『魔の山』トーマス・マン

 トーマス・マンの魔の山は第一次世界大戦と第二次世界大戦の間――戦間期に出版された作品で、舞台は第一次世界大戦前のスイスのサナトリウムです。主人公はハンス・カストルプというごく普通のドイツ人の青年。スイス人では無くドイツ人というのが重要です。作者のトーマス・マンもドイツ人ですが、自伝的要素はあまりありません。


 内容ですがこの小説は内容よりも構造が重要です。――ドイツ教養小説の最高峰でありながら、それを全て笑い飛ばす俗悪なパロディであるというその構造が、なによりも作者の非凡さを浮かび上がらせています。

 ではなぜトーマス・マンはその教養小説の至高にして同時に俗悪というその奇妙な小説世界を作り上げることができたのでしょうか? 以下に見ていきたいと思います。



◇教養小説のパロディ


 魔の山はドイツ教養小説の最高峰の一つでありながらそのパロディとしても読める作品です。最高峰なのにパロディとはどういうことか。それはまず教養小説とは何かについて軽くおさらいしておきましょう。


 教養小説――ビルディング・ロマンは一般的には主人公の青年が小説の中で様々な体験をして挫折や成長をし、精神的に成長をなしとげ、最終的には一人前の大人として周囲に認められるまでを描いた作品で、ゲーテのヴィルヘルム・マイスターの修行時代などが代表作としてあげられます。


 魔の山のそれに習って主人公の青年が様々な体験をします。しかし魔の山は教養小説のパロディだという。どこがか。それは舞台となる雪に覆われたサナトリウムにこそあります。あるいは彼のもつ結核という病気が。主人公が本当に結核なのかは実際かなり疑わしい物なのですが。それでもその彼がかかっているなにがしかの病気はこのサナトリウムで魔法のように働きかけます。


 病気。この作品でそれは主人公の成長をゼロに戻すシステムとして作用します。トーマス・マンこの構造により主人公の成長を自在に操る術を手に入れました。その結果、作家は主人公に何をさせたか。

 ありったけの教養小説的要素を詰め込み。主人公の内面を成長させ、けれどもそれを病気でゼロに引き戻す。これを繰り返したのです。

 これにより教養小説の真髄を取り込みながら、まるで精神的に成長しない主人公というある意味怪物を形成させることに成功したのです。終わりなき修業時代。終焉の無いモラトリアム。まさに魔の山。主人公は永遠とも思える時間、そこに捕らわれ続けます。



◇魔の山の終わり


 魔の山は突如第一次世界大戦が始まり、突然主人公の病気が治ったことにされ、主人公が前線にかり出されて成長した青年では無くたんなる一兵士として群衆に埋没することで終わります。これも教養小説のパロディの真骨頂と言っていいでしょう……。


 結局主人公の内面は変わること無く、外部が変わることによって物語が終わることは教養小説ではあってならないものであり、そもそも教養小説とはしっかりとした盤石な大人の世界がまずあり、そこに未熟な主人公がイニシエーションしていくと言った体裁を取るため、外部の悲惨さは考慮されていないのです。しかしトーマス・マンは教養小説に外部の悲惨さを持ち込んだのです。おそらく、第一次世界大戦を経験した教養人のつとめとして。ある意味のどかだったドイツの教養小説、そして何よりも以前のドイツそのものにに墓碑銘を刻んだのでしょう。





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