第15話 二人

 なんていい香りなんだろう。夢の中で里子は春翔に目覚めのコーヒーをいれていた。春翔を起こしに行くと「もう少し寝させて」と子供のような事を言うので、布団をめくってやった。すると、春翔が里子の体を捕まえて、ベッドの中に引きずり込んだ。現実は寝ている里子を起こしにきた春翔が、自分から布団の中に潜り込んできたのだ。

「里子、お粥出来たよ。起きれる?」なんとか自力で起きた里子を抱き上げ、リビングの椅子に座らせた。

「今日は雨が降ってる。そういえば里子、雨女だったけ」と春翔は笑ってみせた。里子は春翔に笑顔で応えた。

 

 涼から電話をもらった春翔は、その後、仕事の右腕としてずっと一緒にやって来た斎藤隆に会社の事を頼んだ。仕事のやりとりはパソコンを通じてできる手はずに変えた。春翔が死に物狂いで立ち上げた会社を斎藤に任せて大阪に行くと言った時は、流石に斎藤は「全く持って意味がわからない。お前、何を考えてるんだ。どうかしてる!」と机を叩いて大声を上げた。しかし、何度も額を床に擦り付けて頼のむ春翔の見て「何があったか知らないが、絶対もどって来いよ。お前の店なんだぜ。任せておけ」と理由も聞かずに承諾してくれた。会社は順調に売り上げを伸ばし続けていた。ワインの学校も一期生募集の定員をはるかに超えた人が申し込み、急遽、面接をして選ぶ事になったほどだ。今は便利な世の中でパソコンさえあれば、テレビ電話方式で現地にいなくとも打ち合わせは即座にできる。店内のチェックも画像を見ながら、春翔は細かく的確な指示をだすことができた。

 

 春翔が大阪に来たのは三ヶ月前。今の季節は春まだ遠い一月の終わりだ。

 緩和ケアをしてくれる施設に入所の手続きをしようとした涼に、待ったをかけたのは春翔だった。いきなり現れた春翔は里子の知らない所で涼を呼び出し

「お母さんを僕に下さい」と頭を下げた。

 お嬢さんを下さいと結婚の許しをもらいに来る人はいても、お母さんをという人は聞いた事はない。「母の側にいてやってもらえませんか」とお願いしたのは涼ではあったが、流石に「下さい」と言われた時は言葉を失った。

 その後、春翔と涼の間でどのようなやりとりがあったかは知らないが、今度は里子の意思とは関係なく、一八〇度生活スタイルが変化したのだ。春翔が里子を訪ねて来た時には、今まで見た事のない形相で有無を言わさない勢いだった。春翔のためにも籍を入れる事だけは断り、春翔が限界を感じる前に里子を緩和ケアの施設に入れる事を約束して、二人だけの生活が始まった。

 この頃の里子は痛みを感じることが多くはなっていたが、辛うじて鎮痛剤で幾分か楽になっていた。春翔は即座に里子と暮らすための賃貸マンションを病院の近くに借りてきた。そして、里子の体調をみて二人でお揃いのお茶碗や湯呑み、お箸など生活に必要なものを買いに出かけた。まるで、新婚さんのようで照れ臭い気もしたが、里子は満たされていた。春翔はどのように思っていたかは分からないが、今の里子には特別な事は何もいらない。春翔がそこにいてくれる、それが里子の幸せだった。後どれくらいの時間が里子に残されているのかは分からないが、一分でも一秒でも長く生きて春翔の全てを目に焼き付けたい、それが今の里子の願いだ。ただ、昔のように春翔にしてあげられる事は殆どなく、春翔の負担が大きくなっていく事を目の当たりにして居たたまれない気持ちに何度もなった。そんな時、春翔は里子の気持ちを察してか、戯けてみせたり里子に甘てくる。あの頃とは違い誰もが知る弘岡春翔なのに、世間の人がこんな春翔を見たら驚愕するのではと思う。もちろん里子の前でしか見せない姿だ。


 愛おしい春翔。


 寒い冬にようやく別れを告げ、桜便りがあちらこちらから届き始めた。里子の体は転げ落ちるようなスピードで悪くなっていった。先月の中頃から、耐え難い痛みに襲われる事があり、その時初めて「春翔、助けて」とか細い体で叫び、春翔に抱きついてきた。里子のどこにそんな力が残っていたのかはわからないが、春翔の体には、里子がしがみついていた個所から血が滲み内出血していた。一人息子の涼は、心配で三日に一度は必ず春翔と里子の住む部屋を訪ねていた。その度に緩和ケアへの入所を春翔に勧めてくれたが、春翔は断った。そのかわり、毎日、訪問医療をしてもらい、医者は痛みをとるためのモルヒネの投与をすすめた。モルヒネという言葉は、春翔には最期を意味するように思えて恐怖だった。しかし、里子を痛みから開放してあげるには、この選択しかない事に無力な自分が情けなく唇を噛み締め泣いた。寝ている事が徐々に増えていった。そんなある日、

「春翔。昔、休みの日に行ったあのカフェ、まだあるかな」

「まだあるよ」

「行ってみたい」

「じゃ、行ってみる?」

「私、行ける?」

「車椅子があるし、おぶってでも連れて行くよ」

「大変やん」

「俺も行きたい、里子と」

 病気になる前は、行こうと思えばどこにだって自分の足で歩いて行けたのに、行こうとしなかった。なのに病気になった途端、行きたい所が沢山あるのに、一人では何処へも行けなくなった。人は無い物ねだりをする生き物である。我儘なのだ。

 桜の花が散り始め、時折吹く風が可愛いピンクの花びらを遠いどこかに運んでいった。

「里子、今日は快晴やで。里子は雨女やから絶対雨やと思ったけど」と春翔が楽しげに笑いながら車椅子の里子を覗いて言った。

「もう、春翔ったら。春翔がきっと晴れ男なんだよ。だって、紀伊半島を旅行した時も雨、一度も降らなかったし」


 カフェの店内は沢山の人で賑わっていた。里子はここに来て初めて気がついたのだが、店内には車椅子で入れるスペースなどはなかった。「帰ろう」と言いかけた時、車椅子の里子を春翔は抱き上げ、通りの見えるオープンテラスのテーブル席へと連れて行った。一瞬、店の客の視線が里子注がれ静まり返ったが、すぐに何事もなかったかのように元の騒めきを取り戻した。里子はアールグレイの紅茶を頼み、春翔はブレンドコーヒーを注文した。二人はこれといって言葉を交わす事はなかったが、時折、お互いの顔をみて微笑み、まったりとした時間がゆっくりと流れていった。


 里子は薬のせいか、一日の大半は眠りの中にいた。春翔は里子が寝ている間に、遠くへ行ってしまうのではないかという恐怖に襲われた。何度も里子の寝息を確認しては安堵していた。里子が起きた時に近くにいてやりたくて、仕事の机を寝室に移した。眠っている里子に対して、一人話しかけたりもした。

 その日、里子は体調が良かったようで、長い時間目を開けていた。ベッドの上で起き上がって久しぶりに会話を楽しんだ。眠りかけた里子をみて、春翔は思わず里子のベッドの中に潜り込み、折れそうなぐらいやせ細った肩をだき、優しく里子のおでこにキスをした。

「おやすみ里子」

 いつしか、春翔も里子の横で眠っていた。夕日が摩天楼に沈もうとしていた。慌てて里子の顔を覗き込むと、里子は目を開けていて、夕日に照らされた街並みを見つめていた。

「春翔、お風呂に入りたい」と消えいりそうな声で里子が言った。

「明日、訪問介護の人が清拭してくれるよ」

「湯船に浸かりたいの」

「わかった」春翔はそう言って、バスタブにお湯を張り、お風呂上がりにすぐに拭いてやれるようにバスタオルを広げて準備をした。

 春翔は自分も裸になり、里子の着ているパジャマも脱がしてあげた。元気な時は恥ずかしがっていたが、今は抵抗なんてできない。春翔に全てを委ねている。里子の体は薄いガラスのように繊細で、少しでも力を掛けるものなら、今にも粉々に砕け散ってしまいそうだった。春翔は泣くまいと堪えていたが、里子を抱き上げた瞬間、あまりの軽さに堪えきれず流れる涙を止める事は出来なくなった。里子はありったけの力を振り絞り、春翔の首にしがみついた。里子も泣いていた。春翔は里子を抱えたまま湯船にそうっとそっと身体を沈めた。里子は気持ち良さそうに目を閉じて微笑んでいた。二人だけの時間は止まる事なく、規則正しく過ぎていった。   

 里子の体を拭いてあげ、パジャマを着せてあげようとすると

「あのブルーのワンピースが着たい」とクローゼットを指差した。そこには、春翔と再会した時に着ていたタイトなワンピースが掛けてあった。

 今はその中で里子の体が泳いでいる。春翔も里子に合わせてタキシードを着た。里子を椅子に座らせ横に並んで写真を撮った。あの時のネックレスがお互いの胸の上で呼び合うように光っている。そのまま、春翔は里子をベッドへ運び、片時も離れることなく深い眠りへと二人は落ちていった。


「春翔」

 里子に呼ばれた気がして、目を覚ました。

 隣で眠る里子を見ると口元が笑っているように安らかに眠っていた。春翔は起こさないようにそっと里子の唇に自分の唇を重ねた。


「里子!」


 里子が春翔の呼びかけに応える事は二度とはなかった。


     完 

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胸に抱かれて… ありがとう愛しい人へ 夏華 @natsuka0819

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