エピローグ 

 七月も中旬が過ぎ、夏の太陽がいよいよ本領を発揮してくる。

 一学期の終業式を翌日に控えて、生徒のみならず、教師たちも何処か浮足立っているように思える。

 屋上から学校へと続く坂道を見下ろすと、日差しが照り付けるなか、帽子をかぶった男性教師たちが数人、野犬騒動のために、依然として見張りに立っていた。

 あの騒動の後、当然ながら新たな目撃者や被害者は出ておらず、夏休みも差し迫ってきたとあって、生徒たちの間では既に騒動自体が風化しそうな勢いであったが、それでも教師陣はこの暑い中、登下校する生徒たちのために見張りに立ってくれていた。

 その野犬騒動の主犯である僕からすれば、もう本当に申し訳ないという気持ちで一杯で、出来る事なら、今すぐにでも謝罪に行きたいくらいだったが、当然出来るはずもなく、心の中で謝罪の言葉を呟くことしかできなかった。


 しばらくして橙色の軽自動車が坂道を登ってくる。その車は昆虫のような見た目をしており、たしか名前もそれっぽい感じだった気がする。車の窓から見覚えのある人物の姿が見える。車は校門くぐり、敷地内の駐車場に駐車すると、中から女性が下りてくる。女性が屋上を一瞥すると、すぐに校舎の中に入って行く。そして数分も経たないうちに、屋上の扉が開く音がする。


「そこの生徒、屋上の使用許可はまだ下りてないぞ」

 言葉とは裏腹に、柔らかい語気で注意が飛ぶ。

「おはようございます、五月女先生」

「ああ、おはよ。ハァ、まったく毎日あちぃな~。こんな暑さの中、毎日来なきゃいけないなんて、うんざりするぜ」

 

 五月女先生をパッと見た限りでは、どこも汗を掻いてはいなかった。見張りに立つ先生方とは大違いであったが、あえてその事を指摘するのは止めておいた。


「先生は大変ですね」

「そうなんだよ。生徒はよく勘違いするけど、教師には夏休みなんてないんだぞ。夏休み明けに向けて色々やることが山積みだからな。それにひきかえ、お前らはいいよな~海だの、旅行だの、気楽でさ~」

「五月女先生も、もしかして海とか行きたいんですか?」

「そりゃあ、……いや、特に水着を見せたい相手がいるわけでもないから別にだな。それはそうと、姫守は誰か水着姿が見たい相手でもいるのか?」


 一瞬、五月女先生は少女のようなあどけない笑みを浮かべるが、すぐに頭を振ると、今度は悪戯っぽい笑みを浮かべる。まだ短い付き合いではあったが、五月女先生がこういう表情を見せる時は、大抵、僕を冷やかす時だった。

 

「そもそも水着って人に見せる物なんですか?」

「あ~そうきたか。まあ、男はともかく、女はそうだな。彼氏や友達に褒めて貰えたら、やっぱり嬉しいもんだ」

「…なるほど…」

「お前もこの夏は裁縫部の部員たちに色々と連れ回されるんだろ?海でも遊園地でも、どこでも構わないが、きちんと褒めてやるんだぞ?お世辞でもいいから」

「あまり自信はないですが、頑張ってみます」

「ふふっ」


 夏の雲がゆっくりと上空を通り過ぎてゆく。

 徐々に登校してくる生徒が増えてくると、ここからでも生徒たちの楽し気な話し声が微かに聞こえてくる。

 

「まったく、ご苦労だな…。もう必要ないと思うんだけど」

 生徒たちとそれを見守る教師を見下ろしながら、五月女先生はぼんやりと呟く。

「先生たちは心配なだけですよ。でも、どうして必要ないと思うんですか?」

「ん~、自分でもどうしてか、はっきりとした理由は説明できないんだが、なんとなくあの野良犬が生徒を襲うことはもうないんじゃないかって思えてな。勘だよ、勘」

「………」

「ああ、そうだ。それとな、あの三人組がこの間、オレのところに謝罪にきた」

「三人組って、先生ともめていた、あの?」

「そう、その三人だ。お前も関係者だからな。一応、伝えとこうと思ってな」

「五月女先生は、その……彼らを許してあげるんですか?」

「……ああ、許すよ。教師だからな」

 なんてことはないように言う五月女先生に、心がすこしざわつく。

「教師だと許さないといけないんですか?」

「許せるから教師でいられるんだよ」


 ――五月女先生は「ふぅ」と息を吐くと、何かを探すようにズボンのポケットを弄る。が、すぐにその行為を諦めると、自分の頭をクシャクシャと掻いて溜息をつく。


「教師を止めようと思ってた」

 五月女先生の口からとんでもない発言が飛び出す。

「でも、それは――」

「――いいや、あくまで生徒会や職員会議での戒告は切っ掛けにすぎない。それ以前から心のどこかで迷いがあったんだ。自分でも驚いた。なんせ戒告を受けた時、悲しいとか、そういう感情はこれっぽっちも湧いてこなかったんだからな。『ああ、辞め時なんだ』って心の中で思ったよ。そんな折だ、お前たちがこんなダメ教師のために悪戦苦闘して頑張ってくれたのは。始めの内は、それで何かが変わるとは思ってもなかったんだが、お前たちときたら当人を余所にやる気満々で、気がつけばこっちまでそれに乗せられちまった」

 五月女先生は自嘲気味に笑う。

「…もしかして迷惑でしたか?」

「バーカ。迷惑だと思うくらいなら、そもそも誘いに乗ったりしてねえよ。むしろ、色々と気づかせてくれたことに感謝してるくらいだ」

「いろいろ?やっぱり、先生を続けたいってことですか?」

「近いけど、すこし違うな」

「それじゃあ…」

「改めて言うのもこっぱずかしいんだが、まあ、お前ならいいか。お前らみたいなガキ共と一緒に日々を過ごせることが幸せだって感じられること。それを思い出す切っ掛けをくれたのがお前たちなんだ。そしてそれが確信に変わったのが、あの野犬騒動の時だった。咄嗟に体が動いて生意気なガキ共だったが、守ろうと思えた。『ああ、オレはまだガキ共のために体を張れるんだ』、って自信と勇気が湧いてきた。まあ、不幸中の幸いだから、大きな声では言えないけどな」

 そう言って、五月女先生は人差し指を口に当てる。


 校舎の窓から漏れ聞こえてくる生徒たちの声は、さらに活気を増していく。

 どうやら、皆、目前まで迫った夏休みが待ち切れない様子で、普段よりも一段とおしゃべりにも熱がこもっているようだった。

 そんな下の声に気を取られていると、急に五月女先生はこちらの肩に手を回す。


「姫守、お前には世話になったから、なにか礼をしないとな」

「そんな、お礼なんて」

 突然、耳元に五月女先生の温かい吐息が当たる。

「ハハッ、遠慮すんな――」

 その様子を楽しむかのように、五月女先生はニヤリと笑う。

「――そうだな……、よし、今すぐってわけにはいかないが、お前が三年後、ここを卒業したら、その時に我が家へ招待してやるよ」

「三年後?えっと、それは卒業のお祝いをしてくれるってコトですか?」

「ああ、それにこれまでのお礼も兼ねてな。盛大に持て成してやる」


 なんとも気の早い話ではあったが、卒業のお祝いに自宅に招待してくれるというのは素直に嬉しかった。嬉しかったのだが、どうしてだろう…、五月女先生の口ぶりからは、お祝い以外にも何か別の含みがあるように感じ取れてしまうのは、はたして気のせいだろうか。


 その時、ギギッ、と重い扉が勢いよく開く音がする。


「コラァァーーー!!な、な、な、なに言ってるんですか!生徒と教師で!!」


 声のした方を振り返ると、開け放たれた屋上の扉の前に、顔を真っ赤にした歌敷さんが荒い息を付きながら立っていた。しかも、その後ろには扉から頭だけを出した斎藤さんの姿もあった。


「アナタね…、あれほど出て行かないようにって注意したじゃないの…」

「だってだって、こんなのあんまりだよ!酷いよ!見過ごせないよ!」


 呆れ顔でため息をつく斎藤さんに、憤慨した様子の歌敷さんは激しく反論する、それは普段から見慣れた光景であった。

 歌敷さんが何に対して憤慨しているのかは謎だったが、そのものすごい剣幕から真剣みは充分に伝わってくる。


「なんだ、二人して覗きか?」

「何言ってるんですか、違いますよ。もうじきHRが始まるのに姿が見えないので、こうして探しに来たんです」

 委員長の斎藤さんは呆れ顔で首を振る。

「そうだ!そうだ!ちなみに姫守君を!です!べつに五月女先生はずっとそこで日光浴してて下さって構いませんから!」

「つれないなァ~歌敷。そんな意地悪なコトを言ってると、姫守とのデートの日、お前だけ補習に付き合わせちゃうぞ?」

「――ッ?!すいませんでしたーー!」

「うむ、分かればよろしい」

 

 つい今しがたの態度から一転、慌てて頭を下げる歌敷さんを、五月女先生は愉快そうに眺めていた。そしてそんな二人に冷ややかな視線を向けていた斎藤さんは、溜息を一つつくと、付き合ってられないとばかりに僕の袖を引き、そそくさと教室へと向かう。


「なんとなく予感はしてたけど、結局こうなるのね」

「え?なんのこと?」

「なんでもないわ。…いいえ、なんでもなくはないけど、ないって事にしておいて」

「…ふむ?」


 斎藤さんの口から謎かけのような言葉が零れる。が、さっぱり意味は分からない。

 後ろでは、さきほどから五月女先生と歌敷さんが同じ押し問答を繰り返しながらも、僕たちの後に付いてきていた。


「でもさ、ほんとに良かったよね」

「…まあ、そうね。まさか文化祭で演劇をやる羽目になるとは思いもしなかったけど、結果的には良い方に転んだわね」


 一時はどうなることかと案じていた五月女先生を中心にした騒動も、友人や部員の皆の協力のおかげで、なんとか事なきを得ることができ、協力してくれたみんなには感謝に堪えない思いだ。

 その御返しとして、協力してくれた歌敷さんや斎藤さん、裁縫部の森部長や部員の皆と夏休みの期間、いろんな場所に出掛けることになった。とは言っても、人数が多いなどの理由から一人ずつではなく二、三人ずつという制限が付いたらしい。

 僕自身としては、はたしてその程度の事がお礼で良いのか疑問ではあったが、それでも仲良くなった裁縫部の皆や友達と一緒にお出掛け出来るのは素直に嬉しかった。


「そういえば…」

「うん、なに?」

「斎藤さんと歌敷さんの予定は決まってるの?」

「予定?…ああ、夏休みの件ね。ええ、一応海に行くつもりだけど」

「う、海…」

 水鳥に追い回されて湖に落ちた幼少期の苦い思い出が脳裡を過ぎる。それ以来、足がつかない水辺がどうにも苦手になってしまった。みっともなくて、とても人には言えないけれど。

「もしかして海は嫌だった?それなら別の場所でも構わないわよ?海に行きたいって拘って駄々を捏ねてたのは歌敷さんだけだから」

「嫌なわけじゃないんだけど、その、あまり泳げなくて…」 

「へぇ、そうなの。…フフ、なんだかちょっと意外」

「そう?」


 他愛のない会話をしつつ、教室の扉を開けて教室の中へと入る。

「あっ、おはよう姫守くん」

「おっす!姫守」

「おはよう姫守くん」

 教室の中へ入ると、すぐにクラスメイトから温かな挨拶に出迎えられる。その挨拶を聞くたびに胸の内側がポカポカとしてきて、なんだか幸せな気持ちが満ちていく。

「みんな、おはよう」 

 紆余曲折あったものの、慣れ親しんだいつもの日常に戻ってきた。

 周りの皆からすれば、とくに代わり映えのしない当たり前の光景ではあったが、そのいつもの当たり前を守ることが出来たことが、なんだかすこし誇らしかった。

「おら、お前ら、さっさと席につけー」

 教壇に立った五月女先生がいつものように面倒くさそうに告げると、クラスメイトたちはのろのろと各々の席へと戻って行く。


「あのさ…」

 五月女先生が連絡事項を伝え始めると、隣の席の歌敷さんが小声で僕を呼び掛けてくる。

「どうしたの?」

 こちらも小声で応える。

「…その、よかったら泳ぐの教えてあげる。…私もそんなに上手くないけど」

 どうやら、さきほどの斎藤さんとの会話を聞かれていたらしい。歌敷さんは照れ臭そうにそう告げると、こちらの視線から逃れるように窓の方を向く。

「うん、ありがとう」


「――コラッ!お前ら静かにしろ!」

 何度目かの五月女先生の注意が飛ぶが、クラスメイトたちにはほとんど通じていなかった。

 それもそのはずで、一月余りに及ぶ休暇を前にしては、生徒たちの自制心が瓦解してしまうのも致し方なかった。


 それは僕たち家族が此処へやって来てからのはじめての夏であり、学生としてのはじめて経験する夏休みでもあった。

 学校中の生徒たちが今か今かと待ち望んでいたくらいだ。きっとたくさんのはじめてに出会い、楽しい思い出が待っている事だろう。考えただけで胸がときめき、体がウズウズとしてくる。

 もうすぐ、はじめての夏休みがやってくる。














 









 





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

狼少年はお姫様 @west8129

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ