天才作家がやってきた!

三村小稲

第1話天才作家がやってきた!

1.

「なんだ、ようするにあの女はちんこ付きだったわけか」


 一通りの事の顛末を話し終わった僕に、タカミツは呆れたような、はたまた嘲るような調子でしれっと言い放った。ちんこ付きとはずいぶんあからさまな言いようだと思ったが実際その通りなので、僕は一瞬むっとしたけれどすぐに思い直して力なく笑った。


 僕が笑うと部屋の窓辺に腰掛けていたタカミツは安心したように制服のネクタイを緩めて煙草に火をつけた。


 開け放した窓から臨む海が初夏の陽射しに煌いている。凪の時刻。タカミツのふかす煙草の煙だけが夕方の空気の中を静かに揺れていた。


 この一ヶ月の間に起きたことを説明するのは実に簡単だ。そう、たった一ヶ月のことだったのだ。なんだかもっと遠い出来事のような気がしたけれど、実際には一ヶ月しかたっておらず、それでは一体この一ヶ月がまるで幻のようで、やっぱり僕は自分が置かれている状況も立場も「夢オチ」なんじゃないかと疑わずにはおけなかった。


 なんてことはない。僕は隣りのクラスの秋吉に告白され、付き合うようになったのだけれど、その一ヶ月後に彼女がバイト先の大学生と僕とを二股かけている事が判明したのだった。


 秋吉に借りた漫画を返しに自宅までチャリを走らせたら、秋吉が大学生の車の助手席でキスしていた。僕が気付いたことに、彼女も同時に気付いた。僕は漫画を車のボンネットに乗せると、そのまま走り去った。後は校内の噂がすべてを教えてくれた。知らなかったのは僕だけだった。


 そもそも僕は彼女のことをよく知らなかった。いくら田舎町とはいえ女子の顔を全部把握しているわけではないのだ。だから彼女が自転車置き場で僕を待ち伏せし古典的な告白を行った時、僕は彼女の言っていることがすぐには理解できなくて、それこそタカミツへの伝言でも頼まれているのかと思ってしばらく馬鹿みたいにぽかんと口を開けて突っ立っていた。


 それにしても一体いつから二股かけられていたのだろう。初めからそうだったのか、それともこの一ヶ月の間に始まったのか。どちらにせよ、僕は現場を目撃しなければまったく気付くことはなかったことは言える。


 そういったわけで冒頭のタカミツの「ちんこ付き」というのは秋吉に男がいたという事実を指している言葉なのだった。


「まあ、でも、あれだな。秋吉とヤれたんだからさ、それでよしとしようや。な?」


 と、タカミツは慰めているつもりなのか、はははと快活に笑った。


「……ヤってないよ」

「ええ?! マジで?! なんで?!」

「なんでって言われても……。ヤってないもんはヤってないんだからしょうがないだろ」

「なんだよ、お前なにやってんだよ?! 付き合ってたんだろ?」


 タカミツはそう叫んで心底呆れたように頭を抱えた。それから、ぽつりと呟いた。


「童貞脱出ならず~……」

「余計なお世話だよ」


 僕はタカミツの手から煙草を奪い、いよいよ暮れていく空を見つめながら煙草を吸った。部屋の空気がオレンジ色に染められ、日に焼けた畳に僕とタカミツの影が長く伸びている。


 しばし無言で煙草を吸っていると、

「三上、お前は悪くねえよ」

 と、タカミツが呟いた。しかし僕はそれになんと答えていいか分からなくて、二本目の煙草に火をつけ曖昧に頷いた。タカミツはもう何も言わなかった。


2.

 僕のことを簡単に話そう。僕の名前は三上純太。高校二年。父親は公務員。母親はスーパーのレジ係り。兄弟はいないが、代わりに犬を飼っている。雑種。かなりの高齢。以上。平凡すぎるほど平凡で、特筆すべき係累もなければ趣味も特技もない、どこにでもいる高校生だ。


 生まれ育った町は波の穏やかな海沿いで、夏になると都会から海水浴客が押し寄せてくるけれど、来た分だけ、帰ってしまえばいっそう寂しさが際立つような、なんだかせつないところだった。


 僕とタカミツはそんな町で一緒に育った兄弟も同然の仲だった。


 タカミツは子供の頃はチビで泣き虫だったけれど、中学に入った頃から急激に背が伸びて女の子からモテるようになり、声変わりと共に童貞を捨てたことで仲間内で英雄となった。以来タカミツは町一番の軽佻浮薄な高校生としてその名を轟かせている。


 タカミツのうちは小さな旅館を経営していて、建物は古いが趣きがあり趣味のいい調度品と小奇麗な客室で構成され、料理が美味しいと評判でなかなか繁盛している。


 そもそも彼が異常な速さで童貞を捨てることができたのはその環境のおかげだった。


 タカミツの母親は女将業に忙しく、子供の頃からタカミツを家政婦の手に預けてきた。そして中学生にもなると家政婦ではなく家庭教師をつけ、跡取息子の頭の中身の面倒をみさせることにした。


 やってきた家庭教師は大学生だった。週に三回、タカミツに英語と数学を教えに来ていた。


 家庭教師がついたタカミツは確かに成績があがった。


 僕はタカミツがそんなに熱心に勉強しているというのに驚いたが、なんのことはない。タカミツは英語と数学以外に女の体も教えてもらい、以後、彼女が家庭教師を辞めるまで本人曰く「セックスのために」勉強していたのだ。その証拠に家庭教師が大学を卒業してバイトを辞めるとタカミツの右肩上がりだった成績は見事な下降線を辿り始めた。


 その後もタカミツには家庭教師がついたけれど、女の人だったのは彼女が最初で最後。今度はタカミツは男子学生から酒と煙草と猥雑な情報を学び、気がつけば不良とは言わないまでも「女ったらし」の「生意気」な「口の悪い」少年へと成長したのだった。


 タカミツの母親が事態に気付いた時はすでに遅く、高校入学と共に家庭教師の導入は廃止された。以来、塾だなんだと更正を図ったが何一つ成功することはなかった。


 こうやって話すとろくでもない男のようだが、僕とタカミツは仲が良かった。確かに女の子をとっかえひっかえしているような奴だけれど根は優しくて、僕が初めて「告白」というものをされた時も、

「よかったじゃん! 秋吉か、うん、いいんじゃね? かわいいしさ。おいおい、赤飯なんか炊いちゃう!?」

 と茶化しながら喜んでくれた。


 だから秋吉の「二股」が露見した時、タカミツは激怒し、ボキャブラリーのすべてを駆使して秋吉をなじった。タカミツがあんまり怒るから僕自身は怒るきっかけを失い、逆に「そこまで言わなくても……」と宥めにかかるほどだった。


 ちんこ付きというのは秋吉に「男がいる」という状態を示す表現だったが、タカミツは秋吉自身を「ビッチ」や「ヤリマン」と憎々しげに罵った。


 けれど、僕はそれを聞いてもまだやっぱりぼーっとしていて、彼女を表す言葉さえ浮かばなかった。


 一ヶ月前の自転車置き場で、秋吉は僕の自転車の横に立っていた。そして僕が来ると、

「三上君、ちょっと話があるんだけど」

 と僕を呼び止めた。


 大きな目はしっかりと見開かれていたけれど、声は固かった。長い髪が肩へさらさらと零れていて、風が時々それを揺らした。


 どこかで見たことがあるような。そんなおぼろげな記憶を辿りながら、彼女と向かい合った。


 秋吉は自分の名前とクラスを述べると、

「三上君、今付き合ってる人とか好きな人がいる?」

 と勇敢ともいえる単刀直入さで核心にせまった。


「いや、いないけど……」

 僕が答えると、秋吉はほんの数秒俯いて黙った。

それから僕を見上げると、

「それじゃあ、私と付き合わない?」

 と言った。


「えっ」

「……これ、私の電話番号。返事、ちょうだい」

「……」

「じゃあ」

 差し出されたメモを受け取ると秋吉は素早くお辞儀をして、踵を返し走り去った。僕はその背中を見送りながら、なんて細い脚なんだろうと思っていた。


 印象は悪くなかった。とにかくまっすぐにこちらを見つめる目が澄んでいて綺麗だと思ったことと、体を二つに折って頭を下げる、細眉とこってりしたアイメイクに似合わない奇妙な真面目さが心に残った。


 翌日、彼女が隣りのクラスの女子でけっこうモテて、その名を知らしめていると分かると、断る理由はなかった。


 秋吉に電話で返事をすると、感極まったような声でありがとうを言われた。その声から感じられたひたむきさに、僕は照れくさくて「はあ」と気の抜けたような返事しかできなかった。


 翌日から放課後は一緒に帰ったり、ついでにちょっと寄り道して散歩したりして過ごした。夜は電話がかかってきたし、週末はデートもしたし、彼女の部屋にも行った。


 童貞脱出の件については「未遂」だった。これはタカミツにも話さなかったけれど、実は肝心なところで起たなかったのだ。別に体調は悪くなかったから、自分で思う以上に緊張していたのかもしれない。けれど、それは気まずくて格好悪くて、我ながら最低だったと思う。


 ひとえに僕が秋吉の二股を責めなかったのは、そのことが原因だったのではと思うからだった。


3.

 僕が秋吉に告白されて一ヶ月で別れるという事件は話題のない学校生活に下世話な華を咲かせた。秋吉の二股は僕に同情票を集めたけれど、その実、嘲笑の的になっているのは薄々感じられた。


 仲間内では、

「まー、あいつ、前から男関係派手な感じだったもんな。でも、いいじゃん。ある意味、あとくされなくて」

 と半ば羨むように言われた。その上、興味津々で僕を取り囲んでは、

「なーなー、どうだった?」

 と小突きながらうふうふ笑って、克明なレポートを聞きたがった。


 そうなると僕は立つ瀬がなく、連中の手を振り払いながらわざとぶっきらぼうに、

「うるせーなあ」

 と吐き捨てて逃げるより他なかった。


 それにしてもみんな暇で困る。普段目立たない僕みたいな地味な男に彼女ができて、別れたというだけでこの騒ぎ。日頃呑気で退屈な学校生活がおかげで一気に騒がしくなり、僕は秋吉と付き合う以前の平和さを恋しく思った。なにも考えなくてすんだ日々を。


 そういう状態についてタカミツは、

「人の噂も四十九日っていうだろ、どうせすぐ飽きて忘れるって」

「四十九じゃなくて、七十五だろ」

「え? マジ? うそ、なげー」

 僕は思わずため息をついて、黙った。


 自分にとってこれまで誰が誰を好きだとか、フったフラれたの話しなんてどうでもよくて、まるで頓着しなかった。タカミツがあれほど華やかに浮名を流しても興味が持てなかったから羨むこともなかった。僕にとって女の子や恋愛というのはテレビの中の出来事みたいなもので、そう面白いとも思えないからチャンネルを他の番組にあわせるようなものだった。それが突然こんなことになってしまうのだから不思議だ。


 でも一番不思議なのはこういう事態に陥っても、自分が「番組」に参加しているにも関わらず何一つ頭に入ってこないこと。対岸の火事を見るように、他人事だってことだ。


 放課後、僕はタカミツと帰り道をだらだら歩きながら終始無言でそのことばかりを考えていた。


「あー、暑いなあ」

 タカミツがネクタイをしゅるしゅると解いて、シャツのボタンを二つ外した。


 国道沿いの道は海に面していて、潮っぽいベタつく風が吹き過ぎていく。


 タカミツは防波堤から海を覗き、眼下の岩場で遊ぶ子供たちを見て僕に手招きをした。


「昔さー、三上が岩場ですべって頭から血ぃ出したことあったろ」

「……うん」

「あん時さあ、俺、三上は死ぬんだと思った」

「んなアホな」

「だろー。でも、ほら、ガキってそういうのあるだろ? ちょっと血が出ただけで、死ぬー! とか言うじゃん」

「でも、あれは擦りむいただけだったろ」

「そうだよ。今だから、分かるんだよ。そういうの」

「なにが言いたいんだよ」

「だからぁ。ちょっと女にフラれたぐらいじゃ、死なないってことが俺には分かるわけよ」

「……」

「今日さ、お前ヒマだろ? 釣り、行こうぜ」


 僕らは再び並んで歩き始めた。


「俺、そんなに落ち込んでないから」

「え? なに?」

「……いや、なんでもない」


 トラックが脇を走り抜けていき僕の言葉はエンジン音にかき消されてしまった。厳密に言うと、僕は「落ち込めない」自分に落ち込んでいたかもしれない。


 タカミツと別れる時、僕はタカミツの首筋を見てふと「ああ、やっぱりヤっときゃ今頃この世界は違って見えたかも」と思い、一人、力なく笑った。


4.

 家で夕食をとってから僕は釣り道具を持って、自転車でタカミツの家へ向かった。


 タカミツの家は旅館と庭続きになっていて低い垣根を設けてあり、一応は分断される形になっている。が、垣根といっても本当に低い生垣で僕らはしょっちゅう庭から旅館の厨房へ入り込み、ビールをちょろまかしたりしていた。


 その夜もタカミツは厨房からお酒を盗んできており、部屋にはすでに缶ビールが用意されていた。


 しばらく二人でだらだら喋りながらビールを飲み、テレビを見たりしていた。その間もタカミツのスマートフォンには何度も着信が入り、メールやラインが受信されていた。


 タカミツは電話の相手が誰かを見てから、それを無視したり、出たりする。どれも女の子からなのは、聞かなくても分かる。


 僕はスナック菓子をぽりぽりやりながら、電話に出るものの「今、ツレと遊んでるから、また今度な」と軽くあしらうタカミツに、そんな風にするなら電話なんて出なくてもいいんじゃないかと思った。


「冷たいんだな」

「誰が?」

「お前が」

「冷たかねえよ。普通だろ。いちいちかまってらんねえよ。女の言うこと全部聞いてたら、身が持たん。だいたい、キリがない。なんでいちいち何もかもを報告しなくちゃ女って気がすまないんだろうな。そんでちょっと連絡しないぐらいで冷たいだの、浮気してるだのってさあ。挙句、本当に私のこと好きなのとか言い出すし。馬鹿馬鹿しい。疑うぐらいなら、初めから付き合わなきゃいいんだよ」

「疑われるようなことしてんだろ」

「してないっつーの」

「でも相手はそうは思ってないんだろ」

「相手がどう思うかなんて、そいつ次第じゃねえの? 感じ方は人それぞれだろ」


 タカミツは飲み終わったビールの缶をぐしゃりと握りつぶすとゴミ箱に放り投げた。そのぞんざいな仕草でタカミツがどの女の子のこともたいして好きじゃないんだということが見てとれた。


 思えばタカミツが女の子に執着する場面など見たこともない。ひらたく言えば、恋しているところを僕は知らない。好きだという気持ちがまるでないわけでもないんだろうけれど、熱狂からはほど遠い。体を結ぶこともどこかマニュアルをなぞるような、まるでそうしなければならないとでもいうように当然の如く進めるだけで、いつだって冷静だ。


 つまるところ、僕らはまだ恋というものを経験していないのだ。それは心の自由を示すようで、そのくせどうしようもない虚無感をもたらす。未完成と呼ぶにふさわしい状態だった。


「そろそろ行こうか」


 タカミツは立ち上がって出かける支度を始めた。僕も頷いて立ち上がった。


 タカミツの家から夜釣りができる岸壁までは歩いて十分ほどで、岩場の向こうには小さな浜があり小船が何艘か引き上げられている。灯りはほとんどなくて、波の音ばかりが大きく聞こえる。


 僕らは用意してきた懐中電灯で注意深く辺りを照らし、岸壁に腰掛けて真っ黒な海へ釣竿をしならせた。音もなく針が落ち、しばし無言で当たりがくるのを待った。


 月灯りが気味悪いほど明るく、岸壁に打ちつける波が白く泡立っているのが見える。しばらくたってから軽い引きがあり、だましながら糸を手繰ると小さな魚がかかっていた。


 その後タカミツの針にも当たりがあり、竿を引いたが餌を盗られただけで魚には逃げられていた。


「あーあ、食い逃げ」

「お前が普段そういうことしてるから」

「うるせえ」


 新しく餌を付けて再び水面へと放り投げる。


「そういえばさ」

「うん」

「昨日から女が一人で泊まりに来てんだよ」

「へえ?」

「まあ、たまにそういう客いるんだけどさあ」

「うん」

「その客、なんかおかしいんだよな」

「なにが」

「女の一人旅っていってもさ、普通は一泊かせいぜい二泊だろ? なのに、その客とりあえず十日か二週間ぐらいっていうんだよ」

「二週間? 長いなあ」

「だろ? しかも、さらに延泊するかもって言うんだよ。あやしくね?」

「確かに。その客、何歳ぐらい?」

「若くみえるけど、けっこういってるんじゃないかなあ」

「男と落合う約束とかじゃねえの?」

「二週間も? 仕事はどうすんだよー」

「じゃあ、あれだ。殺人犯かなんかでさ、逃げてんだよ」

「三上、それテレビ見すぎ」

「じゃあ、タカはなんだと思うんだよ」

「知らねえよ」

「考えろよ、人に話し振っといてそりゃねえだろ」

「あ、三上、ひいてる」


 言われなくても手の中の竿に大きな当たりがあった。僕は竿をしっかり握って、ぐんぐんくる手ごたえをリールを巻いたり緩めたりしながら引き上げようとした。


「おおー、でかいぞ!」


 タカミツが網を持って水面へ差し出した。その時ぱしゃっと魚が海面で跳ねる様に姿を見せた。水の中で暴れるように、のたうつように抵抗する魚をなんとか引き上げようと僕は必死になり、タカミツも、

「あげろ、あげろ!」

 と真剣に網を突き出して叫んだ。不審な女の滞在客のことなどもうすっかり忘れていた。


 月の光りが魚のぬめった背中をきらりと光らせた瞬間、僕は魚を釣り上げ、タカミツが素早く網でフォローしてくれた。


「やった!」


 時刻はすでに深夜近かったがそれからも二人で釣りに没頭し、バケツに入れた魚が二家族のおかずぐらいにはなるだろうというところまで頑張ったところで切り上げることにした。


 成果は上々だった。僕らは満足して、一服してから道具をしまって来た道をまた歩いて戻ろうとした。


 すると、不意にタカミツが僕の肩を突いて、

「おい、見ろよ」

 と、にやにや笑いながら浜の方を指差した。


「なに?」

「今、カップルが浜に入って行っただろ」

「うん?」

「ちょっと見に行かね?」


 タカミツは依然として笑いながら僕を促し、浜へ向かってさっさと歩き出した。僕は仕方なくバケツを手に後を追った。


 浜まで来ると波の音が岸壁にいる時よりも大きく聞こえた。タカミツはそこまで来ると急に声をひそめ囁いた。


「こんな時間にこんな浜でやることは一つ」

「は?」

「しーっ」


 まだわけの分からないでいる僕にタカミツは人差し指を立てて、静かにするように示した。そして足音を立てないようにそっと浜に等間隔で並ぶ小船に近づき、その舳先に身を寄せてうずくまった。


 仕方なく僕もそれに倣ってバケツを傍らに置くと、両膝を砂についた。


「見ろよ」


 タカミツが喉の奥でくくくといかにもおかしそうな忍び笑いを漏らし、隣りに並んだ船陰を覗くので僕もタカミツにかぶさるようにそっと向こう側を覗いてみた。


 覗いた瞬間、咄嗟に声を上げそうになり慌てて口を押えた。


 浜へ入って行った先ほどのカップルが月明かりと微かな外灯と、遠くの灯台の光りを頼りに砂浜に横たわって熱烈な性的行為に耽ろうとしているところで、タカミツは僕を見上げてまたにやりと笑った。


 僕は感心というか、その思いつきに半ば呆れつつ、それでも青少年らしく悪戯心もあり、笑い出したいのを堪えながら見ず知らずの人のセックスへの助走を覗き見始めた。


 女の白い乳房や砂にまみれる髪にはどんなAVよりもリアリティがあると思った。くだらないドラマ仕立の演出よりも、嘘がない分だけそこには純粋な欲望がある。


 たぶん、セックスって本当はこういうものなんだと思った。耐え難い衝動と、当事者同士にしか分からない感覚の連続。世界のすべてを自分達から切り離してしまうような盲目的な瞬間。波の音がこんなにうるさいのに、恐らく彼らの耳には聞こえていないだろう。


「ナマかよ。チャレンジャーだな」


 タカミツが顔を向こうへ向けたまま、小声で感嘆したように言った。


「てか、ここでゴムつけたら興醒めだけどな」


 僕らは自分達の言ってることと、この馬鹿げて犯罪じみた行為がおかしくてたまらなくてすっかりテンションがあがり、肩がぶるぶる震えるぐらい声を押し殺して笑った。


 彼らに周囲が何も見えないのと同様に、僕らも覗きに熱中するあまり辺りのことなど何も見えていなかった。


「つーか、青姦するなら、ナマで中出しだよな」

「いや、それ、やりすぎ」


 その次の瞬間、僕らの背後で突然クリアな女の声が割り込んできた。


「情熱的ねえ」

「うわあ!!」


 びっくりした僕とタカミツは思わず大声で叫んで飛び上がった。


 飛び上がってすぐにしまったと思った。船陰のカップルのうち、覗かれていたことに気づいた女が闇を引き裂く悲鳴をあげた。


「やばっ……」


 タカミツは釣竿を掴むと砂を蹴り上げ、身を翻し叫んだ。


「逃げろ!」


 僕も慌ててバケツを掴もうとしたが、なにぶん咄嗟のことだったので中身を砂の上にぶちまけてしまった。


 しかし、そんなものにかまう余裕はない。僕とタカミツは脱兎の如く砂浜を駆け出した。そして駆け出す瞬間、僕はなぜか背後にいた女にも叫んでいた。


「早く!」


 先に走り出したタカミツが堪えきれずにげらげら笑っているのが聞こえ、僕も空のバケツを振り回しながらつられて大笑いして浜を飛び出した。


 裸の二人が追いかけてくるはずもないけれど暗い道を振り返りもせずひた走り、国道まで出ると僕らはようやく足を止めて、苦しい息の下まだ止まらない笑いにますます呼吸を荒げ、崩れるように防波堤に背中を預けた。


 タカミツは夜空を仰ぎ、喘ぎながら、

「あー、焦ったー」

 と、笑った。


「魚がパーだよ」


 僕も笑って返した。そして、初めて、一緒に走ってきてしまった女を省みた。


 国道の外灯に照らされた女の人は膝に手をつき、

「なにも叫ばなくても……いいとこだったのに」

 と、喘ぎながら顔を上げた。


 髪は長く、顔立ちはいやにくっきりしていて一度笑えば表情は花が咲いたように鮮やかで、僕はその屈託のない様子になぜか圧倒された。とても大人の女の人には見えなかった。


 こういう場合の対処はタカミツにまかせようと思い、僕は黙っていた。


「いつから見てたんすか」

「いつって……ほんのちょっとよ。あんた達ぜんぜん気付かないんだもの」

「マジびびったー、なあ、三上」

「うん……」


 女の人はジーンズの尻ポケットから煙草を取り出すと、武骨なジッポをがちんと鳴らして火をつけた。


「いつもあんなとこで覗きやってんの?」

「まさか。たまたまっすよ」

「ふうん」

「……あれ……お姉さん、もしかして……」

「なに?」


 潮風にのって煙草の煙が流れていく。ぽってりした厚い唇に咥えられた煙草を見ると、噛み締めるようにして吸いつけていて今にも食いちぎってしまうのではないかと心配になるほどだった。


「潮美旅館に泊まってない?」

「なんで知ってるの」

「あ、やっぱり」


 潮美旅館というのはタカミツのうちの旅館のことだ。僕とタカミツは視線を交わした。それでは、この人が……。


「そこ、俺んちなんすよ」

「本当? なに、あんた、旅館のボンなの? じゃあ、あの美人女将はあんたのお母さん?」

「まあね」

「へーえ、旅館のボンが覗きかあ」

「ちょ、ちょっとおかんにチクるとかナシっすよ。マジで」


 この人が滞在二週間の不審な女客……。長い睫毛と、暗がりでも冴えた光りを放つ瞳の持ち主。


 僕はタカミツを軽く促し、タカミツも無言で頷いて歩き始めた。そして、当然女の人も一緒に潮美旅館への道を歩き出し、二本目の煙草に火を点けた。


 これが僕と、青姦を情熱的と評する桐島真澄の最初の出会いだった。


5.

 月曜の朝のことだった。僕がいつも通り自転車で学校へ行こうとすると、携帯電話がけたたましく鳴った。タカミツからだった。


 朝から電話をかけてくる時は「今日、サボるからうまいこと言っといて」というのがほとんどで、どうせ今日もそんなことだろうと思った。


「あ、三上? もう家出た?」

「今出るとこ」

「あのさ、頼みがあるんだけど」

「サボり?」

「じゃなくてー、学校行く前に俺んち寄って制服取ってきてくんない?」

「えー? なんだよ、それ。タカ、今どこにいんの? 家に帰ってないのか?」

「ちょっとワケありでさあ。後で話すから」

「制服をどこへ持って行けばいいわけ?」


 タカミツはせかせかとファストフードの店の名前を言うと、一方的に電話を切ってしまった。


 まったく、どこで遊んでたんだか……。僕はしぶしぶ自転車をタカミツの家に走らせた。太陽はすでに焼け付く陽射しを振りまいていて、今日も暑くなりそうだった。


 僕は潮美旅館の前に自転車を置いて、飛び石を置いた庭を抜け、低い生垣を飛び越えると窓を叩いた。


 居間には家政婦のおばさんが掃除に来ていて、僕に気付くとすぐに縁側に面したガラス戸を開けながら、

「まーた夜遊びしてたんでしょ?」

 と、咎めるような目で睨んだ。


「僕じゃなくて、タカミツだよ」


 僕は答えながら、靴を脱いで部屋へ上った。


 さっさと二階のタカミツの部屋へ行き、壁にかけてある制服を掴むとついでに机の側に投げ出してあった鞄も取り上げ、階段を駆け下りて再び庭から飛び出した。


「夜遊びばっかりするなって言っときなさいよ!」


 家政婦のおばさんが背後で叫んでいた。


 僕はタカミツのズボンを振り回しながら再び生垣を飛び越えて、旅館の庭を突っ切ろうとした。


 静かな朝の庭に僕が蹴散らす玉砂利の小気味良い音が響く。ハナミズキに蝉がいるのか、じりじりと鳴きだした。かと思うと、蝉にまじって頭上から突然名前が呼ばれた。


「三上!」


 僕はぱっと立ち止まって声の方を仰いだ。旅館の二階の窓から、あの女が顔を出していた。


「三上、おはよー」


 女は旅館の紺色の浴衣を着て、窓から身を乗り出してひらひらと手を振っていた。


「……お、おはようございまーす……」


 僕はひょこっと首を動かして挨拶を返すと、そのまま逃げるように庭を走り出した。もう女の顔を振り向くことはしなかった。


 びっくりした。というよりも、どっきりしたというのが正しくて、朝の光りの中に浮かび上がる清々しい顔が、一昨日見た時よりもずっと綺麗で驚いていた。夜と朝では女の人ってこんなに違うのか、と。まるで別人みたいだとさえ思った。夜に見た時はもっと険しい、近寄り難い印象だったのに、


「今から学校? いってらっしゃーい」


 なんて、背中に声をかける朝の顔はよく動く瞳をしていた。好奇心に鼻先をうごめかせる犬みたいにも見えた。


 僕は自転車にまたがると、タカミツの待つ店へと大急ぎでペダルを漕ぎ出した。あの女が僕の名前を覚えていたことにも胸が苦しくなるような奇妙な緊張を覚えた。


 噴き出る汗を拭いながら、店へ入るとタカミツがガラ空きの店内でコーヒーを飲んでいた。僕を見るとすぐに片手で拝むような格好で、


「三上様! 恩に着る!!」


 と、制服をさっとひったくって急いでトイレに駆け込んだ。


「早くしろよ! 遅刻する!」


 僕はタカミツの背中に怒鳴りながら、しかし、タカミツのコーヒーを啜っていた憔悴したような顔つきが内心気になっていた。夜遊びに疲れたというよりも、もっと心底くたびれ果てたような、精魂使い果たしたような顔だった。


 僕はテーブルに残った紙コップの薄っぺらな味のするコーヒーを一口啜ると、腕にはめた時計を見た。


「悪い、悪い。行こうぜ」


 トイレから制服に着替えたタカミツが出てくると、僕らは自転車に二人乗りして大急ぎで学校へ向かった。


「そんな急がなくてもまだ間に合うって」


 タカミツが荷台に座ってそう言ったけれど、僕は全力で自転車を走らせた。そうしなければ、あの女の顔が、声が頭にこびりついて離れなくなりそうで怖くてたまらなかった。なにが怖いのかは分からなかったけれど、自分の中に足跡を残すような女の印象に脅威を感じて、いてもたってもいられないような気分だった。


 その日の昼休み、タカミツは僕に食堂で定食を奢ってくれた。よほど疲れていたのか授業中居眠りし通しだったタカミツも、ぼんやりしながら箸を動かしていた。


「で、結局なにやってたんだよ」


 僕は皿の上のコロッケにソースをかけながら尋ねた。


「日曜に市内まで行ってたんだけどさ、ちょっと色々あって、最終逃したから帰ってこれなくなって」


 タカミツは豆腐の味噌汁を啜りながら、ため息をついた。


「なにしに行ってたわけ? 女?」

「んー」

「タカ、ちょっと遊びすぎじゃねえの?」

「なんだよ、それ」


 僕は箸先をタカミツに向けながら言った。


「あんまり色んな女に手ぇ出してると、前みたいにちんこの先が痛いとか言い出す……」

「メシ食ってる時にやめろよ」


 タカミツは僕をさえぎって、箸を払いのけた。食堂は混みあっていて闇雲に騒がしく、若さのエネルギーが無駄に燃焼しているようだった。


「だいたいあれは病気じゃなかっただろ」

「そうだよ、単なるヤリすぎだったんだろ。つか、ちんこの先が内出血するほどヤるって、アリか?」

「馬鹿、お前、締め付けが超キツい時もあんだよ。童貞には分かんないだろうけどもっ。あー、それより、女で思い出した」

「なに」

「この前の、ほら、一人旅の女」


 一瞬どきりとした。今朝の女の顔が浮かび上がって、消える。タカミツは備え付けの薬缶からコップにお茶を注ぎ、定食の四角い盆を脇に押しのけた。


「あの女、小説家なんだって」

「はあ?! 自称じゃなくて?」

「さあ? 本人の話だからどうなんだろうな」

「で、小説家が二週間もなにしに来たんだ?」

「さあ? 取材?」

「こんな田舎でなにを取材するってんだよ」

「俺が知るかよ、そんなこと」


 期末試験を控えてなんとなく気忙しい気配が誰の上にも漂っている。僕もそろそろ真面目に勉強しないとヤバイのだけれど、なぜかそんな気分になれずにいた。


 それは取り残されたような気分になると同時に、自分を取り巻く時間軸だけが歪んで、時間の流れ方がひどくスローモーションになってしまったような感覚だった。


 やる気がないわけではないのだけれど、教室のざわめきも試験の日程も、ノートのコピーもレポートも遠い世界の出来事のようで右の耳から入っては、左の耳へと突き抜けていく。


 そんな風に何一つ心にかからないのは、やはりどうしたって秋吉のことが関係しているとしか言いようがなかった。


 皮肉なことだと思った。たった一ヶ月といはいえ付き合っている間、こんなに彼女が心を乱したことはなかったのに、あんな形で終わったことが付き合っていた時よりも秋吉の存在を重くしている。僕を好きだと言ったのは嘘だったのか、それとも元々たいして好きでもなかったのか。分らない。


「三上、今日なんか予定あんの?」

「今日は球技大会の実行委員会」

「あれ? 三上が委員だっけ?」

「なに言ってんだよ、タカが推薦したんだろ」


 僕がむっと口を尖らせると、予鈴が鳴った。


 球技大会というのは期末試験が終わってから行われる行事で、本当なら終業式までの数日試験休みになるところを、生徒が浮かれてろくでもないことをしでかすのを防ぐ為に強制参加で登校させる「消化」行事だった。


 僕はタカミツを始めとするクラスの連中の悪ふざけのおかげで、誰もやりたがらない面倒な役割を押し付けられていた。


 実行委員といっても単なる雑用係りで、バスケと野球とバレーボールのトーナメントを割り振り、各学年の優勝チームが決勝を争うまで備品を用意したり、景品を準備したりと本当にいいことなんて何一つない面倒な仕事だった。


 放課後、僕は委員会に出るため生徒会室へ出向き、他のクラスのヤツなんかと喋りながら委員会が始まるのを待った。試験前で部活も自粛体勢に入っており、放課後の校内は静かで、一日のくたびれた空気を漂わせていた。


「球技大会なんてめんどくさいよなあ」

「どうせサボる奴のが多いんだから、いっそ休みにしてくれたらいいのに」

「だよなー」

「あ、三上。あれ、元カノじゃねえの?」

「えっ?」


 同じ学年の男連中が半分は好奇による笑いを浮かべ、半分は同情的な目で僕を見ていた。入り口から秋吉が入ってくるところだった。


 彼女も委員だったのか……。僕は秋吉の姿を目で追ってからすぐに視線をそらした。当然、秋吉も僕に目をとめたけれど、やはり同じように視線をそらして自分の友達の近くに座って談笑しはじめた。


 こんな狭い世界で顔を合わせない方が難しいのだ。高校生の恋愛なんて所詮そんなものだ。群れをなす愚鈍な羊。恋愛への憧れが牧羊犬となって幼い僕らを囲い込む。


 あれ以来、秋吉とは口をきいていないけれど、彼女の評判が悪くなっているのは知っていた。タカミツじゃないけれど、彼女は尻軽なアバズレのように囁かれ、例の大学生との噂もどこまで本当なのか知らないがひっきりなしに囁かれ続けていた。しかし、秋吉は持ち前の気の強さでそれを受け流しているように見えた。それが一層噂を加熱させていた。


 委員会が終わると僕は逃げるように足早に教室を出た。


 海沿いの道を自転車で走りながら、僕はたった一ヶ月の恋愛なんて、恋愛じゃないと自分に言いきかせていた。


6.

 家に帰った僕は犬のジロを連れて散歩へ出た。ジロの頭を撫でながら、首輪に引き綱をつけた。それからジロを連れてタカミツを誘いに潮美旅館へ向かった。


 勝手知ったる他人の家。僕は庭に面した一階のガラス戸を開け、縁側に腰を下ろして大きな声でタカミツを呼んだ。タカミツはすぐに二階から下りてくると、僕よりも先にジロの名前を呼んだ。ジロも慣れ親しんだ様子で尻尾を振っていた。


 それから僕らは旅館の庭を通り抜けようとした。すると旅館の庭に小説家がいて、僕らを見ると、

「こんにちは」

 と、にっこり笑った。


「こんちはー」


 タカミツが反射的に言葉を返した。小説家は庭の小さな池の傍に立っていて、鯉に麩を投げているところだった。


「あら、犬飼ってるの?」


 小説家はしゃがみこんでジロの頭をわさわさと撫でながら、僕を見上げた。


「犬連れで覗きに行くつもり?」

「行きませんよ!」


 ジロにお手をさせながら小説家は笑っていたけれど、なんだか侮れないような気がして僕は無言で彼女のつむじを見下ろしていた。


「あんた達、仲良いのね」

「まあ、付き合い長いんで」


 小説家は立ち上がると、ジーンズの尻ポケットからあの夜と同じように煙草を取り出しジッポで火を点けた。


「美人女将が愚痴ってたよ。勉強もしないで遊んでばっかりだって」

「そんなことないっすよー」


 タカミツが手を振りながら否定した。


「それより一番困るのは、女遊びだってさ」

「げっ。そういうこと言うか、フツー」


 美人女将と称されるタカミツの母親は本当に綺麗な顔立ちの人で、近年は少々太ったけれどそれが年増の魅力的なグラマラスさを与えていた。放任主義のようでいて、やはり息子の女癖は気になるらしい。無理もない。しかし、サービス業の常なのか、元来朗らかでお喋りな人なので、自分の息子の高校生らしからぬ放蕩を面白おかしく喋っているのも想像に難くなかった。


「そんなに乱れてんの?」

「乱れてないって!」

「そう? ねえ、三上、本当はどうなの?」

「乱れてます」

「正直ね!」

「三上、お前、それ裏切り?」


 小説家は楽しそうに声をあげた。笑うと子供みたいな顔になるんだなと思った。


 今度はタカミツが尋ねる番だった。


「小説家だそうっすね」

「うん」

「なんて名前?」

「桐島真澄」

「三上、知ってる?」


 僕は首を振った。すると彼女は途端に声をあげて僕らを非難した。


「なんで知らないのよ! 桐島真澄っていったら天才作家で有名じゃない! ベストセラー作家で、映画化もされてる!」

「だって本なんか読まねーもん。なあ? つーか、天才って自分で言うか? 普通」


 タカミツが僕に同意を求めた。僕は確かに本なんて読まないけれど、それは自分が馬鹿だと公言するみたいで曖昧に頷いた。


「まったく、最近のガキは……。本ぐらい読みなさいよ。頭使わないと馬鹿になるだけよ」

「えー、めんどくさい」

「でも漫画とか映画は見るんでしょ? それはめんどくさくないわけ?」

「だって漫画なんて絵ぇ見りゃ分かるじゃん」

「漫画も本も、使う時間も労力も同じよ。あのね、本読まないと想像力を鍛えられないよ。想像力のない男にいい恋愛も、セックスもできないわよ」

「つーか、本、売れてるんすか?」

「だから、天才作家で有名だって言ってるじゃないのよ」


 憤慨したように力説していた天才作家は、勢いよく煙草の煙を吐き出した。そして腕組みをし、


「考えることをしないと、駄目よ。ま・いっかじゃなくて。別にーとかじゃなくて。何事も、考えないと駄目」

 と、真剣な眼差しで言った。


 笑った顔は子供みたいでも、こうして真面目に熱弁を振るう瞳はうんと大人っぽく、聡明で落ち着いた光りを宿していた。


 二人のやりとりを黙って聞いていた僕は、

「どんな小説書いてるんですか」

 と聞いてみた。


「恋愛小説」


 桐島真澄。恋愛小説。僕は口の中で復唱した。桐島真澄。恋愛小説。


 僕は思わず恋愛ってなんですかと尋ねたい衝動に駆られたけれど、言葉をごくりと飲み込んで、散歩へ行こうとタカミツを促した。


 考えなければ駄目だという言葉が、その当たり前の言葉がやけにまっすぐに、しかも深く胸に突き刺さっていた。


 ジロを引き連れて出て行く僕らを、天才作家は手を振って送り出してくれた。タカミツが小声で、

「変な女……」

 と呟いた。それには僕も同意して、頷いて返した。


7.

 期末試験は一週間あり、期間中は昼迄で学校が終わる。それは勿論「勉強しろよ」ってことなんだけれど、僕らにしてみればいつもより放課後が長くなりましたってなもんで、大抵の生徒が寄り道しながらだらだらと帰って行った。


 僕もタカミツもご多分に漏れず学校の近くの定食屋やお好み焼き屋で昼ごはんを食べ、タカミツに至っては大胆不敵にも女の子と遊びに出かけたりする始末だった。


 遊びに行くといっても、短い逢瀬。タカミツがどこで何をしているかは考えなくても分かる。どうせ夜になるとうちへ来て、二人でまるで今思い出したかのように試験対策を始めることになるのだ。そう考えると僕はうちへ帰って一人で勉強するのが実に馬鹿馬鹿しくて、タカミツと別れた後は映画を観たりして時間を潰すことにした。


 が、ふと思い出した僕は本屋へ立ち寄った。恋愛小説、桐島真澄。


 天才作家は当初の予想と違って誰かと落合う様子もなければ、警察が追ってくることもなく、本当にぶらぶらしているだけみたいでその姿は人に物を考えろといういう以前に本人が何も考えていないみたいで、くらげみたいに、夏のちぎれ雲みたいに自由に無目的に漂っていた。


 タカミツが母親や従業員経由で聞いた話しによると、天才作家は年寄りの湯治客と同じで、のんびり風呂に浸かったり近所を散歩したり、一応名所旧跡とされる神社仏閣を訪ねたりしているだけらしかった。部屋にはノートパソコンと国語辞典が置いてあり、それだけが彼女の作家の証明みたいなものだった。


 本屋は、田舎のことなので大した品揃えはなく、雑誌だけが充実していて立ち読み専門みたいなものだった。それでも店の前には自転車が何台も止まっていて、かろうじて本屋を繁盛させているようだった。


 同じ学校の生徒がたむろっていて、入り口を半分塞いでいたので僕は内心むっとしながら彼らをよけて中へ入ろうとした。


 すると、本屋に入ってすぐのレジの前に天才作家本人が立っていて、僕はぎょっとして思わず後退りしてしまった。


「あら、三上」


 天才作家は本屋の袋を手にして、大きな目をぱちくりさせながら僕の顔を見つめた。それから、にやにや笑いながら、

「本なんか読まないんじゃなかったの?」

 と言った。


「読まないよ……。だいたい桐島真澄なんて聞いたこともないよ」

「ああ、ねえ。ほんと、信じらんないよねえ。でも、しょうがないよ。ここ、私の本ないもん」


 天才作家はレジの若い兄ちゃんを嫌味たっぷりに横目で睨みながら、

「あの桐島真澄の本を置いてないなんて、本屋として致命的だよ!」

 と、わざとらしく叫んだ。


 僕は慌てて天才作家の背中を押してそそくさと本屋から出た。入り口にはまだうちの学校の連中がいて、僕と天才作家を胡散臭そうに横目で見ていた。


「なによ、本当のことでしょう?」


 天才作家はおかしそうにくすくす笑っていた。


「わざわざ本人が言わなくても……」

「私ね、本屋に行ったら必ず自分の本をベストセラーのところに並べたり、平積みの一番いいところに移し変えたりすることにしてるの」

「……売れてないから?」

「売れてるわよ! 失礼ねえ」


 天才作家はビルケンシュトックを履いた足で僕に蹴りをいれる真似をした。足の爪は真っ赤に塗られていて、そこだけが彼女の「装い」だった。


「まあ、小さい本屋って文芸書あんまり置いてないもんね。特にハードカバーは」

「高いから」

「え?」

「そういう本って高いでしょ? だから。売れもしない本置いてもしょうがないじゃん」

「……貴重な意見ね。出版社に言っておくわ」


 天才作家は重々しく頷いた。


「三上、もう学校終わったの? 早くない?」

「試験中なんで」

「ふうん。で、旅館のボンは?」

「……女」

「さすが乱れてるだけあるわね」


 結局僕は本屋で何も買わないどころか、ヤンマガを立ち読みする間もなく、そのまま自然な調子で天才作家と並んで歩き始めた。


 彼女の顔は僕より頭一つ低いところにあって、まっすぐに前を向いて大股で歩みを進める。それは秋吉とはまるで違っていて、秋吉は並んで歩くと懸命にこちらを見上げたけれど、天才作家は僕の顔をわざわざ見上げるようなことはせず、潮風に髪を巻き上げられながら前進するのみだった。


「三上はカノジョいないの?」

「はあ、この前別れたばっかりだから」

「あらら」

「二股かけられて、それで」

「……へえ。それで?」

「それでって……」


 僕はどうして聞かれもしないのにそんなことを言ってしまったのか、自分でも驚いていた。よく知りもしない大人の女にわざわざ自分が間抜けだということを知らせる必要なんてないのに。でも、なぜか、口をついて出た。腐敗した底なし沼からぶくんと瘴気が弾けるように、心の奥底から静かに沸きあがるようだった。


「それだけです。彼女がなんで僕を好きになったのかも分からないし」


 天才作家は煙草を取り出して、火を点ける為に立ち止まった。


「ふむ……。三上を好きになったけど、付き合ってみたら思ったのと違ってたのか、それとも浮気相手が三上と比べ物にならないほどいい男だったのか、はたまた単に三上に飽きたのか……」


 思案げに目を伏せる。睫毛が長い。腕組みしてまるで推理小説の探偵よろしく天才作家は難しい顔をしていた。


「理由、彼女に聞いてみた?」

「いや……」

「えー? なんで聞かないの? そういうのって気にならない? ってゆーか、納得できないじゃない」

「……はあ、まあ……」

「あ、なんか分かったかも」

「なんですか」


 天才作家は再び海沿いの道を歩き始めた。僕はそれを追うように彼女に並んだ。


「三上、その子のこと好きじゃなかったんでしょ」

「えっ。……嫌いじゃなかったよ、別に」

「嫌いじゃないのと、好きなのは違う。最近の若い子ってノリで付き合ったりするもんね。二股はどうかと思うけど、二股かけられて理由もきかずに納得できるなんて、そっちも問題だと思うよ。もうちょっと頭使って考えないとさあ」

「桐島さん」

「真澄でいいよ」

「真澄さん、そういうのってなんで分かるんですか」


 真澄さんは初めて僕を見上げると、一瞬黙って、盛大に歯を見せて笑った。


「天才だからよ!」


 おどけた笑い声が国道を走り抜けるトラックのエンジン音にも負けずに僕の鼓膜を揺らした。彼女は「じゃあね」と本屋の袋を携えたままちらほらと営業を始めている海の家の方へ下りて行くと、最後に、


「国語なら試験勉強みてあげるよ」


 と振り返り笑った。


 僕は急に酸っぱいものを食べた時みたいに頬が窪むを感じるのと同時に、カキ氷を一気食いしたみたいな痛みを感じてその場にうずくまりそうになった。


8.

 試験の間、夜になるとタカミツが着替えとノートを持って毎晩うちへやって来た。一夜漬けばかりの僕らに母親は小言を言ったけれど、無視して部屋で数学の問題集を開いた。


 僕はなぜか本屋で彼女に会ったことを、その会話の内容をタカミツに言う気が起きなくてひたすら方程式と戦うふりをしていた。


 実際、聞かれても上手く答える自信がなかった。あの風変わりな、背筋の伸びた女をなんと表現したらいいのだろう。どんな言葉も口にする端から事実から遠のいていくような気がする。


 それにこの奇妙な気持ち。近くにいたいような、できるだけ離れていたいような気持ち。怖いもの見たさみたいな曖昧さ。そういったものを全部ひっくるめても言葉を当て嵌めることはできないと思った。


 タカミツは折り畳み式の丸テーブルの上で同じように問題を解いていたけれど、不意に静寂を破って呟いた。


「三上、俺さあ、明日終わったら市内に行くけど……」

「余裕だなあ。この前も市内行ってただろ。市内に新しい彼女でもいんの?」

「そういうんじゃないんだけど。夜はこっちに来るから、泊めてくれよ」

「いいけど……」


 この時僕は「おや?」と思った。タカミツの様子がいつもと違っているのに気付いたのだ。声には抑揚がなく、僕が問題集から顔をあげて見ても無言でペンを動かしている。奥歯に物のはさまったような言い方で、核心には触れないようにしているのがありありと見て取れた。


 しかし僕にはそれを追求することはできなかった。僕は「わかった」とだけ答えて、


「今日、本屋に行ったんだけどさあ」

「あー、マジでー?」

「桐島真澄の本、なかったよ」

「ググった?」

「いや……」

「ふーん」


 と、問題を解きながらさらりと言った。タカミツも問題をやりながら、


「やっぱ自称なんじゃねえの? つーか、嘘なんじゃねえの? だいたい、ほんと、天才作家って自分で言うか? フツー」

 と、言った。


 僕は「だよなー」と相槌を打ったけれど、内心ではそんなことはどうでもいいと思っていた。彼女に会ったこと、彼女と話したことが胸の中でちりちりと燃えているような気がした。


ネットで検索すれば確かに真実は知れる。でも、知りたいような知りたくないような。それもまた同じく胸の中でちりちり燃える感情だった。


9.

 翌日は朝からよく晴れて、寝不足の目に黄色い光りが痛いほどだった。


 その日のテストが終わると、タカミツは家に戻りジーンズとTシャツに着替えて、制服と試験最終日の英語のノートを僕に預けて予定通り市内へと出かけていった。


 何かあるなと薄々感づいていた。が、問い詰めることはしなかった。むしろ、タカミツがそれをさせなかった。いつもみたいにおどけた軽口を叩くことなく、思いつめた目で、うっかり触れれば静電気火花が散りそうなほどだった。


 タカミツを送り出すと僕はうちへ帰ろうとした。すると、またしても頭上から僕を呼び止める声がした。


「三上―」


 真澄さんが二階から手を振っていた。この女は本当に、いったい一日なにをしているんだろうか。見上げる角度に太陽があって、眩しくて目を細めた。


「あがっておいでよ」


 真澄さんはそう言って手招きをした。咄嗟に僕は周囲を見回した。陽射しのせいじゃなく、額にじっとりと汗が滲む。


「なにしてんの? 昼ごはん、まだでしょ? 一緒に食べない?」


 よくよく見ると彼女は長い髪をくるくると器用に頭のてっぺんでまとめ、旅館の浴衣を着ていた。


 僕は覚悟を決めて旅館の勝手口から入り、二階の真澄さんの窓にあたる部屋を探し、「渚」と書かれた部屋の扉を二度叩いた。


 数秒の沈黙があった。永遠のように長い沈黙が。僕は心拍数があがりすぎてどうにかなってしまうんじゃないかと俄かに不安を覚えた。


 而して、扉が開くと真澄さんがにこにこ笑って僕を招き入れてくれた。


 客室は八畳ほどの広さで床の間にはリンドウが活けてあり、違い棚には小さな青磁の壷が置いてあった。掛け軸の文字は読めなかった。部屋の真ん中に据えられた大きな机にはノートパソコンが置かれ、メモやノートが散乱していた。


「今、三上のごはんも頼んだとこだから」


 そう言うと座布団をすすめてくれた。


「今日の試験はどうだった?」

「まあ、ぼちぼち」

「テストっていつまで?」

「明日」

「あ、そうなんだ。それじゃあ、もう夏休み?」

「その前に試験休み。で、球技大会」

「球技大会って何にするの」

「いろいろ。バスケとかバレーとか野球とか」

「へえ。そういえば、今日は相方は?」

「タカミツなら出かけたよ」

「また女? しょうがないなあ」


 真澄さんと話しながら、正直なところ僕は来るべきではなかったかともう後悔し始めていた。


 机の上の物をがさがさと乱暴に押しのけお茶を入れてくれる真澄さんの浴衣の、細帯を結んだ腰からお尻にかけてのたっぷりした肉の盛り上がりが気になって仕方なく、さりとて目を逸らすことなどできそうにもなく、僕はこっそり自分の腿をぎゅっとつねった。


「明日で終わりなら、打ち上げしない?」

「打ち上げ?」

「球技大会の後でもいいわ。で、さ、花火しない?」

「花火?」

「こっち来てから花火がしたくってさあ。でも、さすがに花火を一人でやるっていうのもねえ」

「……いいけど」

「どうしたの? 寝不足?」


 真澄さんが怪訝そうな顔で僕を見つめている。しかし、僕はそれどころではなかった。


 一体全体どういう条件反射なんだろう。海綿体が充血して、もう、どうにもこうにも収まらない。僕はそれを気取られないように幾分猫背になって机に両肘をついた。


「や、なんでもない」

「そお?」


 首を傾げている真澄さんの白いうなじとおくれ毛が神経を刺激してやまない。僕は無神論者なのだけれど、この時ばかりは神に祈った。


 食事が部屋に運ばれてくると真澄さんは嬉しそうに冷蔵庫からビールを取り出し、手酌で飲み始めた。


 仲居さんが僕を見て驚いた顔をしていたけれど、それに対して真澄さんはあっけらかんと、

「地元高校生に直撃インタビューなんです」

 と言った。僕は気まずくてしょうがなかった。


 彼女は不思議な人で長い髪を洗いざらしにしている様や、素顔が無防備な印象を与えるくせに、言動はどこかしらクールで、なんだかこちらを怖気づかせるような感じがあった。気後れといってもいいかもしれない。


 僕は彼女との出会いが単なる偶然であることに動揺を覚えていた。青姦を一緒になって覗き見したことも、彼女が潮美旅館の客であることも偶然。本当に、単なる偶然なのだ。が、それが重なることを「運命」とか言うような、言わないような。そんなことを思った自分が恥ずかしくて、馬鹿げて少女漫画的で、僕は慌てて自分の気持ちを打ち消すように真澄さんが入れてくれたお茶を飲んだ。


 もちろん、天才作家はそんな僕の精神状態などおかまいなしに旅館自慢のお昼の松花堂弁当を食べ始めた。


「そういえば、この前の青姦はベルトルッチの映画を見てるみたいだったわ。でも、惜しむらくは焚き火がなかったことね」

「焚き火? 浜で焚き火なんかできないよ」

「なんで? 禁止? でも、焚き火のそばで抱き合うって牧歌的でよくない? そういうの、なんかであったな……あ、三島由紀夫だ。そうそう、潮騒」


 天才作家は「知ってる?」と問うように、僕を見上げた。僕は鼻先で返事をした。「知らない」ということが恥ずかしかった。彼女の前では自分の若さも馬鹿さも嫌になる。


 食べている間、彼女はひっきりなしに様々なジャンルに渡るお喋りをした。映画の話や文学の話の他にも歴史や文化人類学の話も混じり、僕が黙って聞いていると不服そうに、

「三上~、もうちょっとリアクションしなよ~」

 と唇を尖らせた。


「ふーんとか、へーとか、それしか返事してないじゃないのよ。は行だけで会話が成り立つと思ったら大間違いよ」

「は行?」

「はあとか、へーとか、ふーんとか、ほおとか。三上、さっきからそればっかりじゃない。それで事足りる場合もあるかもしれないけどさあ。せっかく差し向かいでごはん食べてるんだし、もうちょっと話を弾ませる努力とかしてもいいんじゃない?」

「……はあ」

「また、はあかよ!」


 真澄さんは呆れたように、でも、なんだか楽しそうに笑った。


「は行の男。でも、ひーひー言うのは女と寝る時だけってか?」

「酔ってます?」

「酔ってないよ!」


 美味しそうにビールを飲み干し、ますます真澄さんは笑い声を立てた。


「あの、ひとつ聞いてもいい?」

「なに」

「こんな田舎になにしに来たの? 取材?」

「あー、それ、みんなに聞かれるなあ。なんでだろ? ただ単に旅行に来たっていうんじゃ駄目なの?」

「こんななんにもないところに?」

「あら、私、ここ好きよ。海は綺麗だし、魚は美味しいし、温泉もあるし」

「……」


 気が付くと食べ終わった真澄さんは立ち上がり、窓際に置かれた籐椅子に腰を下ろすと脚をローテーブルに乗せて、うんと伸びをした。


「俺とタカミツは、てっきり男と会う為に来てるか、警察にでも追われてるのかと思ってた」

「あはははは! あんた達、想像力ないわね!」


 僕は傍らに置かれていた煙草盆から真澄さんの煙草を取り上げた。


 真澄さんは窓の外に目を向け、しばし黙っていた。僕は彼女のジッポで煙草に火を点け、ゆったりと吸いつけた。ジッポは傷だらけで銀色の輝きは白っぽく曇っていたけれど、その分だけ使い込まれた感じがよく出ていた。僕はそれを手の中に握り締めた。


「なにも考えないとか、なにもしないっていうのは大人になると逆に難しいのよ」

「え?」

「三上がなんにも考えてないのが、ちょっと羨ましいかも」

「馬鹿にしてる?」

「してないよ。今、三上や旅館のボンは何にも考えてなくても別に困らないでしょ? 何も考えないで、本能や感情のままに動けるっていうのは本当は若いうちだけの特権なんだよね。大人になったらそうはいかないもの。何も考えないで本当に自分の為だけに生きられるのは、三上ぐらいの年齢までなんだよ。だから感情も欲望も純粋で、温度が高い。恋愛も、そう。エゴイスティックで幸福な恋愛は今だけよ。大人になって何も考えないで行動したり発言したりしてたら、それこそ単なる馬鹿だもの」


 彼女の言っていることに賛同することはできなかった。僕らは確かに軽薄な若者にすぎないけれど、心底何も考えていないわけではないのだ。考えが足りないだけで、軽率であることは認めるけれど言い換えれば、それは単純に若いということなんじゃないだろうか。大人はいつもそれを忘れてしまう。自分たちのかつての未熟さを。その時なりに真剣だったということを。事実、僕は今、彼女の前で真剣だった。


「二股も、そうなんですか?」

「ん?」

「本能の赴くままに行動した結果が二股?」

「さあねえ……、そういうこともあるかもねえ。本人に聞いてみたら? 不思議なもんで、恋に落ちるのに理由はないけど、別れるにはそれだけの理由があるからねえ」

「……」

「それとも自分には全然非がないと思ってる?」

「……俺、そろそろ帰ります」

「ああ、そうね。試験中だもんね」


 真澄さんはあんなに簡単に僕を呼び寄せたのに、引き止めることはしなかった。そのことに幾分傷ついた気持ちになった自分に少し驚いた。が、そんな自分の気持ちが、世界の誰からも理解されないような孤独の頂点にあるような気がした。一人きりで抱える気持ちは重く、甘い。


「ご馳走さまでした」

「試験頑張ってね」


 彼女は戸口で僕を見送ってくれた。が、旅館を出る時、二階の窓を見上げるとそこは無慈悲にぴしゃりと閉じられていた。


10.

 翌日は期末試験最終日だった。みんなくたびれながらも、これさえ終われば夏休みという開放感で浮き足立っていて教室はざわめきで満たされていた。しかし僕はとてもそんな心境になれず、タカミツの席に何度も視線を向けていた。


 昨夜、うちへ泊まりに来ると言ったタカミツは、何度携帯電話を鳴らしても連絡がつかず、それでもどうせまた何か気まぐれでも起こしているんだろうと思い、一人で一夜漬けの試験勉強に勤しんだ。翌朝になれば制服も預かっているんだから僕のところへ来ざるをえないのだし、と思って。


 しかし朝になってもタカミツから連絡はなく、とうとうタカミツは試験を欠席した。


 どうにか答案を埋めた僕は、まだ問題と格闘する奴やすっかり諦めて居眠りしている奴らをそっと見渡した。窓から差し込む光りが暴力的なまでに眩しかった。が、それ以上に僕らの体から放出されているようなエネルギーがじわじわと空気へ溶け出していて、夏の太陽を一層熱く、眩しくしているようだった。


 試験を欠席するなんて、ありえない……。僕は心の中で「タカー、連絡ぐらいしろよ、マジでー」と唸っていた。


 試験の終わりを告げるベルが鳴り響くと、一斉に弾ける様にそれぞれのため息と嘆きと、歓声が潮騒の如く教室に打ち寄せた。夏休みのプランを話しながら、気の早い馬鹿がもう教室を飛び出していく。


「なあ、三上―、タカはなにやってんの?」

「あいつ、なんで休み?」


 クラスの連中も怪訝な顔で僕に尋ねた。


「分かんない。俺、今からタカんとこ行ってくる」


 僕は仲間に言い捨てて、教室を出た。自転車置き場から一度タカミツの携帯電話を鳴らしたけれど、やはり繋がらなかった。


 潮美旅館まで来ると例によって僕はタカミツのうちの縁側のガラス戸を開けて、怒鳴りながら部屋へあがった。


「タカ! 帰ってんのか?!」


 タカミツの部屋の扉を勢いよく開けると、異常に冷房が効いていて寒いぐらいだった。そしてタカミツはベッドで頭から布団をかぶり、巨大なとぐろを巻いていた。


 僕はほっとするや否や、連絡もよこさず試験をサボって寝ているタカミツにめらめらと怒りが湧いてきて、布団を掴むと力任せに引き剥がそうとした。


「なにやってんだよ!」


 が、タカミツは布団にしがみついていて、守りの強固な蓑虫みたいになっていた。ますます僕は腹が立ち、布団の上からタカミツをどかっと蹴った。


「連絡ぐらいしろよ! なんで携帯切ってんだよ。あったまくんなあ!」

「切ってたんじゃねーよ、電池が切れたんだよ!」


 布団の中からくぐもった声でタカミツが怒鳴り返した。


「一体、どこでなにしてたのか言ってみろ!」


 僕は再び布団を掴んだ。が、タカミツも布団を体にがっちり巻きつけて抵抗し、しばらく僕らはどたばたと攻防を繰り返した。


 子供より性質の悪いタカミツに僕は呆れ、ムカつきながら言い放った。


「ああ、そうかよ、言えないんだな。じゃあ、もういいよ」


 タカミツはだんまりを決めこみ、巨大な巻貝になったままぴくりとも動かなかった。僕は預かっていたタカミツの制服を壁に叩きつけた。


 人に心配かけて一言の詫びもないタカミツに腹が立つというより、失望していた。今までこんなことはなかったのに、一体なんだっていうんだ。


 僕は顔も見せなかったタカミツを放って家に帰ると、急激に疲れを感じ、奇しくもタカミツ同様頭から布団をかぶり、不貞腐れたまま寝入ってしまっていた。


 試験休みや追試の間も僕はタカミツと口をきかず別行動をした。


 翌日の球技大会で僕は押し付けられた実行委員の役割を淡々とこなしていった。責任感よりも虚しさが勝って、どうしても集中できず僕はぼんやりしていた。


 午後の陽射しで照り返しの強烈なグラウンドには、酔狂な保護者が野球観戦に来ていてネット裏に日傘を差したおばさん達が、僕らが汗をだらだら流して犬みたいに口をあけて喘いでいるのを眺めていた。


 まるでやる気のないダレた野球なんて何が面白いんだろう。やってる本人達だって休み時間のお遊び程度にしか思っていないのに応援されるとかえって意気消沈してしまう。僕らはベンチで足元の雑草をひきむしったり、ガムを噛んだりしながら打順を待っていた。


「タカ、昨日なにやってたんだよ」

「補習決定だなー」


 クラスの連中がタカミツに当然の疑問を投げたけれど、タカミツは笑って誤魔化すばかりでやはり誰にも理由は言わなかった。僕は彼らの話を聞くともなしに聞いていた。


 そして、ふと気が付くと秋吉がグラウンドの端を歩いてこちらへやってくるのが目に入った。僕は秋吉が実行委員だったのを思い出した。みんな好奇心を剥き出しにして、僕を横目に見ながら不自然に黙り込んだ。


 秋吉はまっすぐ歩いてくると、避けるように俯いていた僕になんのためらいもなく声をかけた。


「三上くん」


 事務的な、抑揚のない声だった。


 僕は顔をあげた。目の前の秋吉は相変わらず勝気な瞳をしていた。


「実行委員は会議室に人数分のジュース取りに来るようにって」

「ああ……」

「……どっちが勝ってるの?」


 僕はスコアボードを指差した。もう八回なのにゼロがずらずら並んでいるだけで、それがこの試合のやる気のなさを象徴しているようだった。


 秋吉が「じゃあ」と去って行くと、途端にベンチは再び噂の渦に陥った。


「やっぱ、秋吉、かわいーわ!」

「二股でもいいからお願いしたいよなあ」

「お願いすれば?」


 僕は勢いよく立ち上がって、傍らに置かれていたバットを掴んだ。一瞬みんながひるんだのが分かったけれど、僕はそのまま無言で打席に立った。


「三上、怒るなよー、冗談だろー」

「ごめんってー」


 応援ではなく情けないようなフォローの声が飛んできたけれど、それも僕にはもうどうでもよかった。


 終わったのだ。いや、秋吉との関係は始まってさえいなかったのかもしれない。少なくとも僕は秋吉に恋していなかった。今なら分かる。僕は彼女に対して何も考えていなかった。


それなのに、そうするのが当たり前のように、キスしたり、した。他にも、した。それが相手に伝わらないはずなどないのに。


最低だ。人を傷つけて、気づきもしない。馬鹿なんだ、自分は。馬鹿だと知らないぐらいに、馬鹿なんだ。


 マウンドから投げられた白球を叩き、小気味のいい金属音が響き渡ると俄かにベンチに明るい声が広がった。一塁に出ると、次の打順はタカミツだった。


 試合は僕らが出塁して先制点をとったにも関わらず、結局9回で点を返され、僕らのクラスは負けてしまった。これですべての行事が終わりだった。


 試合の後、僕は水道の蛇口の下に頭を突っ込んでざぶざぶ水を浴び、水を滴らせながら顔を上げるとタカミツが立っていた。


 タカミツはどこかしら沈んだ面持ちで僕が顔を拭き終わるのを黙って待っていた。


「……で、結局、どこでなにしてたって?」


 タオルを首にかけると、僕は校舎に向かって歩き出した。


「貴美子さんに会いに行ってた」

「誰、それ?」

「……カテキョ」

「え?!」


 びっくりして振り向くと、タカミツは今まで一度も見たことがないほど真面目な顔をしていた。


「カテキョって……中学ん時の? あの……。え? じゃあ、もしかして最近しょっちゅう出かけてたのって、それで? 会いに行ってたのか?」


 初体験の女子大生家庭教師? と言いかけたところでタカミツの顔が半笑いみたいにぐにゃりと歪んだ。それは痛みを堪えるのにも似て、悲壮な、せつない笑い顔だった。


「結婚するんだって」

「……なんで、いきなり……」

「オカンが貴美子さんの親に聞いて、さ。あんたもお祝いしなきゃだめだとか言うから」

「それで?」

「……それだけだよ」


 唖然とする僕を今度はタカミツが追い越して歩き出した。


「会って、久しぶりーって話したりしただけ。本当にそれだけでなんにもなかった。むしろ俺とのことなんて忘れたみたいになんにもなかった」

「タカ?」

「……好きだったんだ」


 タカミツが泣いているのかと思って僕は隣りには並ばず一歩後ろへ下がった。タカミツがどんな女の子にも夢中にならなかった理由が分かったような気がした。


 僕は無性に真澄さんに会いたいと思った。それだけで、息ができなくなるぐらい苦しかった。


 僕らは若さを過信して、なにも考えないで生きている。だから、いつも終わってから後悔するのだ。


 ヤリチンと称され、何人もの女の子を渡り歩いたタカミツも、男関係が派手と噂され二股をかけた秋吉も、自分の本能の赴くままに行動しているに過ぎない。そして、僕もまたその場その場で深く考えず行動を起こし、なにも学ぶことなく生きている。傷つくことを恐れて。


 僕はタカミツに並ぶと、肩に腕をまわした。


「初恋は破れるもんらしいよ」

「……ああ」


 タカミツは微かに笑ってみせた。もう夏休みは目前だった。


11.

 時刻は午前0時きっかりだった。僕は潮美旅館の庭から、灯りのついている渚の間の窓に小石を投げた。思うままに、心のままに生きることが今だけだというならば、僕はそれに従ってみようと思い、誰にも内緒でやってきた。


 彼女と出会ったことは偶然だったし、本屋で会うとか、旅館の庭を通り抜ける時に彼女が僕を見出すことも偶然だったけれど、僕は今それを必然に変えたいと思っていた。そんな気持ちになるのは初めてだった。


 夜の中、窓が開いて白っぽい明かりに浮かぶように真澄さんが顔を出した。僕は人差し指を唇の前に立てて「静かに」と示しながら、片手で花火セットの袋を振って見せた。


 真澄さんは窓を閉めると、すぐに外へ出てきた。


「三上、ナイス!」

「花火したかったんでしょ」

「うん。忘れてんのかと思った」

「忘れないよ。行こう」


 僕が促すと真澄さんは、

「旅館のボンは?」

 と尋ねた。


「誘ってないよ。二人で行こう」


 こんな大胆さが、こんな行動力が自分のどこにあったんだろう。我ながら不思議だった。でも決して不自然ではなかった。だからそうすることが当たり前のように、僕は臆することなく真澄さんの手をとった。


 僕らは手を繋いで海岸へ向かった。真澄さんは試験の出来や球技大会のことを尋ね、僕はそれにぽつぽつと答えた。風のない夜だったけれど、気温はさほど高くなく気持ちのいい晩だった。


 彼女と初めて会った浜まで来ると、僕は真澄さんに今日の出来事を話した。


 真澄さんは相槌を打ちながら、最後まで聞いていた。浜にはあの夜と同じように何艘かの船が引き上げられていて、人けはなく、波の音がゆるやかだった。


 僕は花火の袋を破ると小さなローソクを砂に立てた。真澄さんは更紗の長いスカートの裾を砂の上に広げてしゃがみこんだ。


 僕は無言で花火に火をつけた。細い棒の先で青白い炎が爆ぜ始め、白い煙が闇の中を流れていく。真澄さんが小さく歓声をあげ、自分も花火をとって火をつけた。


 真澄さんは何度も小声で、

「綺麗ね」

 と呟いた。


 花火に照らされた横顔の薄い眉の下の睫毛の長さや、くっきりした二重瞼が彼女の表情を鮮やかにしていて僕の胸を波立たせる。花火の残骸が足元にたまっていく。煌きは短く、どこか悲しい。


 僕らは最後に昔懐かしい線香花火に興じた。小さな小さな火の玉が、震えながら、耐え切れず砂の上に落ちるたびに真澄さんは「ああ」と声を漏らした。これ以上耐えることができないのは僕も同じだった。


 最後の一本となった線香花火が消えてしまうと僕は手を伸ばし、真澄さんの肩を掴んで引き寄せそのままキスをした。


 不慣れな、衝動的なキスは唇が乱暴に触れただけだったけれど、真澄さんは瞬きを二つ三つしただけで、黙って僕を見つめ返した。


 その冷静な瞳は僕を猛烈に焦らせた。何か言わなければと頭を巡らせたが、言うべきことは一つしかあるはずもなく、それをいかに伝えるかだけだった。焦りはそのまま汗となってじわりと毛穴から噴出していた。


 砂の上についた膝が微かに震え、呼吸は苦しく、心臓があまり速く脈打つのでもしやこのまま卒倒してしまうんじゃないかと思った。そのぐらい、僕は動転していた。


 今や、浜は闇が濃く、外灯の光りだけが微かにあたりを照らすのみだった。


 恋愛映画やドラマなら照明が当たっているから目を凝らさずともすべてはよく見えて、沈黙を恐れずとも音楽が挿入され雰囲気を盛り上げてくれる。


が、現実は違う。なんの道具立てもなく、あるのは自分の身一つ。では体一つでできることといったら、答えは一つ。


 僕は今度は真澄さんの髪に触れ、それからできるだけゆっくりとキスをした。真澄さんが微かに笑ったような気がした。笑われても仕方ないと思った。でも止めることはできなかった。


 長いキスだった。僕は息継ぎの合間に喘ぐように、好きだと言った。あんまりいきなりで馬鹿みたいだと思うかもしれないけど好きだ、と。


 真澄さんは答えなかった。でももし仮に彼女が何か言葉を返してくれたとしても、僕にはそれを聞く余裕はなく、彼女の髪の匂いや首筋の滑らかな肌や、意外と大きい乳房に夢中で、真澄さんが言うところの「純粋で」「温度の高い」欲望に飲み込まれていくだけだった。


 それでも砂の上でスカートを捲り上げた格好で真澄さんは一度だけ囁いた。

「落ち着いて」

 と。


「無理だよ」


 僕はそう答えると深まる夜に身を沈めていった。


 事が終わっても真澄さんは砂の上に寝転んだまま夜空を眺めていた。僕はその隣りに座って前から一度聞いてみたかった質問をした。


「真澄さんさあ」

「うん?」

「本当に小説家なの?」

「……まだ疑ってるの?」

「別にそうじゃないけど……」

「私の職業ってそんなに重要?」

「重要じゃないかもしれないけど正体を知るのには必要だよ」


 真澄さんはぷっと吹き出した。


「正体って、そんな大袈裟な」

「でも、俺、真澄さんのこと何にも知らないし」

「そんなことないわよ。知ってることもあるでしょ」

「例えば?」

「そんなもん自分で考えな」


 ……僕が知っている彼女は、「自称天才作家」でちょっとばかり下品な冗談が好きで、お酒を沢山飲むらしくて、旅館の浴衣姿が妙にエロくて、大口開けて笑う女……。


「もういっこ聞いていい?」

「なによ」

「何歳?」


 今度は吹き出すどころか、真澄さんはげらげら笑い出した。


「三上―、それも必要なのー?」

「じゃあ、これだけ。これだけ教えて。そしたら後は何にも聞かないから」

「はいはい」

「ここにはいつまでいんの?」


 仰向けになった真澄さんは一瞬面食らったような顔になり、それから黙って僕の腕を引っ張った。僕は彼女の上に重なるようにゆるやかに倒れた。


「……もう夏休みなんだっけ」

「うん。通知表見せようか?」


 僕は笑いながら彼女の鼻の頭に音を立てて口づけた。すると真澄さんは急に、笑いながらも僕の体を押しのけるようにして体を起こすと、立ち上がりスカートの砂をはたいた。


 僕は驚くよりもなんだか焦って、


「真澄さん、どこに住んでんの? やっぱ東京?」

「もう何にも聞かないんじゃなかったの?」

「意地悪言うなよ」


 真澄さんは手を差し出すと僕を立ち上がらせた。不安というにはあまりにも巨大な暗雲が胸の中に広がっていた。さっきまで感じていた幸福や、有体にいえば生々しい彼女の体温だとかが一気に冷えて、僕は彼女の手を強く握った。


 来た道を今度は彼女に手を引かれるようにして旅館まで戻ると、真澄さんは静かに言った。


「また明日ね」

「……」

「あ、そういえば三上って下の名前なんていうの?」

「純太」

「おやすみ、純太。早く寝ないと明日遅刻する」

「……また明日、な」


 僕は念を押すように言うとキスをして、彼女が部屋へ戻るのを見届けてから自転車に乗った。


 タカミツはよく「童貞は人類じゃない」と言っていた。あれは大袈裟というか、偏見だと思ったけど、今なら分かる気がする。確かに経験する前と、今ではなにかが違うのだ。それがなにとは言葉にできないのだけれど。


 とはいえ、たった一度のセックスでなにを悟ったわけでもないし、眠っていた能力が開眼したわけではない。


 家に戻ると服も着替えずに布団に潜りこんできつく目を閉じた。体から彼女の匂いがしていた。


12.

「なんだ、ようするにあの女は童貞食いだったわけか」


 すでにチェックアウトされた渚の間の天才作家との最後の夜の出来事を話し終わった僕にタカミツは羨むような、はたまた蔑むような調子でしれっと言い放った。


 通知表は二人揃って惨憺たる有様だったけれど、それでも僕らは夏休みの開幕に気をよくし、浮かれながら戻ってきた。そして桐島真澄がすでに旅館を出たことを知った。


「急用ができたとかで、大急ぎでチェックアウトしていったよ。でも、またすぐ来ますって」


 美人女将が教えてくれるのを僕は呆然としながら聞いた。


 また来ると言い残したらしいが、僕はそれを信じる術を持たなかった。


 そんな僕の気持ちを察したのか、タカミツが、

「三上、今夜、釣りに行こう」

 と言った。


 もう会えないのかな。本当に。そう思うと、胸が痛かった。そうか、これが恋ってやつなのか。


 今さらのように気付く自分がおかしくて、僕はひっそりと自嘲気味に笑った。


 童貞食いとはずいぶんな言いようだけれど、反論はしなかった。すると、タカミツは僕がひどく落ち込み傷ついているものと思い込み、秋吉の時同様に悪し様に真澄さんを罵った。


「やっぱ作家なんて嘘だったんだよ。単なる淫乱の初物食いのばばあだったんだな。気にすんなよ、三上」

「……うん」

「若作りしてさあ。金は持ってるんかもしれんけど、ああやってあちこちで男食ってまわってんだよ。いいって、いいって。どうせそういう女はいずれ童貞の呪いで天罰がくだる!」

「なんだ、童貞の呪いって」


 僕は笑いながら煙草に火を点けた。


 そうか、嘘だったのか。そう思うと気が抜けたような気持ちになった。が、嘘じゃないこともあったんじゃないだろうか。少なくとも、彼女が僕に教えてくれたことに嘘はなかった。


物事を深く考えること、頭を使うこと。大人と子供の違い。面白い映画や本。人に興味を持つこと。そして自分自身にも。知らなかったことの、すべて。


 夕食のあとタカミツが迎えにくるまでの間、見るともなくぼんやりテレビのチャンネルをぷちぷちと切り替えていると、突如、画面に「海沿いの町に滞在していた妙齢の女」が映っていた。


 僕は思わず、

「あ!!」

 と、叫んで反射的に手を止めた。


 激しいフラッシュの嵐。それは「天才作家」桐島真澄が有名な文学賞を受賞したニュースだった。


「……うそ……」


 リモコンを持つ手が震えるのを感じた。間違いない。桐島真澄。彼女だ。


 傍らに置いた携帯電話がずっと鳴っていた。タカミツもこのニュースを見ているのだろう。電話はずいぶん長いこと鳴って切れた。十分もしないうちにタカミツがうちへ飛んでくるのも予測がついた。


 画面の中の真澄さんが記者の質問に答えて言った。


「この賞にノミネートされた時、逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。プレッシャーもあったし、不安でしたね。でも、その分だけ真摯に自分と向き合えたような気がします。高校生の頃の気持ちを思い出したというか……。無知であることはイノセンスの源とも言えますから。そこから知的好奇心を養って、自分の糧にしていくのが本来あるべき姿だってことを思い出しました。この気持ちを生かして、これからも書いていけたらと思います」


 画面の中の彼女は真面目な顔で、受賞の感想を述べ、淡々と記者の質問に受け答えしている。


 逃げてきてたんだ? 不安だったんだ? 僕に言ったことはそのまま自分への言葉だったんだ? 心のままに生きることも、物事を深く考えることも、想像力も、全部。


 僕は泣き出しそうな、笑い出しそうな、もうどうしていいのか分からないほどの混乱の中、食い入るようにテレビに見入っていた。


 が、次の彼女のコメントを聞いた瞬間、とうとう大声で笑い出してしまった。


「次回作品? それは海沿いの町の高校生が主人公。そうですね、恋愛小説ですね。うーん……、爽やかというか、田舎の童貞の男の子の話を書こうと思います。実際に海辺の町に滞在して、じっくり丁寧に書きたいですね」


 玄関でベルが鳴っている。明日から夏休みが始まる。僕はテレビを消すと訪問者を迎え入れに、階段をゆっくり下りていった。


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天才作家がやってきた! 三村小稲 @maki-novel

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