第8話 獣の国での生活
*
指ほどの細い枝の両端をにぎり、アオイがかるく力をいれる。
耳に心地のいい、バキッと爽快な音をたてて枝が折れたのを確認し、アオイは頷きながら笑みをこぼした。
「よし、これだ」
乾燥した枯れ木の枝をたばね、満足げにそういって腰巻きにくくりつけた小さな麻ぶくろに枝をつめると、アオイはまた別の枝をひろいあげる。
空は清々しいほど快晴で、木々のあいだから注ぎこむ陽の光が、森を神秘的に照らしていた。
集落でもらった、ウルレナやベルダンたちと同じ乾燥させた草で織った草衣が汗でベタつく。
しかしアオイは気にもとめず、心なしか楽しそうに足もとばかりを見て枝をひろっては折った。
明けがた集落をでたというのに、気がつけば燦々と輝く陽がアオイの真うえに到達しようとしている。
薄暗いうちから森の険しい道を歩きつづけ、ようやくついたと思えばアオイに与えられたのは枯れ木をひろい集めろというベルダンからの指示。
アオイだって、まがりなりにも戦士を目指した身、体力は並みよりあったようですぐさまとりかかったのだが、結局終わったのはこんな白昼だ。
どうやらアオイが集めていたのは、集落で火を起こす際につかうための枯れ木だったらしく、乾燥したものというのが条件。
「折ったときに、バキッて音がするやつ」なんて別の場所に枯れ木をひろいにいったウルレナに教えてもらったが、コツをつかむまでしばらくかかった。
「あっ、さっきの……。あれなんていうんだろう」
それから、遅くなった理由がもうひとつ。
草も花も、生息する獣も虫も、とにかく目に映るすべてがアオイにとっては、はじめてだらけだった。
人の胴ほどまでふくらんだ麻ぶくろをふたつ、大木の根もとに立てかけていたアオイが、うしろのほうで聞こえた枝の揺れるガサガサっという音に顔を振りむかせる。
そこにいたのは、アオイの腕くらいの枝のうえを軽快な足取りで歩く、細っこい狐。
片手で掴めてしまいそうなほど細身で小さく、そのわりに目つきが悪い。でもそんな、ちょっと背伸びして威嚇しているようなところが、アオイにとっては愛らしくもあった。
アオイの視線に気づいたのか、細っこい狐は枝のうえで足をとめてジッとアオイを見つめる。アオイもまた、その場から動こうともしないで狐をじぃっと見つめていた。
しばらくのあいだ、にらめっこをしていると別の木からもう一匹、狐が枝のうえに飛びうつってくる。
小さな体躯がうんだ衝撃で枝は大きくしなるものの、不思議なほど丈夫で、へし折れることはなかった。
「あれは」
縄張り争いをはじめるわけでもなく、やけに親し気な二匹。
親子だろうか、それとも兄弟か、友だちか。考えているうち、アオイの表情がくもりはじめる。
いずれせよ、もうアオイとは縁遠い存在。身近な誰かと親し気なその姿が、うらやましかったのだろう。
うつろな瞳で、ぼーっと狐を見ていたアオイ。
「アオイ! かわして!」
刹那、その顔面の真横を背後から飛んできた短い槍が、ぶんっと空気をひき裂く鈍たらしい音をたてて通りすぎた。
「えぇっ!?」
槍の先端にツタをくくって取りつけたギラギラと輝く鉄の刃は、二匹の狐めがけて猛進。
寸前で槍に気づいた狐たちは大慌てで別の枝に飛び移り、颯爽と森の奥へ姿を消してしまった。
「あぁ、せっかくの
重たい音とともに枝に突き刺さった鉄の槍。
それとともに、アオイの背後から落胆の声をあげて姿をみせたのは、ウルレナだった。
「管狐? さっきの細いやつのこと?」
「そうよ。鍋にするとおいしいし、寒冷期には毛皮を襟巻にするとあったかいの」
「そ、そうなんだ」
可愛らしい生き物だと見惚れていただけに、「鍋にする」と聞いてアオイは顔をひきつらせる。
「枝は集まった?」
「うん、まあ」
枝に刺さった槍を回収しようと、ウルレナはさっきまで管狐たちがいた木の根もとまでたどりつく。
だけども、槍が刺さった枝はかなり高く、集落の大柄な男衆が飛び跳ねたって届くような位置ではなかった。
それを、アオイよりも背の低い小柄で華奢なウルレナがとることなんて不可能。
アオイがそんなことを思ったのも束の間、ウルレナは幹を強く蹴り、小さな体を空中へおしあげる。
今しがた目にしたばかりの管狐の跳躍のような、人間離れした業にアオイは口を大きくあけて声もだせずに驚くばかり。
ぴんっとのばしたウルレナの手が枝に刺さった槍の柄を握ると、鉄の刃が彼女の体重を支えきれずに樹皮を醜くえぐりとばして枝と別離する。
「すごい」
それが、ようやっと口からでてきたアオイの素直な感想だった。
ぽろっとでてきたような彼のつぶやきは、むなしくも木々のあいだから吹きこむ涼やかな風の音に塗りつぶされてしまったが、敬うようなきらきらとした眼ざしはウルレナにしっかり届いたよう。
くるぶしまで隠してしまうほど生い茂った草花のなかに着地したウルレナは、指さきで頬をかきながら照れくさそうに笑ってみせた。
「そういえば、おなか減ってない?」
「え、おなか?」
「うん、随分歩いたし、朝からなにも食べてないんじゃない」
「いわれると、たしかに減ってるかも」
早朝の出発前、昨晩食べた味噌で煮こんだ鹿肉を腹にいれたが、そういえば食事はそれきりだったと思いだす。
不思議なもので、思いだした途端に今の今まで少しも感じていなかった空腹感がアオイをおそい、乞うような腹の音が鳴った。
「だろうと思った」
そういって嬉々とした笑みを浮かべると、ウルレナは自身の草衣のなかをゴソゴソとあさりはじめる。
「なにかあるの?」
昨日は肉を食べた。空のうえでは、とてもとても希少な<肉>だ。
美味くないわけがないし、味噌とかいう腐った穀物の味つけもあって、一度口にすれば悲しみも苦しみもぬぐってくれるほどの幸福感で体が満たされていったのを、夜が明けてもアオイは鮮明に覚えていた。
きっと、あの幸福感こそ、獣の国という恐ろしい場所でウルレナたちが笑える理由なのだろう。
「さっき、とった枝についてた」
草衣のなかで、なにかをつかんだウルレナの手がアオイの前にさしだされた。
昨晩の鹿は美味かった。そんなことを考えながら、きっと内心は期待に満ちていたにちがいない。
だけど、白く小さな手がひらかれるとともに、アオイの顔は彼の瞳のように青白く血色をうしなった。
「うっ、これって……」
「バッタ、頭はもうとってあるわ」
手のなかからあらわれたのは、人差し指ほどの体躯をもつバッタの死骸。それも、三匹。
頭をもぎとられた、あまりにも気色のわるい姿は、物乞いのように鳴き散らしていたアオイの腹でさえ声をあげるのをやめてしまうほど。
「これ、食べるの」
「おなか減ってるんでしょ? 全部食べていいわよ」
腹が鳴きやんだとはいえ、腹は減っている。だが、どうしてもその容姿が受けつけなかったのだろう。
アオイは首がねじ切れんばかりに、何度も首をふってバッタを拒絶した。
言葉にこそださなかったものの、見た目だけで自分たちの食事を拒絶されたような彼の態度が気にいらなかったのか、ウルレナは不機嫌そうに眉をひそめて表情をムッとこわばらせる。
「昆虫や草だけ食べて生きる、私たちより大きな獣だっているんだから。栄養たっぷりで、疲れてるときにはいいの」
バッタを持っていないほうの手でアオイの頬をつねり、自身のほうへ引き寄せるウルレナ。
「まだここにいなきゃいけないんだし、食べれるものはありがたく食べる!」
バッタを顔の前にさしだされ、アオイが悲鳴をあげようと口をあけたその瞬間、
「はいっ!」
ウルレナのひろげた手のなかで死んでいた三匹のバッタが、あいた口に押しこまれる。
さぁっと血のひいた顔で口のなかにつっこまれたバッタ。口をふさぐウルレナの手が吐きだすことを許さず、アオイはゆっくりと奥歯でバッタの体をかみつぶした。
歯ぐきをなぞる足さきの感触はこそばゆく、噛んだと同時に軽快な音が口のなかで反響する程度には歯ごたえがある。
この、さくっと鳴ったのがアオイの見た、葉のような緑と枯れ葉のような茶色の外皮なのだろう。
上下の歯がぶつかるころに外皮はやぶれ、身からなにかがあふれだしてくる。この<なにか>が、強烈だった。
「うえっ!」
噛みつぶした瞬間に、口のなかいっぱいに広がった臭みにやられ、思わずアオイはウルレナの細い手をふりきる。
すると、近くにあった木の根もとへ口のなかの全てを勢いよく吐きだした。
「草、草だ……。草をそのまま食べてるみたいだ」
きつい草の臭いがのこる唾液を何度も何度も吐き捨てながら、アオイは強く言いはなつ。
空のうえにいるときは粥にいれたり、塩で茹でたりしていた葉物野菜。あれをそのまんま食べているかのような味と臭みは、ひどく強烈なものだった。
「そりゃそうよ、糞ぬきしてないんだから」
「ふ……うんこ!?」
慌ただしく顔を振りかえらせたアオイの視線の先で、ウルレナが何食わぬ顔で深くうなずく。
歯ごたえのあった外皮からあふれだした<なにか>。その正体こそ、バッタの糞だったのかと思うだけで、アオイは急激な吐き気におそわれ、両手で口を強く塞いだ。
「糞ぬきするには、一日半くらい草を食べさせないで糞をだしきってもらわなきゃ」
「だからって、糞なんか……」
つばの一滴さえもすべて吐きださんとばかりに、なんども唾液を吐きすてるアオイ。
ウルレナには、その大げさなうしろ姿がおもしろかったのだろう。頬に小さなえくぼをつくって、ケラケラと笑っていた。
「ごめんごめん、今度はちゃんと火を通したやつをあげる」
「火って、これに?」
「バッタとイナゴは糞ぬきして、火にあぶって食べるの。そしたらやみつきになるんだから」
「やみつきになるのかなぁ」
おかしそうに笑いながらも、ウルレナはアオイの丸まった背をやさしく撫でおろす。
「小さいころは、大人たちの目をぬすんでよく食べたわ」
アオイの顔にあたたかな色がもどったのを目にすると、ウルレナは「こっち」と彼に背をむけた。
彼女が進むさきは、ここと同じ緑生い茂る森にしかみえない。
「そちらにはなにかあるのか」とか、「枝をつめた麻袋はおいたままでいいのか」とか、聞きたいことはそれなりにある。
しかし、方向もままならない森のなかに空腹のままひとり残されるのは御免だった。
駆け足でウルレナの背においつき、アオイは彼女が地面へつけた足あとへ、それよりもひとまわり大きな自分の足あとををかさねた。
「水の音がする」
「水の音?」
なんの迷いもなく足を進めていたウルレナ。
しかし、アオイにはそんな音、少しも――。
「あっ」
いや、聞こえた。たしかに、清涼感ある流水の音色が、森のおくから――。
「枝集めはこれくらいにして、ご飯食べたら狩りの練習ね」
道中、枝を見つけてはひろうウルレナを真似て、アオイも乾いた枝を見つけてはひろった。
不思議なもので、はじめこそ全く違いの分からなかった乾いた枝とそうでない枝。しかし、夜明けごろから白昼まで森を探しまわって得た経験が、枝をにぎっただけでおおよその判断をさせている。
ふたりで二十本くらいひろっただろうか。草も少なくなり、土の色がめだつようになった足もとだったが、それはすぐにねずみ色の岩場へと姿を変えた。
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