RaiNdROP

Rain:

昨日と今日の境界 -bird-

　小鳥の囀りが影のない海岸線に響き渡る。

　結雨から依頼を受けて三日。あれ以降、音沙汰は無く一人で依頼を熟す日々が続いた。日常が戻った安心感と日常に成りかけた寂しさが胸の奥で渦を巻く。

　止みそうに無かった雨も今では鳴りを潜め、見上げた空は晴れ渡っている。まるであの日が蜃気楼だったかのように――。

　そんな透き通る青空の下、海岸線をどこまでも歩いても海は変わらない。砂浜に転がる流木、付いた足跡、沖合に浮かぶ船。変化するのは周りの環境だけで、海の本質は変化しない。それは俺たち人間も同じかもしれない。俺たちは変わることは無い。変わったと指摘されても、それは周囲の環境が変わっただけかもしれないし、その人が元々持っていた本質のある一面が、色濃く表に出ただけかもしれない。俺はそれを変わったと思いたくない、それは生まれ持った個性であり、本質だ。

　俺はどこまでも俺で、過去の罪も咎も消えることは無く背負い続ける。浴びた血飛沫は雨粒で落ちることは決して――。

　波に揺れる日差しと、風に揺れる髪。

　伸びた人影を踏んで立ち止まる。

「久しぶりだな」

「そうだね、久しぶり。風が気持ち良いね」

　ふわりと空気を孕む髪を優しく撫でながら、堤防に座っていた結雨は微笑んだ。

　確か初めての出会いもこんな感じだったな。数日前のことが遠い昔の出来事のように思い浮かぶ。あの日と違うのは俺が砂浜を歩いていることか。堤防の影から見えた物憂げな表情は、今日はもう見えない。

「那岐、ちょっと歩こう」

　堤防から飛び降りると同時に、風に揺れていた髪が落ち着く。いつからだろう、聞こえなくなっていた蝉の声。消えた陽炎。

　今日の依頼人は彼女だ。首に手を当てて振り返った結雨を追う。

　歩き出した俺の目の前を蝶が横切り足を止める。その瞬間、僅かに香った西瓜の匂いに、頭の奥が締め付けられる。

　死にたくない、誰かの声が聞こえた気がして振り返った。広がるのは優しい潮騒と、淡い夏風だけだ。足元に転がった貝殻を踏まないように、俺はもう一度歩き始めることにした。結雨の影を見失わないように、目の前に広がる色彩が反転しないように。

「私ね、一つだけ内緒にしていたことがあるんだ」

「そうか」

　柔らかな結雨の声。誕生日ケーキに立てられた蝋燭を消すように、優しく紡がれる言葉が風に舞う。

「私、そんなに幸せじゃなかったんだ。明日が来ることに希望も無くて、ただ今という時間を浪費する、そんな生き方をしてきたの」

「……」

「生きる意味は一つしかなかった。たった一つだけ。死にたくなかったんだよね、死にたくなかったから生きていたの。でも呆気なく死んじゃった、運が悪かった」

　自分の死を運が悪い、その一言で片付けてしまうのは歪んでいる。鋭い茨を抱きしめて、深い傷を負いながら笑う。そんな生き方をしなくてはいけない世界は嫌いだ。涙の流し方も痛がり方も忘れてしまったら……それは生きていると言えるのだろうか。

「死んだら世界が綺麗に見えちゃったんだ。たぶん、人は失ってからその大切さに気付く、みたいな感じなのかな。……ううん、違うか。自由になって、多くの選択肢と可能性が見えちゃったからかな」

　俺は言葉を返せずに黙ったまま、泡沫のように浮かんでは消える言葉の中で溺れる。決して水面には上がれず、暗い水底で藻掻いている。

「着いたよ」

　結雨が向かっていた先は、二人で花火を見た海岸だった。周囲を見渡しても人影は全くない。

「花火綺麗だったよね」

「そうだな」

「那岐と出会ったあの日、あれは運命だったって今なら分かる。全部の記憶を思い出した今なら」

　影を伸ばした結雨と向き合う。改めて見た彼女の瞳には、パレットから零れ落ちたような色彩豊かな世界が映る。波に溶けた太陽が沈んでは浮かび、七色に輝く。俺が映らない綺麗な世界。

「運命は嫌いだ。未来を諦める口実になる」

「苦しいことも多いと思うけれど、出会いが全て運命なら、いま、この瞬間をすべて大切にしようって思わない？　意味のない出会いは無いって」

「別れも必然だ。別れが来るなら、出会いなんて少ない方が良いだろ。ただ傷つくだけだ」

　別れほど苦しいものは無い。何度も何度も目の前で人が居なくなる経験をすると、必然と自分が苦しまないために感情を殺すようになる。明確な線を足元に引いて、そこを超えることないように数歩下がって向き合う。愛情も友情も初めから持とうとしなければ、いつか訪れる別れは辛くない。

　自分が壊れないために、俺は自分の心を殺し続けてきた。それがいつからかはもう憶えていない。

「そんな顔しないでよ。依頼し難くなっちゃうじゃん」

「気にしなくて良い、依頼は聞く。それで何が前世の後悔だったんだ」

「依頼内容は、なんでも良いよね？」

　後ろで手を組んだ結雨が、下から覗き込むように不安げに言った。思わず後退りしながら、ゆっくりと頷く。この選択がどんな未来を選ぶのか、すぐに結果は分かるが嫌な感覚がする。

　拾い上げた砂の中に一本の針が混ざっているような……。

　実体化した身体に、湿度の高い熱が纏わりつく。

「ありがとう。私……彼女からの依頼はね」

　呼吸の仕方を忘れるほどの長い一瞬。吹いていた風が止み、鳥の囀りと波音が届かなくなる。ほんの僅かに訪れた凪。

　瞳の中の俺が逃げろと叫んでいた。

「その両手で私の首を絞めて欲しい――」

　風が吹いた。頬を撫でるペールブルーの風が身体の熱を奪い去り、包み込むような波音を運ぶ。

　凪の終わり。

　どこかで蜩が夏の終わりを囁いていた。