「ズルいぞ姫守~お前までオレを一人ぼっちにするのか!?」
なにがズルいのか分からないが、尚も柴田君は縋りついてくる。
そうしていると、いつもの気だるげな表情で五月女先生が教室に現れる。そして騒がしくしているこちらに歩み寄った五月女先生は、柴田君の後ろに立ち、おもむろに黒表紙の学級日誌を振り上げる。
――パンッ!
「あ痛っ?!痛ぇだろうがッ!このブス共!」
叩かれた頭を押さえながら、振り返った柴田君はビクッと身体を震わせる。
「おう、姫守みたく美人じゃなくて悪かったな~柴田!」
「へっ?やっ!いやっ?!」
おたおたしている柴田君を、クラスメイトたちは声を噛み殺して笑う。
「ちちち、違うんです。先生のことじゃなくて…その、ほら、ちょうど昨日の騒ぎで先生が活躍したって聞いて、それで盛り上がってたんです本当です!」
「ほう、それは本当のことか姫守?」
胡乱な眼を柴田君に向けた五月女先生は、確認するようにこちらに視線を向ける。
「はい、二人で感心してたところです」
「…ふむ、まあ姫守が言うなら信じてやるか。さあ、HRを始めるぞ。さっさと席に着け」
「助かった…」
柴田君は首筋に垂れる汗を拭いつつ、絞り出すように呟いた。
皆が席に着くとHRが始まる。
いつものように連絡事項を事務的に伝えるHRが、そろそろ終わりに近づいてきた頃、委員長の声を遮り「ちょっといいか」と、五月女先生が言葉を挟む。
定位置のパイプから腰を上げた五月女先生は教壇の前に立つと、物思いに耽るようにしばらく間をおいてから、ゆっくりと話し始める。
「ホントは夏休み前の最後の朝礼の時に話すつもりだったが、お前たちには先に言っておこうと思う。知ってる生徒もいるだろうが、しばらく前から屋上が使えなくなった件、あれはオレの責任だ。オレの不注意が招いた結果だ。本当に申し訳なく思ってる。そのせいで、たくさんの生徒に迷惑と掛けた。それでもこんな不甲斐ないオレを心配して、色々と手を尽くしてくれた生徒たちには感謝の言葉もない」
そう言うと、五月女先生は深々と頭を下げる。
突然の五月女先生の告白に、クラスメイトたちは揃って戸惑いの表情を浮かべる。そして同時に、自分たちのあずかり知らないところで、五月女先生に何かがあったことを理解した。
「あの、それじゃあ、もしかしてアレって…」
クラスメイトの一人が教室の後ろに貼られたポスターを指差す。ポスターの主演の欄にはハッキリと五月女先生の名前が載っている。五月女先生は照れ臭そうに頷くと、助けを求めるように僕の方を見る。それに釣られて、クラスメイトたちも揃って僕を見る。皆の視線は如何にも何か愉快な話しを期待するかのような好奇心に満ちたものだった。
「……えっと、色んなことがあったので、一言ではとても説明できそうにないです。ただ、それでも強いて言うなら、僕がこのクラスが好きだからです。このクラスの皆と三年間を一緒に過ごしたいと願って、その思いに協力してくれる友人や先輩たちがいれくれました。……その、説明にはなってないと思いますが、以上です」
胸の内を言葉に変えて吐き出している最中、不意に歌敷さんや斎藤さん、そして五月女先生の顔が脳裏を過ぎる。途端に全身が茹っていくような感覚に襲われ、顔が紅くなるのが自分でも分った。皆の視線から逃れるように、席に座り直して俯く。
何故か、その瞬間だけは自分の気持ちを伝える事が、物凄く困難なことに思えた。
頭の中を竜巻のような何かが暴れ回り、言葉にした記憶を悉く吹き飛ばしてしまう。
――パチパチパチッ
どういうわけか、教室の至る所から拍手が起こる。
ただ自分の胸の内を吐露しただけなのに、サッパリ意味がわからない。むしろ、穴があれば入りたいくらいだった。
「まあ、そんなわけだ。私が今こうして居られるのも、その心配してくれた生徒たちのおかげだ。こんな不甲斐ない教師ではあるが、これからの三年間、どうかよろしく頼む!」
五月女先生が生徒たちを見渡しながらそう挨拶すると、再び拍手が起こる。
「こちらこそ、三年間よろしくお願いします、五月女先生」
「よろしくお願いしまーす」
「三年間よろしくです」
「よろしくね、乙女ちゃん!」
委員長の斎藤さんの挨拶を皮切りに、他のクラスメイトたちも続々と五月女先生に
挨拶を返す。その光景に心が温かくなっていると、不意に五月女先生の顔から照れ臭い笑顔が消え、呆気に取られたように真顔になる。
「…おい、今、乙女って言ったの誰だ?ってか、何処でそんなこと知って…」
「「「………」」」
「先生、ポスターです」
五月女先生の突然の豹変ぶりに、教室内はさきほどまでの空気が嘘のように静まり返るが、そんな空気の中でも委員長の斎藤さんはいつものように毅然と指摘する。
五月女先生は件のポスターに大股で歩み寄ると、主演の部分を食い入るように見詰める。
五月女先生の隣からポスターを覗き込むと、主演の項目には確かに五月女先生の名前があった。
但し、そこには【五月女 乙女】という、おそらくは先生の本名で載っていた。
「……あ……ア………アイツらァァァーーー!!!」
教室中に五月女先生の絶叫がこだました。
当然、その声は廊下まで響き渡り、帰り際の他クラスの生徒たちは何事かと窓からこちらの教室を覗き込んでくる。
「へぇー、五月女先生の下の名前、乙女っていうんだ。ハハ、乙女先生だな!」
「ちょっ、バカ?!」
あっけらかんと呟く柴田君を隣にいる女子が慌てて止めようとするが、既に手遅れだった。
五月女先生は、まるで猛禽類のように鋭い視線を柴田君へ向けると、手に持った学級日誌を物凄い速度で柴田君へと投げつける。咄嗟に反応できるはずもなく、学級日誌は見事に柴田君のおでこに命中する。
「ぐえッ」
蛙の鳴き声のような声を上げた柴田君は、そのまま机に突っ伏して倒れてしまう。
「悪いな、手が滑った」
滑らかな投球フォームで手を滑らせたらしい五月女先生は、しかし、まるで悪びれた様子もなく、謝罪の言葉を口にするのだった。
これ以降、五月女先生の下の名前を、本人の前で口にしてはいけないという暗黙の了解が出来上がったことは言うまでもない。
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