夏の空

Lugh

夏の空

 階段をやっとの思いで上ってきて改札を出ると、すぐ右手に券売機が見えた。五つほどあるが、どれも人で埋まっていた。思っていたよりも人が多い。薄着の人がほとんどだが、長袖を羽織っている人もいる。半袖を着ていても外を歩けば汗をかく。建物の内と外では別世界のようだ。陽だまりには目が痛いほど降り注ぐ太陽の光。じめじめとした曇り空がつづいていたが、からっと晴れた日になった。ときおり、気持ちのいい風が吹いた。横断歩道を挟んだ駅舎の反対側の土地には、枝を目一杯広げた木が青々とした葉を蓄えており、風が吹く度に自慢の葉の擦れ合う音を鳴らす。木を囲うようにして背の低い色の剥げかかった木の柵が設けられていて、ここが駅前の広場というわけだ。待ち合わせをするには適当なところで、群衆がいくつかの固まりに分かれて駅から出てくる人をぺちゃくちゃと鳥のような声でお喋りしながら見つめている。初めて降りる駅だったが、事前の連絡にあったとおり、わかりやすい。コウキは横断歩道で信号が変わるのを待ちながら、集団のなかから見知った顔を探した。

 一人の手が上がった。岩下だった。短い袖から露になるか弱そうな腕が、天から引っ張られたかのようにすらりとまっすぐに伸びる。信号が青に変わって、一斉に人が動きだした。コウキは人のあいだを縫うようにして岩下のほうへ向かう。岩下も小走りでコウキに近づいてきた。佐々木先輩、おはようございます、と岩下が頭を下げる。深々と頭を下げるので、旋毛が見えた。おはよう、と手を上げて返すと、岩下が半身になって広場のなかへと促す。固まっているのは二十人くらいだろうか。コウキが近づくと何人かが軽くあいさつをした。半分くらいは見覚えのない顔だった。方々から人の声が耳に入ってくる。聞き取れないので雑音にしかならなかった。

「もう、みんな揃ってるの?」

「あと、三人ですね。時間まではもう少しありますから、ちょっと待っててくださいね」

 岩下がスマホで時間を確認しながら言う。

「トイレは大丈夫ですか? あと、飲み物がなかったら、近くにコンビニがあるので先に買っておいてください。展望台に着くまで、途中には自販機はないみたいなので」

「大丈夫。来る前に買ったから」

 バックからペットボトルを取り出してみせた。

「大変だな。そういうことまで調べるのか」

「一応、今回の幹事ということになってますから。自分なりに必要だと思うことは調べたつもりです」

 岩下は微笑みながら胸を叩いた。コウキは自分が引っ叩かれた気分だった。スマホを取り出して気を逸らそうとした。

「アヤ、ちょっと来て」

 失礼します、と岩下が呼ばれたほうへ向かっていく。岩下を呼んだのは今年度部長になった子だ。名前は確か、田中だったはずだ。部活のなかでは、岩下と二人で一緒に行動しているところをよく見かける。二年の女子の中心的人物だった。このイベントの提案をしたのも部長だと片瀬からきいていた。コウキは人の輪から離れ、柵のほうへ近寄った。

 辺りは山に囲まれていて、家よりも自然の緑のほうが目についた。細くて曲がりくねった道路と背の丈よりも高いコンクリートの塀に囲われた家々。息を吸い込むと土の香りが鼻腔の奥をくすぐる。地面に目をやれば、都心では見かけないような大きな蟻が、黒々とした土の上で列を為して餌を運んでいた。

「みんな、集まって」

 手を叩く音と部長の声。近くの人の声がやんだ。ぞろぞろと部長の周りに人が集まる。コウキは前の人の足の遅さに辟易したが、抜かそうとはしなかった。きょう参加する部員は全員揃ったらしい。部長があいさつをしてから話をはじめた。部長の斜め後ろには岩下が立っている。

「本日は忙しいなか集まっていただき、ありがとうございます。天気にも恵まれてよかったですね」

 部長が話をはじめると、左のほうで人の動く気配を感じた。コウキは顔を動かさず、目だけで確認した。片瀬だった。片瀬は軽く頭を下げてコウキの横に並んだ。ぼそぼそと口を開く。

「ちゃんと来てくれたんですね。さっきまで見当たらないから、すっぽかされたのかと思いましたよ」

「おまえがあまりにも熱心だったからな」

 コウキは周りに目線を投げる。

「オレが来た意味あるのか?」

「三年生は先輩だけですからね。一年もあの変な人は誰だって話してますよ」

 へへっ、と笑う片瀬の横腹をコウキは指先で突いた。

「せっかく来たんだから、楽しみましょうよ」

 コウキが首を傾げると、片瀬は面白がるように小さな声で笑った。

 部長の話はまだつづいている。部長の斜め後ろに佇む岩下の視線が片瀬を捉えていた。片瀬は姿勢を正し、前に向きなおった。

「あと一か月もすれば、憂鬱なテストもはじまります。みなさん、勉強はしていますか?」

 してなあい、と誰かが笑い声とともに言う。笑いがあったからか、部長の言葉が滑らかになった。

「みんな大変だとは思うけど、一年生はとくに慣れてないからね。でも、大変なのはみんな一緒。部活のほうでも夏に部誌を発行する予定です。きょうの登山は、このあいだの歓迎会に出れなかった新入部員のためにも、部内の親睦を深めるのが一番の目的。だけど、今後の創作活動の役にも立ててほしいと思って企画しました。夏の部誌には、部員全員が作品を載せられるようにしたいと思ってます」

 間があった。コウキが拍手を送る。つられるようにして、ぱらぱらと拍手が起こった。拍手が鳴りやむと、部長が話をはじめる前と同じように騒がしくなった。

「こんな立派な目的があるとはな」

 片瀬に向かって呟いた。

「来てよかったじゃないですか。小説書くのに役立ちますよ」

「部長も言ってたしな。部員全員が作品を載せられるようにって。ようやくおまえの小説を読むことができそうだな」

 それはそれ、ということで、と言って、片瀬は部長のほうへ逃げていった。

 文学研究部は小説や詩を書くことを主な活動とする部活だ。年に数回、部誌を発行している。部誌に作品を発表することが、部員の活躍の場でもある。編集や読むだけに従事する部員もいるが、一度くらいは作品を載せている。イベントごとにはもちろんのこと、部会にもまじめに出席しているのにもかかわらず、作品を一向に作らないのは片瀬だけだ。読書が好きなのか、と尋ねたことがある。特別好きってわけでもないですね、人並みに本は読みますが、とにこにこしながら片瀬は答えた。誰とでも絡み、誰とでも仲良くなる。人をまとめる力も持っている。小説や詩が好きなわけでもない。片瀬が文学研究部に在籍しているのが不思議だった。

「出発するよ。あんま、横に広がらないでね。周りの迷惑にならないように」

 部長と岩下が先頭を歩きはじめる。まずは登山口を目指すらしい。二十人以上の長い列ができた。一つの生き物のようにのっそりと動く。コウキは最後尾を歩いた。広場の出口で片瀬が待っていた。

「仕事を持ってきましたよ」

「厄介事じゃなきゃ、いいんだけどな」

「嫌だなあ。オレがそんなもん持ってくるわけないじゃないですか。簡単な監視員のお仕事です」

 コウキは鼻で笑った。それから、ため息をつく。

「迷子になるやつなんていないだろ」

「いいじゃないですか。どうせ、先輩は最後尾を歩くだろうと思ってましたから。後ろからみんなのこと、見てましょうよ。人間観察も大事でしょう?」

「言い方に悪意を感じる」

 呆れたようにコウキは言った。片瀬は気にしていない。

「そういえば、このあいだの飲み会のあと、本屋に寄ってました?」

「見られてたのか」

「なにも飲み会のあとに行かなくたっていいじゃないですか。そんなに欲しいものがあったんですか?」

「そのときは、どうしても手に入れたい、手に入れなきゃ、と思ったんだけどな」

 袋のままテーブルの上に置いてある文庫本が頭に思い浮かんだ。お目当ての文庫本であることは間違いなかった。どうしてあんなに欲しかったのだろう。コウキはゆっくりと思考を巡らす。


 口の周りの皮膚がひくひくと動く。微弱な電流が流れているかのような心地の良い刺激だ。コウキはジョッキを傾けて少しだけビールを口に含む。炭酸が弾け、苦味が口のなかに広がる。不味い。二十歳を過ぎて堂々と酒を飲めるようになったが、ビールを美味いと感じたことはなかった。後輩たちがビールを頼むなか、先輩一人が別のもの、というのも居心地が悪い。置いていかれるような気分だ。とりあえず生で、なんて言葉は誰がつくったのだろうか。片瀬に目をやる。コウキの視線には気づかず、隣のやつと話しながらへらへらとした表情をしていた。頬が赤い。コウキは再びジョッキを口へと運ぶ。居酒屋の薄暗い雰囲気とやんわりとした黄色い照明が、酔う気にはさせてくれなかった。微かに漂う畳の匂いも気持ちを落ち着かせてくれる。通されたのは長テーブルが二つあって、仕切りのある座敷の席だった。テーブルを二つとも文学研究部で占領している。賑やかな声がやけにうるさく感じられた。

 月に一度あるか、ないかの飲み会だった。今回は新入生の歓迎会も兼ねている。自己紹介はすでに済ませてある。希望するものだけが参加する、二次会のようなものだ。コウキは片瀬に呼ばれて、飲み会から参加だった。知らない顔が半分ばかり、向こうのテーブルに固まっていた。あれが新入部員たちなのだろう。それぞれが、必死に自分のことを話しているのが聞こえる。コウキは苦笑した。自分だって二年前は不安でしょうがなかったのだ。あいつらは上手くやっていけるだろうと思う。積極的に自分のことを話せるやつはきっと大丈夫だ。新しい環境に溶け込むために、自分を曝け出す。これから先はじまる就職活動もそうだろう。人事の人間に自分のことを説明する。会社に入ってからも、商品を売り込む前に自分を売り込む。他人に向かって自分を見せつづける人生。どこまでいってもつづいている。そこまで考えてコウキはジョッキを手に取った。残りのビールを一気に想いとともに流し込んだ。炭酸が腹のなかで膨れる。

「なに飲みます?」

 注文用のパッドに手を伸ばしながら、岩下がコウキを見る。岩下は一人だった。部長は来ていないらしい。

「同じやつでいいよ」

 ぶっきらぼうに言ってから、ありがとう、と小さな声でつけ足した。苦いビールの泡とともに、この場から消え去りたいと思ったが、気を遣われて悪い気はしなかった。岩下は慣れた手つきで生ビールを注文する。繊細そうな細くて長い指。爪まで手入れが行き届いている。岩下のことを見ていると、なんですか、と岩下が目を大きくした。

「岩下さんの指、奇麗だなと思って」

 ふと、思ったことを口にした。あー、と思い出したかのような大きな声を片瀬が上げた。

「佐々木先輩、岩下さんのことナンパしてるんですか」

「してない。してない」

 先輩は彼女いるのにな、とはしゃぐ片瀬。場が少し静かになった。みんなが注目しているような気がした。身体が急に熱くなる。なにか言わなくてはならない。待ち構えられているような気配が漂っている。腹が握り潰されるように痛い。上手いことを言ってやりたいと考えたが思い浮かばなかった。

「おまえ、少し静かにしろ。店全体に声が響いて、恥ずかしいだろ」

 はーい、と片瀬が手を上げてふざける。止まった時間が動き出す。笑い声が耳に入ってきた。コウキは肩の力が抜けて、初めて自分が力んでいたことに気づいた。ちょうどやってきたおかわりのビールに口をつける。苦味が口のなかの粘つきを洗い流した。立ち上がって、トイレに向かった。片瀬がすぐに追いかけてきた。

「怒ってますか?」

 コウキは鼻で笑いながら返した。

「怒っちゃいないよ。トイレに行きたかっただけだ。ユウリもこの程度、笑って流してくれる」

「すみません」

 片瀬は安堵の息を吐き出し、表情が和らいだ。彼女のこととなると、片瀬も遠慮するようだった。片瀬のことを思って、ユウリの名を出したが、出さないほうがよかったかもしれない。

 片瀬をはじめとして、後輩たちはみんな社交的だ。いまの部活の状態は活気に満ちているといっていいだろう。週に一回ある部会の一、二年の参加率は高い。飲み会が開かれるようになったのも去年からだ。月に二、三回催される勉強会がはじまったのも去年からだ。コウキが先輩から教えてもらったのは、原稿用紙の使い方と一人称と三人称の違い、簡単なプロットの作り方くらいだった。横のつながりはあっても、縦のつながりは薄い。コウキにできたのは、小説を書くことだけだった。不満はなかった。もともと、小説は一人で書くものなのだから。片瀬や岩下が新入部員として入ってきたとき、誰かが先輩から教わったことをそのまま伝えた。

「小説の書き方について教えてほしいんですけど」

 プロットの作り方を伝え、しばらく経った部会の終わりだ。教室から立ち去ろうとしたときに、岩下に声をかけられた。

「教えてもらえるのはプロットの作り方までだときいたので。具体的な書き方を知りたいです」

 岩下の目は鋭く、責められているような気がして弱った。それまで岩下とはまともに喋ったこともなかった。部員として顔を知っている程度。

「なんでオレに?」

 ほかにも人はいるはずだ。

「もらえる部誌は全部もらいました。そのなかで、佐々木先輩の作品が一番おもしろいと思ったからです」

 岩下は臆せず言い放った。コウキは初めて自分の作品が、人から認めてもらえたような気がした。

「オレもさ、誰かから技術的なことを教わったわけじゃないんだよ。この部活に入って、生まれて初めて小説を書いた。確固たる自信があったわけじゃない。本を読むのがちょっと好きで、興味本位で書いてみようと思っただけだ。いざ書いてみると小説について、教えてもらいたいって思ったこともあるけど。でも、小説なんて教えられるものでもない。明確な基準があるわけでもないから、簡単には、合ってる、間違ってるって言えない。プロの作家でもあるまいし。もちろん、明確に言えるところもあるだろうけど。言えないことのほうが多いと思う。それに、ただの部活にすぎない。書き手が書きたいものを書ければいい、と言われれば、それでおしまいさ。オレが君にできるとしたら、君の作品を読んで、オレがいいと思うか、悪いと思うか、伝えられるくらいだと思う。オレの作品をおもしろいと言ってくれたのは嬉しいけど、教えられる技術なんてものはありゃしないよ。ほんとに大事なことは自分で見つけるしかないんだよ」

 岩下は視線を伏せて考えるような素振りを見せた。おっとりとした動作が、困っているようでもあった。

「先輩の言うとおりかもしれません。でも、先輩が言うことはタメにもなります。もっと先輩の話が聴きたいです。いま、書きかけの原稿があります。今度、読んでもらってもいいですか?」

「それくらいだったら」

 いつが空いてますか、と岩下は手帳を取り出した。重量感のある革の手帳。滑らかな革の質感が光って見えた。予定が決まると丸っこい文字を書き込んでいく。マンスリーの見開きには、文字がたくさん書かれていた。

「突然押しかけてすみません」

 いくらか朗らかな口調になった。コウキは頭のなかで予定の日時を反芻していた。岩下が腕時計に目をやった。

「このあと授業があるので、失礼します」

 手帳をしまって足早に立ち去る。角を曲がる前で岩下が振り向いた。コウキがいることを確認して、頭を下げた。目から鋭さは消えて、柔らかな光が宿っていた。

 岩下の書いた小説にアドバイスをするようになってから、人数が増えるのにそう時間はかからなかった。コウキの話を聴きたいという部員を岩下が呼んだのだ。勉強会と呼ばれるようになったのは、部活として教室を予約するようになってからだ。勉強会はみんなで意見を交わすようになった。自分はこう思うだの、ここの展開は良かっただの。いまの二年生は全員参加していたのではないだろうか。規模が大きくなると、コウキは参加しづらくなった。参加するたびに、自分の座っている席がどんどん小さくなっていく気がした。それから徐々に頻度が落ちていき、今年はまだ一回も行っていない。

 用を足していると、片瀬が口を開いた。

「最近、忙しいんですか?」

「ぼちぼちってところかな」

「ぼちぼちって。経営者でもあるまいし」

「去年よりは暇だな。授業が少なくなったから。家にいる時間も増えた。バイトのシフトを増やしたわけでもないし」

 自分の言葉を確かめるように喋った。他人を忙しそうだと感じることはあっても、自分が忙しいかどうかなんて、考えたことがなかった。一日一日やるべきことをやる。時間が空いていたら好きなことをやる。

「暇なのに、勉強会には顔出さないんですね。部誌にも作品書いてなかったし。なにかあったんですか?」

 心配するような、それでいて探るような声。

「小説を書いていれば、それでいいと思ってたんだけどな。いまの部活の状況を見ていると、そうでもないみたいだ。勉強会も飲み会も楽しいかもしれないけど、オレが求めているものとは違うような気がするんだ。勉強会で、思ったことを言ったよ。自分でも厳しいこと言ってると思った。でも、勉強会の趣旨はそういうものだったから、多少厳しくても駄目なところは駄目だって、言ったほうがいいと思ったんだ。でもな、言われたやつの傷ついたような、不満そうな顔と周りのなんとも言えない空気でさ、ようやく気がついた。そういうことをする場所じゃなくなったんだって。オレはおまえみたいに、場を和ませることはできない。もう、言いたいことは言えないし、それだったら意味ないだろ」

 自分でも驚くくらい熱のこもった喋りだった。

 手を洗うために洗面台の前に立つ。先に用を済ませた片瀬の姿が鏡越しに見えた。視線は下を向き、口は動いているが言葉が見つからないようだ。初めて見る片瀬の悲しそうな表情だった。コウキは視線を自分の手に移した。水が滴っていく。熱が冷めるまで、水を流しつづけた。水の流れる音が沈黙を繋いだ。

「それでも、先輩が部活を辞めないのは、小説を書くのが好きだからですか?」

「そうかもしれないな」

 そこまでは考えていなかった。ふと、ユウリに言った言葉を思い出した。オレが小説を書くのは、生き甲斐だからだ。きかれてもいないのに言った言葉だった。そのとき、ユウリがどんな顔をしていたのか、憶えていない。

 紙で手を拭った。水を含んで色が変わっていく。丸めてごみ箱へと捨てた。二、三度繰り返した。手に水気は残っていたが、あとは自然乾燥に任せることにした。

「オレが小説を書こうと思ったのは、たんに興味があったにすぎないけど、書きつづけてるのは、救われてるからかもしれないな。つらいときにつらいとか、悲しいときに悲しいって、なかなか言えないし、素直に言うのもかっこ悪いだろ。そういうときに小説を書くと救われる気がするんだ。逃げ場みたいなもんだな。少なくとも、小説のなかにはオレと同じような想いをしているやつがいるんだって。一人じゃないって思うことができる」

 振り向いて鏡越しの片瀬から、現実の片瀬へと目をやった。

「居酒屋のトイレでなにを話しているんだか。早く出ようぜ」

 コウキが笑うと、片瀬もつられるようにして笑った。一頻り笑って、トイレから出た。扉をあけると居酒屋の賑やかさが戻ってきた。片瀬も調子を取り戻した。二人で肩を並べて座敷へと戻る。

「先輩、知ってますか。部活で今度、登山に行くことになったんですよ」

 思いもよらない言葉に思わず聞き返してしまう。

「登山? なんだってまた。うちは文学研究部だろうよ。いつから登山部になったんだ」

「うちの部活らしいですよ。交流を深めようってことでね。今回の歓迎会に参加できなかった新入生もいるので、イベントでもやって仲良くなる機会をつくろうって、なったんです。勉強会はともかく、登山には行きましょうよ」

「それにしたって登山か。年寄りくさいな」

「先輩が一番年寄りじゃないですか」

 片瀬が豪快に笑う。だが、下品な感じはしない。むしろ、愛嬌がある。コウキの気持ちは登山に参加するほうに傾きはじめていた。なぜ、登山なのか。考えるのはやめることにした。片瀬にきいたところで、もう決まってしまったことでもある。片瀬の頼みを聞き入れる。そんなふうに思うことにして、自分を納得させた。

 席に戻ってからは、酔うのも構わず酒を飲んだ。岩下が心配そうにおろおろとしていたが、気にしなかった。腹に溜まっていたものを吐き出した分、代わりに酒を流し込む。飲み放題の時間ぎりぎりまで、片瀬とともに酒を飲みつづけた。

 ツルゲーネフという単語が耳に飛び込んできたのは、会計を済ませているときだった。片瀬と肩を組んで、会計が終わるのを待っていた。コウキは声の出どころを探した。そのうち、初恋という単語も聞こえて、声の出どころが入り口近くの席だとわかった。

 薄暗い照明の下で、二人の男の顔だけが浮かび上がっているかのようだった。一人はチェックのシャツで、もう一人はジャケットを羽織っていた。ジャケットのほうが服装といい、顔のやつれ具合といい、年上に見えた。が、二人の喋り方で対等の関係なのだとわかった。

「昔はああいう生意気な小娘みたいなタイプ、嫌いだったけど、いまはかわいいなって思えるようになった。おとなしそうな子よりも、元気な子のほうがいい。元気をわけてもらえるような気がする」

「主人公からしてみれば、高飛車だけど影が少しあって魅力的な大人の女性に見えるんだろうけど。作者からは生意気な口をきいて気丈に振る舞っているけど、かわいい、かわいい女の子にすぎないのだろう……」

 会計が終わったらしく、片瀬が店の外へと足を運ぶ。酔いの回ったコウキに抗う力はなく、男たちの会話はそれ以上聞くことができなかった。ふわふわとした頭のなかで、ツルゲーネフという言葉が繰り返される。名前だけは知っていた。たしかロシアの作家だったはずだ。店の外では部員たちが輪になっていた。足が前に進まないコウキは、片瀬に引きずられる格好で輪に加わった。誰かがなにか喋っている。コウキの耳には届かない。さっきの男たちの会話が、耳元で聞こえるような気がしていた。片瀬や岩下が心配するのを余所に、解散してからすぐに近くの本屋へと向かった。ツルゲーネフ、ツルゲーネフ、と音にはならない声を口にして。


 登山口から登山道へ入る。アスファルトで舗装された平坦な道から、人がすれ違うのも苦労する細い石畳の道へ変わった。見上げると、急斜面のつづら折りになった道がずっとつづいていた。道というよりは、山のなか通る線。一歩進むごとに、足の裏から石の硬い感触が伝わってくる。足にも力が入った。力を入れないと登れない。山に入る前までは口うるさかった連中も黙ってしまった。少し登っただけで、数メートルから十数メートルはある木々に囲まれた。さきほどまで見えていた民家は姿を消し、人工的なものといえば、落下防止用の木の柵くらいだ。夢中で坂を歩いた。聞こえてくるのは、川のせせらぎと小動物の鳴き声。そして、人間の荒い息。

 コウキは後ろを見る。片瀬が肩で息をしている。つらそうな表情だ。おい、と呼びかけた。片瀬が立ち止まって面を上げる。

「飲み会のあとに買った本、オレが読み終わったら貸してやろうか?」

「こんなときに、なに言ってるんですか」

 息も絶え絶えに言う。

「オレはね、先輩が買った本なんか、興味ないですよ。オレが興味あるのは、なんで先輩がそんなに本を欲しがったのか、そっちのほうです」

 そうか、とコウキは前を向いて、山を登る。汗をかいていた。額から汗が流れ落ちる。拭っても汗は引かない。服が汗で濡れていく。太陽が首を焼いた。立ち止まった分、前とは距離が空いていた。

「同年代の人間が、なんで小説を書くのか。どんなこと考えてんのか、どんな表現をするのか。そういうのに興味があったんです。そいつの内面を知れるような気がして、おもしろかったんです。いや、おもしろいと思い込んでたんです。飲み会のときの先輩の話きいて、実際に書いてみないとわからないことばかりだと、気づかされました。知った気になってたんです。それで、書いてみようとしたんですけど、人に見せると思うと書いていて恥ずかしくなります。よくもまあ、赤裸々に書けますね。先輩は小説を書くことが逃げ場みたいなこと言ってましたけど、オレは小説書くことから逃げてました」

 コウキは再び後ろを見る。

「おまえの作品を読めるのが楽しみだよ。おまえには遠慮なく言いたいこと言ってやれるからな。どうせ書くなら質のいいもんを書いてやろうぜ」

「お手柔らかにお願いします」

 片瀬の額から大粒の汗が流れ落ちる。気にする様子もなく、前へと進む。

 つづら折りの道が終わると階段が待ち構えていた。切り出した石が無造作に置かれているような階段で、真ん中には銀色の手すりがある。一段一段が高いので、手すりにくらいつくようにして上を目指した。階段を上りきるころには、足が悲鳴を上げていた。膝に手をついて少し休んだ。

 切り拓かれた平地に、観測所のような建物と簡易なテーブルとイスが設置された休憩所、切り立った斜面のほうには望遠鏡もあった。山道とは打って変わって、人の騒がしさがある。自販機もたくさん並んでいて、軽食も売っているようだ。景色を眺める人、写真を撮る人、イスに座って談笑する人。さまざまな人が入り交じる。

「階段の前で立ち止まらないでね。こっち来て休んで」

 部長が休憩所のほうへ部員たちを誘導する。

「ここは頂上?」

「そんなわけないでしょ。ここは展望台。山頂はあっち」

 片瀬の呟きに、部長が指で示しながら答えた。指の先には山が見下ろすようにそびえていた。だいぶ登ってきたと思っていたが、まだまだ山は高い。本格的な登山の格好した人たちが山道に入っていく。すぐに姿は見えなくなり、山に飲み込まれたかのようだ。

「あっちまでは登らないから安心していいよ。みんなへとへとだし、もともとここの展望台が目的地だったから」

 部長は汗こそかいていたが、背筋を張って笑顔だった。

「休憩がてら自由時間取ったら、来た道戻って、きょうは解散かな」

 その旨を伝えたあとで、みんなで集合写真を撮ろう、と部長が部員に声をかけた。岩下が鞄からデジタルカメラを取り出す。山を背景に、ラフな格好をした登山客に写真を撮ってもらった。写真を撮ったあとはグループに分かれて思い思いの場所に散っていった。

 コウキは山の麓を一望できるが崖のほうへ近づいた。原木の丸太を加工したイスに、腰を下ろした。どこまでもつづく青い空。大きな雲が山の後ろから押し出されるようにゆっくりと流れる。見えるものがすべて遅く見えた。風が気持ちよかった。足は疲れていたが、身体は元気だ。新鮮な空気が肺を満たす。しばらく、空を眺めていた。

 隣、失礼してもいいですか、と声をかけられた。岩下だった。どうぞ、と手で示す。イスの汚れを払ってから、岩下は浅く座った。コウキはまた、空を眺めた。岩下がなにか言ってくるだろうと思っていた。しかし、口を開かなかったので話題を探した。

「部誌の作品、読んだよ。今回もおもしろかった」

 岩下が微笑む。

「でも、もうちょっと主人公を追い詰めたほうがよかったんじゃない? 緊迫感がほしかったかな」

 感心したように頷いてから、岩下は喋りだした。

「先輩は、小説家を目指しているんですか?」

 コウキは悩んで唸り声を上げた。考えたことがないわけではない。好きなことで金を稼ぐ。その程度であれば、何度も想像したことはある。

「なれるならなりたいけど、オレは才能ないからな」

「先輩に才能がなかったら、わたしはどうなるんですか」

 自嘲的な響きがあった。コウキは岩下の顔を窺う。岩下の眼光がコウキに突き刺さった。怒っているようでもあり、諦めているようでもあった。

「書くのは好きだけど、ときどき、つらくなるんだよ。行き詰まったり、頭に光景が浮かんでるのにうまく文章が出てこないときとか。小説家になったら、そういうときでも書かなくちゃいけないだろう。オレはそこまでできない。プレッシャーがかかるのも苦手だ。好きなときに、好きなことを書く。これがオレの限界だ。だから、才能がないと思う。

 なるべく、説明するようなつもりで喋った。岩下を慰める気持ちもあった。岩下は黙っていた。

「岩下さんは、目指してるの?」

「わたしも才能ないんで」

 岩下が力なく笑った。

「出版社に就職できたらいいなと思ってます。本に関わることを仕事にしたいです」

「オレの周りにも何人かいるよ。出版社に勤めたいってやつ。編集とか、ライターとか」

「でも、親は地元に帰ってきてほしい、と言うんです。地元で就職してほしいって」

「心配なんだろう。女の子だから」

「それから結婚とかの話も出て。久しぶりの電話で急に、就職とか結婚とか言われて。言い合いになってしまいました」

 コウキはなるべく遠くに目をやった。それ以上、岩下に声もかけなかった。岩下もそれ以上喋ろうとはしなかった。オレの親も、オレの結婚を望んでいるのだろうか。コウキの頭のなかに、ありもしない自分の子どもを抱きかかえる姿が過った。それから、首を横に振った。

 空が肩に覆いかぶさってきた。山や緑が取り囲み、迫ってくる。川のせせらぎが、小動物の鳴き声が、耳元で喚く。

 コウキは振り払うようにして立ち上がった。崖から山の麓が見えた。登山口で、これから山に入ろうとする一団がいた。山道へと足をかける。表情はわからないが、顔が上を向いているのはわかった。登山客は山を登る。青く重苦しい空を背負いながら。

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夏の空 Lugh @Lughtio

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