3.に

 ある日、アルバイトをして生活費を稼ぐのに熱心だったわたしを訪ねる人間があった。

 飲み物を無心で注いでいたときに、店長から声をかけられてわたしは面食らった。

「池岡さん、君を呼んで欲しいっていうお客さんが来てるんだけど、知り合い?」

「わたしを?」首をかしげる。ここで働いていることを知っている知人なんて、バンドメンバーくらいしかいない。「誰です?」

「さあ……髪が長くて、すごい綺麗な女の人だけど」

 その説明で、胸にガソリンを撒かれた気分になった。

 あいつだ。

 ことはが、声をかけられたという、どっかの施設から派遣されてきたという調査員……

 なんで、ここがわかったんだろう。

 とにかく、冷静さを崩すと店長にも迷惑がかかると判断したわたしは、そのまま「わかりました」と涼しい顔で告げて、女がいるという席に向かう。

 奥。窓際。二人がけの席。テーブルの上には、居酒屋だって言うのにお酒ではなくジュースと少しの食事しか置かれていない。

 確かに、ことはの説明の通りの女が、そこにいた。

 本当に髪が長くて、四肢の全てがすらっとしていて、今窓の外を暇そうに眺めている横顔は、ばかみたいに美しかった。

 彼女はわたしに気づいたのか、こっちに首を向けると、にっこりと微笑んで自分の目の前の空席を手で示した。画鋲でも仕掛けてあるんじゃないかという警戒を解かないで、わたしはそれに従った。

「池岡メイさん、ですね?」

 女は口を開いてわたしの名前を、言い聞かせるように発した。仮に名前を間違っていたとしても、頷いてしまいそうだった。

「私、茅島ふくみと申します。よろしくおねがいします。急にお呼びしてすみません」

 そっと、差し出される手。握手だ。

 内心は嫌だったけれど、不審に思われないために、わたしはその手を握る。細い指。わたしの機械化された右手の腕力なら、ぎゅと握り込んでしまえば、へし折れるのかもしれないが、やめておいた。

 茅島、と名乗った怪しい女は、完璧とも言える笑顔を絶やさないで、わたしの最も尋ねられたくない質問を、軽々しく口にした。

「私、××病院であったパーツ窃盗事件のことを調査してるんです。なにかご存知ですか? えっと、事件は一週間前の夜。盗まれたのは声帯に相等するパーツなんですけど」

「…………いいえ」

 やばいと一瞬感じたけれど、とにかくわたしは首を振った。

 茅島はごまかすように顎先を触った。

「そうですか。おかしいわね。まだニュースになっていなかったかしら?」彼女は自分の端末を取り出して言う。「そうだ。あなたの連絡先を教えてもらえますか?」

「どうしてですか? なにも知りませんよ」

「情報網は多いほうが良いので」

 そう言われては断る理由もない。彼女の番号も聞いたが、興味がなかったのですぐに忘れた。

 茅島は一口ジュースを飲むと、まだわたしを返さないつもりか、じっと見つめてから再度口を開く。

「あなたって、スウェインインジエアー? っていうバンドをやってるんですって」

 また、この女は突然に嫌なことを尋ねてくる。

「……そうですけど。この店には、別に教えてませんけど」

「ふうん。担当楽器はなにを?」

「シンセサイザーですよ。低音パートです」

「少し前までは、それなりに有名だったそうですね」

「……その言い方、失礼じゃありませんか?」

「ああ、ごめんなさい。音楽には疎いんですよ……」本気で申し訳無さそうに眉を曲げながら彼女は謝る。「他のメンバーのことを教えてもらえますか?」

「公式サイトに載ってますよ。わざわざわたしが言う必要あります?」

「それ以外の情報を尋ねてるんですよ」

 わたしは、しぶしぶメンバーについてを話す。もちろん、ことはの喉の容態は伏せた。こんな音楽を知らない女に、今はインストゥルメンタル中心でしかたなくやってます、なんて言ったところで通じないだろうと思って、これも隠した。竹越がボーカルの座を狙っているのは伝えた。我ながら狡猾だった。

 それだけを聞くと、いつの間にか食事も終えていた茅島は言った。

「お会計、お願いします」

「……え?」あっけなさに、わたしは狼狽してしまう。「えっと……もう終わりですか?」

「あら? まだ話したかったですか?」

「いえ……結構です」

「ふふ。まあ、今日のところは、このあたりで。あなたに一度会って、連絡先を教えてもらいたかっただけですよ」茅島は立ち上がって、笑いかけた。「美味しかったです。ごちそうさま」

 冗談ではなく、茅島はそのまま会計を済ませて店を後にした。

 肩透かしを食らったみたいに取り残されたわたしは、厨房に戻ってまた飲み物を注ぎながら、さっきの女のことで頭が一杯になっていた。店長には、友達だった、と伝えた。

 どこで、わたしのことがバレてしまったのだろう。

 病院に、なにも証拠は残していないはず。針だって回収した。ナースにだって勘付かれていない。一体、茅島はどこからわたしを見つけ出してこんなところまで……

 思い出す。あの女は、機械化能力者についての専門家だと。わたしの手術した情報がどこかに残っているとして、病院で起きた出来事が「機能による麻酔を使ってナースを数人眠らせた」のだと推測するとしたら、そこから逆算すれと、そんな機能を持っているのはわたしぐらいしかいないと結論づけることが出来る。

 うかつだった。機能を、いくら便利だからって、必ず使う必要もなかった……。

 急に、息苦しいような気持ちになった。



 仕事の終わりに、この近くのライブハウスへ向かった。

『サークルカット72』という変な名前を持つそのライブハウスは、ジャンル不問でいろいろなバンドを出演させる方針として知られている。もちろん、審査はそれなりに厳しいし、集客が悪ければ簡単に切られる。気に入られても、長期間続けて出演させてもらえるわけでもない。

 だが、宣伝力はずば抜けていた。このライブハウスを、ことは復活の地にしようと、わたしは前から考えていた。手術も回復も、そもそも歌えるかどうかもまだ先だったが、わたしは早めに顔を出して、店長に気に入られようと考えていた。

 既に連絡は入れてある。裏路地の、ネオンでぴかぴかに光る看板が目立つ。その地下に、ライブハウスは存在する。

 ここでライブを行ったことも、鑑賞に訪れたこともない。けれど、どこか懐かしい感じさえした。昔のライブハウスと同じような作りだった。音響の面ではあまり期待はできないが、こういった場所でこそ、わたしたちのような、ニューウェイブリバイバルリバイバルの連中は輝くのかも知れない。

 受付で店長のいる場所を尋ねると、奥で今日のライブの書類をまとめていると教えてもらった。トイレの近くにその部屋はあった。事務室、とプレートが掛けてある。

 ノックをして中を覗くと店長がいる。わたしが挨拶をすると、店長は顔をしかめながら、「まあ、入ってくれ」とだけ告げた。

 なんだか、嫌な予感がする。

 店長は、しばらく壁に表示されているポスターを見つめながら、ため息を吐く。

「うちはさ、音楽シーンの盛り上がりに貢献したいんだよ。そのバンドも、そのバンドも……うちから出世していったような連中だ」

「はい、存じています」わたしは頷く。「わたしたちも、シーンの力になりたいって考えているんです」

「みんな音楽で評価した。人格はどうだって良かった。クソみたいなやつだっていた。でも音楽が最高だったから呼んだ。とにかく盛り上がれば、後輩バンドも増えるし、そのあとで出演バンドを取捨選択すればいいとも思っていた。どんなクズでもとりあえずは気に入ったら出演させていたんだよ。だけど……それは、別に犯罪に抵触するようなレベルではなかったからだ」

「……なにが言いたいんですか」

 わたしは、手を強く握ってしまう。

 腕を組みながら店長は、続けた。

「君に、噂が立っている」

「どんな?」

「この間のパーツ窃盗事件の犯人なんじゃないかって」

「え…………」

 なんで、

「いや、真相はわからんし、俺もそんな話は信じたくはないんだが…………ただのクズを出演させることよりも、もっと生々しい事件じゃないか。それに機械化能力者の犯罪も増加している昨今だ。そういった連中を敵に回したくはない。ただでさえ、変な人間が出入りしてるっていうのに……」

「そ、それじゃあ……」

「君たちの音楽は気に入っている。アルバムを、当時買ったくらいだ。今でも聞くことはある。けど、真犯人が捕まるかほとぼりが冷めるまで、うちには出ないで欲しい」

「そんな……」

「悪いな、おちついたら、必ず声をかけるから、待っててくれ」

 そう言って、わたしはライブハウスを追い出される。

 なんでよ。

 誰がそんな噂を流しているの? そんなの…………事実だとしても、結局自分の目で見たわけじゃないのに、どうして人を陥れるような虚偽情報が口から吐けるのか。わたしにとっては理解できない。

 こんなんじゃ、ことはの喉が治ったところで、ライブなんか出来ないじゃない。

 自分のした行動と、わたしたちを蹴落とそうというどこかの誰かの悪意に、無性に腹がたった。ゴミ箱を蹴って壁を殴った。右手だったので、壁の方に薄くヒビが入った。

 ……遠出して、誰もわたしたちを知らない場所で、ブッキングをかけるしかないか。

 いずれ、もっと名前が売れれば事務所に直接オファーが来る。

 見てろよ。

 諦めるな。諦めるなって、ことはが、歌の中でよく言っていたから。



 この日はバンド練習があった。

 別に、近日にライブが有るわけではないが、練習しておかないと、いざという時に困る。

 事務所近くの「ドラムダブディレイ」というスタジオなら、事務所が経費を出してくれ、一日に二時間ほど自由に使えるという契約になっていた。そんなサービスはありがたいのだけれど、それならもっとバンドの営業を率先してやって欲しいと言いたかったが、もはやさほどの稼ぎ頭とも言えないSIAに、そんな労力を捻出するつもりはないという態度だろう。

 集合時間になって、家に置いてきたことはから連絡があった。嫌な予感はしていたけれど、案の定彼女は「ごめん、今日は調子が悪いって伝えて」との文面だった。そもそも、彼女が帰ってきたのは今日の朝方。夜通しフラフラしていたらしい。その時点で、わたしは彼女が練習を辞退するのを予想していた。

 驚きはない。

 ただ、悲しい。

 端末を握りしめて、練習スタジオの中で既に準備している竹越と赤土にそれを伝えた。彼女たちは驚いて、次に不満そうな顔を向けて、そして赤土はわたしを睨んで、竹越は舌打ちをして、持っていたドラムパッドの重そうな本体を振り回して声を上げた。

「はあ!? なによそれ! ふざけてるわよあいつ!」

 アンプリファイアーやいくつかの楽器が置かれていて、まったく広くもないスタジオの、防音設備のテストでもするみたいに、彼女は発散するみたいに叫んだ。

「クビよ! 練習だからって舐めてるんでしょ! そんなメンバーなんか必要ないわ!」

「ちょっと、竹越、落ち着いて……」

 わたしが顔をしかめながら彼女をなだめたけれど、それに割って入ったのは、意外にも赤土通子だった。

「美沙ちゃんさ」肩から提げていたサイレントブズーキを置いた赤土。「前から思ってたけど、ことはちゃんがいらないって、本気で言ってるの?」

「そうよ」腕を組んで、壁にもたれかかる竹越。演奏するつもりを、投げ出したみたいだった。「このところ、目に余るわよ、あいつ。それにいつ復帰するかもわからない人間のために、これ以上インストに編曲して、ファンの人数を減らしながらやっていくなんて、愚かでクソみたいじゃないの。今が切り時だわ」

「歌は、どうするの」わかりきっていることを、わたしはわざわざ確かめるように訊いた。

「私が歌えるようになればそれで解決するって言ってるじゃない」竹越は拳を握る。「パーツだって……盗んだ犯人なんてすぐに見つけてやるわ。こっちには、調査員がついてるんだから」

「歌詞も曲も、ことはが作ってたってこの間それ、言われてなかった?」

 わたしのその言葉を捻り潰すように、竹越は端末を起動させてわたしたちに見せた。

 それは、文字の羅列。つまりは歌詞だった。

「書いたわ。あの後、悔しくなって。曲だって……すぐに作り方を覚えてみせる」

「よく見せて」

 彼女の書いたという歌詞を、わたしは目の前でじっと読んだ。

 ことはの歌詞と、比較しながら。

 あの代表曲、月の夜。

 わたしの心を掴んでそのまま、ゴミ箱に蓋をするような忘れられない不健全な恋みたいに留まっている感覚から、ずっと抜け出せない。

 そんなものと比べると、竹越の書く詞はあまりにも違いすぎた。とにかく、わたしの好みではなかった。

「だめよ」わたしは首を振った。「これじゃあ暗すぎる。もっと明るくしないと、SIAにふさわしくない」

「知ったことじゃないわ。私は、一尾ことはじゃない」竹越は、端末をしまう。「そもそも、あんたは何様? リーダーだなんて認めた覚えは無いんだけど、なんでバンドの方向性を握ったつもりになってるわけ? ことはの代わり?」

「違うわよ。明るくないと、SIAだって思われないじゃない。市場に出す価値なんてないわ。それに…………こんな暗い歌、誰が好き好んで聞くのよ」

「それってさ」

 わたしを見据えて、竹越。

「誰が決めたわけ?」

 そう告げられて、糸で絡め取られたように、わたしはなにも口に出来なくなった。



 十八時になる頃には、家へたどり着いた。

 疲れた。バンド練習は、結局あのあとすぐに解散となった。まともな練習ができるような状態でもなかったからだ。とくに次のライブも決まっていないことから、そう急くわけでもないという事情もあったが、まあこれは言い訳だった。

 ことはは、家から一歩も出ていなかったらしい。おなかが減ったと思って、わたしは彼女のために台所に立った。

 その時に、インターフォンが鳴った。またことはがネットショッピングでなにかを買ったのだろうと思って、わたしは軽い気持ちでドアを開けた。

 そこには、

「どうも! こんばんは、池岡さん。茅島ふくみです」

 なんて、わざわざ大きな声で挨拶をしてくる怪しい美女が立っていた。

 その声に驚いたのか、後ろで物音が聞こえた。ことはが、体勢でも崩したのかも知れない。まずい。彼女がうちに住んでいるってことは、この茅島にはなにも伝えていない。

 頼むから、今だけは大人しくしていて……

 後ろを振り向かないで祈ってから、わたしは咎めるように茅島に告げた。

「……あの、近所迷惑なんで、変な声を出さないでください」

「あら、すみません。元気よく挨拶しろって、うちに上司に聞かされてますので」

 にこにことした表情を崩さないで、彼女は言う。わたしでもわかる。わざだろう。変な大声で不意を打って、わたしをかき乱そうという戦法だ。

「茅島さん、ですっけ。何の用ですか」

「すこし尋ねたいことがありましたので、伺いました」

「……端末の番号は教えたはずですけど」

「近くを通りがかったので、立ち寄ったんです。メールや電話より、ずっと早いでしょ」

「ちょっと待ってくださいよ。住所は教えていませんけど」

「ああ。さきほど、あなたがこの部屋に入るのを見ましたから」

 平気でそんなことを言う、気味の悪い女だ。綺麗な容姿が、それを何倍にも際立たせる。バイト先で会った時とはまた違った印象。面倒なくらいの長い髪はそのままで、服は黒いセーターに赤い上着を肘だけだらしなく身につけていた。呼吸が荒くなっているから、走って来たのだろうか。その割には、動きづらそうな長いスカートを身に着けている。

 こうして話している間にも、心の内を透けさせられて、じっと観察されているみたいな予感すら覚える。

「なにが訊きたいんですか。わたし、ちょっと忙しいんですけど」

「ええ。バンド活動のことを。順調ですか?」

「……なんでそんなこと」

「良いから、答えてください」

 わたしは、一瞬目を伏せてから、言う。

「順調です」

「嘘ですね」

 ――。

「今、声色が変化しました。本当は、上手く行っていない、と」

「な、なんなんですか、あなた……!」

 わたしがやり場のない怒りを見せると、彼女は急に真面目な顔をする。

「なにか、バンドで問題があるんですね」

「…………言いたくなかったんです」

 隠しても駄目だと思って、わたしはさっきあったことを彼女に教える。

「ことは……ボーカルのやつなんですけど、ちょっと喉の調子が悪いんですよ。で、練習参加率が下がってしまって。それを他のメンバーが気に入らなくて、クビだとか休止させようだとか、そんな意見が出ました。別に、それだけです。バンドには、よくあることですよ。茅島さんは、ご存じないと思いますけど」

「ボーカルさんは、どう思ってるんですか?」

「わかりません。どこに住んでいるのかも」声色が変化しないように気をつけて、わたしは口にする。「私生活まで肩入れしませんよ。単なる、仕事仲間ですから」

「ふうん……。そのボーカルさん、ずっと喉の調子が悪いんです?」

「ええ。だから最近は歌っていなくて。インスト……って歌なしの曲のことなんですけど、そういうのにも着手しようって思っていましたから、丁度良かったんですけど」

 はっきりと疑いを隠さないような表情をしながら茅島は、なるほどね、と呟きながらわたしにお礼を言って去った。

 ……なんだよあいつ。

 びっくりさせるな、とわたしはその背中に投げかけたくなった。

 玄関の扉を閉じて戻ると、ことはがなにか焦ってきょろきょろと首を回しているのが見えたので、わたしは訝りながら近づいて、彼女に尋ねた。

「どうしたの、ことは。お客さんは帰ったわよ」茅島だとは、彼女を心配させるので一言も口にしなかった。

 ことはは、大きなため息を吐いて、

 急にわたしに抱きついた。

「な、なによ」

 尋ねる。ことはは、深呼吸をしてから、答える。

「パーツ…………隠したから、そこの、押し入れに……」

 指をさす方向。押し入れ。先程まで、深い意味もなく冷蔵庫に入れておいた声帯用パーツを、彼女はそこに移したらしい。

「もう……なにも、そこまでしなくても……」

「だって……盗られると思ったから……きっと、メイが買った、このパーツを狙ってるんだあの女……メイが買ったものなのに……」

「…………大丈夫よ。心配しすぎ」

 それでも、わたしの苦労が報われているみたいで、感極まったわたしは、ことはを強く抱きしめた。

 騙しているだなんて事実は、一瞬だけでも頭から消し去っていた。



 だというのに、目が覚めると、ことはがいなくなっていた。

 家の中を必死で探したけれど、見つからなかった。ギターも、私物も、全てそのままだった。だから、出ていくはずがないとしか思えなかった。

 けれど、煙みたいに消えてしまった。そしてその段階になって、初めてわたしはリビングに置かれた書き置きに目が留まった。見ないふりをしていたのに、結局他に手がかりがなかった。

 そこには簡素にこう書かれていた。

『ごめん、しばらくひとりになりたい』

 一大事だった。わたしはすぐにメンバーの二人を家に呼んだ。今日は練習もなにもなかったから、申し訳ないなと思いながらも、二人は暇だったのか三十分もしないうちに現れた。案外近くに住んでいるみたいだった。

 事情を説明すると、竹越は努めて冷静に告げた。

「……いや、別に私がことはのことが好きじゃないとか、そんな感情抜きで、これはバンド活動をしばらく休止したほうが良いんじゃない?」

 今回ばかりは、気に入らない竹越の意見にもわたしは賛成だった。

 ことは……どこにいるの。

 すると、赤土は手を挙げて申し訳無さそうに口を開いた。

「あの……私、言いたいことがあるんだけど」

「……なに」

「バンドは解散して、ことはちゃんに療養してもらった方が良いよ」

「解散……?」

 そんな突拍子もない、だけれど考えなかったわけでもない選択肢を、まさか赤土から突きつけられるとは思っても見なかった。

「通子、あんた……わかってる?」竹越も彼女を睨む。「解散までする必要ないじゃない。なにをそんなに急いてるの」

「みんなは知らないと思うけど……」赤土は、ことはの置いていったギターを、赤子のようになでた。「ことはちゃん、かなり無理している。私には、わかるよ」

「その根拠は?」わたしが気に入らないので詰め寄る。「ことはが前のマンションを追い出されてから、ずっと一緒に住んでたわたしが、ことはがそんな状態だって気づかないのはおかしいんじゃないの?」

「根拠はあるよ。こうやって逃げたことが全てよ」

「逃げてないわ」

 わたしは、左手で拳を作って、机を叩いた。

「アーティストには、必要よ。俗世から離れるっていうのは……」

「じゃあことはちゃんが、今どこにいるかわかるの? 一緒に住んでても、その程度の信頼ってことだよね?」

「うるさいわね! 知らないわよ! だからこうしてあんたたちを呼んでるんじゃない!」

 わたしは、この赤土の態度に耐えきれなくなって、声を上げた。自分でも耳が痛くなった。

 珍しく、竹越が割り込んで止めた。

「…………落ち着きなさいよ」

「竹越、あんた、妙に冷静じゃないの。いつもの激昂癖はどうしたの? ことはがいなくなって、うれしいんじゃないの?」

「……メイ。そういうところよ。頭を冷やして」

「…………………………………………ごめん」



 どうしよう。

 日中はずっとを考えていた。ことはがいなくなった。バンドは解散するしか無いのか。現在は保留にしているけれど、どうなるかわからない。怖いので事務所にはなにも伝えていない。どうしよう。ことはになにかあったらどうしよう。あの茅島とかいう女が、彼女に近づいたら、どうしよう。手術はどうしよう。

 それでも、なにかしていないと、気が狂いそうだった。

 わたしは、遠くのライブハウスにブッキングに向かった。ここなら、SIAの知名度は薄いが、わたしが犯人などという変な風聞が囁かれている確率は低い。

 最悪、ことはなしでもライブをするべきだ。

 この時代、なにも活動していないバンドは、忘れ去られて終わる。それこそ、あの竹越をボーカルに添える編成であっても、拒否することはない。

『フラットスピン』というライブハウスは、わたしの住んでいる場所から隣の駅、その繁華街の脇道を奥に入って、路地裏にある。

 見つからない。この辺りだと思ったのだけれど。汚くて、ごちゃごちゃとしていて、自分の現在位置ですら釈然としない。こんな街、早く出たいとしか思えなかった。

 人も少ない。普段、来ることもない。メンバーの誰に訊いても近づかないとだけ言われた記憶があった。

 疲れてきた。変に大荷物で来たのが間違いだった。アルバイトの帰りであることと、知らないライブハウスに音源やライブ映像をプロモートするために、いろいろとコンピューターなどの機材を担いできた。

 繁華街から路地裏なんて、暗くて見えないのに、ライブハウスってどうしてどこもこんな場所に建てられるのだろうか。

 ふらふらと探し求める。端末で地図を開く。最近の誇大広告の例にもれない、悪趣味なネオンライトの看板が目に眩しくて、画面がよく見えない。なにかが腐ったような臭いもする。道路も舗装されておらず、黒ずんでいる歩道を歩くたびに躓きそうだった。

 後ろから来た誰かが、近くを通る。

 急に、

 激痛。

「あ…………!」

 なにが起きた。

 ――痛い。

 倒れ込む。

 地面の、感触。

 見る。

 左腕から、血。

 人影は鞄を、掴んだ。

 わたしは咄嗟に、右腕で阻止する。

 機械化された腕。腕力は強い。

 人影は諦めたのか、走って逃げた。

 鞄は無事。

 ――痛い。

 あれは、ひったくりだ。人間として、地の底の屑だ。

 けれど……

 ああ、どうして。

 ――痛い。

 左腕に、

 売ろうと思っていた、左腕に傷が。

 動かない。指先一つ。

 なんで、

 なんで、

 なんで、

 わたしじゃなくても、良いじゃない。

 気がつくと、近くを通りがかった人に、救急車を呼ばれていた。

 痛い。

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