2.さん

 わたしの目の前には、今、病院がそびえ立っている。

 高層ビルの一階から五階までを支配しているその病院は、盗み聞きした情報と知り合いの闇医者からのタレコミで推測した限り、わたしの目指すあの医者と喉から手が出るほど欲しいパーツがあるらしいとのことだった。あいつ、こんなところに隠れていたのか、というのがわたしの最初の印象だった。

 大した病院ではない。繁華街から少し離れたところに位置しているから、一気に人通りは少なくなる。それに夜中のこの時間だ。診察を行っているのかすらわからない。

 既に一度訪れたこともあった。理由は病気や怪我をしたからではなく、病院の構造を把握しておきたかったからだった。初めて入る病院で、速やかに盗みが行えるほど、わたしに泥棒の才能があるわけではない。キーボードや作曲の才能だって怪しいものだっていうのに。

 とにかく内部は頭に叩き込んである。ナースの人数や監視カメラの位置も暗唱できる。パーツの場所だって、確定情報ではないけれど目星がついている。いつも手術前には、手術室の前室に運び込まれている。ここになければ、諦めて帰ればいい。

 裏口から侵入したわたしは、姿勢を低くした。ナースステーションの裏手になる。見つかったら、即刻刑務所にぶちこまれたって、文句は言えないと思う。

 ここから首を伸ばして、ナースを数える。三人。そんなものだ。手術室は、二階にある。ここを抜けてエレベーターか階段を使いたいが、こいつらが邪魔だった。二階にさえたどり着ければ、あとは大した問題ではないというのに。

 さて、どうする。わたしは監視カメラを確かめる。天井からぶら下がった分厚いレンズは、ナースステーションの中と、前の廊下を写している。

 やるしかないか。もとよりそのための覚悟を、既に決めてきていたはずだった。

 わたしは右手を伸ばして、物陰から最も近いナースに向けた。距離は二メートル程度。彼女はコンピューター作業に没頭していた。

 手は、銃の形を作った。こうしないと、安全装置が外れないので麻酔針を射出できないとの説明を受けた。よく出来ている、と今にしてみれば思う。勝手に筋肉が作動していく感覚も、たしかにあった。医者の行った通り、本当に自動照準が働いているみたいだ。

 力を込めると、人差し指の先に感触があった。

 針が発射された。目視では確認のしようがないが、命中したことにする。

 適切な場所に刺さったとして、三十秒。

「あれ……」

 撃たれたナースは、そう呟いて床に倒れ込んだ。

「え、ちょっと、どうしたのよ」

 他の二人が駆け寄る。

 わたしは続けてその二人に右手を向けて、撃った。

 彼女らは倒れたナースを起こそうと身体を揺すっていたが、やがて自分たちも同じように折り重なって眠った。

 わたしは物陰から首を伸ばしてナースたちを見下ろした。無防備に、普段は機敏に働く人間が、服に皺を作って眠りこけていた。

 こうも上手くいくなんて。

 わたしはため息を吐いて、罪悪感を吐き捨てるつもりで髪の毛を払った。

 射撃の練習を、多少なりとも重ねた甲斐だろうか。それとも、機械化能力なんてものは、運用する人間が思うよりも強力なものなのだろうか。

 ナースの身体から麻酔針を回収して、ハンカチで包んで、自分でも大切そうにポケットにしまった。あとでどこかの川にでも捨てよう。

 簡単だった。自分が感じていた気の重さに比べると、積み木をする程度の簡単さしか覚えない。

 この機能に、誰も抗うすべを持っていない。

 まるで、世界を叩き割るような権利を得たみたいな気分。

 カメラにも映っていないし、証拠も残っていない。ナースたちが目覚めて不審に思うだろうが、それでどうなるものでもない。集団的な眠気に急に襲われただけのことと処理されるはずだった。

 行こう。パーツを回収して、そしてその足で買い物にでも寄って、どこかで針を処分して、ことはの待つ家に帰ろう。

 わたしはエレベーターの方へ、いそいそと向かった。



「ただいま」

 わたしは玄関をくぐる。手にはスーパーで買ったものを詰めた袋と、古紙に包まれた、最高級ボーカル用の声帯パーツ。写真は確認していたから、これに間違いはない。思ったよりも、ずっと小さい。本当に、こんなものでことはの調子が戻るのだろうか。

 メイ、何処行ってたの、とソファの上からことはは返事をした。いつもはそんなこと気にしないっていうのに、なんで今日に限って尋ねてくるのだろう。

 答えないで、わたしはパーツを見せた。我慢しきれなかったからだ。

 当然、喜んでくれると思っていたのだけれど、一目見た後ことはは、パーツから目をそらして、確認でもするみたいに不機嫌そうに尋ねた。

「…………それは?」

「……ボーカル用の声帯パーツよ。最高級品」

 自分の喉を触ることは。怯えているような素振りだった。無理もない。機械化の手術自体が、彼女をここまで転落させたのに間違いはないのだから、悪い印象を抱えるのも当然だ。

「大丈夫よ、ことは。このパーツに換装すれば、また前みたいに歌えるようになるわ」

「そうなんだ…………買ってくれたの?」

「そうよ。当たり前じゃない。お金、貯めてたの。嬉しくない?」

「いや、嬉しいよ……ありがとう、メイ」

 少しもこちらを見ないで、お礼を述べる彼女。

 わたしは、あんな危険を冒してまで盗んできたパーツだというのに、その苦労をまるで汲んでくれない彼女にすこし腹を立てながら、それが理不尽な怒りであることにも自覚的だった。

 ことはは、もうパーツを見ることすら嫌なはずだ。

「また、歌いたくないの? 機械の力を使うのは嫌?」

 わたしが買い物袋を下ろして、中身を冷蔵庫に突っ込みながら尋ねると、ことははしばらく経った後に、長かったローディングを終えたあとみたいに答える。

「そういうわけじゃないけど……怖いな、やっぱり」

「前のこと、気にしてるの?」

「うーん、なんていうか……わかんないけど、とにかく怖いよ。手術を受けるのが」

 作業を止めて、わたしは彼女の方を向いて、叱咤する。

「何言ってんのよ。ことはの歌声を待ってる人はたくさんいるのよ。怖いのはわかるけど、わたしたちは世界一のバンドになるんじゃなかったの? 心の準備が必要なら、わたしがその勇気を分けてあげるわ」

 射抜かれたように声を漏らすと、ことはは自分の頬を叩いた。

「………………ごめん、メイ」

「……落ち着いた?」

「わかったよ。手術、受ける」ことははわたしと目を合わせた。「メイがいるから、わたしは一尾ことはでいられるんだ。感謝しないとね」

「ふふ。復帰するのを待ってるわ、ことは」

 わたしは、喉の奥からにじみ出てくる喜びを噛み締めていた。彼女のために、今夜は、ごちそうにしてあげたいくらいだった。

 美味しいものでも食べて、ことはの復帰の光明が見えたことと、犯罪に手を染めた自分を少しでもごまかしたかった。

 なによ。

 ことはという財産に比べれば、元のパーツの持ち主だって、許してくれる。

 そのためには歌。歌で全てをわかってもらわなければならない。



「へえ……ボーカル用声帯。イエシマ社の最高級品、間違いないですね」

 翌日。盗んできた(とは伏せた)パーツを知り合いの闇医者に見せると、彼は子供みたいに楽しそうに吟味し始めた。わたしにとって、パーツのメーカーなんかは、どうだってよかった。

 両手で慎重にパーツをこねくり回している医者に、わたしは待ちきれず口を挟む。

「あの、そのパーツで、ことはの喉を治せるんでしょうか」

 医者は強く頷く。

「ええ。間違いなくボーカル用です。これなら、今の粗悪品、いやそれどころか生の声帯だったころよりも、ずっと伸びやかに歌えるようになるはずですよ。手術も、申し上げたとおり、パーツを換装するだけですから、僕でも可能です。ただ……」

「なんです?」

「今の一尾さんの規格だと適合しないので、もうすこし機械化範囲を広げる手術も必要なんですよ。それにはその……費用がかかります」

「……いくらですか」

 彼は金額を告げた。正直な所、吐きそうなくらいの大金だったので、わたしは顔をしかめてなにも言えなくなった。うちにもバンドの貯金にも、そんな金額を用意できるほどの財力はない。

 借金でもするしか無いのか。

「まあ、方法はあります」

「どんな?」

「あなたのその左腕。綺麗ですので、それを売り払えば工面できます」

「左腕……?」

 ぬけぬけと、表情も浮かべないでそんなことを口にする彼に、寒気がする。

 左腕にアルコールを塗られたような気味の悪さを覚える。

「ええ。代わりの腕はモニタープランでまた見つければ、手術代金のお釣りでも十分支払えます。両腕とも機械化されますが、まあ街中では時々見かけますよ、そんな人」

 自分の左腕を、

 生まれてはじめて、じっと、調理される前の肉みたいに眺めた。

 悩むまでもない。私の一番は、ことはの喉。

 右腕が一品あれば、楽器の演奏だって出来る。

「わかりました」意を決して、わたしは頷く。「左腕を売ります。わたしの腕くらいなら、何本でも。先生が買い取ってくれるってことでいいんですね?」

「そうです。ありがとうございます。モニタープランを実施しているパーツも、こっちで探しておきますよ。ですけど注意点が」

「まだあるんですか」

「その腕、綺麗に保っていてくださいね。傷がつくと大幅に価値が落ちますから」

 告げてから、手術の日取りは近日中にお伝えします、と男は言った。



 翌日。喫茶店にてバンドのミーティングがあった。

 喫茶店の場所はそれぞれの家の、ちょうど中間地点にある無人のチェーン店を選んだ。幸いこの時間に混んではいない。わたしとことはが四人席に腰掛けて待っていると、赤土が姿を現す。待ち合わせの時間には、まだ早い。

 赤土通子はサイレントブズーキ担当の、名前の割には髪の毛が別に赤くはない、普通の風貌をした女だったが、ライブになるとそれが何故か映えると評判だった。まあ、ことはがいるので霞んでしまうのだが、演奏力は間違いなく信頼の置ける人間だった。ちなみに、サイレントブズーキがどういう楽器なのかを理解しているのは、バンド内でも赤土だけだ。

 三人でコーヒーを飲みながら、新曲の構想とライブのブッキングについて話していると、竹越美沙が、遅れてやってきたというのに、不機嫌な表情を隠そうともしないでわたしたちの前に現れた。

 ドラムパッド担当、竹越美沙。なにが気に入らないのか、ことはに対しての当たりがいつも強い。個人的にはその点で気に入らないけれど、演奏という面においては彼女とわたしの目指すところは同じだった。わたしは自分が目立つのを嫌う職人気質な人間だと感じることもあったけれど、彼女もどうやらそうらしいと、一緒にバンドをやっていく中で悟った。

「竹越、どうしたのよ」

 わたしがその顔を覗き込んで尋ねると、竹越は何故かことはに一瞥をくれてから言いづらそうに答えた。

「いえ……手術の予定だったんだけど」

「誰の?」

「私よ」

「美沙、病気?」

 赤土がコーヒーを啜りながら訊く。竹越はその隣に重そうに座った。

「いえ、病気じゃない……でも、大事な手術よ。それが、出来なかったの」

「どうして?」

「パーツを、盗まれたんですって」

 その一文に、

 嫌な、

 聞き覚えがある。

「竹越」

 わたしは、気がつくと口を開いていた。

「なんの手術よ」

「喉を機械化しようと思ったのよ」

 細かく手が、震える。

 言われるまでもなかった。わたしが盗んだパーツは、本来は誰が買ったものなのか。

 心配になって、ちらりとことはを横目で確認する。彼女は、なんの関心もないのか、コーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。街の別に綺麗じゃない景色と、それなりの人通りを楽しめる。

 気づいていない。

 やり過ごせば、大丈夫。

 音を立てないように、息を吐く。

「まったく……最悪よ」竹越が歯ぎしりをする。「犯人、絶対許さないわ……捕まえて……何回も殴らないと、骨とか、歯とか、全部折れるまで……」

「それって、今日気づいたの?」赤土が首を傾げながら言う。

「ええ。午前中に。病院から電話があって、パーツが盗まれたって……ふざけないでよ」

「警察には言った?」

「いえ。闇医者だから、言いたくなくて。でも、知り合いのツテでこういった事件に向いてる連中がたくさんいるっていう施設を紹介してもらって、そこに電話をかけたら、調査員を派遣しますって」

「なにそれ、面白い」赤土は不躾にも笑う。「映画みたいじゃん。どんな施設?」

「私も詳しくは教えてもらってないんだけど……」竹越は思い出しながら、腕を組んだ。「機械化能力を使った犯罪に対する専門家なんですって。見てなさいよ犯人……逃げ場なんて、無いんだから」

「ねえ竹越」

 炊きあがっている彼女を制して、わたしは彼女に質問する。

「喉なんか機械化して、どうすんの」

「歌うのよ。私、歌いたいの」

 竹越は胸を張って、そう言った。特に、ことはに向かって宣言しているみたいだった。

「歌って……なによそれ。うちはことはがいるから、これ以上ボーカルは必要ないんだけど」

 わたしがそうやって刺すと彼女はもっと不機嫌になって、ことはを指差して告げた。

「私は、一尾ことはに、勝ちたいの!」

「竹越、あんた本気で言ってるの?」

「嘘で言うもんか。今の一尾ことはに、何の価値があるの?」

 しばらく気怠げに外を眺めていたことはは、ゆっくりと竹越を見つめ返して、頭をかいた。

「……私に勝ったって、なんになるの?」

「…………それ、嫌味?」

「いや、別に……」

「歌えもしないあんたなんか、バンドにとって邪魔なのよ。だから、私がボーカルを務める。あんたは、辞めるかギターでも弾いてなさい」

「…………曲だって作ってるよ」

「私が作る」

「歌詞も」

「私が作るって言ってるの!」

「やめてよ!」わたしは珈琲が揺れるくらい、大きな声を上げる。「……こんなんじゃミーティング、出来ないじゃない」

 竹越は椅子に深く座って、腕を組んで口を開いた。

「……今日は、もう無理ね」

「あんたのせいだって、わかってる?」

「……そもそも誰のせいなのよ」



 本当に、ろくに話し合いもまとまらないまま、店を出た。

 ことはと竹越は、お互い全く顔を合わさないで、どこかへ消えた。ことはなら、夜になればうちに帰ってくるだろうけれど、竹越がなにをするのかは見当もつかなかった。犯人探しでもするつもりなのかもしれない。

 残ったのは、わたしと赤土。別に軋轢があるわけではないが、赤土は多分、わたしのことを良く思っていない。これは、勘の範囲だけれど。

「……赤土、どうしよっか、今後」

「バンド活動?」なにも考えていない小動物みたいな顔を、彼女はよく見せる。「そうねえ、ライブを重ねて……今のSIAを受け入れてもらうしか無いんじゃない」

「……そうね」

 結局、今後の活動はわたしのブッキング次第だということだろう。馴染みにライブハウスにまた連絡を入れてみよう。歓迎はしてくれるとは思う。けれど最近は、有望なバンドも次々に現れているから、わたしたちの席が空いているのかどうかもわからない。

 もう、一昔前のバンドになりつつあるような自覚を覚える。

 ことはに早く復帰してもらわなくちゃ。みんなが、それを望んでいる。

「ことはちゃん、元気?」

 赤土は歩きながら、遠い昔にいなくなった友人のことを尋ねるみたいな調子で訊いた。

「ことは? うん……歌は、駄目みたいだけど」

「彼女、怯えてるみたいだった」

「あんな目に遭ったから、しょうがないわ。最近はいつもよ。歌えなくなって、不安なんだわ、きっと」

「違うよ」

 赤土は急に立ち止まって、

 わたしを刺し殺すみたいに睨みつけた。

「ことはちゃんを悲しませるようなら、絶対あんたを許さないから」

「え……」

 なにが言いたいんだよお前、と罵倒を投げつけようと思ったけれど、逃げる兎よりも早く、彼女はわたしの前から消えていた。

 何を勝手に……

 ことはが悲しんでいるのは、歌えないから。人に騙されたから。

 喉さえ治れば、彼女は一尾ことはとして復活する。

 手術の日取りは、まだ先だった。



 翌日もバンド会議があった。場所は同じ喫茶店だ。もはや常連客としてカウントされているのかも知れない。

 わたしはあらかじめ竹越に、ボーカルに成り代わりたいだとか余計なことを言い出すなよ、と釘を刺しておいた。彼女は「わかった」とだけ返事をくれたが、実際に見るまでは信用できない。

 ボーカルの問題なんてものより、話したい議題がたくさんあった。新しい曲の構想、これはことは次第だけれど、わたしたちもある程度は手伝える。アルバムの企画。これをまとめて事務所に送りつけて企画会議を通過させないと、アルバムをレコーディングすることすら出来ない。そしてライブ。インストでやるもいいけれど、ことは復活への布石として、今の状態でも歌える曲を作るべきだとわたし個人としては思う。

 わたしとことは、赤土が揃ったころに、竹越からメールで「ごめん、用事」と連絡があった。来られないらしい。まったく、今日こそアルバムについて話し合いたかったっていうのに、なにごともままならない。

 とにかく曲の草案だけでもまとめようと考えて、三人で意見を出し合った。ことはも、今日は珍しく少し乗り気だった。アイデアが、プールから漏れ出しているみたいだった。

 話ものってきたところで、ことはが注文したケーキを食べながら、口を開いた。

「……そういえばさ、昨日のことなんだけど、怪しい女の人に声かけられたんだよね」

「怪しいって……?」わたしは眉をひそめる。芸能事務所へのスカウトかと思った。「ことは、昨日はひとこともそんなの言わなかったじゃない」

「いや、ごめん……忘れてた」ことはが頭をかく。「でも、見たら忘れないよ。だって、めちゃくちゃ美人だったから。そういうお店の勧誘かと思っちゃった」

「どんな人だって?」

「えっと……髪が長くて、背はそんなに高くないし胸もなかったけど、すごい顔が綺麗だった。こう、身体がすらっとしててさ……」

「いや、容姿じゃなくて……」わたしは呆れる。「なんて言ってきたの?」

「パーツ窃盗事件のこと調べてるって」

 ――。

「警察?」

「そういう感じでもなかったかな。服は……普通の動きやすそうな服だった。スカートに、暖かそうな上着?」

 竹越の言っていた施設の調査員とは、ことはが会ったという怪しい女なのだろうか。一体どんな人間なのか、わたしの頭では想像もつかなかった。

 めちゃくちゃ美人で、警察らしくない感じ……

 そんなの、街中にはいくらだっている。こうしている間にも、わたしたちを監視しているかもしれない。例えば、この赤土が尾行されていたとしたら、近くの席に座っている可能性だって……

「ことはちゃん、それストーカーじゃない?」

 赤土が、わたしの想像よりも突拍子もない内容を口にした。

「ストーカー?」ことはが首を傾げる。「狂信的なファン? 私にいるのかなあ」

「いるよ! ことはちゃん、自分が人気者だってわかってないよ」赤土はわたしの方を向いた。「メイちゃん、ちゃんと戸締まりはしてるの?」

「してるに決まってるじゃない」

「ことはちゃんになにかあったら……バンドの危機なんだよ」

「わかってるわよ、そんなの。いちいち言わなくていいわ」



 家に帰った途端に、ことはの様子が変わった。

 突然わたしの背中に抱きついてきた。

 わたしは、身構えていなかったので、驚いてしまった。

「な、ことは、どうしたの」

「…………怖い」

「ええ?」

「怖いよ、得体のしれないストーカー女が、私を狙ってるんだ……」

「もう。赤土の言ったこと、真に受けてるの?」わたしは正面に向き直って、ことはの手を取った。「変な女なんて、今までだっていくらでもいたじゃない」

「でも…………なにかに追われてる気がする」

 荒くなった、ことはの息遣い。

 堰を切ったように、不安に押しつぶされそうになっている。

 わたしは……

「大丈夫……大丈夫だから」

 彼女の背中に手を回して、抱きしめた。

 細い。

 このまま力を込めれば、バラバラに崩壊してしまうかもしれない。

「そんなものに負ける一尾ことはじゃないでしょ?」

「…………」

「わたしもついてる。だから、心配ないわ」

 右手、人差し指の先を、彼女の首筋に当てた。

「少し、眠りましょう」

「うん…………」

 ピリっと、指先に感触があって、一尾ことはは眠りについた。わたしは彼女を引きずりながら運んで、ベッドに寝かせた。死体を隠しているみたいな気分になった。肩まで布団を掛けて、その顔をじっと眺めた。

 普通の、綺麗な、女の顔。

 ステージ上のことはの面影なんて、ここにはない。

 随分、憑き物が落ちてしまったみたいな……

 ことはの漠然とした不安を、理解してしまいそうになる。

 日付を見る。手術の日取りはまだだ。

 ため息を吐いていると、ことはの端末が震えた。わたしはなんのためらいもなく、彼女のメールをチェックする。

 相手は、あの赤土だった。

『ことはちゃん、何か心配事でもあるの? 何かあったら相談にのるよ?』

 無秩序なメッセージ。

 あんたは、何様だっていうの。

 わたしはそのメールを、何のためらいもなく削除した。

 一尾ことはに、そんな心配は、どう考えたって必要ない。

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