第9話 川辺でふたりきり
爪ほどの石ころから、拳ほどの石。いろんな大きさや形の石がころがる不安定な足場を、一歩一歩たしかめながら歩いていく。
すると、すぐにそれは見えた。
上流から下流にむかって、涼しげな音とともに流れる川だ。水は透明で容易に川底を見れるほど綺麗で、ギラギラと真うえから照りつける陽の光を反射して輝く水面は、宝石でもばらまいたよう。
腕にかかえた枝を岩場へ投げすてたウルレナにならい、アオイもまた同じ場所に枝をほうる。
「水が、こんなにたくさん」
木々が陽射しをさえぎっていた森のなかとはうってかわって、肌を刺すような熱に汗を噴きだし、アオイは生まれて初めてみる光景に見惚れた。
それもそのはず、空のうえで水といえば
「綺麗でしょ」
「うん、すごく」
額から噴きだした汗を腕でぬぐい、ウルレナはまたえくぼをつくって微笑んだ。
「でもね、海はもっと大きいよ」
「……海」
まん丸と目を見ひらいて、アオイはウルレナを見つめた。
「果てが見えないくらい大きくて、全ての命は海から生まれたの。だからあそこは、母なる神様が眠る場所」
するとウルレナは、くしゃっと無垢な笑みを浮かべてアオイを見つめ返し、つづける。
「見たくなった?」
「見たくない、こともないけど……今はわからないよ」
ウルレナとは対照的に、アオイはうまく笑みをつくることができず、複雑そうな顔を陽光に陰らせた。
自分だけが何食わぬ顔で生きていられること、それから自分だけが幸せになってしまうこと。それが、アオイにとっては少し後ろめたくもあったのだろう。
なにかにつけてアオイの脳裏によみがえるのは、悲鳴。見知った親しい人々が死に際にはなつ、断末魔の数々だった。
その声はきっと、それを許してくれないだろう。
「そっか」
それ以上、ウルレナが彼に海の話をすることはなかった。
輝く川の水面をじぃっと眺め、口をつぐんだウルレナ。ふたりの口から出てくる言葉はなく、どこかしこで鳴く蝉の声だけが、川辺に響いていた。
その騒々しさも相まってか、せっかく涼し気な音色をかなでる川の目前だというのに、体をおそう猛暑は一段と強さをまし、ウルレナがしびれをきらす。
「あっつぅ」
草衣の襟を指さきでつまみ、大胆にはだけさせながら手で顔をあおぐウルレナ。
彼女の声に反応し、何気なくアオイがウルレナのほうへ目をむけた瞬間のこと。
その視界のなかに、はだけたウルレナの胸もとからのぞかせる、彼女の小ぶりな胸のふくらみが飛びこんできた。
不可抗力ながらも、少女の胸を直接見てしまった罪悪感にさいなまれ、アオイが顔を真っ赤にして視線をそらす。
「ん? アオイ?」
落ちこんでいるわけではない。それはウルレナにもわかった。
しかし、どこか様子のおかしいアオイを気にしてウルレナが不安定な石のうえを歩き、彼のほうへ寄る。
「どうしたの? 顔真っ赤にして、もしかして暑い?」
寄れば寄るほど視線をあわせず、ましてや顔をどんどん紅潮させていくアオイ。
問いかけたって、まともな返事もかえってこず、ウルレナも無視されているようで腹がたったのだろう。
頬をむっとふくらませ、アオイの手首を強くひいて川のほうへと駆けだした。
「え、ちょ! ウルレナ!?」
「こっち! ずっとお陽様の光をあびてたら、倒れて死んじゃうんだって」
とっさのことで、短い槍をその辺に投げすてたウルレナにひかれるままアオイも川へ駆けだしていく。
ふたりの勢いは、川が目と鼻の先になってもまだおとろえない。
「待っ、落ちる! 落ちるってぇ!」
そのままの速さをたもち、ふたりは一斉に川のなかへ飛びこんだ。
ウルレナはまた顔がくしゃくしゃになるまで笑い、アオイは驚きと恐怖のあまり顔を真っ青にし、その身を川のなかへ沈める。
大瓶に貯めたものしか見たことないような狭い世界の持ち主だったアオイが、水のなかを泳ぐ術など持ちあわせているはずもない。
初めて味わう呼吸のできない世界に、アオイはジタバタすることくらいしかできなかった。
――――が、のばした足の指さきが川底をたたく。冷静になって手をのばせば、手のひらで川底だっておせた。
アオイが恐れていたほど川は深いものではなかったらしい。
すぐに川底に足をつけて立ちあがると、水面は丁度膝うえくらいまでしかなく、先ほどまでいた土のうえと同じ感覚で立っていることができた。
「死んでしまう」。とっさにそう思っただけに、こうして不自由なく美味い息が吸える場所にでてほっと胸を撫でおろすアオイ。
そんな彼の姿を、ウルレナはおかしそうにケラケラと笑っていた。
「あははは、どう? 涼しいでしょ」
水がしたたる濡れた前髪を手でかきあげ、最初に映ったのはウルレナの無邪気に笑う姿。
本当に、彼女はよく笑う。
そんな彼女につられて、アオイの表情にも笑みがこぼれそうになったのだが、それを制止したのは視界のなかにいるウルレナの姿だった。
乾燥させた草を織っただけの、粗末な草衣は水に濡れてぴったりとウルレナの肌にはりつき、体の曲線がはっきりと出てしまっている。
それに、よく見れば草衣からほんのり肌色が透けてしまっているではないか。
「えっと、うん」
年相応な少年の恥じらいがでたのか、なるだけ見ないでおこうとアオイが一歩後ずさった。
刹那、彼のかかとが川底で突起した石にぶつかり、体が大きく後ろへかたむく。
「アオイ、危ないっ!」
ウルレナの心配する声もむなしく、アオイの体が水面にぶつかる豪快な音にかき消された。
大きな水しぶきは雨のように周囲に散り、ウルレナのびしょ濡れになった前髪が彼女の顔にはりつく。
「あいたた……」
川底の石にでもぶつけたのだろう、痛む背を手でさすりながら起きあがったアオイ。その後頭部を、川底にあった石にも似た硬いなにかが小突いた。
「ウルレナ?」
まぶたを濡らした水を腕でぬぐい、アオイは川のなかで座ったまま後ろを振りかえる。そこにいたのはウルレナ――――ではなく、猛禽の頭と翼をもつ大きな獅子<グリフォン>だった。
猛禽特有の鋭い目つきに見おろされ、思わずアオイは悲鳴とともに腰をぬかし、瞳を川の水とは違う涙でうるませた。
「け、けけけけっ、獣!」
殺される。翼竜のときは運よく逃げられたが、今度こそ獣に殺される。
翼竜におそわれたときのトラウマがよみがえり、恐怖に体をふるわせていたのだが、グリフォンは襲ってくる気配はない。
それどころか、まるで甘えるように頭をアオイの頬にこすりつけてくるではないか。
「え、え? ええ?」
これほどまで凶暴そうな獣が目の前にいるのに、おそわれない。そんな事態にアオイはわけもわからず、気のぬけた情けない声を口からぽろっとこぼした。
「その子はクック、おそわないから安心して」
「クック?」
「私の友だち」
「獣が、友だち?」
深くうなずくと、ウルレナは自らクックのほうへ歩み寄り、大きな体をぎゅっと抱きしめる。
やわらかそうな羽毛に顔をうめる彼女の表情は、獣を前にした人とは思えないほど心地よさそうなものだった。
「うん、小さいころからずっと一緒なの。私、同じくらいの友だちがいなかったから」
ウルレナも命知らずな行動もそうだが、アオイがもっと驚いたのはクックのほう。
心地よさそうに頬ずりする彼女に対して、嫌がるどころかむしろ喜んでいるようにも見える。
「沼でアオイを助けたのもクックなんだよ」
「俺を……?」
一足はやく川からあがったウルレナを追い、アオイも川底についた尻を持ちあげた。
沼でのできごとは、意識がもうろうとしていたから覚えていない。しかし、もう少しで死んでしまっていたところをウルレナに助けられたというのは、昨晩集落の女衆から聞いた話だ。
虫の息だったアオイをつれ、慌てた様子で集落に戻ってきたらしい。
「その、ありがとう」
ウルレナに続いて川からでてきたアオイが、クックのほうへおそるおそる手をのばす。
獣だ。おそろしいに決まっている。
しかし助けてもらった手前、クックのほうへ差しだした手を戻せない律儀なアオイがいた。
「大丈夫よ、おそわないって」
ウルレナの言葉にゆっくりうなずき、アオイが手のひらをクックのほうへ。
けれども、やっぱりおそろしいものはおそろしかった。ふるえる手は途中でぴたりととまり、いくらアオイが動かそうとしても前には向かわない。
礼はつたえたい。だけども、おそろしい。
そんな複雑な感情におそわれた彼を察したように、クックが自ら頭をアオイの手のひらにおしつけた。
「あっ」
触れたクックの体をおおう羽毛はやわらかくて触り心地がよく、ウルレナが気のぬけた顔をするのもわかる。
一度は硬直してしまった筋肉も、それでほぐれたのだろう。
アオイは驚きのあまり、みっともなく口をポカンとあけたまま、クックの頭をやさしく撫でた。
「それじゃあ、ご飯にしよっか」
岩場にころがしていた短い槍を手にとり、ウルレナが言う。
バッタを食わされたのは、味も記憶も苦い思い出となったアオイが「ご飯?」と不思議がって聞き返した。
獣の国-飯と自然と開拓と、はじめての恋- 師走那珂 @naka-SGG
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