宵闇に星の癒しを

颯龍

宵闇に星の癒しを

一体いつ違えたのか。


少女は巨木の張り巡らせた根に背を預けて座る。齢千年は優に越えるであろう巨木は、張り巡らせたその根すらもまるで幹のごとく太く逞しい。丈は遥か彼方の雲を突き抜け頂上から臨む景色は雄大で壮観だ。そこから拝む朝日の御来光も大変見ものである。


少女は溜息を吐く。

綺麗な翡翠色の緩く波打たせた長い髪、肌は透き通る様に白く、ふっくらした頬は白桃のような仄かな紅を指し、艶のある柔らかな桜色の唇。その髪と対となる艶やかな若葉色の瞳。およそこの世のものではない美しい出で立ちの彼女は、正しく精霊界の王であった。


憂いを帯びた瞳が揺れ、美しい雫がほたりほたりと零れ落ちる。

少女の膝には一人の青年が頭を預けて横たわり、苦痛に呻き脂汗を滲ませていた。

淡い紫味を帯びた銀髪をオールバックに撫で付け、濃い紫水晶を彷彿とさせる瞳は辛うじて開いた瞼の隙間から見え隠れしている。小麦の肌にその精悍な顔つきは、常であれば野性味溢れる男の色香を存分に発揮した偉丈夫であっただろう。しかし、残念なことに彼には現在進行形で終焉が差し迫っていた。


彼の下肢は、無残に捥取もぎとられはらわた臓腑ぞうふなどがブツ切りとなって露出し、おびただしい量の自身の垂れ流す血の海に埋もれていた。何かを話そうとしているのか、時折、薄目で少女を切なげに愛おしそうに見つめながら開くその口はゴボリゴボリと血泡を吹き出すのみ。

あたり一帯は青年のぶちまけた血潮により咽るほど生臭い鉄錆臭で満たされていた。

少女がその手で優しく青年の額を撫でると、彼は無事な方の手を少女の手へ沿えた。


「カイリ、何故?」


男がその口から声を出すことが叶わない状況であることは百も承知だが、少女は聞かずにはいられなかった。


「何故、私を助けた?」


屈んで覗き込んだ少女の瞳からほたりとまた一粒の涙が落ちる。

青年が少女の手に重ねていた手をどうにかして彼女の目元まで持ち上げたが、そこで力尽きたのかガクリと腕が降ろされた。

苦痛で苦しくて仕方がないはずの青年は、若干眉根を寄せながらも少女に優しく微笑んだ。


「私はお前に止めて欲しいと頼んだのに…。馬鹿だな。私なんぞ助けるから自分がそうなる。…これで私が正気に戻ってなかったらどうするつもりだったのか」


つい先刻、少女は人間が犯した過ちにより自我を失うほどの狂気に囚われ世界を滅ぼさんと暴走していた。暴走する直前のほんの一欠片の正気を保っている束の間に少女は最愛の青年に願ったのだ、己を止めて欲しいと。世界を失うぐらいなら己を滅ぼしてくれと。

しかし少女を同じく愛する青年は滅するのではなく、見事鎮めてみせたのだ。自らの犠牲を引き換えにして。

少女にとっては青天の霹靂であり、全く嬉しくない結果となってしまった。


「私はな、お前が生きてなければこんな世界、存続しても意味が無いと思うのだよ」

「………ゴフッ」


精霊王の空恐ろしい答えに、さしもの青年も抗議する。俺だってお前が生きてなきゃ意味ないんだよと。言葉が喋れなくとも関係ない。どうせ、彼女には意思が伝わるのだから。


「まったく、本当に困った奴だ」


その言葉、そっくりそのまま本人に返したい。死に行く自分を惜しんで泣き喚かれるのも心痛いが、まさか追い討ちを掛けられるとはついぞ思わなかった。


「さて、お前がそうやって好き勝手して私を助けたからね。私も好き勝手することにした」


翠の少女は妖艶に笑う。何やら雲行きの怪しい言動と表情だ。これ以上、更に何をすると言うのか。死に行く者の心を安らげるどころか、焦燥をわざと掻き立てる目の前の困った愛しい娘。苦痛に顔を顰めつつも、ともすればすぐにでも落ちそうな己の意識をどうにか繋ぎ留め吐血する。


「ねぇ、カイリ。お前には悪いのだけれど、私はこのまま正気を保って生きてはいけないと思うよ。だって、お前が居ないのだもの。無理だよ」

「ンッ……ぐぁッガハッ」

「はは、無理して喋らなくていいよ。そこでね、妙案を思いついたんだ。どうせお前も私も居なくなるのなら、二人で溶け合って一つになればいい」


そうやって屈託ない笑みを浮かべる少女の目は、別の意味で狂気に囚われていた。

青年を失う怖さで既に精神が病み始めているようだった。こんな表情をした少女を一人残して自分は去らねばならないとは、彼女には世のしがらみから解き放たれ、心穏やかに生きていて欲しいのに。青年は自身を呪い苛んだ。

しかし、溶け合って一つになるとは一体どういう意味なのか。


「カイリ、君にはちょっと痛い思いをさせてしまうかもだけれど。私にはこの方法しか残されていないと思うんだ。


少女が泣き笑いながら下した裁可に青年は喉をヒュッと詰まらせた。

愛しい娘が愚かな行動を起こそうとしている、しかも本気で。

精霊王の代替わり。

この少女は本来ならば正統な継承者へ引き継ぐはずの精霊界の王位をあろう事か死に行く自分への回復手段として用いる気なのだ。勿論、そんな事あってはならない。


「何、案ずるな。元々お前に譲る気ではいたのだ。遠い将来が今になった、それだけのことだ」


なんだ、そんな話聞いてないぞ。青年が苦痛に呻いて眉根を寄せているのか、それとも抗議に任せて眉根を寄せているのか、なんとも判断しづらい顰めっ面で少女を睨む。

しかし人間である己が精霊王を引き継いで問題はないのかと、青年はじっと少女を見つめた。


「うん、別に人間が精霊王を継承しても問題はないのだよ。どうせ王となった瞬間には人間ではいられなくなるのだから。いずれにしても、きっとお前は承諾してくれないだろう。だから必要になるまで黙っておこうと思ったんだ」

「………」

「簡単な話だ。次代の王の魂をベースに現代の王の魂と融合させるんだ。二人は一人になって、今までの記憶は勿論、知識その他諸々全てを十全に引き継ぐ。これは全く新しい精霊王という生命の誕生となり、だから人間ではいられなくなる。勿論、新しい生命の誕生だから死に瀕するような状態も問題なく回復する」


今、この愛しい娘は何といった。

血液を失いすぎて、いい加減朦朧とした意識をフル稼働させて、少女の落とした爆弾発言をどうにか理解するのには時間を要した。余りの残酷な内容に呆然とする。


「本当はね、二人で居られるうちにもっとお前と過ごしたかった。お前と色々な経験をして、日々を過ごしたかった。でも…お前はこのままだと直ぐ死んでしまう。さぁ、カイリ、始めようか」


泣いて、詫びる様に啼いて、笑いながら少女が青年の右の目の瞼をこじ開けて固定すると直接その瞳を舌で舐めた。粘膜を直に触れられた生理的な痛みに、どっと涙が溢れ出す。抵抗して行為を止めさせたくても既に体の自由はきかず、何度も何度も舐められる度に小刻みに打ち震えるしか反応を示せない。

そのまま眼窩から右眼をほじくり出され、咀嚼された。


「ぁぐ……ぅ…ぃッ…ぁがぁあああっ」


灼けるような痛みと無理やり体の一部が引き剥がされる異音に頭がガンガン鳴り響く。


「ん…んん。…―――はぁ、やっぱり想像通りだ。カイリは甘くて美味しいな」


青年の体の一部を咀嚼して嚥下した少女は陶然とした心地で微笑む。


「今度はこっち」


少女の華奢な手が左目を捉えた。

その後、青年は少女に咀嚼され続ける絶え間ない痛みの中、とうとう意識を手放した。


…―――愛してる、だから死なないでカイリ。


遠い意識の片隅で愛しい娘が泣きながら零した一言は果たして彼に届いたのか。




酷く気怠い気分で王は目覚めた。

痛くて、甘くて、切なくて、悲しく、狂おしいほどに愛おしい不思議な夢を見ていたような気がする。

緑の燐光を帯びた銀柳色の流れるような美しい銀糸の髪。小麦色の肌に精悍な顔立ちのその双眸は片方は濃い紫水晶、片方は鮮やかな若葉色。均整の取れた逞しい体躯の偉丈夫だ。


彼は巨木の根元に背を預けるようにして一眠りしていた。

空を見上げればどこまでも広がる闇に星屑が美しく煌めいている。

遠い遠いその昔、己はここで誕生したことを漠然とではあるものの覚えている。ただ、己の継いだ記憶を辿れば、あの様な痛みを伴う誕生をした王は他には無かったことに衝撃を覚えた。

アレは完全に先代女王が愛しいカイリを己がモノとせんがため、欲した果ての行動でしかない。彼女の愛はそれまでに深く異常であった。いくら激しい損傷の痛みで朦朧としていたとは言え、途中から黙って咀嚼されることを享受した自身もどうかとは思うのだが。


「全く、二人溶け合って一つになるのではなかったか。これでは俺だけが生き残ったみたいだ、ミフユ」


あの時の愛しい娘の気持ちを思い出すことは自然とできるものの、何処か自分と切り離されたところで反芻する感覚に一人ごちる。今更文句をつけたところで、どうしようもない事象ではあるのだけれど。

フッと一息ついて空を見上げる。


どこまでも広がる闇の海には無数に散らばる星屑が優しく煌き輝いていた。

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