こちらこそ…。
宇佐美真里
こちらこそ…。
お風呂上りのドライヤーを終え、再び薄っすらと掻いた汗をバスタオルで軽く拭きながら、鏡の中の自分の姿をしげしげと見る。
「………。よし!最終チェック…オーケーってところかな…」
充分な睡眠、適度の運動、アルコールを控え、普段以上に食事にも注意してきた。
此処何週間もの規則正しい生活の甲斐あって、肌の調子は万全に近い。
「意外と…段取り良く、此処まで来てヨカッタ…」
我ながら感心してみる。
どんなに余裕を持ってひとつずつ準備していたって、
前日になれば"あれやこれや"…と思い出して、ドタバタするのが普通…だとばかり思っていた。
そんなこともなく無事に、今日という"前日"が終わろうとしている。
今晩は早めに夕食も済ませたし、後は"明日"のために早寝するだけ…のハズ。
いや、"アレ"が残っていた…。今日という"前日"で、一番大切なこと。
「おとうさん…」
リビングのソファに腰掛け、新聞を読んでいた父に声を掛ける。
父の好きなジャズピアニストのレコードがBGMに掛かっていた。
ソファの前のローテーブルには、ステレオのリモコンと、金色の液体が三分の一程度…幾つかの大きめの氷と共に入ったウイスキーグラス、マドラーの差してあるアイスペールとボトルが置いてあった。
「ん?」こちらを見ることもなく、短く父が答える。
緊張する…。当然わかっていたことだけれど…緊張する。
「あのぅ…」
父がリモコンを手に、小さく鳴っていたレコードの音を更に小さくする。新聞を畳みテーブルに置くと、ようやく父はこちらを見た。
「あ…、先に言っておくが、三つ指ついて『今までお世話になりました…』…的なヤツはやめろよ?」
老眼鏡を外し、畳まれた新聞の上にゆっくりと置きながら言った。
「ちょっと!出鼻を挫かないでくれる?」
笑いながらワタシは言った。緊張のせいか上手く笑えない。
「だってオマエ…。あのお決まりのセリフ言いながら泣くだろう…絶対?」
そう言って笑う父の笑顔にも幾らかぎこちなさが見て取れたが、
「明日、涙で目を腫らした状態で式に出るわけにもいかないだろ?」
続く言葉で"先手を取ってやった"と言わんばかりに、父の顔に映っていた"ぎこちなさ"は"よゆう"へと変わっていった…。
「オマエもちょっとだけ飲むか?」
テーブルのグラスに手を掛けながら父が言った。
「えぇ?それこそ、明日の式に浮腫んだ顔で式に出ろってこと?」
「まぁ、そう言わずに一杯だけ………。な?」
もう父は、いつもと同じように笑っていた。
キッチンから母が、新しいグラスをひとつ手にしながらやって来て言った。
「寂しいのヨ…おとうさんだって。一杯だけつきあってあげなさい…」
これまでの努力を台無しにはしたくないけれど…、明日は特別な日だけれど…。
いや、今日だって"特別"なのだ…とワタシ思い直した。
「うん…わかった…。それじゃあ…一杯だけ…」
ワタシは母の差し出したグラスを受け取りながら言った。
グラスを渡すと母は「ワタシはお邪魔ね…」と、やけに嬉しそうに呟きながらキッチンへと戻って行った。
家の中で父と飲む…。それも二人きりで…。改めて思い返すと、初めてのことだ。
父と母とワタシ…。三人で食卓を囲みながらそれぞれの誕生日などにワインを交わしたことはある。普段の食事にビールでの晩酌…も、もちろん何度もある。
食後、寝るまでの時間を父は、レコードを掛け…時には本を読みながら、ウイスキーグラスを傾けて過ごすことが多かった。
子供の頃からワタシは、その"父の時間"を邪魔すまいと思っていた。ウイスキーは父が独りで飲むもの…。そう思わせる何かがウイスキーにはあるような気がした。
"父の時間"に"独りの飲み物"を初めて父と呑む。
新しいグラスにカラン…と氷を入れ、ボトルからウイスキーを注ぐ父。
「ちょっとでいいからね…」
黙って頷く父がマドラーでグラスの中の金色の液体をゆっくりとカランカランとかき混ぜる。
「ほら…」と差し出されたグラスを受け取るワタシ。
初めて交わす黄金色の液体。
「今までありがとう…な?」
自分のグラスをワタシのグラスに合わせる父。
チン…。二つのグラスが小さく音を立てた。
「なにそれ?ワタシには言わせないで、自分で言っちゃうわけ?」
「まぁな………」
父は優しく笑っていた。
カラン…。溶けながら氷がグラスに当り音を立てる。祝福してくれるかのようだ。
「こちらこそ………ありがとうね」
『言わせて貰えなかったけれど…』とワタシは心の中で呟いた…。
今までありがとう…おとうさん。
ワタシは明日、この家を出て結婚します…。
-了-
こちらこそ…。 宇佐美真里 @ottoleaf
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