朧月夜に戯れる遊郭編③

「緊張しているのか」


 あれ程の美女を前に情けない。


 深々と嘆息をついて厠を後にし廊下を歩んでいると、突き当りからひとりの遊女が乱れた衣から肩や背中を覗かせたあられもない格好で解かれた帯を引きずり、どこか恍惚とした表情で姿を現した。


(畜生。もういい思いをした奴がいるのか。俺も早く行かないと)


 羨望を胸に抱え、男も自室へ向かう足を速める。その時、ふと振り返った遊女と目が合った。


「おや」


 振り返った遊女の唇から白い牙が覗き、端から赤いものが滴り落ちる。唇から顎に伝ったそれを指ですくい取り、遊女は赤く濡れた指を口に含んで笑って見せた。


「まだ生きている人間がいたとは」


 一瞬、何を言われたのか男には理解出来なかった。だが、声にもならない悲鳴が喉を突いたのは確かだ。


「ひいっ!」


 なんだあれは、物の怪か!?


 先程まで夢見ていた遊女との寝屋のことなどすっかり消え失せ、恐怖に青ざめ転がるように背を向けて走り出した男の肩に、ぽんと手が乗った。


「どこに行かれるのです?」

「はひっ」


 遊女との距離は50メートルほどはあったはず。こんな一瞬で追いつくことなど出来るはずもない。だが、間違いなく耳元で囁いた声。


 それは息切れのひとつもなく滑らかで、異常なほどひやりとした声色。男の体をびくりと強ばらせるには十分だった。


 恐る恐る振り返れば、そこには鬼の如き遊女の姿はなく、銀髪に青い目をしたこの妓楼の麗しい楼主が、少し心配そうに眉を寄せて自分を見つめていた。


「あ……確か、サシャール殿と仰ったか。いまそこに、鬼のような女が……」

「鬼? また異なことを。ここは妓楼。夢を売る女はいても鬼などおりませぬよ」

「し、しかし……」


 確かに見たのだ。そう言いたくて女のいた方に目を向けてみたが、そこには壁と廊下しかなかった。幻覚? まさか、そんな。


「お侍様。どうやら酒がまわられたご様子。このまま部屋に戻られても、遊女の相手をするのは難しいでしょう。少し落ち着くまで私の相手でもして下さいませんか?」

「あ、ああ。そうした方が良さそうだ」


 サシャールの部屋は西洋の作りで、今ではまだ珍しい大きな天蓋付きのベッドが部屋の真ん中に備わっていた。そこに腰を下ろし、サシャールは隣にそっと手を置いて、男を見上げる。


「さあ、こちらへ。お侍様も少し横になられた方が宜しいかと」


 浅葱色の着物からはだけた胸元や、男のわりに細いうなじ。肌にかかる白銀髪を掻き上げながら自分を流し見る青い瞳は妖艶な色香さえ漂わせる。それは遊女の色香と等しく、いや遥かに上回るほどのものだ。


 クラリと感じる目眩とぐらつく理性に鞭打って、男は男としての矜持を守るべく躊躇ってみせた。


「しかし……」

「気兼ねなさいますな。そうそう、チョコレートはもう召し上がられましたか?」

「あ……いや。恥ずかしながら美女を目の前にもよおしてしまってな」

「そうでしたか。こちらにも御座いますよ。チョコレートは女が想いを寄せる男に渡すもの。遊女からではなく、同じ男である私から渡すのは気恥ずかしいものがありますが、甘い物を食べると気持ちが落ち着きます。お一つどうぞ」


 立ち上がり、キャビネットから小包を取り出したサシャールは中を開いて一つ摘むと、口に含んで笑ってみせた。


「甘くて大変美味しゅうございますよ」


 誘うように唇を舐め取り、蠱惑的な視線を向ける楼主に男はただ魅入る。かろうじてあった理性は木の葉のように吹き飛んでしまい、男はぼんやりと口を開いた。


「女と遊べぬのなら、おまえが相手をしてくれればよい」

「おやおや。困った方ですね」


 だが楼主は嬉しそうに笑うのみ。


 男はそれを了承と受け取り、サシャールの滑らかな白い頬を両手で挟み込むと、薄い唇から洩れる甘い香りに誘われるように唇を重ね合わせようとした。


 その背後から幾重にも細い手が伸びる。サシャールへ伸ばした男の腰に抱きつき、首に手をまわし、足に縋り付き、絡め取る。男は驚き振り返る。そこにいたのは、いつの間に現れたのか、艶やかな衣に身を包む遊女たち。


「なっ!?」

「ご馳走は、私ではなく貴方なのですよ」


 驚愕の表情を浮かべた男の首筋にサシャールはぎらつく眼光を向けて牙を立てた。同時に男の体を拘束していた遊女どもが体のあちこちに牙を立てる。腕や足、体のところかしこに走る激痛。引き裂かれる皮膚から流れる血。


「ぎゃああああ! やめろおおおお!」


 艶やかな遊女たちが一人の男に絡みつくその様は、はたから見たら羨望の対象であったかもしれない。


 だが目に涙を浮かべ恐怖に歪む男の顔と、絶望的な悲鳴を経たその後の端末は、耳を塞ぎ目を背けるほどのものであった。


「あれで最後ね」

「そうか」


 遠くに木霊する男の悲鳴が消えて、南斗の肩にことりと頭を落とした麗那は薄らと笑みを浮かべる。


「約束は守ったわ。これで貴方はまた偉業を成し遂げた英雄のままでいられる。さあ、お帰りなさいな」


 帰りの門をくぐったのは、南斗ひとり。見送りに立つ麗那の背後で妓楼がゆらりと霞み出した。


「また来年会いましょう」

「キミは……キミから、俺はまだチョコレートを貰っていないぞ」


 利害の上にある関係だと分かっている。相手が人間でないことも百も承知の上。だが、南斗が麗那に向けるそれは間違いなく恋心だ。そう伝えたら嗤われるだろうか。物の怪に心奪われるなど、それこそ愚の骨頂であろうが。


 それでも、もう少し。もう少しだけ傍に。キミの声をもっと聞いていたくて、キミの顔を目に焼き付けていたくて。いま少し今生に彼女を繋ぎ止めておきたい。


 チョコレートは彼女ら物の怪が男を惑わすための道具だ。心を捧げると見せかけて、心以上の物を捧げて貰うための道具。


 そう分かっていたのに、ついつい口から出たのはそんな愚かな台詞だった。


「すまない。馬鹿なことを……」


 自己嫌悪に陥り、踵を返した南斗の腰にまわす手があった。


「待って」


 背中越しに響く声。すがるように腰にまわされた細い腕。南斗は顔を歪ませ、勢いよく振り返ると麗那を力いっぱい抱き締めた。


「止めるな。キミはそうやって俺の心を繋ぎ止める悪い女だ。気持ちなどないくせに」

「そうね。貴方を繋ぎ止めたい。でも一つ間違っているわ。わたしがこの日を待ち続けるのは、貴方に会いたいからよ」

「嘘だ」

「嘘じゃない」


 麗那が南斗の唇を塞いだ。突然の口付けに目を見張った南斗は、重なる唇の間から咥内に広がる味わいに喉を鳴らす。それは一粒のチョコレート。甘いが少しだけほろ苦く、まるで二人の関係を表したような味がした。


「好きよ」


 唇を離した麗那はその綺麗な顔に微笑を称え、踵を返すと霞む妓楼の中へと姿を消した。


 吉原を包んでいた霧が麗那の後ろ姿を追うように妓楼に向かって収束し、一寸先も見えぬ霧が南斗の前に広がる。そして霧が明けた頃、そこに佇んでいたはずの妓楼は見る影もなくなっていた。


 嘘つき。


 そう言ってやりたい。


 だけど、じわりと広がって溶けてしまったチョコレートは、その甘さが舌の上から消え失せても媚薬の効果を発することはなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サキュバス魔女王が俺を殺しにやってきます閑話 一色姫凛 @daimann08080628

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る