焼べる青春

真花

焼べる青春

 価値はどこにあるのか。

 昼休みが終わり、午後の仕事に手を付けようとしたら部長に呼ばれた。デスクに行くと「ここじゃ何だから」と会議室に連れられ、しん、とした三十人は入る部屋でテーブルの隅っこの直角に、斜めに向き合って座る。

「白河君、幾つになった?」

「ちょうど不惑の四十歳になりました」

 外がどれだけ猛暑でもクーラーでキンキンのここでは、声が真っ直ぐに通る気がする。

「娘さんがいたよね?」

「娘は十三歳で中学生です」

「奥さんは元気?」

「至って健康です」

 何の意図があってこんな話をしているのだ。測りかねた感触が黒い不安になって胸の奥に積もってゆく。

「家はローンだっけ?」

 俺は何かとんでもない失敗をしたのか? それとも単に部長が俺のことに興味があるのか? いや、転勤だ。そうだ、転勤に違いない。だから家族のことを気にかけるのだ。支社は全国津々浦々にある。単身赴任の可能性がある。

「ローンです」

 部長はそこで話を寸断して、じっ、と俺の顔を覗く。言い辛いことを言うときに回り道をしてしまうのはよくあることだ。でも部長、仕事が残っているんです、そろそろ話を進めて下さい。

「白河君」

「はい」

「申し訳ないんだけど、会社、辞めて貰えるかな」

 ヤメテモラエルカナーーそれはきっとアマゾンに生息するエルカナと言う鳥の一種で、ヤメテモラと言うのはその紋様のこと。それを捕まえて来いと言う辞令なのだ。単身赴任で行く方がきっといいだろう。ブラジルの中学校がどう言うものか分からないけど、千秋は新しく友達も出来たと喜んでいたし、文恵は日本以外の生活は無理だろう。そして、俺は、これは栄転と考えていいだろう。でももしエルカナを簡単に捕まえてしまったら、すぐに帰国出来るのだろうか。それとも何匹も捕まえなくてはならないのだろうか。

「白河君」

 突然飛び込んで来た部長の声に体が反射的に跳ねる。

「ショックなのは分かる。しかし、会社としてはリストラをしなくてはならない状況にあるんだ。若くてやり直しの効く人から声を掛けている」

「リストラ? エルカナじゃなかったんですか?」

「エルカナって何だ? 違うよ。リストラだよ」

「え、俺、リストラされるんですか? ブラジルに栄転じゃないんですか?」

「ブラジルに用はないよ。リストラだ」

 噛んで含める部長。俺は部長の目を探る。そこに冗談の色はない。

 リストラ。会社からの不要の烙印。俺には価値がない、その証明。胸に穴が開いてそこに全ての血液が落ちていく。いや待て、言われたからって受け入れるのは違うだろう。

「それって、抵抗出来ないんですか?」

「不当解雇ではないから、法に則ってるし、無駄だと思う」

 大会社だ、そう言う法務のところはきっちりしているのだろう。組合には入ってないし、俺のために闘ってくれる人はいないと思う。俺には抗う術はない。無益に終わる孤軍奮闘はしたくない。条件が悪化するだけだ。

「分かりました」

 部長から手続きや退職金などのことを訊いて、自分のデスクに戻る。

 仕事になんかならない。

 ずっと頭の中を「俺は要らない人間」「価値のない人間」と言うフレーズが回り回って、しかも今日この瞬間から引き継ぎと残務処理の日々が有給消化の直前まで継続するだけと言う、モチベーションもあったもんじゃない。全ての社員に嘲笑されているように感じるし、毎日通っていたこの場所が急に他所よそ様のお宅のよう。

 それでも仕事を最低限は片付けて家に帰る。

 仕事がゼロになったってまた探せばいい。俺には消えない家族がある。


 玄関を開けると、会議室と同じくらい、しん、としている。だけどクーラーは点いていなくて、むわっと暑い。この時間は必ず二人のどちらかが居る筈だ、何か事故があったのかも知れない。俺は急ぐ。家の中に飛び込み、「文恵!」「千秋!」と叫びながら家中を探し回る。狭い家の中に人の気配がないことはすぐに分かる。それでもトイレも風呂も各自の部屋も全部一周回って、やっとダイニングテーブルに書き置きを見付けた。妻の字。

『パパへ

 私と千秋はこの家を出ます。

 長い間ありがとうございました。

 財産はあなたのもので構いません。

 離婚届を添えておきますので、サインと判子を押して、役所に出しておいて下さい。文恵』

 パセリを添えるくらいの気軽さで離婚を既成事実にしようとされている。俺は離婚に応じた記憶はない。文恵のこう言うところが嫌いだ。なし崩しに自分の意志を遠そうとする。嫌いだ。――嫌いだけど、居なくなって欲しい訳じゃない。好きなところもたくさんある。千秋を連れて行かないでくれ。俺の生きる全てではないのは認めるけど、千秋のことが何よりも大事なのは、お前だって分かっているだろう? 何だったら千秋だけ残して行ってくれてもいい。俺がちゃんと育てる。仕事はなくなるけど、きっと就職するから。

 ああ部屋が蒸す。

 全ての窓を開ける。ベランダの戸も全開にする。

 そうすると煙草の煙が家の中に入ってしまうけど、もう誰も気にしない、吸ってしまえ。

 思い当たる節がない。文恵に男でも居るのか。宝くじにでも当たって経済要員を飼う面倒臭さから解放されようと思ったのか。俺が捨てられる謂れはない筈だ。でも行動で示されている。思い当たる節がない。俺は真面目にしっかり働いていた。大きなミスなんかしていない。同期の中で俺だけなのか皆なのか分からないけど、どうして俺なんだ。思い当たる節がない。家でも、会社でも、まともな人間をしっかりと演じていた筈だろう。トラブルも起こしていない。まるで普通の男だった筈だろう。何度も失敗した人間の中で生きるということを、全て理知で制御することで、普通の丸い人間のようにやっていたのに。それじゃダメだってことなのか。

「思い当たる節がねーよ!」

 がらんどうの家と社会に向かって呟き叫ぶ。待ったって来ない返事は待たない。

 メビウスを消火する。風がないから、煙がいつまでもベランダに居る。そこで吸う必要ももうないのに。

 ダイニングに戻って書き置きの文面をもう一度確認したら、ソファーに体を預ける。何もしなかったら全て相手の言う通りになる。文恵が通して来たのは俺が引いて来たからだ。そうするのが普通だと考えたからずっとそうして来た。でも、離婚までそうやって通されていいのか。よくない。よくないよ。

 対決する構えが出来たら、文恵の携帯を鳴らす。

「パパ、今日もお疲れ様。書き置き見た?」

 気軽過ぎる声。

「お前、本気か?」

「冗談でやっていい内容じゃないわよ」

「帰って来ないのか」

「もう出てってしまったわ」

「離婚する気はない」

「何年かかっても離婚するわ」

「絶対なのか」

「絶対よ。私が口に出したことを達成しなかったことなんて、一度もないの知ってるでしょう?」

「それはそうだけど。……じゃあもし離婚するとして、千秋は返してくれ」

「ダメよ。親権も私よ」

「それは裁判所が決めることだろう。もう中学生で意志もあるんだ。俺と会わせろ」

「それは全然問題ないわ。千秋はあなたのことを見捨ててはないわ。でも生活は私とするの。会うのは好きに会っていいわよ」

 千秋は俺のことを見捨てていない。砂漠に命の水が滲みる。だったらいい。……文恵と夫婦を続けているのは千秋の母親だからと言うだけのような気がする。ここでこじれて千秋を失うより、文恵と引き換えに千秋を得る方がずっといい。

「千秋が俺との関係を続けるなら、いい」

「何がいいのよ」

「離婚だ。不毛な裁判で金と時間と労力を浪費するより、スカッと行こう。財産は俺でいいってのも本当だな」

「もちろんよ。あなたにとっていい条件が出せなければ円満に別れられないでしょう?」

「千秋との生活は大丈夫なのか?」

「当然」

「分かった。離婚届は提出しておく。物はどうする?」

「適当に処分して。必要な物は持って来たから」

「あと、ひとつ聞いてくれ」

「何?」

「今日リストラされた」

 文恵はそれまでの闊達な舌が金縛りを起こしたように、黙る。

 妻に泣き言を言うのもこれが最後だろう。

「そしてお前から離婚の話で、ちょっとしんどい」

 あはは、と文恵は笑う。

「すごいタイミングね。でもどちらももう取り返しがつかないわ。ごめんね、もうあなたの力になれないの」

 サクリと心臓を刺された。この言葉こそが絶縁の証だ。

「分かった。連絡は取ってもいいだろ? お前と」

「別にいいけど。話すこともなくなると思うわ」

「そうかも知れない。でも、今俺の全てを切らないで欲しいんだ」

「分かったわ。元嫁として、最後の命綱くらいにはなるわ」

 すぐに離婚届を役所に提出しに行く。夜間窓口でも大丈夫だとネットで書いてあった。明日から一月は仕事の亡霊を埋葬し続けなくてはならない。届けを出したからって、気持ちが晴れることはなくて、一日で起きていることがあまりにドミノのようで、繁華街に向かっているのも同じ原理だろう。


 千秋とはすぐに会って、彼女は俺のことを大好きだと言うことと、それでも生活はどちらかを選ばなくてはならなくてだから母親とにしたと言うこと、離婚の理由は千秋も知らなくて、今は二人でマンションに住んでいると言うこと。これからも俺と会うこと。そう言うことを期待していたが、文恵の状況はそのままであったけれども千秋は俺のことをちょっと煙たそうにしていて、「会わなきゃダメ?」と迷惑そうに言うから、悲しくて、でも会って欲しかったからそう伝えた。軽くため息をいてから「分かった。私ももう子供じゃないから」と言うのがただの反抗期なのか、それとも、俺の彼女の中での価値がもうないのか、それが計りかねた。

 仕事は淡々とこなす。日を追うごとに俺と会話をする人が減っていく。それは提携する業務が終了したからなのだけど、俺が職場にとって価値がない人間だと言う烙印が徐々に浸透しているからのように感じる。

 家は思ったほどには散らからない代わりに、妻と娘の残した物も片付かない。いつも見ていたテレビを同じように一人で見て、風呂の順番を考えなくてよくて、部屋の真ん中で屁をこいても誰も何も言わない。

「さみしい」

 ダイニングの離婚届のあったところに灰皿を置いて吸う。もう数日もすると仕事も終わる。転職活動を早くした方がいいのは分かっている。分かっているのだけど今の命をつなぐだけで精一杯で、いやそれは言い訳だ、しばらく失業保険でブラブラしてもいいかなって思うんだ。自分の外にあったものがなくなるだけで、胸の内側までもが空虚に堕ちる。きっと人が自殺をするのってこう言う状況なんじゃないのかな。持てるもの全てが理不尽に奪われるって。

 さみしい。


 仕事が終わった。時間がどっさり手に入った。俺は最初に片付けをしようとしてすぐに挫折した。娘のものが捨てられない。片付けるのはやめた。

 あまりに空っぽで、お姉ちゃんの居る飲み屋によく行くようになった。それが虚構でも人間が自分のそばに居てくれると言うことにはお金を払うだけの価値があるのだ。酒に呑まれるような飲み方はしなかったが、アルコールは毎日、俺が世界を受信するのを誤魔化して、寝るまでの間を繋いでくれはした。段々、自分がなまくらになって行っているのがよく分かる。人生の貴重な時間を誤魔化すことで費やしているのだ。仕事もプライベートも何もしていないこと自体も、俺を鈍化させているように思う。

「このまま行ったら、廃人と同じような俺が出来上がるのだ」

「白河さん、何を言ってるんですか。毎日ここに来ても立派に社会で生きている人なんてザラですよ」

「うん。ここだけの問題じゃなくてね」

「きっと大丈夫ですよ。根拠はないですけど」

 意図しているのだと思う。彼女らとの会話は本当にスカスカだ。やっぱり、ここに居ることも俺がダメになるための重要な一歩なのだ。

 俺は価値のない人間だ。仕事でも、妻と娘にも、そう決められた。お金を払って相手をして貰うなんてのは、俺の価値ではなくお金の価値に過ぎない。

 宿酒ふつかよいにはならないから、昼過ぎに起きたときにはしゃっきりしている。夕方に飲みに行くまでの間は元の自分で生きなくてはならない。最初はパチンコに行った。勝ったり負けたりしている内に、その勝敗のドキドキを人為的に作るためにお金を賭けるシステムに気付いたら、急に行くのがバカらしくなった。夜になればまたお酒とお姉ちゃんを求めて店に通う。皆勤賞だ。でもまた朝が来る。朝が来ることに追い立てられる。次は風俗に行った。毎日行く程の精力はないから、間の日は公園で座っていた。風俗も結局性行為が混じるだけでそこで人間が相手をしてくれると言うことが重要なのだと分かった。公園にリストラをした人が行く理由もやってみたら理解出来た。自分の悲壮を味わいながら、牧歌的な中に居ることでそれが紛らわされる。公園は経済から切り離されているから。分かると擦れてつまらなくなっていく。あの店だけはそれがない。やっぱりアルコールで膜をされることが決定因なのかも知れない。じゃあ、起きたらすぐに酒をあおればいいのかも知れない。

 でも俺はそれが出来なかった。夜の店に行くまでの間の時間に素面しらふでいることが俺が人間である最後の綱のように思えるのだ。でも、いずれはそうなるんじゃないかと思う。そう思ったら、その前にやるべきことがあると分かった。やはり、家の整理は終わらせないといけない。このまま死ぬにしたって、妻と娘の残渣の中では嫌だ。

 でも、やっぱり妻子の残り香を処分するのに抵抗がある。それで、先に自分の物を整理することにした。

 ずっと触れてもいなかった棚の中身をひっくり返すと、古いノートが出て来た。開けると、大学生時代に使っていたもののようで、そこからポトリと何かが落ちた。

「封筒?」

 拾い上げてみると、俺宛の手紙だった。誰からか見ようにも裏書きはされていない。どうせ暇だ。読んでみよう。若いみそらの恋文なら面白い。

 便箋を広げてみる。

『白河陣伍様

 これを読んでいると言うことは、今あなたは人生のピンチに陥っている。そのときに開けるように、今俺は二十歳の記念に未来の俺に向けて書いている。

 と言っても、革命的に俺を改善する処方箋が何かなんて全く分からない。未来のことだから。でも、同じ俺だから、今俺がずっと中心に考えていることが、そのときも問題なんじゃないかと思う。だからそれを書く。

 今俺は青春だ。間違いなく青春だ。青春とは、その者の価値が自分の中にしかないと言う状態だと思う。

 そして大人になるにつれ、自分の外に自分の価値を認めるものを作っていくのだと思う。例えば仕事をすると言うのは、社会的に価値がある証明だし、結婚して家族を持つと言うのもプライベートで常に自分の価値を立証してくれる人を持つのだと思う。それはきっととっても安定することなのだと思うし、青春が持つ不安の彼岸にあるように思う。でも俺は今青春だ。俺の価値は俺の中にある。俺の中にしかない。しかしそれだからと言って苦しいばかりではない。感受性は優れるし、何者かになろうと言うーーそれはそのまま自分の外に自分の価値を置こうと言うーー動機のために動く、よく動く。老いたときに青春を望むかは分からない。けど、新しい未来に向かう準備状態としては悪くないと思う。でも、いずれ俺もそれを捨て、自分の外に価値を置くと思う。

 今読んでいる俺、価値をどうしている? 青春がまだ続いているかい? それとも、価値の外在化が済んでいるかい?

 そこにきっと鍵がある。その鍵を開けるまでは、くれぐれも死なないように。


               白河陣伍、二十歳』


 確かにこの手の手紙を書いた記憶がある、内容はすっかり忘れていたが。

 価値の場所。

 俺の価値は外に置かれていたけど、一ヶ月前になくなった。

 それで、俺の価値は全て消えたと思っていた。

 でも、だとすると、違うのかも知れない。今の俺の状態は確かに外には価値がない。でも、俺の中に価値がないと言うことではない。二十歳の俺が言うように「俺の中にしか価値がない」のならば、今の俺は、青春と同じ状態と言うことなんじゃないのか。いや、そうとしか思えない。

 ゲームオーバーの画面に、アイテムがコンティニューを生んだ。

「二回目の青春」

 口に出してみるとつやがある。

「だから感受性が強くなってそれを鈍らせるために酒を飲んでいるのだ。……理解した、酒はもう要らない」

 俺は終わった人間ではないのだ。価値を全て自分の中に引き戻して、青春の中、可能性を孕んだ。

 灰皿をベランダに戻す。この家に誰かを迎え入れるかも知れない。

 就職先を探そう。

 青春のふるふるした感覚に上手く乗れていなかったのだと分かれば、それを乗りこなす練習をしよう。

 進もう、価値が外にないからこそ大胆に。

 俺はその手紙を自室の正面に貼り、ときに見返しては、「青春を突破する、必ず」と呟く。この大禍が済んだら手紙を出そう、二十年後の俺へ。



(了)

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