4.いち
怪我をした腕を治療してもらっている間、わたしは世界に対しての呪詛を吐き続けた。
その日は入院することになると医者から言われた。わたしは従った。どうせ、家に帰ったって、ことははいないのだから。
狭い病室のベッドに寝転がされたままのわたしの隣で、医者は説明をする。この区の普通の病院なので、この男は知らない。
「腕の役割としての完治は見込めますけど、時間はかかります。それに、傷は一生残るでしょう」
「一生って…………」
「まあ、人工皮膜などを使えば綺麗に隠せますから、そう心配する必要もありませんよ」
違う。それじゃあ意味がない。傷があるってわかってしまえば、その時点でこの左腕の価値は大きく下がる。手術代に変換できない。
包帯で固定された左腕。筋肉などにも損傷が及んでいるため、現在はほとんど動かせない。これでは、ただの重りが肩からぶら下がっているに等しかった。
ベッドの上から、窓の外を眺めた。
見えない。真っ暗だ。世の中の明かりだけが、遠くの方にあた。手を伸ばそうという気持ちにすらなれなかった。
なんで、わたしなの。
なんでわたしじゃないといけないの。
腕を大事そうにしすぎていたのだろうか。深く意識はしていなかったのだけれど、無意識下では腕を守ろうとしていたのかも知れなかった。そこを、犯人に狙われたのだろう。大事にしすぎたがゆえに、その意識がにじみ出てしまって、鞄を守っていると勘違いされたのだろう。
警察に言うつもりはない。そんなことをすれば、パーツ窃盗の方を調べ上げられるかも知れない。
どこかの、名前も知らない通り魔の犯行。
他にターゲットはいるっていうのに、なんでわたしなの。
わたしには、ことはを救うっていう使命があるのに、どうして。
ねえ、どうして…………
こんな左腕では、ベッドを殴ることも出来なかった。右腕では、破壊してしまうかも知れない。あきらめよう。この治安の悪い区だ。通り魔なんて、掃いて捨てるほど湧いてくるに決まっていた。
全てが、わたしに降り掛かった罰のように思えた。パーツを盗んだから、変な噂を流されて、遠くの街に行かざるを得なくなって、そこで通り魔に刺された。誰かを陥れるって言うなら、これ以上無いくらいに自然なプランだ。反吐が出る。
だけど、それらは全て、偶然……
ことは。
わたしはどんな罰でも受けるから、ことはだけは治してください。
「そうだよね、ことは。前を向いていれば……救われるんだから」
数日が経った。
手術の日取りもまだ決まらないし、左腕もずっとまともに動かないし、あれ以来、茅島という女に問い詰められることもなかったし、わたしは未だに捕まっていない。ついでに、ことはの姿も見ていない。
今日はスタジオ練習があった。左腕は使えなかった。買い取ってくれるというあの闇医者にも相談していなかった。どれだけ価値が下がるのか、怖くて聞き出せなかった。右手一本で、なんとか演奏しなければならなかった。
普通の生の右腕よりも、精密動作に長けた機械化パーツだ。音楽くらい、なんとでもなる。
練習というのだから、ことはが顔を見せるのを期待したのだけれど、現れたのは竹越のみだった。彼女が言うには、赤土は遅れて来るらしく、ことはに至っては連絡すら取れていないようだった。
そこでどうでもよくなって、もう帰ってしまおうかと思い始めたわたしに、竹越は話しかける。二人で、スタジオの前の長椅子でジュースを飲みながら話した。
「メイ。左手はどう?」
彼女はわたしの、包帯で首から吊り下げてある腕を指差した。
「別に……治ってないわ。でも演奏なら、右手だけで出来る」
「さすが池岡メイね」なんて、わざとらしいくらいに関心する竹越。「あのね、訊きたいことがあるの」
「改まって、なによ」
「パーツを盗んだ犯人が、あんただっていう噂が流れてるんだけど、知ってる?」
は。
そんなの、あの日ライブハウスにブッキングに行った時から知っていた。
「それ、誰から聞いたの?」
「通子から直接。この界隈で結構広まってるって」竹越は顔を伏せてジュースに目を落とす。「私は……あんたを疑いたくないの」
「良いわよ別に。蔑んでも。みんな言ってるし……わたしがどう思われようと興味ないわ。ことはさえいてくれたら、どうでも……」
「しないわ」
竹越はこちらに目を合わせた。
「あんたは、そんなことする人間じゃない」
――そんなことをする人間です、と口にしたらどうなるのだろう。
「……ありがとう。ごめん、信じてくれて」
わたしはつい頭を下げてしまう。この女とは、常々根っこの部分でわかり合っている気が、昔からしているのを思い出す。
「……別に、あんたは、バンドメンバーとして信頼してるわ」
竹越は立ち上がって、飲み干したジュースの缶を捨てて、わたしに向き直る。
その顔は、笑っている。
「さ、練習しましょう。今日は、曲を作ってきたわ。とびきり暗いやつを」
「……良いわ。評価してあげる」
思うところがあった。
この日、わたしは再びあのライブハウスを訪ねていた。前に、噂を理由に出演を断られたところだった。時間は、十九時になろうとしていた。既に、出演バンドが演奏をはじめており、それを見ては悲しい気持ちを無駄に拾い上げてしまったけれど、わたしの目的は店長だった。
部屋に行くと、この前と全く同じ格好で彼は座っていた。促されたのでわたしは真正面に腰掛けて、すぐに訊いた。
「あの、わたしがパーツを盗んだ犯人だって噂、誰から訊いたか思い出せますか?」
「誰から? うーん……バンド連中が話してるのを聞いただけだからな」店長は首をかしげる。「そんなの、既に回りきっていて、特定のしようがないんじゃないか?」
「変に目立っていた客はいませんでした?」
「いや……みんなそんな人間ばっかりだから……待てよ」
店長がなにかを思い出した時に、わたしは暗闇で誰かの後頭部を殴り捨てたような感覚に陥った。
「確か、普段は見ないような人間がいたな。珍しいなって思った」
「それは?」
「有名バンドだから、知ってるよ」店長は、私を指差した。「あんたのところの、ブズーキ弾きだ」
――赤土通子。
「間違いないですか?」
「多分な。SIAのメンバーがうろうろしてるだなんて、一昔前なら大騒ぎだってのに、不用心なもんだって思ったよ。お客にもSIAのファンだった人がいて、その人と赤土さんの話を一回した。こんなところに来て、若手を研究してるのかなって話を」
どこかおかしいと思っていた。竹越も、彼女からわたしの噂を聞いていたという。何よりバンドを解散させて、ことはを楽にしてやろうだなんて、意味不明なことを考えている奴だった。
疑えば疑うほど怪しく見える。
彼女は、わたしが嫌いだった。理由はなんとなくわかる。彼女が、ことはを気に入っていたから、わたしが邪魔だった。だから、変な噂を流して、SIAのライブが出来ないようにして、ことはをライブから遠ざけて、わたしを……
わたしを、刺したのは、誰?
あんな所をうろつくわたしを、わたしがあそこにいる理由を作った張本人なら、
赤土なら、わたしの左腕の事情も知っていて、
ためらいもなく刺せる。
許せない。
あんな噂を流して、わたしに怪我を負わせて、ことはを奪ったのは、赤土。
赤土のマンションの場所すら知らなかったけれど、用事があるというので竹越に教えてもらった。聞いて拍子抜けした。わたしのマンションから、一キロも離れていない。
平均的な一人暮らし用のマンションだった。わたしはその近くの人気の薄いところで、赤土が家から出てくるのを待った。双眼鏡を使うと、扉がはっきりと見えた。
しばらくすると、不用心にも赤土が出てくる。なにか、自分の部屋の中に向かって話しかけていた。気に入らなかった。赤土の幸せが、全てわたしにとっては、砂利を飲み込むみたいに感じた。
彼女を路地裏で待ち伏せた。ふらりと前を通りかかるのを見計らって、わたしは彼女を後ろから捕まえて、そこに引きずり込んだ。彼女は悲鳴を上げたけれど、頭を掴んでビルの壁に打ち付けると、おとなしくなった。
「赤土。ことはは何処?」
わたしは、右手を銃の形にして、彼女の首筋に突きつけながら訊く。
顔をしかめながら、歯ぎしりをして私を睨む赤土。
「…………メイちゃん?」額からは、血が流れている。
「答えて。ことははあんたの家にいるの?」
黙っている彼女に、わたしは囁く。
「答えなさいよ。わたしの右手には、麻酔銃が仕込まれているわ。あなたを眠らせて、路上に放置して殺すことだって出来るのよ」
「あなたが……メイちゃんが、やっぱり窃盗の犯人なの?」
「違うわ。でも、わたし、怒ってるの。変な噂を流されて、こんな目に遭って…………わたしの左腕をこんなにした犯人、あんたなんでしょ! 全部、あんたがやったんでしょ!」
「知らないよ!」赤土は身体を動かさないで、でも声を上げた。「なんだよそれ……証拠でもあるわけ? ないんでしょ? あるの? 私が、メイちゃんを刺した証拠」
「ないわ」
「ないんだ。へえ」くすり、と彼女は笑った。
殴った。その顔を。赤土は、地面に倒れ込んだ。逃がすわけにはいかないと思って、背中を足で踏んで、頭に右手を向けた。赤土はうめき声を上げた。
「ふざけないで……あんたしか、私を陥れて得する人間、いないのよ。赤土。もう一度訊くわ。ことははあなたの家?」
「…………うん」
「まったく………………なんであんたのところに転がり込んでるのよ、あいつは……わたしといるほうが、何倍も幸せじゃないの。私といるほうが……ずっと楽なのに……」
わたしのその言葉を聞いて、赤土はバカにするみたいに、にっこりとする。
「メイちゃんって、なにもわかってないよね」
「……は?」
「ことはちゃんのこと、あなたはなんにもわかってないよ」
「何を……」
つい、足を離してしまう。
逃げる様子もなく、立ち上がってわたしに向き直る赤土。
「ことはちゃんがメイちゃんの家から消えた日から、ずっと私の家にいるよ。私が、あの家から逃げ出すように促したの」
「どうしてそんなことを……」
「なんにもわかってないあなたに、教えてあげる必要なんか無いよ」
わたしが、何をわかっていないっていうの。赤土の言っている意味が理解できない。
「なにかことはちゃんに伝えて欲しい事があるなら、伝えてあげるよ?」
勝ち誇ったみたいな顔を浮かべる赤土。
わたしは、言う。
「…………彼女を呼んで。手術の日が決まったの。三日後よ。その日に指定の病院に来るようにって、伝えなさい」
赤土はなにも答えないで、首を傾げた。
「なによ。返事は?」
「それが本当に、ことはちゃんに幸せになるのかなあ?」
「…………ことはは、また歌いたいって思ってるわ」
「メイちゃんが押し付けてるだけだよ」
あはははははは、と笑いながら、赤土は背中を向ける。
そこにぶつけるつもりで、わたしは叫んだ。
「赤土! いいかげんにしなさいよ! 全部……わかってるんだから! わたしの噂を流して……SIAのライブが出来ないようにして……わたしの左腕を刺して、わたしからことはを奪ったのが、あんただって! 全部わかってるから! 証拠なんかなくっても! 状況がそう言ってるの! だから………………」
わたしからことはを、盗らないでよ。
医者には電話で伝えた。もう左腕は商品にならないから買い取らなくていいと。
代わりに借金を抱えた。金融機関に頼んで借りた。そのお金でもまだ手術代には足りないと闇医者は言った。わかっている。そんなこと、嫌になるくらいに。
だからわたしは、闇医者に右腕のパーツを売ると伝えた。生の腕ほどではないが、高値で買い取ってくれると彼はいう。モニタープラン的に言えば違法行為だが、まあそれを売りさばくための闇医者でもあった。
決まれば早かった。手術というほど大それたこともしないで、私の右腕は取り外された。現在、そこにはもう、なにも残っていない。腕の付け根から先は、なにも。
わたしに残されたのは、怪我をして不自由な左腕だけだった。幾分か回復したとは言え、まったく使える部類には入らない。もちろん、楽器演奏なんて、不可能だった。
どうだっていい。
お金を工面できて、ことはの喉が治るのなら、楽器なんて弾けなくても良い。わたしよりも良いプレイヤーは、この業界に無限に存在する。わたしはSIAのマネージャーにでもなって、彼女を見守ることができれば、それで満足だった。
だけど、ずっと煙みたいに不安が消えない。
「これで…………上手くいくのかな……」
いよいよ、待ちに待った手術当日だった。
わたしの苦労が報われ、ことはが復活し、SIAが完全に蘇る日。いや、わたしはもう演奏など出来ないが、ことはさえいればいい。
赤土に連絡をすると、彼女はちゃんと、ことはを病院へ連れて行くとの返答があった。彼女としても、ことはの声帯が高性能なものに換わるのは、別段不都合があるわけではないのだろう。やけに素直だったのが不安だったが、もう知らない。
そしてわたしは、部屋を出る。既に入金も済ませてあるし、闇医者にパーツも預けてあった。病院は遠くない。久しぶりにことはに会えることを思うと、胸が高鳴った。少女みたいだ。自分でもそう思う。
部屋の扉を開けて外に出ると、
しかしそこには、顔すら見たくもない人物が、わたしを待ち伏せていた。
「池岡さん、こんにちは」
茅島ふくみだった。わたしの部屋の扉、その隣にずっともたれ掛かっていたらしい。
「…………何の用ですか」
焦る。今ここでこいつに捕まったら、手術は中止になる。ことはもそのままだし、わたしの苦労はぶっ潰れる。
避けなきゃ。ごまかさないと。せめて、今だけでも。
茅島は、今まで見せていた表情とは、まるで違った顔をしていた。何処までも真剣で、美しかった。本当に同じ人物なのかとすら思った。
「私の考えを聞いてもらいたいんですけど」
「…………時間がないんですけど」
「すぐ終わりますよ」
嫌だと言っているのに、茅島は続けた。闇医者に指定された時間よりも、二時間も余裕があることすら見抜かれているような気がした。
「最初に依頼があったのは、窃盗事件の次の日でした。依頼主は竹越美沙さん。あなたのバンドのメンバーですね。普段、私達の施設に個人の依頼が入ることはあまりないのですが、まあ事情があって引き受けました。その時は私達のチームが暇だったので、すぐに出発を命じられました。向かったのは事件現場となった病院。国に認可されていない、言ってしまえば闇病院でしたが、まあこのご時世、そんなものはいくらだって存在するのでどうでもいいです」
茅島ふくみは、ふらりと欄干に寄りかかって、街を見下ろした。
「たどり着くのが早かったのか、現場にはまだ眠っている看護師がいました。揺すっても起きない、と同僚の方が話していましたし、身体を改めると麻酔針の跡がありました。自分で照準を合わせる麻酔銃では、狙えないほど小さく露出された肌の部分を射抜かれていることから、高性能な機械化能力者の犯行だと結論づけました。あなたの機能、それは指先から麻酔針を飛ばすこと。ある程度の自動照準機能も搭載しています。これで三人を眠らせて、パーツを盗んだ。監視カメラになにも写っていなかったのは、下調べが万全だったからでしょう」
「…………」
「では、なぜボーカル用の声帯パーツなんかを盗んだのか。それもかなり高性能なものです。これは、そもそも依頼者が購入し、自分自身に搭載しようとしていたのですが、調べてみると彼女の所属するバンドには、既にボーカルがいます。一尾ことはさんですね。だったらなぜ、竹越さんがそんな物を欲しがるのかと不思議に思いました。すでに、誰よりも優秀なボーカリストを抱えておきながら、何故? 答えはすぐにわかりました。一尾ことはさんは喉を悪くして、よもや機械化によって粗悪品に換装してしまい、満足に歌えなくなってしまった。ここ最近のライブは、全て歌なしで行っていたらしいですね?」
「…………はい」
「竹越さんがパーツを購入したのを知ったから盗んだのか、それとも何処かから情報を仕入れて盗んできたパーツがたまたま竹越のものだったのか、そこまではわかりませんが、犯人はどうも、一尾ことはの喉のために犯行を行った、とするのが一番合理的ではありませんか」
「そんなの…………わたし以外にも当てはまるじゃない。赤土とか」
「では犯人が誰なのか考えてみましょう。まず、手術予定だった竹越さんは除外です。盗まれたと嘘を言う必要もないし、私たちに依頼をして事態をややこしくする必要なんてないですから。次に私は、一尾ことはさんが怪しいと思いました。彼女に真っ先に話しかけたのはそのためですが、話を聞くと、彼女はまた歌いたいだなんて微塵も思っていませんでした」
「そんなの……どうしてわかるのよ」
「私、耳が良いんですよ。機械化能力者なんです。彼女の声色を聞くと、わかっちゃうんです。それだけじゃありません。赤土さんには、執拗に漏らしていました。『もう、歌うことやバンド活動に疲れてしまった』と。あなたと、竹越さんには、絶対に知られたくなかったみたいですけど」
赤土。
――ことはちゃんのこと、なんにもわかってない。
「赤土さんは、ことはさんに入れ込んでいました。ことはさんの内心を聞いていた彼女が、また彼女を歌で舞台にあげようだなんて考えを持つかと言われれば、疑問を投げかけざるを得ません。それに、彼女はバンドの解散を提案していたらしいですね。竹越さんに聞きました」
「…………」
「そうなると、赤土さんが犯人というのも考えづらい。あとはあなた。そうでなければ、もっと別の、何の関係もない人間の犯行ですが、それも違うと思います」
「なんで」
「あの日、病院に入っていくあなたを見てたんですよ、ことはさんは」
――思い出す。盗んできた後のことはの様子。
少しだけ、少しだけだけれど、よそよそしかったような。
「彼女に最初に会った時に、ことはさんが教えてくれました。あの日、メイを見た、裏口から病院に入っていった。怪しいと思った。盗んだ所を見たわけじゃなくて、直感だった。だから、怖くなった。持ち帰ってきたパーツだって、買ったものだなんて言ったけど、信じられなかった。その後ニュースで確信した。盗んだんだって。彼女は、辛そうに、そう告げました。それから、逃げました。私の前から」
「…………」
「私は彼女の家に行こうと思いましたが、場所がわからない。もしかしたらと思って、次にメンバーの家に向かいました。あの時、バンドの調子を尋ねるフリをしましたけど、さっきも言いましたが私は機械化能力者で、耳が良いんです。だから、わざと大声を出して、中にことはさんがいるなら、なにか反応があるだろうと考えて、様子をうかがいました。そして、明確な人の気配があったのは池岡さん、この家だったんですよ。ご丁寧に、盗んだと思しきパーツの音まで立てて」
「……………………は」
「池岡さん。ここまで言えばわかりますね。あなたが犯人です」
終わった。ことはが原因で、こんな。
わたしは、なにも告げることが出来なくなった。
神様、どうか、ことはだけでも。
「私の考え、どうですか?」一転して、楽しそうな表情を浮かべて尋ねる茅島。
「…………大体、その通り。犯人は、わたし…………わたしよ」わたしは、残された左手で頭を抱えて言う。「どうとでもしなさい……右腕のパーツは売っちゃったから、証拠はないわ……でももう、終わりよ」
「池岡さん。もうやめにしましょう」
茅島がわたしの顔を覗き込んだ。
「あなた、ことはさんのことばっかり考えて、つらい思いをしてるだけじゃない。これ以上、腕も失って楽器も演奏できなくなって、なにか良い事があるの?」
「うるさい! わたしには……ことはしかない。ことはが、勇気づけてくれた。だから、ことはのことを一番に考えて……なにが悪いの」
わたしは、頭を下げる。
「ねえ茅島さん…………お願いよ。ことはの手術が終わるまで、見逃して。そのあと、逮捕でもなんでもすればいいわ……でもことはの喉だけは……このまま、歌いたくないままで、終わってほしくないの……ことはは、本当は歌いたいはずなの……だから、茅島さん…………お願い…………見逃して…………」
無駄だと思っていた。
そんなものが通じるほど、甘い世の中ではないって、わたしだって知っているのに、
この茅島という女は、ふっと笑って、踵を返してわたしに背中を向ける。
「良いわ。行って」
「え…………」
「別に、私は逮捕権があるわけじゃない。私の仕事は、あなたが犯人であることと、機能がどんなものであるか。それを上層部に報告するだけよ。処分は、そいつらや、実力行使に長けたチームが行う。私は、あなたがこれから何しようかなんて、どうだって良いわ。興味がないの」
あとそれから、と彼女は言う。
「あなたの贔屓にしていたライブハウスに説明しておいたわ。あなたは無実だって。これは……嘘だけど。これでライブにはまた出られるはずよ」
「……なんで、そこまでしてくれるの」
「いや別に……あなたを調べているうちに、なんかかわいそうだなって思ったの」
「かわいそうって……」
「だから……」こちらを振り向きもしないで彼女は続ける。「竹越さんには悪いわ。施設のみんなにも、命令違反だって言われるかも知れない。でも、あなたみたいな人が報われないと、嫌よ、私……」
茅島は、少しだけ泣きそうな声で、そう口にする。
わたしは、とにかく何回も頭を下げた。
「…………ありがとう…………すみません……ほんと……感謝しても……しきれない」
「……私だって、結局は悪魔じゃないもの。だけど、私が施設に報告したあとは、どうしようもないわ。実働部隊があなたを捕まえるのは確実よ。それなりの裁きは受けてもらわないといけない」
「それでもいい……ことはさえ治れば、私はどうなっても構わないわ。もう、楽器も弾けないから、ここにいたって、しょうがない」
「だったら」
彼女は、振り返って、笑顔を見せた。この世のなによりも綺麗だと思った。
「あなたのことを、待ってる人の元に、早く行ってあげて」
急いで、病院へたどり着く。
時間も丁度良かった。なのにことはがいない。手術室にもう入っているのかと思って、ナースステーションで看護師に尋ねた。
「先生と、話があるって屋上へ行きましたよ」
「話?」
「ええ。手術前の意気込みみたいななんかですかね……」
なんだろう。わたしは階段を駆け上がって、屋上への扉を目指した。
息が切れる。
待ってて、ことは。久しぶりに会える。もうすぐ、治るのよ。あなたの喉。
楽しくなりながら、扉を開けた。
そこには、
「ことは……?」
そこには、
「……………………メイ」
そこには、
「な…………なにを……」
そこには、
闇医者の死体と、
血まみれのことはだけが、いた。
手には、ハサミを持っていた。
血。
「ことは…………なんで………………」
近づく。
「来ないで!」
ことはは、わたしにも刃物を向けた。
「また…………わたしを改造するつもりなんだ…………」
「え…………」
違う、改造だなんて。
「ち、治療よ……? 手術だったのよ? 喉が、治るのに……なんでこんな……」
「歌いたいなんて、私、一回も言わなかったよ! もう嫌だよ! 私を……またみんなが大好きな一尾ことはにするつもりなんだろ! 嫌だよ! 嫌!」
「だって……そうしないと、バンドが……」
「バンドのことばっかりじゃないか! あのパーツだって……竹越のものだったんでしょ? さっき竹越を見たよ。パーツ、持っていた。メイ、やっぱり盗んだんだ! 私を騙したんだ!」
「そ、それは…………だって、仕方なかったじゃない! 粗悪品に取り替えた医者が悪いのよ! 悪い医者から……なにやったって良いじゃない! 竹越も、あなたをずっと嫌いだったし!」
「悪いのは、この医者だって、一緒……」
ことはは、死体を見下ろした。
「私をまた、改造しようとした…………歌わせようとしたんだ……私は、本当はもう歌いたくなんてなかったんだよ! ポジティブな言葉を並べることにも、もう疲れたんだ! だけど…………メイは、世間はそれを許してくれなかった…………メイが許してくれなかった」
わたし――
「赤土は、私を肯定してくれた……そして、この医者が、また私を歌わせようとしているって教えてくれた……だから殺したんだ……赤土はいい子だよ。メイとは……全然違う。厳しくない。怠けてても良い。バンドも解散しようって提案してくれたし…………私に自由にしてていいって…………頑張らなくていいって…………」
「ことは…………」
なんで、もっと早く気づいてあげられなかったのだろう。
わたしが一番、勝手に一尾ことはのあるべき姿を、彼女に押し付けていたのか。
バンドも、私生活も、全部全部全部、ことはの喉に託していたから。
前を向いていれば良いって、思い込んでいたから。
言われて初めて、気づいた。
バカだ。最悪だ。
クズ。もうダメ。
ごめん。
「ごめんね………………ことは…………」
泣いた。
泣いたって、もうなにもかも遅かったのに。
「わたし………………ことはをなにも理解してなかった…………押し付けてばっかりで…………なにもわかってなかった………………」
ことはも、ハサミを落として、泣いた。
全部、通り過ぎてしまった電車みたいだった。
闇医者は、明らかに死んでいた。そして、凶器はこのハサミで、犯人はどう見たって、一尾ことはだった。
証拠は十分。逃げたって、あの茅島ふくみがいる限り、すぐに見つかりそうな気がした。
翌日には、彼女の言う施設から、もっと制圧に長けた実働部隊がやってくるのだろう。わたしは捕まり、ことはは刑務所に送られる。
こんな商売だ。バンドの人気は地の底。解散を余儀なくされ、崩壊。
再びステージに立つことは叶わない。
夢はもう叶わない。
何もかも失った。
何もかも失ったときの歌なんて、わたしは知らなかった。
ああ………………もう……
終わった………………なにかが、切れた……
「ねえ、ことは」
わたしは、ことはを抱きしめる。血が、服に付着する。
彼女はただ泣きながら、口を開いた。
「ごめん……私も…………もっと、なんだろ…………何も殺さなくても良かったと思う……なんでこんなことしちゃったんだろ……もう手遅れだよね…………どうしよう…………どうしたら…………どうしたらいいの、ねえ。一尾ことはなら、どうするべきなの……ねえ…………」
「いいよ、ことは……いいの……」
わたしは、彼女の耳元でささやく。
「もう、死んじゃおうか」
ことはは、ゆっくりと頷いた。
屋上だ。二人で柵を乗り越えた。
街が見下ろせる。夜景。
結局、前を向いたって、なんにも得られなかった。
なにかわたしが、間違っていたのだろうか。
間違っていたとしても、わたしには、他に選択肢があったのだろうか。
前を向くこと以外に、知らなかったわたしに。
これから死ぬっていうのに、街をまっすぐに見据える。
なんてことはない。いつもの街。きらきらとした、闇夜。
美しいなと、ふと感じた。
もう、どうでもいいか。どうでもいいや、そんなこと。
ことはの手を、ぎゅっと繋いだ。
それだけで、満たされている。初めてわかりあえている気がする。
ことはは、わたしの思っているような女じゃなかったんだ。
知らなかったな。もっと、知りたかったな。
「ことは」
これから死ぬとは思えない人間の口調で、ことはは囁いた。
「愛してるよ、メイ」
「…………なによそれ」
そんな冗談に、わたしはつい、笑ってしまう。
ふと見上げると、大きな月が浮かんでいて、わたしたちを照らしていた。
見惚れた。
わたしはそこで、ことはの書いた、月の夜の歌詞を思い出していた。
月の夜が君と
月の夜にほだされた僕が
浮かんでいる
浮かんでいる。
手首の神聖な瞬間 SMUR @smursama
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