朧月夜に戯れる遊郭編②

「お好きな者をお選び下さいませ。部屋をご用意しております」


 蜜のような滑らかさでサシャールが囁く。


 男らは吸い寄せられるように廊下へ上がり込むと、端から順に遊女の前を歩みながら見定め、手に手を取って奥へと姿を消していった。


「南斗様はこちらへ」


 男らが消えた方角に背を向けてサシャールが歩み出す。ひたりひたりと素足で音もなく歩むサシャールの流れる銀髪からちらりと覗くうなじを目の当たりにしながら背を追えば、男であろうがなかろうが誰しもが理性など吹き飛んでしまいそうなものである。が、南斗の心がサシャールの色香に向けられることはない。


 南斗を目的の部屋に案内すると、襖の前でサシャールはすっと姿を消した。言葉通り、跡形もなく姿を消したのだ。神隠しか物の怪か。ここにあの男らがいたら悲鳴のひとつでも上げていただろうが。


 しかし南斗は動じることがない。


 襖に手をかけてすっと横に滑らせれば、その向こうに誰よりも艶やかで見目麗しい花魁がゆったりと円状の窓辺に腕を添えてもたれかかり、月を見上げていた。


 確かに出迎えた遊女たちも豪奢で見目麗しい者ばかりだった。


 だが、いま南斗の目の前に居る花魁はその群を抜いている。彼女を前にすれば、多くの男を惑わす遊女たちの魅力は遠く霞み、男として在りながら男さえ魅了するサシャールの妖艶さを以てしても太刀打ちなど出来ない。


 今宵の月は赤い。彼女の艶やかな紅髪から生まれたかのような月。結い上げた髪の半分は緩やかに波打ちながら畳へ落ちて広がり、差し込まれた簪は見たこともない装飾で常に月光を反射し、頭上で妖しく煌めいた。身に纏う着物も簪に劣らず豪奢な物であったが、簪より着物より、目を惹くのはその美貌。


「久しぶりね、南斗」


 月を見上げる長い睫毛が横に流れ、透き通る紅玉の双眸が南斗の姿を目にして笑う。雪の如き白肌が紅い月明かりを淡く浮き上がらせ、形の良い紅く濡れた唇から紡がれた言葉は甘く滑らかに耳を打った。


「今夜はバレンタインよ。まあ、この時代にそんな風習はないのだけど。私にはそんなこと関係ないもの。楽しまなくちゃね」

は俺には分からない」

「分からなくてもいいじゃないの。大事なのは、いまここでこうして会えるということよ。そのためにここに来たのでしょう?」

「もちろんだ。キミに会うために来た」

「それだけじゃないくせに」


 全て分かっていると、麗那れいなは嗤う。


 南斗みなとは何も言わなかった。麗那れいなと会えるのは年に一度。今日この時だけ赦された時間。別れた日から毎日この日が再び来るのを待ち望んだ。


 こうして会えることが、何よりも幸せだと思う。


 だが、それだけでは足りない。それは南斗も麗那も同じことなのだ。そう分かっているからこそ、心はどこか枯葉の如く乾いていて満たされない。


 そんな想いを払拭したくて南斗は麗那の傍に腰を下ろすと華奢な顎を引き寄せ、紅で濡れた唇を強引に奪い取った。驚く素振りも見せず、むしろ悦ぶように麗那がその口付けに応じた頃。


「お侍様。ほぉら、これがチョコレートという菓子でございますよ。ひと目見てお侍様に心奪われた私の心のように甘いですわ。一口召し上がれ」


 別室に案内された男にしなを作って寄りかかり、遊女が口を開く。部屋の中に灯された明かりは桃色がかっており、乱れた遊女の衣から除く胸元や太腿をゆらゆらと撫で、妖しげな雰囲気を漂わせた。


「ほう。これがチョコレートというものか。どれ……」


 遊女が手に乗せた菓子は豆よりも大きく、団子よりは小さい不思議な色艶をした茶色い塊だった。


 一見して大して美味しそうには見えないが、男は首を傾げながらもそれに手を伸ばした。だがその手を遊女はピシリと叩く。


「これはそうして食べる物ではありませんわ」


 遊女は紅で濡れた唇にちチョコレートを軽く咥えてみせると、そっと男の体を布団の上に押し倒し、そのまま男の口にチョコレートを含ませた。


 互いの熱でじわりと溶けるチョコレート。甘いのはチョコレートなのか、遊女との口付けか。それとも時間そのものか。


 夢現、男はそのぼんやりとした甘さに身を委ねる。口溶けのチョコレートの甘さが脳内に染み渡る。夢心地でうっとりとした男の首筋に、遊女は口付けを落とした。


 ああ、このなんとも言われぬ幸福感の中で遊女を抱くことができるのか。もうこのまま死んでも悔いはない。意識が朦朧とする中で、男が最期に思ったのはそんなことだった。


 だから気づかない。首筋に落とされた口付けの後に数滴の血が零れようと、紅い遊女の唇から獣のような牙がぎらりと覗こうと、体を抱き締める爪が伸びて肌を切り裂こうと。


 何度も重ね合わされる口付けと共に、刺し込まれた牙から血を吸われ、鍛え上げられた逞しい体が枯れ木のように細くなり、最後には骨と皮だけになろうとも、痛みすらなく男はただ夢心地で身を委ねるのだ。


 南斗が反政府の反逆者たちをここに招いたのは暗殺が目的だった。彼女らの手を借り、色を借り、邪魔者はここで全て打ち払う。


 その功績は南斗の物となり、彼は新政府に於ける数々の偉業を成し遂げた者として名を響かせる。


 それが南斗の利益。彼女らの利益は人間からの生気を貰うこと。互いの利はかない、協力関係にあるのだ。


 あのチョコレートには媚薬が含まれている。心を奪い、思考を奪い、痛覚を奪い、甘い色香に身を委ねながら死へ誘われる。


 そうして彼女らの口付けと共に各部屋で次々と反逆者たちが死へ誘われる中、とある男は遊女との寝屋の前にかわやへと赴いていた。


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