エピローグ
冷蔵庫のご飯をチンして食べる一人の夜にも慣れた。
パパとママのいない台所。お風呂に入ってバスタオルで髪の毛をくるみながら冷蔵庫をあけ、麦茶を飲みつつテレビをつける。我ながら、風呂上りにビールを飲むオヤジみたいだと思う。麦茶のおともに柿ピーを小皿に入れて持ってゆけば完璧だ。
どっこいしょと椅子に座り、飲み食いしながらテレビを眺める。エアコンをぽちっと入れれば快適空間のできあがり。これが、ママだったら「電気代がもったいない」と怒るところだ。
(いやあ、好き勝手するよわたしゃ)
わたしを仲間外れにして忍者戦争にあけくれているパパママよ、そっちがそうなら、わたしだって好きにさせていただく。
それに宿題はもうほぼ終わっているのだ。夜更かししてだらけても構うもんか。
テレビでは大人のドラマが大いに盛り上がっている―ーアアッ、夏夫さんいけませんわこんなところでッ。おおお奥さんッ、奥さんッ。あああッ、夏夫さんッ――これ、パパママがいたら絶対に見せてもらえないヤツ。
だいたい、みんなわたしを子供扱いしすぎる。小学6年にもなれば、だいたいのことは分かるんだ。どうやったら子供ができるとか。そして、世の中にはイケないことがごまんとあることとか。
ぐびぐびと麦茶を飲みながらドラマを眺めていると、いいところで「ピロリン」と、注意報が鳴った。上の方にテロップが流れてくる。
ああ、またか、と、わたしは頬杖をついてテロップを見送った。
「忍者党勢力バーサス真正忍者勢力の本日の戦い、真正忍者勢力側の有利に」
ぱちんと番組を変えた。何となく。すると、過激な大人のドラマから、極めてドライな雰囲気のニュース番組になった。
夏服のアナウンサーは、まさに今、忍者合戦について読み上げ始めたところだった。忍者党勢力バーサス真正忍者勢力の本日の戦いは――最近になって知ったのだが、どうもパパやママをはじめとする、この界隈の参戦者たちは、真正忍者勢力と呼ばれる側らしい。なにが真正なのやら全く分からない。そして、どうも、この忍者合戦というのは、朝から始まり、夜の定時には切りあげられるらしい。
夏休みの開始と同時にスタート、夏休みが終われば終了という冗談みたいな争いである。なるほど、何時から何時までというルールがあってもおかしくはない。
うちのパパママの帰宅が遅いのは、残業をして帰ってくるからだろうか。あるいは、本家のほうで一杯やって楽しんでから帰ってくるのかもしれないな。
(だって、最近うちの中が、うっすらお酒臭いんだもん)
「忍者は殺し合うのではなく、命を護りながら敵陣から味方のところまで戻る、というのが本来の使命なので、戦い方も一見物騒だけど、根底は極めて平和的だそうです。参戦中の忍者のみなさんから、おたよりで戴いております」
女性アナウンサーはにこにこして、まるで小学校の行事を紹介するみたいに語っている。ほのぼの系ニュース、あるいは、スポーツの結果報告みたいな感じだ。
わたしはぱちんと、また番組を切り替えた。さっき見ていた大人のドラマではなく、品の悪いお笑い番組にした。コント中の芸人さん、今のトレンドの忍者装束を着ている。
(まあ、あの時も、忍太郎にとどめをさそうと思えば、できたのかもしれないなあ)
あの黒装束さんは。
麦茶をぐびっと飲んだ。
河原での一件を思い出す。忍太郎を襲った黒装束さんは大人の忍者だし、いくら忍太郎がすばしこくても、わたしというお荷物を抱えていた。だから、本気を出せばもっと忍太郎を追い詰めることができたと思う。
忍太郎も額から血を流していたけれど、よく考えれば、あれ、ほんの擦り傷だ。黒装束さんからの攻撃を受けたというより、転んでおでこを擦ってできた傷のように思える――今考えてみたら、
(なぁにが、姫のパッチン止めのおかげで難を逃れた、だぁ)
ほっぺにチューされた場面を思い出して、ちょっと動揺したけれど、麦茶を飲み干して平静を保った。
桜子さまが、忍者党側なのか真正忍者側なのかも分からない。というより、状況がシュールすぎて、意味の分かる部分がまるでない。
一体、あの人たちはなにをやっているんだろうか、と、わたしは極めて冷めている。もはや、あきれてものも言えないのだった。
まあ、夏休みが終わればヘンテコな忍者合戦は終わるというし、すべてはもとの通りになるのだろう。その時、わたしは性根を据える。桜子さまから売られた喧嘩を、わたしは買うつもりだった。
戦いから逃げているだって、わたしが。そんな学級委員長は認めないだって。
なにを独りよがりなことをお言いだ。それならわたしの方にも、言いたいことは山のようにある。
「まさか、桜子さまともあろう御方が、バカバカしい忍者ごっこにあけくれて、宿題の提出ができないなんてこと、ありませんわよねえ」
ぼそっと呟いた。にたあ、と、口角が上がってしまう。ぐふ、ぐふぐふ。悪魔のような笑いがこぼれてしまう。
桜子さまはともかく、凸子と凹子はアウトかもしれないな。だって、毎日あんな忍者訓練していたら、お勉強のほうはおろそかになるだろう。クラスじゅう、夏休みの宿題を提出することができないことも考えられる。
「新学期なので、宿題を提出してくださーい」
宿題、まだ出していない人はいますかー。
学級委員長って、良い仕事だ。なんたって、先生から宿題の提出状況を把握するよう言われているんだ。宿題を出していない人については、毎日ネチネチ迫ることだってできるんだ。
(見てろよー)
ある意味、新学期が楽しみだ。そして、そんなふうに考えられるようになったわたしは、「押し付けられ学級委員長」から、抜け出しかけているのかもしれない。
なんて、この頃は思う。
**
夏休みの最後の日、県民会館で小学校の壁新聞コンテストの結果発表があった。
以前から展示はされていたのだが、その日、金賞から佳作までの作品にリボンがつけられ、受賞者が明かされるのだ。
朝からおでかけの支度をし、朝ごはんを食べに台所に行ったら、ママが忍者装束姿でそうめんを茹でながら、話しかけて来た。
「今日までだからねー。乙女、夏中いい子でいてくれて助かったわぁ」
その日もパパとママは、慌ただしく本家に出かけようとしていた。
忍者の戦いは8月31日まで。それで、いったんはおしまい。またいつもの生活に戻る。
「ホラ、なんだかんだ言っても、今のご時世、忍者というだけでは生きていけないじゃない」
心の本業は忍者でも、現実の本業は会社員だもんね。本音と建て前の世界で生きるのが大人なのよ、分かった、乙女ぇ。
(あっそ)
溜息が出た。なんであれ、忍者をやっている時のママは苛々していないし、パパとも仲良くやっていそうだ。
パパもママとまともに話をしている。たまには両親で忍者をやるのも悪くないのかもしれない。
「次の戦いはねえ、冬休みだからー。そん時はよろしくねー」
ママは笑顔で言った。
はいはいと生返事をした。パパとママがお勝手から出て行ってから、ナンダッテと振り向いた。次の忍者合戦があるのか、しかも冬休みに。
これから、長期休暇ごとに忍者がわけのわからない戦いを繰り広げるというのか。
(やっぱり、わたし、巻き込まれなくて良かったのかもしれない)
**
電車に乗って県民会館まで行った。
壁新聞コンテストの会場は、それほど混んではいない。多分、今みんなの関心は、あの訳の分からない忍者合戦の方にあるのだろう。
県内の小学校から出展された壁新聞は、どれも見栄えがして、おもしろいものばかりだった。戦国小学校6年1組は歴史をテーマにしていたけれど、他の学校では、料理や国際的な話題がテーマだったり、様々な壁新聞が並んでいた。
眺めているだけで時間を忘れそう。
ぽやっと会場を歩いていたら、ふいに肩を叩かれた。振り向いたら、あきちゃんが恥ずかしそうな笑顔で立っていた。
あきちゃんたら、薄桃色の忍者装束なんか着ちゃって。本当は戦いに行かなくちゃいけないのに、壁新聞コンテストの結果が気になって、こっそり会場にもぐりこんだのだろうか。
「あっ、見て、見てみてっ、乙女ちゃんっ」
あきちゃんが叫び、飛び上がった。そして、わたしに抱き着いてきた。ぎゅうぎゅう首がしまって苦しい。
飛び跳ねるあきちゃんの肩越しに、わたしはそれを見た。
壁新聞コンテストの金賞のリボンは、確かに、わたしとあきちゃんの忍者新聞に貼りつけられていたのだ。
きらきらと輝く金色のリボン。「金賞」と力強い毛筆で書かれた丸いカード。
「ああー、獲っちゃったねー」
わたしは言った。忍者新聞。本家に宿泊した思い出がよみがえる。
「多分、今のトレンドだからじゃないの、忍者が」
本気でそう思ったので、わたしは案外冷静だった。だって、見栄えだけなら、どう考えても桜子さまのマリーアントワネット新聞の方が上だった。内容もきちんとしていると思う。
そのマリーアントワネット新聞は、銀賞だった。会場のどこかからか「今回は負けましたわっ」と聞いたことがあるような声が聞こえたので、もしかしたら桜子さまも、戦いの合間にコンテストの結果を見に来たのかもしれなかった。
「また、桜子さまが闘志をむき出しにするよ」
わたしがため息交じりに言うと、ぎゅっと手を握り、あきちゃんが真面目な目で言った。
「大丈夫よ乙女ちゃん。乙女ちゃんには大魔王が――じゃなくて、わたしがついているんだもの。誰一人として、乙女ちゃんに変なことをさせやしないわ」
う、うん。ありがとうあきちゃん。わたしは一生懸命に笑いを作った。
あきちゃんのお陰で、わたしは今まで学級委員長をやってこられたのだと思う。もしわたし一人だったら、とっくの昔にくじけていた。
だーれも、やりたいと思っていないんだ、学級委員長なんて。稀に桜子さまみたいに、「生涯学級委員長」を家訓にしているような人もいるけれど、大抵の人は、絶対にやりたいとは思っていない。
真面目だから、それっぽいからという名目で、わたしは体よく押し付けられてきたのだった。仕方なく受け入れて、自分はこういうものなのだ、と、訳も分からず納得して、学級委員長をやらされてきた。
そんなわたしが、自分だけの力で今まで学級委員長を続けられたはずがない。
(あきちゃん、ずいぶん暗躍してきたんだろうなー)
それじゃあまたねっ、明日は普通通り一緒に学校いこッ。
あきちゃんは素敵な笑顔でそういうと、一瞬身をかがめ、そして、しゅたっと天井に向けて飛んだ。
コンテストの会場の天井は高い。あきちゃん、どこに行った、と見上げた時には、もうどこにも薄ピンクの忍者装束は見えなかった。
戦いに、還って行ったのかもしれない。
**
そうして、わたしの夏休みは終わった。
何事もなかったように新学期が始まった。全くいつもと変わらぬ日々が続いていた。そして、思った通り、今回の夏休みの宿題の提出状況は、それはそれは酷いものなのだった。
「今日提出できる人は手をあげてくださーい」
毎朝、先生から渡されたリストを手に、わたしはクラスに呼びかける。ぱらぱらと手が上がるけれど、気まずそうに俯いている人も多い。
そりゃあそうだろう、夏中、桜子さまの訳のわからない忍者特訓に巻き込まれていたのだ。
うろうろと視線をさ迷わせ、宿題ができていない気まずさをごまかそうとしているのは、だいたい気の弱いタイプの子だ。あー、多分、押しの強い子たちに引っ張られて無理やり忍者修行をさせられていたんだろうな、と見当がつく。
気の毒だけど、仕方がない。わたしは最後まで職務を全うするのみ。これから毎日、全員提出するまで、容赦なく呼びかけるのだ。
ちらちらっと視線を感じて振り向くと、凸子と凹子を従えた桜子さまが腕組みをしてこちらを見ておられる。不敵な笑顔でいらっしゃるので、こちらもにこっと笑い返した。
にこにこ、にこにこ。
桜子さまの目が、楽しそうなのは気のせいかしら。
やらされていただけの学級委員長だけど、わたしの気持ちが少し変わったからだろう、新学期はなんとなく気分が明るかった。
あきちゃんからも、乙女ちゃんなんか楽しそうだね、と言われる。
けれど、わたしは気にかかっていることがあった。
(忍太郎)
そうだ。忍太郎が、いないのだ。
夏休みが終わったというのに、うちの隣は空き地のままだし、学校に忍太郎の姿は見えなかった。
一体どこで何をしているのだろう。もう二学期なのに。
忙しい毎日の中で、ふっと我に返る度に、わたしは忍太郎の姿を探した。あいつのことだから、いつの間にか斜め後ろに控えているのかもしれないと思って振り向いたりもした。
けれど、やっぱりあいつは戻らないままだった。忍太郎が、どこにも見当たらなかった。
二学期はどんどん進み、9月も終わろうとする頃。
学校の帰りに、わたしはうちの隣の空き地に「売地」と看板が上がっているのを見つけて立ち止まった。
とんぼが色づき始め、空が高く晴れ渡る中で、「売地」の看板は影を長く引いて、ドドーンと立っていた。
「甲賀さんとこ、日本全国を巡るお医者さんらしくて、お父さんの都合でまた転勤されたみたいよ」
お隣のことについて、ママが教えてくれた。
突然すぎて、ママも知らなかったのよー、と、何の感慨もなさそうにママは言う。食器棚には新しいラジオが光っていて、賑やかなCMソングが流れていた。
ママ、夏休み期間中にストレスを発散したんだろう。今のところ、いきなり目隠しイノシシ状態に走ることはない。
けれど、またガスが溜まって、話を聞いてくれないパパに、おたまやお皿で、棒手裏剣攻撃を仕掛けるんだろうな、と、思う。
ちょんまげ姿の外科医さんと、襷がけの看護師さん。忍太郎のパパとママは、今日も日本のどこかで医療に従事しているのだろうか。
それにしても、あまりにも急な事だった。なによりわたしは、忍太郎からさよならの言葉すら聞かされていないのだった。
ことこととお鍋が音を立てている。
ママは林檎の皮を剥いていた。オヤツに出してくれるのだろう。
ランドセルを足元におろし、テーブル席に座りながら、わたしは茫然とした。宿題を広げようと思うけれど、手が動かなかった。
甲賀さんのうちが、引っ越ししてしまった。お隣はもういない。忍太郎もどこかに行ってしまった。
「酷いわよ」
ぼそっと呟いたら、ママが、「えー」と聞き返した。話す気にもなれなくて、テーブルに視線を落とした。
忍太郎。
わたしのことをいつも護るって言っていたのに。
嘘つき。いきなりいなくなってしまうなんて。
(わけがわかんない。本当に、わかんない)
ある日いきなり現れた忍太郎。揺れるポニーテールが常に視界のどこかにあった。
石につまづいた時も。自転車にぶつかりかけた時も。
忍太郎はわたしの側にいた。いつの間にか、それが当たり前になっていた。
忍太郎に盗られたパッチン止めのかわりに、新しいものをおでこにつけている。おでこにチューされたサマースクールの夜のことが思い出された。
気が付くと、ぽとんとテーブルに滴が落ちていた。
「ああ、いいのよ気にしないでも。好きな席に座って頂戴」
ママがなんか言っている。誰に話しかけてるのよ。もうほんと、わけわかんない。
「林檎が剥けるから、乙女と一緒に食べてー。もうほんと、自分のうちだと思ってねぇ」
ママの声が弾んでいる。なんだろう、誰かいるのかしら。ううん、台所にはわたしとママしかいないはず。
(ママ、どうかしちゃったのかな)
ことん、と、林檎のお皿がテーブルに置かれる。
食べる気にならなくて、わたしは俯いていた。宿題をするふりをして下を向いていたら、ふいに手が伸びて、前髪のパッチン止めを「ぱっちん」と外された。
ちょっとやめてよママ。前髪が邪魔になってしまう。
泣き顔のまま前を向いたら、そこにいたのはママではなく、忍太郎だったので、わたしは開いた口がふさがらなくなった。
忍太郎はわたしの前髪からパッチン止めを外し、生真面目な侍顔で、じいっとわたしの泣き顔を見つめていたのだった。
「ちょっと何してるのアンタ」
忍太郎がそこにいることが、心臓が踊りだすほど嬉しいくせに、わたしは開口一番、そう叫んだ。
忍太郎よりはやく、ママが言った。
「せっかく小学校に馴染んだのだから、忍太郎君は卒業までここにいることになったの。しばらくご両親と離れて過ごすことになって心細いかもしれないけれど、大丈夫よねッ」
ママは能天気にそう言いながら、吹きこぼれかけたお鍋に慌てた。あらっ、ヤダヤダヤダどうしよう、とか言っている。ぶしゅー、と、鍋が賑やかにお祭りをはじめた。ママはこちらに背を向けて慌てふためいた。
忍太郎とわたしは見つめあった。
山盛りの林檎に手を伸ばし、遠慮なく頬張りながら、忍太郎は「そういうことになったでござる」と言った。
**
風のように現れて、唐突にいなくなって。
そしてまた、知らないうちに、今までよりもっと側にいる。
ポニーテールの忍者の男の子。
わたしは涙をぎゅっと拳で拭いた。そして、忍太郎に向き直り、「ところで、夏休みの宿題、あんただけよ、まだ出してないの」と言い放ってやった。
「ぐう」
忍太郎は奇妙な声を出し、なんとも言えない表情をしたのである。
もうそれは時効でござろう、9月も終盤でござるよ、と忍太郎は林檎を食べながらもごもごと抗議したけれど、わたしはきっぱりと「関係ないっ」と答えたのだった。
「宿題の提出期限を守ることができない人に、わたしを護ることなんか、できないよ」
だから、一日も早く、宿題を出してよね。
忍太郎は一瞬あっけにとられ、それから苦笑のような、鼻のしたを伸ばすような、複雑な笑顔を見せたのだった。
隣の忍者クン いも林檎 @ringoi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます