『啓蒙とは何か』イマヌエル・カント

 カントというと難解な哲学書を書いた人と言った印象を与えがちで、それはある程度正しいのですが、この『啓蒙とは何か』は雑誌に掲載された論説と言うことでとても読みやすいものになっています。

 内容も明快で哲学者ってこんな簡単な文章も書けるんだなぁと驚いたのを覚えています。

 時代背景はフランス革命前夜のヨーロッパ。すでにアメリカは独立しています。雑誌での議論相手はモーゼス・メンデルスゾーン。作曲家のフェリックス・メンデルスゾーンのおじいさんです。

 近代の足音はもう迫っていて、激動の前の小中止のような時代。


 読んでみて思うのは、あれれ、当たり前のことしか書いてないなと言うことでしょうか。

 実際の所、近代というプロジェクトはこのカントが書いたシナリオ通りにほぼ進行したので、いまではここで書かれているたいていのことが当たり前になってしまったという結果になりました。

 そういった意味でカントはルソーに続いて近代をグランドデザインした哲学者とも言えます。『永遠平和について』で国連についても語っていますし。

 (哲学が歴史を! といぶかしむかも知れませんが、東西冷戦は主に思想の違いにより起きた対立ですし、冷戦下は哲学者が歴史をデザインする時代だったとも言えます。……案外今もそうかも知れませんよ?)

 とはいえ、本当にカントの書いたことは当たり前になっているでしょうか? 本当に人間は未成年の状況から脱しているでしょうか。理性を自由に、十分に使える状況になっているでしょうか? 啓蒙については現代でもいまだに突きつけられた問題なのです。

 

 フランスの哲学者、ミシェル・フーコーはその晩年に於いてこの論文を最重要視してましたし、ドイツの哲学者、ユルゲン・ハーバーマスは近代はいまだ未完のプロジェクトであると表現しました。さらに最近年では逆に人々を前近代の暗闇に導く暗黒啓蒙などという思想も勃興してます。(暗黒啓蒙についてはまた書くかも知れません)また近年の監視社会、SNSなどの相互チェックなど自由意志はこれまで無い以上に狙われています。


 また啓蒙の弱点として、他人に流されない自分を形作るも自由、他人に流されてしまう自分をよしとするかはまったくの自由に任されているとも言えてしまいます。それだけ自由という概念は重いのです。


 そのなかで自己をどのように形作っていけばいいのか、自分の内面自由をどうトリートメントするかがいつの世も問われているように思えます。前掲の言葉に近いですが、啓蒙とは常に差し迫った人類の問題なのです。



◇転んでもいいじゃ無いか、人間だもの


 カントの議論で面白いのは、失敗について甘いことです。人が未成年から脱しようとしているんだから転んで失敗するのは当たり前、むしろ失敗してもいいんだよと言ってくれる哲学者はカントぐらいでは無いでしょうか。しかしそれは、失敗を許す環境が整っているから言えることであり、現在ははたして失敗を許容できる社会でしょうか? という疑問が生まれます。

 さて、どうなんでしょうね。

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