:logue

運命の岐路 -Pro-

 土臭い壁に囲まれる暗い穴を進む。

 四角く掘られたこの道は、何度通っても、何年通っても、人のいるべき場所ではないという感想だけを抱く。それでも、毎日通い続けては与えられた仕事をこなす自分は、人間であることを捨てたのだろうか。

 それとも……罪の代償か。


 左右の木格子から伸びる何本もの薄汚れた腕を無視しつつ、目的の牢の前で足を止める。穴倉の一番奥、ここは誰からの視線も届くことはない。木格子の間から見える小柄な人影が、近くで止まった足音に反応し微かに動く様子を確認できると、いつものように安心をする。

 カシャン。

 彼女に付けられた足枷が鳴らす冷たい音が、空気中で木霊し周囲の雑音を黙らせた。

 耳の奥が鳴るような静けさ。自分の息遣いだけが世界に切り取られているようだ。自分と世界の境界線が曖昧になる。

「食事だ」

 持ってきた木の器を牢の中へと差し出す。

 牢の中の彼女が顔を上げ、緩慢な動作で手を伸ばしてくる。その伸ばす手は、牢にいる他の者と同じく砂埃で黒く汚れ、傷だらけの白い肌が少しだけ震えている。

 顔を見ないように、もう一つの小さな器を隣に添えた。器の中には、つい先ほどの食事で残した西瓜が入っている。

「これは」

 掠れる声で彼女が呟く。

「水菓子だ。俺は食べないから」

「どうして……ですか」

「どうせ捨てるなら、誰かにあげる方が有用だ。いらないなら捨てる」

「違います。どうして私に、同じ罪人がここには何人もいます。それなのにどうして私だけ」

「気まぐれだ」

 疑うように目を細めた彼女の表情は心臓に悪い。

 七年前に死んだ妹を、嫌でも思い出させる。蜩の鳴く森に響く悲鳴。緑を赤に染める血飛沫。虚ろな目で俺を見上げた表情が蘇る。やめろ、そんな顔でこっちをみるな。お願いだ、やめてくれ。

 動揺を表に出さないように、ささくれ立ち汚れた格子の隙間から手を引く。その様子をじっと見つめていた彼女は、こちらから目を離さないようにゆっくりと器を手に取り、質素な食事を口に運ぶ。妹が生きていたら、目の前の彼女くらいの齢になっていただろう。

「何を警戒している」

「貴方からは、他の者のような敵意や蔑むような空気を感じられません。それが逆に怖い」

「気にしすぎだ。お前が罪を犯していようが、何をしようとしたのかなんて俺には関係ない、だから、敵意も蔑む意味も無い。それに、俺の仕事はお前を斬ることだけだから、他にその仕事に関係のないことをする必要も無い。安心しろ」

「それなら毎日、水菓子のように食事を一品多く持ってくるのは、必要なことなのですか?」

 彼女の視線に、目の奥が焦げるように熱くなり、そっと目を背ける。牢の中に小さくあいた穴から零れる日差しの中を、白い粒が渦を巻いて飛んでいた。

「無視ですか。こんな罪人の言葉には答える必要が無いと?」

「違う」

「どうせ今から死ぬ相手だからと、適当に接しているだけですか?」

「違う」

「意味などないと」

「黙れ。お前は罪を犯していないと叫んでいたな。それなのにどうして今、簡単に自分のことを罪人だと言える」

「もう受け入れるしかないから。もう救いなんてないって分かってしまったから」

「ふざけるな。確か、殺人の下手人だったか」

 正直なところ、目の前の彼女に人を殺せる気がしない。

 これは直感だ。でも俺は自分の直感を確信している。この仕事を子供のころから続けていると嗅ぎなれてくる、罪人特有の香りがしないのだ。

 それに情報も手に入れた。やはりと言うか冤罪の可能性が高い。

「何度も言うけれど、殺しなんてしていない。貴方たちは信じないと思うけれど」

「信じる。どう考えてもお前には殺せない相手だ」

「なら、どうして!」

 勢いよく立ち上がった彼女が、足枷でよろめきながら叫ぶ。

「相手が悪すぎる。お前に罪を擦り付けて得する人間がいるんだよ。しかもそれが政を為す人間だ。……誰でもよかったんだよ」

「そこまで分かっているなら何で――」

「無理だ、俺だって何度も抗議したけど何も変わらなかった。多分だが、罪を擦り付けようしたのはここの人間だ。俺には逆らえない、お前を救えなかった」

 自分の声が狭い牢の中で反芻する。

 僅かに感情が零れた聞きたくない自分の声。

「……邪魔な人間を始末することと、自分たちの犯行から目を背けさせること、そして、その下手人を捕まえたという力を周りに見せつけたいのだろう」

 彼女が崩れるように、床へと膝をついた。俯いたままの視線の先、一体何をみているのか、何を考えているのか俺には考えられない。

 静かな声が聞こえる。着崩れた着物の衿も気にせず、何かを伝えようとしている。顔を上げたその眼もとには、敵意以外の力が籠っていた。

「分かりました。くだらないですね、本当に。くだらない。まず最初に『お前』っていうの止めて下さい。私には、那岐という名前があります」

「……あぁ。分かった」

「貴方の名前は?」

「……名前なんて疾の昔に捨てた」

「いいえ。貴方の名前は、慈雨」

 彼女……那岐の言葉に、咄嗟に刀へ手をかける。

「どこでその名前を」

「鯉口を切らないで、落ち着いてください。覚えていませんか。三年前の雨の日、とある村を賊が荒らした日のことを。そしてあの日、私を囲むように立っていた賊を、一本の刀を持った黒衣の影。それが貴方だった」


 もう三年も前。

 お尋ね者になっていた賊が近くの村に潜んでいるという話を受け、俺は一人で向かった。雨の強い日。風に乗った雨粒が、頬をたたき体温を奪っていく。

 いつも通りの仕事をすればいいと考えていたのだ。村に着くまでは――。

 だが村に一歩足を踏み入れた途端、それは間違いだと直感した。

 積み重なった死体。雨音しか聞こえない空気。微かに香る焦げた臭い。

 完全に手遅れであったのを悟るまでに時間は必要なかった。

 自分に出来ることは限られている。雨音に混じって届く僅かな物音を頼りに進み、賊を切り捨てていく。

 一人、二人、三人……。

 悲鳴を上げる隙も与えないように、確実に息の根を止めた。殺した人数を考えるのを止めたころには、物音ひとつ聞こえない。雨が赤く染まっていただけ。

 呼吸を整えていると、村のはずれの方から悲鳴が聞こえてきた。『助けて』の声。それは賊とは異なり、完全に女の子の声だ。俺は声のもとへ走った。足元はぬかるみ転びそうになるが足を止めなかった。

 遠くに数人の影が見える。その真ん中には、座り込むように一人の影。

 走り込み、賊の背中を捉える。刀を引き抜きながら一人斬り付ける。そのまま刀を左へ返し、振り下ろしながら隣に立つもう一人の首を斬る。

 血飛沫が宙を舞う。汚れた鮮血を刀が吸う。

 最後の一人がこちらを向くのを感じ、右へと振り抜いた刀は胸から首へと傷をつけた。空気が漏れるような音を出しながら崩れていく様子を、何も考えることなく眺める。人が死ぬ姿は見慣れた。

 刀の血を払い鞘へと戻す。

 座り込んでいた少女と目が合う。年の頃は、あまり自分と変わらないように見えた。妹に似ている。刀を握る手が震えていた。

 彼岸花の香りが漂う。血に似た深紅の香り。

 戻らないと、この場に留まる必要が無い。

「ありがとうございます」

 声に足を止める。

「ありがとうございます。貴方の名前だけでも聞いても良いですか」

「……名前なんて捨てた」

「普段はどのように呼ばれているのですか?」

「知らない。名前なんて必要ないからな」

「……私が決めても?」

「勝手にしろ」

 こんな話に付き合う必要なんてないのに、なぜ足を止めているのか。

 黙って立ち去ってしまえばいいのに。

 少女は空を仰ぎ呟く。

「慈雨。貴方の名前は慈雨」

「ジウ」

「恵みの雨。貴方は私にとっての救いの雨」

「別に助けたわけじゃない。偶然だ。ただお前が叫んだだけだ、生きたいと願っただけだ」

「それでも私は貴方に救われた」

「なら生きろ。お前はこんな場所で泥に汚れているのは似合わない」

 俺は彼女の前から逃げるように立ち去った。

 『助けて』と叫べない俺が、これ以上この場にいることは出来ない。

 雨が降っていた。

 冷たく、色のない世界で俺は大切なものを貰った。

 名前を貰った。

 慈雨。

 冷たい雨が、人々に恵みをもたらす。

 世界を潤す救いの雨。


 思い出した。那岐はあの日の少女だったのか。

「俺に名前をくれたのは那岐だったのか」

「そう、貴方は私を救ってくれた。その眼、その声、その刀。あの時の貴方のまま、私に生きろと言ってくれたあの日のまま」

「でも俺は――」

「分かってます。それはもう仕方のないこと。慈雨だって、何度も抗議したと言ってくれた。もうどんなに叫んでも、生きることを願うことが出来ない」

「そんなことはない」

「貴方が一番理解してるはずでしょ。貴方は刑の執行者、私の死を一番理解してるはずです。私にはもう何も選ぶことが出来ない。生きる自由も、死に方を選ぶ自由も無い」

 牢の格子に触れると伝わる、乾燥した木の冷たさ。命の温もりがない。

 ここが境界。

 生と死の境。

 俺は生に、那岐は死に。

 変えることの出来ない運命を目の前に、切り取られた時間と価値を決められた命が並ぶ。

「最期にお願いがあります」

「……何だ」

「殺してください。いま、ここで」

 吐息に乗った言葉が鋭く刺さる。自分の体のどこかが血を流しているが、それがどこなのか、命の価値に麻痺した今の俺にはわからない。

「どうせ待てば刑は執行される」

「それは嫌。どうせ死ぬなら、貴方の手で死にたい」

「……忘れたか、刑を執行するのは俺だ」

「違う。あの日の賊と同じその刀で斬られたくないのです。そして刑ではなく、私の無実を信じてくれる貴方にしか頼めません。私に生きろと優しく言ってくれた貴方にしか頼めないの」

「まだ生きる方法が――」

「無い。今の私には、生きる自由どころか、好きなように死ぬ自由もない。これがせめてもの抵抗です。こうやって理不尽に自由を奪われて、世界に殺されるなら――」

 那岐は叫んでいた。まっすぐに明日を見ているような澄んだ瞳で。

 死にたくないと、生きたいと願わず、死に方を選びたいと叫ぶ。

「世界に殺されるなら、貴方に殺されたい!」

「……後悔しないか」

「もちろん。私の人生で唯一正面から向き合ってくれた貴方になら、私は殺されてもいい」

「それはあの日だけだろ」

「それで十分なのです。人に惹かれる瞬間というのは刹那的で、その瞬間に人間は救われるものです。そして、その一瞬で救ってくれたのが貴方。我がままで申し訳ないけど、どうか、私の最期の願い、貴方が、叶えてくれないでしょうか」

 途切れ途切れの言葉に地面が濡れる。

 一度も俺の目から離さず放った言葉に、切実さと願いが混ざる。

 那岐が叫んだ。あの日のように。

 那岐が願った。生きたいと、世界に殺される前に自分らしく死ぬために生きたいと。

 左手で左目を覆う。半分が暗くなった世界。俺には死が視えているのか、生が視えているのか。覚悟を決めろ。命を奪うのは慣れているはずだ。

 落ち着け。

「待ってろ」

 一言だけ残し、俺は那岐の前から立ち去って外へと向かった。

 殴った壁に空気が少しだけ揺れる。土壁に傷はなく、ただ自分だけが傷ついていた。


 足が重い。

 いつものように牢の前へ向かうだけなのに、一歩が思うように進まない。

 手に持った桶の水が、涼しげな音を立てて跳ねた。水を吸った光が、天鵞絨のように柔らかく輝く。昔、この世界の形は綺麗だと聞いた。その世界で生きる俺たちは、綺麗な存在なのだろうか。今から自分が行おうとしている行為は、歪な救いなのだろうか。

 吸った空気は黴臭かった。


 足音に那岐が顔を上げた。顔色は良さそうで安心する。

「それは?」

 那岐が不思議そうに、桶や着替えを眺めて首をかしげる。緊張が解けたのか、表情が豊かになっているように感じる。今から死ぬっていうのに暢気なものだ。それとも無理をしているのだろうか。

「汚れた状態で死にたいのか?」

 那岐は目を見開き、体を見回してから、そっと裾を直して横を向く。

 現実感の無さが広がり、息苦しくなる。

 牢の扉を開く。生と死の境界が曖昧になり、生に明確な死が溶け込む。

 空気が冷たい。

 那岐の前に跪き、黙ったまま枷を外す。

「外しても大丈夫なの?」

「逃げるつもりなのか」

「もうそんな気もないですよ」

 足首を摩りながら、はっきりとした声で告げた。

 発せられた言葉の明瞭さに、心臓が痛む。

「……逃げろよ」

「何か言いました?」

 うっかり呟いた言葉は那岐に届かず、虚空に消えた。

 桶で手拭いを絞って、慎重に那岐の足首を拭き始める。ひんやりとした水の冷たさが気持ち良いのか、那岐が笑っている。力を入れれば折れてしまいそうな細い脚は、枷の跡と汚れで痛々しい。

「体は自分で拭いてくれ」

「うん。ありがとう」

 すっかり静かになった那岐から視線を逸らし、背を向ける。

 衣擦れの音と、手拭いを絞る水音だけが、この狭い空間に響く。今日まで那岐が見ていた牢の外をぼんやりと眺める。このまま俺を殺して逃げてくれないか、そんな淡い願いを隠しながら。

「あの……さ、背中を拭いてくれませんか? 届かなくて」

 唐突なお願いに思わず振り向くと、着物をはだけさせ、こちらに背を向けている。

「お願いします」

「分かった」

 透き通っていた水も、いまではだいぶ汚れ桶の底が見難くなっている。

 凝視しないように気を付けながら、そっと背中に触れ、力に気を付けながら摩る。うなじから肩、そして、肩甲骨へと降りてから腰へ。

「聞いても良いですか?」

「何をだ」

「どうして慈雨は私を助けてくれたのですか? 特に今回、私に対して無罪を主張してくれたり、食事時に度々水菓子を運んできてくれたりと優しくしてくれて」

「裁かれるのは罪人だけで良い。無実の人間に対し刑を執行する瞬間、俺たちは罪を負っているんだ。それは権力を盾にした、ただの殺しと変わらない。だから、無実だって分かっていれば主張するさ。それに――」

「うん」

「那岐が、妹に似ていたんだ。生きていれば、同じくらいの齢だろうな。凄く優しくて、可愛いやつでさ、那岐と仲良くなれたと思う。でも少しだけ気が強くて、曲がったことは嫌いでな」

「そっか、あっちに行ったら会えるかな」

「寂しがり屋だから、そうしてくれると助かる」

「そうしますね。慈雨は、この仕事を辞めないの?」

「辞めないというか、辞められない。もともと両親がいなくて、唯一の家族だった妹を生きていかせるために、牢の雑用として頼み込んで働き始めたんだ。子供がこんな場所にいるのが珍しかったんだろうな。その内、色んな人が俺に剣術や寺子屋紛いの勉学を教えてくれてさ。いつの間にか俺も罪人を殺すようになっていた。ただ、妹が病で死んで働く意味も無くなった。結局、人は殺すことが出来るのに、一番近くにいた妹すら救えなかった」

「それなら辞められるんじゃないですか?」

「もう遅いよ、血に染まりすぎた。もう人として生きていくことなんか出来ない。一人無実の人間を殺すたびに、俺の心が悲鳴を上げているのが聞こえるんだ。それでも俺は逃げないように、毎回自分の心を殺す。生きるために心が死に続けている。そうやって命を奪うことを正当化している」

 手拭いを桶で絞り、綺麗に畳んだ浴衣を差し出す。

 着替えから目を逸らして、心を落ち着かせる。

「慈雨はまだ人として生きれますよ。自由に生きて」

「そんなのは幻想だ。那岐が死ぬ選択すら無いって言うけど、俺も生きる選択が無いんだよ。殺す以外の生き方を知らない」

「それなら、ここから出てみて。そうすれば明日の先が見えてくるはず。自分のために生きて」

 よし着れたと言って、俺の名前を呼ぶ。 

 振り返ると、白い浴衣を着た那岐が両手を広げて、その場で一周して見せた。

 揺れる袖が涼しげで、裾につれて徐々に水色になる様子は、夏空に染まっているようだった。

「綺麗だな」

「ありがとうございます。最期に、そういってもらえて私は幸せです」

 そう言うと那岐はその場に跪き、顔を上げる。

 口元に浮かぶ笑みが、悲しくて寂しくて……。瞳に映った輝きは希望か、失望か。

 俺はゆっくりと那岐の前に膝をつき、目を閉じる。呼吸を整えろ、感情を抑えろ、いつも通りに。

 自分を落ち着かせて目を開ける。目の前には那岐の穏やかな笑み。その表情が目に入っただけで、自分の視線が泳ぐのが分かる。

 もう一度、目を閉じる。自分の呼吸の音、那岐の呼吸の音、風の流れる音。すべての音が聞こえなくなるまで集中しなければ――。

 突然、体に柔らかく暖かな衝撃が加わる。

「私の我がままで、苦しめてごめんなさい」

 苦しいのは那岐の方のはずなのに、どうやら覚悟が出来ていなかったのは、俺の方だったらしい。

 目を開けると、那岐の頭だけが見える。

 胸に添えられた手の温もりを感じていると、情も、悩みも未練も全て捨てなくても良いのかもしれないと思えるようになってくる。自分を殺さず、俺は那岐の命と向き合って生きよう。

 四角く開けられた壁の窓から、光が差し込む。

「すまない、大丈夫だ。那岐は、もう良いか」

「うん。そうだ、こっち向いて」

 上げていた視線を戻すと、那岐と目があう。

「慈雨の目は綺麗ですよ。貴方が誰かを殺さなくちゃいけない世界なんて、間違っています。殺してとお願いしている私が言うのは、やっぱり可笑しいですけどね」

「ありがとう。そういってもらえたのは初めてだ」

「よかった。……それじゃあ、そろそろ」

「良いか?」

「うん、お願いします」

 静かに目を閉じた那岐の首に両手を添える。痛くないように、苦しみが続かないように、慎重に指を食い込ませる。少しだけ強張っている表情。漏れる吐息。

 ゆっくりと那岐を押し倒し、体重を乗せていく。床に広がった髪。固く握られた拳。

「ありがとう、慈雨。いつか、あなたと、いっしょに、生きる未来……を」

 両手に力を籠める。ここで迷えば苦しいだけだ。

 手に伝わるのは柔らかな首の感触と、細い骨の硬さ。そして体温。

 那岐の口が開く。息を吸おうと、もがき、悶え、両手が俺の手首を掴む。両足が動き、腰が浮くのを感じる。

 那岐の体が浮かないように、必死に押さえつける。

「うっ……ん、あっ……あぁ……」

 声が弱くなる。俺の腕を掴んでいた手がゆっくりと地面に落ちた。手首に付いた赤い跡がじんわりと熱を持っていた。

 視界がゆがんで、はっきりと顔が見えない。

 動かなくなった那岐。彼女の頬に、一粒、また一粒と雨が降る。

 どれほど時間がたったのだろうか。

 風が止んでいた。もう那岐の息遣いも、衣擦れの音も聞こえない。

 完全な凪。

 僅かに香った西瓜の香りに、顔を上げる。四角く切り抜かれた青い夏空は、冷たくどこまでも透き通っていた。

 やはりこの世界は間違っている。死ななくて良い人間が死ぬこの世界は――。


 見上げた空には真っ白な入道雲が広がっている。牢の外はどこまでも広い。

 誰かがこの世界は綺麗だと言っていた。誰かがこの世界は生き辛いと言っていた。今日も何処かで人が泣き、人が死ぬ。

 それでも空はいつまでも変わることなく、透明感を保ったまま。どこまでも、どこまでも遠い青。どれだけ手を伸ばしても届かない。

 生と死の境界。

 朝と夜の境界。

 未来と過去の境界。

 すべての境界線の交わるところで、俺たちは生きている。世界なんか変えられないと、自分の無力さに気づきながら生きている。

 だから、せめて手を伸ばす。

 瞬間、風が吹く。夏風が髪を撫で、手首の熱を奪い去った。

 凪ぎを待つ。来世でも良い、凪ぎを願おう。

 そのために今は、自分の手が届く世界を救ってやる……壊してやる。

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