どこだって常に戦いなのだ、胸を張るのだ
色々な場面が頭の中によみがえった。
ある日突然現れた、不思議なお隣さん。お風呂上がりに出会ってしまった忍太郎。
いつも、護ってくれていた。石につまずきそうになった時も、なにかにぶつかりかけた時も。
あわや車に跳ねられる、という瞬間、黒髪のポニーテールが夏空を踊り、わたしはお姫様抱っこをされて空を飛んでいた。ふわっと全身から重力が抜ける感じ、そして抱っこしてくれる腕のあったかさ。
(忍太郎だ)
とっさにわたしは首にしがみつき、絶対に離れないように力を込めた。くるくるひゅん、と、耳元で風が音を立てる。景色がぐるぐる回るので、わたしはぎゅっと目を閉じた。
「姫、姫」
囁かれても、わたしは目を開けなかった。腕を離したら、目を開いたら、そこにいるはずの忍太郎が冗談みたいに消えてしまいそうな気がしたから。
どさっと体に重力が戻り、わたしは忍太郎に抱き留められる格好になった。同時に、ふわっと草の青臭さが鼻をつき、わたしは目を開いたのだった。
**
道で車に衝突しかけたわたしを、忍太郎が飛んできて助けてくれた。くるくる宙を舞って、人目につかない河原に着陸したのだろう。
そこは、土手の草の上だった。さらさら音を立てて流れる用水が夏の日を浴びている。向こう側は田んぼで、青い稲がそよいでいた。
忍太郎は土手にお尻をついて座り、わたしは彼に抱きかかえられていたわけで。
目を開いたら、至近距離に奴の顔があったので、思わずうろたえた。慌てて腕を放しかけて、また慌てて首にしがみ付いた。今離したら、今度こそこいつはどこか遠くに行ってしまう気がした。
「ぎゅう」
忍太郎が変な音を立てた。はっと見ると、わたしに首をしめられて、白目を剥きかけていた―ーなにやってんだろう、わたしは――そっと腕を緩めると、げほんごほんと忍太郎はむせた。青い顔をしていた。
「窒息死するところだったでござる。姫は馬鹿力でござる」
と、忍太郎は言った。
「あんた、どこに行ってたのよ。いきなり家ごと消えちゃうなんて、びっくりするじゃない」
わたしは言った。言っている間にも、涙が盛り上がって来た。
忍太郎がいる、今、ここに。自分でも思いがけないほどの安心感だった。ダムが壊れたみたいに、涙が次々に零れて来た。
忍太郎は侍みたいなくっきり眉毛を困ったようにしかめていて、目のやり場がないように視線をさ迷わせている。あれっと気づいた。忍太郎は、さらさらの前髪に、わたしのパッチン止めをつけているのだった。
「姫の事は陰ながら護っているでござる。しかし、拙者は戦わねばならぬでござる」
戦争映画みたいなことを、忍太郎は言った。ギャグかと思ったら、目がどきっとするほど真面目だった。
「戦いのなかに、姫を巻き込むことはしたくないでござる。それは、姫の御両親やあき殿も同じ気持ちでござる。姫はいつものように、そのダサい黒縁メガネと、色気エロ気つや気を頑なに封印したぼってり串団子みたいな三つ編みで、学級委員長として生ぬるく生きていてくれればよいのでござる」
今にもチューしそうな至近距離で、生真面目な面で、戦場で恋人と別れるような雰囲気で、忍太郎はそういうことを言った。
一見、ときめくようなシチュエーションだったから騙されるところだったが、今こいつ、凄まじく失礼なことを言わなかったか。そのまま忍太郎が、目を閉じて口をとがらせて「ちゅー」と迫って来たので、思い切り耳たぶをひねり上げてやった。アイテテテ、と忍太郎はのけぞった。
「ある日忍者が現れたり、日本が忍者だらけになったり、あり得ないとは思うわよ。信じたくもないわ」
わたしは、泣きながら言った。
「けれどね、みんなが忍者まみれの場所に行ってわけのわからない戦いをしているというのに、わたしだけ普通の中に取り残されて、それを護られてるって言われるのは嫌」
忍太郎が、はっとしたような目になった。
わたしは泣きながら、忍太郎の胸元を掴んだ。そうだ、わたしは置いて行かれるのが嫌なんだ。みんなして、わたしを生真面目で頭の固い、常識大好きな学級委員長だって決めつけて。
乙女はそういう子だから、とママは言っていたけれど――確かにそうかもしれないけれど―ーやっぱり、わたしは嫌なのだった。
忍太郎やパパやママやあきちゃんが戦っているのに、自分だけ平和の中に置き去りにされるのが、嫌なのだった。
「わたしも戦う。なんかわかんないけど」
わたしが言うと、忍太郎は怖い顔をして「だめでござる」と言った。嫌だ、絶対に嫌だ。わたしは忍太郎にしがみついた。絶対に放すもんか。また一瞬後に、わたしの隙をついてどこかに消えてしまうなんて、そんなの勝手すぎる。
「離れるでござる」
切羽詰まった声で忍太郎が囁いた。嫌だ、誰が離れるもんか。
「危ないでござる」
忍太郎は鋭く叫んだ。わたしを抱いたまま、忍太郎はすばやく立ち上がった。身をひねらせて、なにかをかわそうとした。
その時になって、ようやくわたしは、忍太郎が危険に面していることを知ったのだ。
しゅっと飛んでくる棒手裏剣を、わたしは見た。
忍太郎は素早く飛びのこうと身をかがめ、跳躍しようとした。けれど、わたしを抱いていることが仇になった。
弾き飛ばされるように、わたしは忍太郎から離れて土手を転がった。
忍太郎はばたんと草の上に顔から突っ込んでしまった。
しゅたん。大人の黒装束が一人、真夏の青空から降って来て、俯せに倒れた忍太郎の側に立っている。棒手裏剣を投げたのはこいつらしい――敵の忍者らしい。
黒装束が手を伸ばしたが、それより早く忍太郎は起き上がり、素早く飛びのいて距離を取った。膝をついて体を低くして、身構えたその額からは、つうっと赤い筋がこぼれていた。
忍太郎、怪我をしちゃった。
すんなりとした白い額から流れる血を見た時、わたしの中の何かが切れた。ぷちん、と音を立て、どくどくと熱いものが体の中を駆け巡るのを感じた。
忍太郎が怪我をした。わたしを護って――わなわなと全身が震えた。わたしはゆっくりと、草の中に立ち上がった。
「姫、逃げるでござる」
忍太郎は怒鳴ったけれど、誰が逃げるもんか。もう我慢ができない、限界だ。こんちくしょう、うおおおお、なんだこの感情は。マグマみたいな――腹が立つ。
わたしは、自分が強烈に怒り狂っているのを感じた。こんなの初めてだった。ぶしゅー、頭の上から湯気がたち、ふんがふんがと鼻息が荒くなる。
怒りの矛先は、その黒装束のおっさんだ。
「ちょっとアンタ」
ずうん。わたしは一歩踏み出した。ずうん、ずうん。また一歩。のしのしと近づくわたしを、黒装束さんはけげんな目をして見つめた。
めらめらと燃え上がる闘志。なんだろう、わたしの中のなにかが壊れた。なんでもできる気がするわ。
わたしは体が動くまま、足元から小石を拾った。うん、いい感じの重さと形。ひゅんと音を立てて石は空を切る。
「人のオトコになにしてくれちゃってんのよおぉおぉおおおおおおおぅおらああッ」
ぼひゅ。
剛速球で飛んで行く石は火の玉になった。黒装束さんはさっと飛び上がり、一瞬後にはいなくなってしまった。
バアバアゼエゼエと息を切らしながら、わたしは忍太郎を振り向いた。血をだらだら垂らしながら、忍太郎は鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をしていた。
「姫、忍術を使えるでござるか」
と、忍太郎はなんか言ったが、そんなことに答えている場合じゃないのよ、血が流れてるじゃないの。
わたしはポケットからハンカチを出した。忍太郎の額をおさえてやった。
「姫からもらったパッチン止めのおかげで、難を逃れたでござる」
忍太郎がすっと手を出した。掌には壊れたパッチン止めが乗っている。
あああ、壊れちゃったじゃないの、大事なパッチン止めが。わたしは忍太郎の額をおさえる手に力を込めた。痛いでござる、と忍太郎はわたしの手をつかんで離した。
**
「わたしも行く」
どこに、とか、何をしに、とか、一切知らないまま、わたしは言った。
忍太郎はきっぱりと「駄目でござる」と言った。わたしはしゅんとした。
「忍者大合戦は、夏休みが終わるまでだから、それまで待つでござる」
忍太郎が言った。
涙にくれながら俯いていたわたしは、えっと聞き返した。なんだそれ、夏休みが終わるまで――ぽかんとしていると、忍太郎は困惑した顔で言ったのだった。
「忍者の戦いはなるべく人目につかないようにするのがルールでござる。世間の御迷惑にならないように。だから、戦いといっても、学校が長期休暇に入っている間だけの話でござるよ」
そうではないと、色々と支障が出るでござろう。
忍太郎はわたしの手を掴んでそっと話しながら、溜息をついたのだった。
なにそれしらない。
わたしは呟いた。さらさらと風が流れてゆく。青々とした稲が波になる。じいわじいわと蝉が鳴いている。
夏休み限定の忍者合戦だって。
なにその、夏のイベントは!
自然に声が震えてしまった。
「じゃあなに、夏休みが終わると同時に、パパもママも会社に戻って、クラスの子たちも変な訓練をやめて教室に戻って、あんたのうちも元通りになるってこと」
意味がわかんない、謎よ、一体なんのためのイベントなのよっ。
唖然としているわたしに、忍太郎がしかめつらしく「忍者の世界の常識は、パンピーには分からないでござる」と言った。なによ偉そうに。そして、パンピーとか言うな。
「忍者は思いやりの深いものでござる。人様の御迷惑にならないように物事を進めるでござる。そして、程度というものをわきまえているのでござる」
忍太郎はぼそぼそ言った。
忍者、この素晴らしい生き物。
日本経済の邪魔にならないよう、学校生活に支障がないよう、ちゃんと考えて自己主張している。こんな素晴らしいモノが日本の歴史を支えて来たんだから、やっぱり忍者なくして日本は成り立たない、そうでござろう。
(頭が痛い)
リミッターが外れる位怒りまくった後ということもあり、わたしは屁理屈を聞いているのが辛くなった。
ああもうどうでもいい、忍者だの夏休み限定の戦いだの。要するに、だ。
「新学期には、また戻ってくるんでしょ」
わたしが言うと、忍太郎は頷いた。当然でござる、学業は大事でござるから、と答えた。わたしは力が抜けた。
**
「あんたたちの頭の中、わかんないわよ」
と、わたしは言ってやった。
忍太郎はきりっとした眉毛に皺を寄せた。むっとしたのかもしれない。だけど、その眼は照れたように笑っていた。
「姫は、ちゃんと戸締りしていい子に留守番しているでござる。二学期に、また会うでござる」
と、忍太郎は言うと、でれっと鼻の下を伸ばした。
「拙者の事を、人のオトコと言ってくれたこと、絶対に忘れないでござるからな」
忍太郎はすばやく体を寄せると、ほっぺたにむちゅっとした。あっ、こいつ、どさくさに紛れて何をした――ほっぺを手で押さえて茫然としているわたしを放置して、忍太郎は「ニンッ」と跳躍し、青空高く跳ね上がって消えた。
期間限定の忍者合戦に戻って行ったらしい。
ぶっぶー。土手の上の道では、呑気な音を立てて車が走り抜けている。世間は今日も平和だった。
図に乗せちゃったかもしれないな。
チューされたほっぺから手を離しながら、わたしは土手を上った。ランドセルが土手に転がっているので、それを拾い上げた。
おうちに帰ろう。そして、宿題をしなくては。
てくてく歩きながら、ぼてんぼてんと重たい三つ編みを手で払った。
さっきの一件のせいで、メガネのフレームが歪んだらしい。鼻の上でおさまりが悪かった。
それにしても、あいつ。
ダサい黒縁メガネと、串団子みたいな三つ編みとか、言いやがって。
**
日常の中、夏休みの宿題のことを考えながら歩くわたし。
その一方で、目に見えないところでは、わけのわからない戦いが繰り広げられているらしい。
(みんな、好きなことを言ってくれちゃって、やってくれちゃって)
ぐっと上を見上げると、強烈な青空がどこまでも広がっていた。
好き勝手にしてくれちゃって。このままでは問屋が卸さないわよ。秋になって、二学期になったら、見てらっしゃい、みんな。
拳を握りしめて、わたしは心に誓うのだった。
常識の世界の中でも、戦いはちゃんとある。まずは宿題の提出という難関がある。
そうだ、それだって戦いなのだ。
(戦いを放棄しちゃ、駄目だよねえ)
ねえ、桜子さま。そうじゃなくって、学級委員たるもの。ほほ。
今までとは違う、妙に好戦的な気持ちで、わたしは夏休みの終わりを思った。
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