朧月夜に戯れる遊郭編①
時代は新たな時代を迎えるべく、新政府と旧幕府の残り火が命を賭して戦っていた明治初期。
幕府が破れたことにより不本意ながら新政府軍に下ったものの、腹に抱えた遺恨が簡単に晴れるはずもなく、未だに虎視眈々と内務卿の命を狙う者共も多い。
その中でも特に水面下で活動的に動き回る反政府軍の輩を引き連れて、
「これが、あの有名な吉原か……!」
「ほう……」
一片の塗装の剥がれも見受けられない巨大な朱色の鳥居を見上げ、更にその奥に広がる夢のような光景を瞳に映し、
今夜は霧が深い。建ち並ぶ遊郭の佇まいをはっきりと目にすることは叶わないが、通りを挟んで並ぶ桃色に染まった燈籠の灯が霧の中でぼんやりと浮き上がり、鳥居に佇む彼らを誘うように真っ直ぐに伸びて、奥で一点に交わっている。
「件の妓楼はこの一番奥にあります。さあ」
南斗が一歩鳥居を潜れば、男たちも期待を膨らませ後に続く。立ちこめる霧のせいで一寸先も見ることがままならない通りでは、かろうじて捉えることのできる南斗の背中を追いかけるしかない。
せっかく来たのだからもう少し吉原の情味を堪能したかったが、道幅を示すように浮かぶ桃色の燈籠の他は、おそらく無数の妓楼から漏れているのであろう薄い橙色の灯が霧に溶け込み、見渡す限り淡い橙色に染まった幻想的なその光景が男たちの高揚感を煽り立てた。
「しかし、無料で遊べるとは本当なのか?」
ゆっくりとした歩みで通りを行きその光景にも見慣れてきた頃、後方を付いて行く男が少々不安げにそう問うた。南斗は後方を振り返らず、口元に薄らとした笑みを浮かべる。
「ええ。件の妓楼の前楼主は維新戦争に巻き込まれて亡くなりましたが、いまは渡来してきた西洋人が営んでいるのです。なんでも西洋では如月の十四日は女性が想いを寄せる相手に、
「ほう。西洋人の楼主とは驚いたが、そのような慣わしがあるとはこれまた耳に新しい。ではそのチョコレートなる菓子を食べることが出来るのか?」
「ええ。実に珍しい西洋菓子です。
「なんと」
男たちはかの有名な吉原で無料で遊べるだけではなく、チョコレートなる菓子がどのような味わいなのか想像と期待で更に目を輝かせた。
吉原は決して狭い遊郭ではない。霧に溶け込む灯りは絶えず辺りを包んでいるものの、歩けど歩けど前を行く南斗は歩む足を止めず、美麗な花魁と美味な異国の菓子を今か今かと待ち侘びる男たちはもどかしさにそわそわとし始めた。
「南斗殿。まだ着かないのか」
「もう少しですよ」
「だいぶ進んできたように思えるが」
ふと後方を振り返ってみれば、濃い霧で覆われた吉原の光が気のせいか遠くに霞んでみえる。本当にここはまだ吉原なのか、そんな不安が男たちの胸をよぎった頃だ。
すっと目の前から霧が風に流れて消え去った。
「おや? 霧が……」
「ほら着きましたよ。ここがお待ちかねの妓楼です」
心なしか嬉しそうに声音を弾ませた南斗の声に一同は振り返る。
いつの間にか綺麗に均されていた地面には冬だというのに草花が生い茂りさわさわと足もとを撫で、切り立った木々には蔓が巻き付いて雪の如き白い花をつけていた。その木々を割って正面に構える目に鮮やかな朱色を基とした豪華な造りの妓楼が、高見から訪れた者たちを見下ろしている。
「大きいな」
上を見上げて思わず声を洩らした男に南斗は笑みを浮かべる。
「昨今では珍しい三階建ての妓楼です。建物が大きいだけではありません、もちろん花魁も遊女も一流です。さあさあ」
草花をわけて道なき道を進んでゆけば、間もなくして入り門へと辿り着く。
大きな朱色の瓦屋根には鈴なりに桃色の提灯が飾りつけられ華やかさを感じることが出来たが、その門といえばまるで炭を塗り固めたような薄焦げた漆黒の色合いで少々不気味であった。
彼らがその下で足を止めれば、まるで見計らったように黒い玄関扉が音もなく左右に開き、中からひとりの麗人が姿を現した。
夜空に一点の輝きをもたらす星と同じ白銀色の髪をゆるりと首元でまとめ、簪ひとつ差して流れ落ちた髪は腰ほどまではあろうか。絹のように艶やかで、思わず触れてしまいたくなる髪だ。同じく色素のない長い睫毛の下には秋時の青空色の瞳があり、すっと通った鼻筋も薄い唇も細く弓なりに整った眉も、男たちが今まで目にしたことのない完璧な美貌を作りあげていた。
これがこの妓楼の高級花魁だと言われても、誰も疑いはしなかったであろう。
けれど一時その美しさに呆けた後、視線を顔から下に向けてみれば、大きな菊の刺繍が施された浅葱色の着物を首元から胸にかけてゆるりと襟を開き赤い帯で留めただけの姿であり、開かれた胸元には女性特有の膨らみなど見当たらず、しなやかな筋肉がすっと伸びているだけであった。
そこでやっとこの麗人が男性であると男たちは理解する。
「いらっしゃいませ、南斗様。お連れの皆様もよくいらっしゃいました。我ら一同、心よりお待ちしておりました。今宵、この妓楼は皆様だけの貸し切りとなっております。心ゆくまでお楽しみ下さい」
薄い唇から紡がれた言葉は琴の音色の如き心地よさで男たちの耳を打つ。あの美貌で、この声で、耳元で囁かれたら。そんな夢さえみてしまうほど出迎えた麗人は妖艶な色香に溢れていて、男たちはひとことも言葉を発することが出来ずにいた。
まだ扉さえ潜っていないというのに呆けてしまった男たちに銀髪の麗人は視線を流し、口元に微笑を浮かべる。
「わたくしはこの妓楼の楼主。サシャールと申します。皆、中で首を長くして待っております故、どうぞ中へ」
そういって踵を返したサシャールの着物はふわりと風に靡いて、浮いた裾からすらりと伸びた白肌をのぞかせた。
誰かが、ごくりと生唾を飲みこんだ。
その音をサシャールは確かに耳にする。くつくつと込み上げる笑いを微笑の中に押し殺し、男たちを中へと案内すれば、磨き上げられた廊下の上に見目艶やかな遊女たちがずらりと座して並ぶ。その数は十や二十ではきかない。
立兵庫に結い上げられた髪に放射線状に差しこまれた簪。豪奢な着物を身に纏い緋色の蹴出しがちらりと股の隙間に覗く彼女らは、すっと伸ばした指先を綺麗に揃えて床につき一糸乱れぬ動きで首を垂れる。
「いらっしゃいまし」
「なんと……」
その圧巻たる光景に再び男らは言葉を失う。
緩やかに大きく抜いた衿から覗く白い細首。揃って首を垂れる遊女たちは白粉を差す必要もないほどの白肌であったが、豪奢な衣装やその柔肌以上に男らの目を引いたのは今まで見たこともないその毛色である。
金髪や赤髪、しいては青や緑といった毛髪の者までいる。それは見慣れぬ者からすれば異様な光景であり、驚きに値するものである。だがいま、男たちの胸を占めていたのは驚きより勝る彼女らの美しさ。右を見ても左を見ても息を飲む美女ばかり。
まるで今世とはかけ離れ
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