運命の帰結 -Epi-
季節外れの梅雨。例年よりも長く続いたこの季節は、湿度だけを残して夏の声を先延ばしにしていた。
雨脚が強くなる。地面を叩きつける大粒の雫が、跳ねる度に足元を濡らし不快な気持ちにさせ続ける。持っていたカバンを頭にのせて走る姿は、ある意味青春の一ページだと言われれば否定できないが、当事者からすると全く爽快なものではない。
冷たく麻痺した肌。今なら痛みも感じないだろう。
シャツが肌に密着する感触を考えないように、がむしゃらにバス停まで走った。何とか避難した木製のバス停は、庇の下へ入った瞬間から年季の入った木の香りが充満し、少しだけ安心する。色の濃くなったカバンを、日に焼けて色が薄くなった赤いベンチへ投げ捨てる。
制服のシャツの裾を絞りながら、自分の走ってきた道のりを振り返った。蛇行しながら伸びる一人分の足跡。バス停へ向かっていたはずなのに、その足跡には迷いが見える。無意識に水溜まりを避けていたのだろう。
皴になった裾を伸ばしながら、ゆっくりと無造作に置かれたカバンへと視線を向ける。僅かに開いた隙間から水を吸った筆箱がはみ出て、つい顔を左手で覆う。水滴をこぼすカバンが、ベンチの下に水溜まりを作っていた。
最悪だ。
取り出した本のページがくっつき開かなくなっている。読みかけの本だったのに、これだともう読めないかもな。帰ってからのことを考えると若干憂鬱になり、本をカバンへと戻し一息つく。
どこかの遠雷に混ざり、水気のある足音が近づいてくるのが聞こえ、そっと視線を向けた。
「もう最悪。あ、隣、大丈夫ですか?」
「あぁ、大丈夫ですよ」
隣へと駆け込んできた女子高生が一人。
突然の雨に濡れた制服に、俺と同じような境遇を呪っている。カバンから取り出したタオルで髪を乾かしている間、俺は一向に青空の見えない空を見上げ、雲の切れ間を探していた。
「突然、雨降ってきて大変でしたね」
何も考えずに空を見ていると、髪を整えながら話しかけてくる。
「大丈夫でしたって聞こうと思ったけど、見たところお互い災難でしたね。もう、なんで今朝の私は傘を持たなかったのかな」
「運が無かっただけかもな。俺もこんなことになるとは思わなくって、制服もカバンも酷い状態に」
「本当ね、自然には勝てないですよね。そういえば、その制服って私と同じ高校?」
「ああ、そういえば。それに学年も同じか?」
「本当だ。私は二組です」
「俺は七組」
「なるほどクラス離れているから、初対面で気づかなかったのか。ふふ、こんな状態で同級生の人と会うなんて、今日は意外と運が良かったのかも」
運が良いか。こんな日に、こんな状況で言おうとは思わないけれどな。
そっと風が吹き、飛沫になった雨粒が顔にかかる。突然の冷たい感覚。ほら、運が良いはずがない。頬を拭って言葉を漏らす。
「これって運が良いのか?」
「まあまあ、ちっぽけなことでも運が良いと思った方が良いよ。今日の夕立も傘を忘れたのも、ここで貴方と出逢ったのも、全部運命だから……なんてね、ちょっと恥ずかしいこと言っちゃった」
「運命は、あまり好きじゃないな」
何となく呟いた言葉。ため息交じりの声が、雨音に溶けて消える。
どうして、と返ってくる声。この気持ちを言葉にするとしたら。この思いに名前を付けるなら。俺は何といえば良いのだろう――。
「すべてが運命だって言ったら、嫌なことも辛いことも苦しいことも、痛みも死も、それに別れも全部受け入れなくちゃいけないだろ。それは苦しくないか? 運命なら仕方ないって諦めなくちゃいけないし」
「そっか。私は、運命なら必ず乗り越えられるって思うから。"いま"って過去の積み重ねだし、本当に些細なことで私の立っている場所が変わっていたと思うと、いま見ている景色を大切にしたいんだよね」
二人並びながら、雫の滴る庇の下で言葉を交わす。初対面の人と話す内容かと思うと、それは違う感じがして少しだけ笑える。雨によって作られた閉鎖的な空間のせいかもしれない。
「今日だって、もし私が学校を出るのが遅かったら、傘を持っていたら、天気予報を見ていたら……そのどれか一つの要素でもあれば、こうやって雨宿りして喋っていないわけだし。そもそも、今までの生活の中で少しでも違うことをしていれば、目指す高校も変わっていたかもしれなくて、私がこの高校にもいなかったかもしれないでしょ? そう思うと、やっぱりすべてが運命だなってなるんだよね。あの日、信号が赤に変わらなければ、あの日、靴ひもを結び直さなければ。そんな小さな積み重ねが出逢いに繋がっている気がしてさ」
「まあ、確かに」
「でしょ?」
「運命か。そうすると出会いって、すべてに何か意味があるのかもな」
「そうそう」
俺が返した言葉に、彼女は嬉しそうに笑って何度も頷いていた。
運命。その言葉の意味を何度も噛み締め、頭の中で反芻する。バス停の隅で伸びる瑞々しい緑の草花が、静かに風で揺れていた。その影に気付いたのも、もしかしたら運命なのかもしれない。そう思うと僅かにだが、普段なら記憶にも留まらない草花たちが愛おしく感じた。
どれくらい雨宿りをしていたのだろう。体感としては一時間以上な感じもするが、時計を確認すると十分程度だった。雨のせいか、感覚が麻痺している。
地面に広がる波紋を眺め、静かに時が過ぎるのを待っていると、隣で空を見上げていた彼女が声を上げる。
「青空だ。ほら、雨が止むよ」
声につられて空を仰ぐ。鉛色だった雲の切れ間から、淡い青が広がり始めた。水に落とした水彩絵の具のように柔らかく、ゆっくりと、でも確実に。
「ほら、外に出てみよ」
彼女が庇から飛び出して、こちらへと手を差し出す。俺はその手を見ながら首を傾げた。その手を取るべきか、否か。それだけを考えて。いや答えは分かっていたんだ、俺はその手を取らないといけない気がしていた。
足元の水溜まりには、もう波紋は浮かばない。
雨が止んでいた。
「見て、虹! はやく」
微笑んだ彼女の背中に、天使のはしごが降り注ぐ。
何を迷っていたんだろうと苦笑し、彼女の手を取った。柔らかく、小さな手だった。
「綺麗だね。うん、凄く綺麗」
「そうだな、この景色を見るのも運命だったのか」
「そう運命。この為に今日は雨に濡れたんだね」
「運命って言うのも悪くないのかもな」
「でしょ?」
得意げに笑う彼女が空を指さした。
優しい青のキャンバスに広がったスペクトルが世界を覆う。綺麗だ。いま、どれくらいの人がこの景色を見ているのかは分からない。でも、何も気にせずこの景色を見られる世界は、きっと幸せに違いない。幸せだと願いたい。
彼女が手を引いて走り出す。
向かう先はたぶん海岸だろう。何故だかそんな気がした。
「そういえば名前、言ってなかったね。私の名前は、夕凪」
夕凪が振り返った。
真っ直ぐに向けられた瞳に鼓動が速くなる。もしかしたら、その瞳に映る世界が、とても綺麗だったからなのかもしれない。
「"ゆうな"なんだけど、友達は"ゆう"とか"なぎ"とか呼ぶんだよね。だから好きなように呼んで。それで、貴方の名前を聞いても良いかな」
夕凪の言葉に自分の見ていた景色が鮮やかになる。どこか遠くの記憶が呼び起こされるような、止まっていた時間が動き出すような……それでいて声が詰まる感覚。
誰かが呼んだような気がして、思わず振り返る。
そこには地面の泥濘に残された二人分の足跡だけが、交じり合って足元まで伸びていた。バス停には残されたカバンと草花。
改めて夕凪へと視線を戻す。そこには足跡も何もない、真っ新な道だけがどこまでも続いていた。
そっか、この道の先が未来。
俺の立つ場所が足跡の辿った未来で、踏み出す先が足跡の向かう未来。どんな意味があって、俺はここに立っているのだろうか。どんな運命の帰結を迎えているのだろうか。
「俺の名前は――」
夕凪が微笑んだ。良い名前だね、一言だけ呟いて走りだす。繋いだ手はそのままで。
木々の香りを運ぶ風の音と、揺れる波音。その狭間で夏の始まる音がした。
未来はまだ見えないけれど、きっとこの世界は綺麗で優しい。それはきっと、生きたいと祈った人々の未来だからかもしれない。
ありがとう。
無意識に呟いた声が夏の香りに溶けた。
今年も季節が移ろう。
あと何回、この季節の中で生きることが出来るのか――。
RaiNdROP すぐり @cassis_shino
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます