過去と未来の境界 -drop-

「私の首を絞めて」

 繰り返された優しい声。

 目の前で膝をついた結雨が俺を見上げて微笑む。淡く色付いた頬に濡れた瞳、強く結んだ口元から目を逸らす。

「なんでそんなこと」

「理由は後でね。この依頼は貴方じゃないと駄目なの。那岐じゃないと意味がないの、だからお願い」

 開いた両手へと視線を落とす。僅かに震える指先。

 覚悟を決めろ、拳を握り思いっきり息を吸う。身体の中の靄が晴れるように、冷たい空気が体内の濁りを空へと運ぶ。

 左手を結雨の細い首元へ当てる。

「怖くないか?」

「大丈夫、殺してくれってお願いしているわけじゃないから」

 手のひらに感じる言葉の形。これ以上は覚悟が鈍りそうで、優しく右手を添えた。親指と人差し指の間で揺らめく命。僅かに力を籠めると、柔らかな肌に指が食い込み赤い痕を残す。

「これで良いのか」

「もっと強く。体重を乗せて」

 そう言って、後ろへ倒れこんだ。砂浜に仰向けになった結雨に引っ張られるように、首を押さえつけて体重をかける。んっ。顔にかかる小さく漏れた息。

 砂の上に広がった長い髪が海を指す。

「そのまま絞めて……」

 迷いを振り払うように絞める力を強くする。ごめん……ごめん。心の中で繰り返す誰にも届くはずのない懺悔。

 首に広がった痕の赤みが増す。

 無意識に酸素を吸おうと大きく開いた口に、瞳孔の開いた眼。その黒に吸い込まれそうになる。

「あっ……ああ……んっ」

 絞り出すような声と掴まれた手首に苦しくなる。世界が歪み、いくつもの記憶が目の前を巡る。自分の中に残った人間性が見る走馬灯。

 自分の罪を目に焼き付けるように、苦しむ結雨の表情から目を離せない。

 どれほどの時間が過ぎたのだろうか、そっと手首を掴んでいた力が抜ける。開いたままの口と閉じた目。両の手を首から離し体を起こすが、じんわりと手首が熱を帯び、深い爪痕と赤い痕が消えずに残っていた。

「結雨――」

 乱れる息を整えていると僅かに結雨が動き出す。

 数回咳き込んだ後、結雨の目が開いて胸が大きく上下する。ゆっくりと顔をこちらへ向けて、満足げに口元を綻ばした。髪からは砂が零れ落ち、喉を摩る白い指が日差しを受けて輝く。その光景はフレスコ画に描かれた天使のようで息が詰まってしまった。

「那岐、ありがとう。これで十分だよ」

 スカートに付いた砂を払い、とんっ、片足で跳ねて服に入った砂を落とす。さらさらと風に舞った黄金色の欠片が、夢のように消えた。

「苦しくなかったか」

「そうだね。死んでいるのに、息ができないと苦しくなるんだって思った」

「首を絞められると苦しいって認識があるからな。意識しなければ良いんだけど、まあ無理だろう」

 改めて考えると変な話をしているなと思う。

 でも、この何でもない時間がどれだけ大切か。

「ごめん、辛かったよね。私よりも苦しかったと思う」

「そんなことない」

「無理しないでよ、これで最後なんだから。抱え込まないで弱音とか言って欲しいの。……もう、貴方は優しいのに、自分の感情を出すのが苦手過ぎます。自分を殺しすぎですよ、そろそろ貴方自身を赦して良いと思います」

「何を言っているんだよ」

 頭痛がする。鋭い痛みが頭の奥を抉るように何度も存在を主張する。

 手首の痛み。苦しげな声。フラッシュバック。ブラックアウト。

「まだ思い出せない? もしかして記憶無くしちゃったかな。ちょっと待ってね」

 結雨の声が曇って聞こえる。結雨が海岸の隅に転がっている真っ白な岩へと向かっていた。まっすぐに伸びる迷いのない足跡が、俺なんかよりも強くて、芯が通っていることを物語る。そうだ、俺なんかよりもずっと――。


「はい、どうぞ」

 差し出された真っ白な封筒。その穢れの無い無垢な白に、恐る恐る手を差しだし受け取った。見た目以上に厚さのあった封筒は、軽いはずなのに重く、封を切ることが怖くなる。封筒の冷たい質感。

 冷たさには慣れたつもりだったのに、今では温もりを求めている。それは昼の暖かさでも、マグカップに注がれた紅茶の優しさでもない。

 望むのは誰かが寄り添ってくれる温度。

「封筒を開けても?」

「うん。手紙が三枚入っているから、順番通りに読んでね」

 糊付けされた封を開け、二つ折りにされた三枚の便せんの中から、『一枚目 那岐へ』と書かれた桜色の一枚を取り出す。手紙の隅が折れないように慎重に開く。

「やっぱり目の前で読まれると恥ずかしいな」

「止めた方が良いか」

「ううん、いま読んで。そこに全て書いてあるから、私と彼女の気持ちも全て」

 喉に詰まった言葉が霧散する。赤い瞳から視線を落とし、手紙に綴られた文字に目を通す。丸く小さい文字が同じ大きさで並ぶ綺麗な線。

 『風の香りを憶えていますか?』。その一言から始まった文章に、崩れていた記憶の欠片が嵌り始める。風の香りは憶えている。あの透き通るような青と、触れたら消えてしまいそうな白も全て。


『風の香りを憶えていますか? 私たちが出逢ってから僅か数日。初めて会った日に見上げていた空は、絵の具の青よりも青く、ガラスのように透き通っていたのを思い出します。波の音と蝉の声。自分の境遇を認識できず、ただ夏の中で私は迷子になっていました。そう貴方に、那岐に出逢うその瞬間までは。

 私が死んでいること、ここが現世であること、前世の後悔が私をここに留まらせていること。初めての事ばかりで、正直私は考えるのを辞めていました。

 あっ、私、死んだんだなってことだけは認識してね。

 それからは毎日、那岐が私を解放してくれるために手伝ってくれたね。沢山の依頼人に会って、図書館や神社、廃墟、夏祭りに学校へも行って。線路を歩いたのは良い思い出です、映画の世界に入ったような不思議な感覚で楽しかったな。本当に線路ってどこまでも続いて、どこへでも行けるって、私たちの未来がその向こうにあるんだって。

 苦しいこともあったけど、辛いこともあったけど、私にとってこの数日間、那岐との記憶は、とても大切なものになったんだ。ありがとう。

 そして、私に前世の記憶を思い出させてくれたことも感謝しています。

 私のために傷ついて、依頼人のために記憶を無くして、隠れて声にならない叫びをあげていた姿をずっと横で眺めていたから心配なの。いつか那岐が壊れてしまうのではと。いや、もしかしたら、もう既に……。その"もし"を考えるのは怖いから、私は希望を言います。願望を押し付けるね。那岐の心はまだ息をしていると。

 生きたい人が生きることの出来ない世界は、間違っていると言っていたよね。私もそれは間違っていると思う。でも、その世界を実現させようと那岐が傷つき続ける世界も間違っている。

 だから幸せになって、もう無理しなくても良いんだよ。那岐はもう赦されているの――。

 風の香りも、夏の空も、存在するのは今この瞬間だけで、二度と同じ景色は訪れない。もし同じに見えても、それは似ている別のものなの。那岐には生きてその世界を見て欲しい。完全に私の我儘だけど。

 そうそう、次の手紙は彼女から。気づいていると思うけれど私の前世ね。彼女の言葉が那岐の救いになれば嬉しいな。


 P.S.

 私は待っているから。次に会うときはお互い名前も顔も分からないけれど、また会えると祈っているから。いつか来世で。そのときは手を繋ごうね』


 いつ以来だろう、誰かから素直な気持ちを受け取ったのは。薄っぺらな俺の言葉には比べ物にならない、質量のある想い。虚飾にまみれた空っぽな俺の生き方が苦しくなる。

 風に乗った命の香りは、可能性という虹色の輝きを持った未来を紡いでいく。でもその中で取り残される俺たちは、いつまでも死者のまま。色の付いた未来へは辿り着けない。

 奥歯を噛み締めて、二枚目の手紙を取り出す。『二枚目 貴方へ』と書かれていた。何故だろう、俺の指先が手紙を開こうとするのを拒絶する。

 首を振り、無理やりに指先を動かす。もう立ち止まることは許されない。


『お久しぶりです。私のこと憶えていますか。いま私は結雨さんの体を借りて、この手紙を書いています。貴方のご友人の探偵さんも、目の前で私のことを嬉しそうに眺めながら紅茶を飲んでいます。そういえば、先ほど角砂糖を六つほど入れていたのですが、甘くないのでしょうか。あの時代に比べると、美味しそうなものが溢れる、楽しい世の中になりましたね。

 さっそく話が逸れちゃいましたが、私が貴方へこんな風に想いを綴れているのは、皆さんの協力のお陰です。もちろん、それは貴方のお陰でもあります。自惚れかもしれませんが、前世を視れるという貴方の不思議な能力は、この日のためにあった奇跡だと思ってしまうほどに。

 このままだと書きたいことが溢れ出てしまうので、一旦ここからは貴方に伝えたいことを書いていきます。

 まずは、私が結雨さんを縛り付けることになった経緯について。あれは、とある夏の日、幼稚園から帰ってきた結雨さんの食べる、一口の西瓜の香りで私は目を覚ましました。そして目覚めた私は、水菓子が美味しそうだなと暢気に考えていると、結雨さんの記憶が流れ込んでくるのと共に、突然生前の記憶が蘇ってきたのです。苦しさと寂しさを混ぜて、痛みで煮詰めたような記憶。その灰色に満ちた中で、唯一輝いていたのが貴方との記憶でした。

 後悔と言えばもう一度、貴方に会いたい。会って、"ありがとう"と"ごめんなさい"を伝えたいということ。無理だと分かっていたから、たったそれだけ。

 でも、それが可能だと知ってしまったの。結雨さんが中学生になった頃、あの堤防で空を見上げる貴方が視えたの。あの姿を視たのはたぶん私だけ。本当に一瞬、たった一瞬だったけれど、一目で貴方だと分かりました。服装や髪型は変わっていたけれど、憂いの籠った表情はあの頃の貴方のままでした。優しさと冷酷さの境界線に無理して立っているような悲し気な瞳。そして、僅かに香った彼岸花。

 だから、私は亡くなってしまった結雨さんを縛り付けてしまった。本当に結雨さんには感謝していますし、貴方が私たちを見つけてくれたことも感謝しています。

 そして次に私の後悔を。

 この手紙を読んでいるということは、私の頼みを聞いてくれたと信じて伝えます。また苦しめてごめんなさい。一つはさっきも書いた通り、貴方に"ありがとう"と"ごめんなさい"を伝えたかったことです。貴方は信じないかもしれないし、拒絶するかもしれないけれど、私は救われました。あの地獄で手を差し出してくれた貴方は、私にとっての希望であり救いだったのです。ただこの時代で、あの結末が救いだったのかと聞かれれば違うと言えるし、とても歪なものだと言えるでしょう。

 それでも、ありがとう。私が最期まで私でいられたのは、貴方のお陰です。

 そして謝りたいことは、貴方に癒えることのない傷を負わせてしまった事です。

 私は私の我儘で、貴方に苦しい選択を迫りました。自分の事しか考えずに、貴方がどれだけ傷つくかも考えずに……。改めて思い返すと、酷い話です。

 ごめんなさい。

 暗い世界で感じた貴方の涙が、辛そうな表情が、どんな刀よりも鋭く私の心を撫でました。どれほど残酷か、ごめんなさいの言葉だけが貴方に届かなかった。本当に、ごめんなさい。どれだけ謝っても私の罪は消えないけれど、どうしても直接伝えたかった。そして、貴方の行為は間違っていないと伝えたかった。


 もう一つの後悔というのが、いや、恥ずかしいな。

 やっぱり、文字に起こすと恥ずかしいけれど、どうか笑わずに読んでください。私はもう一度、優しさと愛情を受けたかったのです。生前どんな生き方をしたのかは、貴方なら少しは知っていると思うけれど、私の人生で私のことを本気で考えて心配してくれたのは貴方だけでした。そんな貴方が怒って涙して、それでも私のために決断してくれたあの行為は、生まれて初めて感じた優しさだった。愛情だった。

 つまり、私の知っている愛情表現があれしかなかったの。もっと他に無かったのかなって、今更ながら自分自身が恥ずかしい……。


 私たちはお互い、幸せなまま生きることは出来なかったと思います。

 生きる自由を奪われた貴方と死ぬ自由を奪われた私。理不尽に命を奪われ、命を奪って、死に場所すら選べない。小さな後悔が雪のように降り積もる中で、みんな生きていた。それが私たちの生きた時代で、そういう生き方しか選択できなかったと、苦しみは時代のせいにしてしまいましょう。過去は変わらないのだから。

 結雨さんの視点から、私と別れた後の貴方の末路を知りました。修羅になるには優し過ぎた貴方。貴方だけが苦しむ必要はない……もうそろそろ自由になるべきです。背負った咎を赦す誰かが居なずに苦しむのなら、私が赦しましょう。貴方の生き方を肯定しましょう。それが私に出来る恩返しであり、私がいま多くの人に助けられながら、この手紙を書いている意味であるはず。

 私の言葉が貴方の助けになれば嬉しいです。


 書き出したら伝えたい言葉が溢れ出てきて、筆が止まらなくなってしまい困っています。頭を悩ませていると、探偵さんたちに笑われてしまいました。貴方のご友人は面白い人たちですね。それにこの時代は色彩豊かです。四季の変化だけでなく、皆さんの表情、言葉の音色、その全てが彩りに満ちていて、未来は幸せに向かっていたんだと実感しています。実は貴方の妹も現世で幸せに過ごしていてね、貴方の願いは少しだけ届いたんですよ。

 ……さて、これで最後にしようと思います。

 本当は貴方、記憶があるよね、私には分かります。記憶の断片を思い出しているのでしょう。それに気づいてないのか、目を逸らしているのか。

 もし私の思い違いでしたら、どうか結雨さんと過ごしたこの数日間の足取りを辿り直してください。どうか、どうかお願いします。


 最後の一枚に、私の名前と貴方の本当の名前を記しておきます。

 自分を赦せる時が来たら読んでください。


 過去と未来の境界に私たちは常に立っている。そこから眺められる、自由な色彩で描かれた過去も、ガラス玉のように透明な未来も、すべて私たちの希望です。忘れないで、貴方を大切に思っている人がいることを。

 貴方が、その名前を憶えていてくれて嬉しかった。

 ありがとう、いつかまた優しい雨の日に――』


 震えていた。手紙を持つ指先も、無意識に漏れた声も。柔らかな砂に膝をつく。小さな音を立てて、砂浜が形を変える。

 咎人は幸せになってはいけないという、自分にかけた呪いを解く言葉は簡単で、優しかった。水彩画のように滲む世界に降った雨は、暖かくて俺たちを濡らすことはない。

 歩いてきた結雨が、目元を覗き込み頬に触れる。彼女の瞳に映った世界は、やはりパレットから零れ落ちたように色彩豊かだ。瞳に溶けた未来が歪んでは創られ、七色に輝く。その綺麗な世界には俺も映っていた。

「前を向いて」

 ――前を。

「未来を見て。私たちの未来を」

 立ち上がった結雨が波際へと向かい靴を脱ぐ。空へ投げ捨てられた靴が光に消えた。

「こんなに未来は綺麗なんだよ。那岐が救おうとした彼女は、この先で待っているの」

 鈴のような波音が、結雨の足元を濡らす。さっ、と真っ直ぐに蹴り上げられたつま先から、白い水飛沫が上がり光り輝く。未来。希望。

「待ってくれ」

「いまは待たないよ。待つのは未来」

「必ず行くから」

「うん、その言葉が聞けて良かった。私たちは待っているよ」

 微笑みながら手を広げた。仄かに結雨の足元が光に飲み込まれていく。

 俺はどうにか結雨のもとへ辿り着こうと足を動かす。一歩動かすごとに、柔らかな砂に足を抱きしめられ、何度も何度も倒れそうになる。それでも光へと手を伸ばした。

「貴方に出逢えて良かった」

 指先が結雨の頬に触れた瞬間、光となって海へと消えていった。七色に輝く光を抱きしめる。指の隙間から砂のように零れ落ちる光。

 痛みを。この苦しみから逃げるための痛みを。音にならない叫びが砂浜に響く。誰にも届かない悲鳴。もう別れは嫌だ。

 一人を幸せにするなら、一人を苦しめて良いのだろうか。

 一人を殺しても、一人を救えば赦されるのだろうか。

 決してそんなことはない、人間同士を同じ天秤に乗せることはできないのだから。だから俺がどれだけ人を救っても、赦されることはないのに……もう大丈夫と言ってくれる人がいた、赦すと言ってくれる人がいた。

 もう少しだけ、あと数人だけ、俺は迷っている人たちと向き合いたい。そうしたら、三枚目の手紙を開こう。

 そして彼女の名前を呼ぼう。

 会いに行こう。未来へ――。


 空を見上げた。

 海よりも淡い空模様は、あの日のようにどこまでも透き通っていた。ぼんやりと眺めていれば、綿雲の隙間に明日が見えそうで手を伸ばしたくなる。届くかな、明日に。辿り着けるかな、未来に。

 拾ったビー玉で世界を覗く。小さな球体に収まってしまう世界に生きる俺たちは、所詮ちっぽけだ。世界を変えようなんてしなくても良い。目の前の人に手を差し出せる優しさがあれば、一人だけでも救える力があれば、未来はまだまだ優しくなっていく。最期くらい、そう信じたい。

 誰かがこの世界は綺麗だと言っていた。

 今ならその理由が分かる気がする。

 確かにこの世界は残酷だけど、涙が出るほどにどこまでも綺麗だ。

 そろそろ歩き始めないと。

 ――――。

 誰かが懐かしい名前を呼んだ気がして振り返る。抜けるような青空の下に雨の名を。

「もうすぐ向かうよ、――――」

 風が吹いた。冷たい風が俺の言葉をどこかへ運ぶ。波が揺れ、草木が踊りだす。空高く舞い上がった枯葉が、自由に遊び続ける。仄かに香った金木犀の香りに、季節の移ろいを実感して笑みがこぼれた。

 触れようとした彼女の声には、もう手が届かない。

 もう風は止まない。

 もう凪は来ない。

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