが来てしまう。その二つの間で揺らぐ気持ちを抱えたまま放課後を迎えた。美術室のドアを開けると、既に彼の姿があった。
「いらっしゃい」
眩しいくらいの西日が、布の掛かったキャンバスと彼を照らしていた。逆光で表情はあまり分からない。それでも、瞳の蒼だけは鮮明に見えた。
「気に入ってもらえるかは分からない。でも、今の僕が全て詰まってる」
独り語ちるように囁いて、彼は布に手を掛けた。
「見てもらえるかな」
「うん……見せて」
彼の目から見た私を。ここで過ごした数日間を。
しゅる、と澄んだ音を立て布が取り払われた。そこにあったのは、暴力的にも感じる暗色。その中心に、ふわりと浮かぶ柔らかい光。その光の中に私がいた。
「君の周りだけ、風景が見える」
だから、モデルになって欲しかった。彼の声は私の鼓膜を揺らして、そのまま身体に染み入る。
私は言葉を忘れて、ただキャンバスに目を奪われていた。微笑みを浮かべてこちらに手を差し伸べる私。確かに私なのだけれど、それはとても温かく優しく映っている。これが彼の瞳から見た風景なのか。
「また君を描きたい」
「また私を描いて欲しい」
無意識に出た声は重なっていた。思わず顔を合わせて、二人で笑った。
「またここで描くの?」
「どこでもいいよ。風景が見えるのなら、どこにでも」
二人で行こう。彼の言葉が空気に溶け込み、私の風景へと刻まれていった。
いつか、あざやかな 洞施 @urokorose
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