エピローグ

 大丈夫、自分との戦いにだって、君なら乗り越えられる。あの、胸を銃で撃たれた少女の絵を、『希望』と言ってくれた、君なら。

 ――どうしてそんなこと言われないといけないのよ……友達でもなんでもないくせに!

 驚いた。あの彼女が、感情をあらわにするなんて。

 それまで、彼女は自分と同類だと思っていた。校則や約束は破らない。真面目で他人を傷つけない。裏を返せば、そんなことが出来るのは、人生を諦めた人間だからだと思っていた。流れに逆らわない。他人の顔色だけ伺って生きればいい。仮面を被って生きることが、自分にとっては父に対する戒めだった。

 でも、彼女は違った。負の感情の中で、後悔と戦っていた。彼女のあの怒りは、負のバリアが壊れ、希望の光が垣間見えた瞬間だった。その光に導かれるように、気づいたら彼女を追って吹雪の中へ飛び出していた。

 どうして彼女にそこまで心を惹かれたのだろう。不貞腐れて生きてきた自分にこんな感情が芽生えるなんて、夢にも思っていなかった。

 彼女さえ救われてくれればいい。そう、死を覚悟していたはずなのに。

 イーニアスは今、暗い部屋で仰向けになりながら、深い口呼吸を繰り返している。

 頭ではいつ光の粒になろうかと考えていたのに、敵を切り裂く剣は止まらなかった。彼女の顔がずっと浮かんでいたのだ。叶うなら、彼女が本心から笑った顔を見てみたい。それが、一筋の光だった。

 往生際の悪いやつだと自分でも思う。群がる敵を黒い灰にする手は止まらず、身体は導かれるように光の柱へ向かっていた。最上階に上がることができたのは、単に運が良かったとも言える。

 イーニアスは仮面を外した。体力はその動作のためにしか残っていなかった。もう力は入らない。なのに身体は軽い。臨終の感覚があるのだとすれば、これがそうなのかもしれないと思った。どうせ自分は、自分との戦いには勝てない。

 イーニアスは、視界の横から差す青白い光に目が眩んだ。目を細める。なんとか首を回して、光の正体を認知しようとする。

 十字架だ。拍子抜けした。てっきり自分や身内の分身が出てきて、口々に暴言を浴びせられるのだと思っていた。勝手に死ねということか。大きな十字架は静かに佇んでいる。

 人生を諦めている身だ。今更抗う意味も気力もない。イーニアスは脚をべったり床につけたまま、左手で身体を支え、這うような格好で十字架に右手を伸ばした。ただ、脳裏から離れない、彼女の存在だけが邪魔だった。

 声が、聞こえたような気がした。自分の名前を呼ぶ声。イーニアスではない。確かに聖也と。女性の声だ。

 もう一度。今度ははっきり、頭上から聞こえた。イーニアスは十字架の上のほうを見上げる。

 すると、白い影がふわりふわりと降りてきた。目を凝らしてよく見ると、人の形をしている。髪の長い、女性の姿。さっきの声の持ち主だろう。イーニアスに向かって、手を差し伸べている。

 会ったことはない。直接声を聞いたこともない。写真や動画でしか、その姿を見たことはない。ただ、確信を持って、それは母だろうと思った。

 こっちに来なさい。さあ。

 柔らかくて暖かい、包まれるような声。頬を何かが伝った。あまりにも自然に、目から溢れてくる。なぜだろう。涙なんて、自分の中にはないものだと思っていたのに。

 イーニアスが伸ばしていた右手に、白い影の母の手が触れる。滑らかな、人の手の感触。母が抱きついてくるように、イーニアスの視界は、たちまち真っ白に包まれた。

 目を、開けた。目を瞑っていた記憶も、仰向けになった覚えもない。ここはどこだろう。自分はどうなったのだろう。視界は依然として真っ白で、身体はふわふわしている。

 じんわりと、右手の感覚が鮮明になってくる。高根聖也は、手を握ったままだった。

 視線を、右上に向ける。母ではない。握っていた手の持ち主の髪は短かったからだ。切り揃えられた前髪に、肩までの長さほどの切り揃えられた毛先。

 光に照らされた少女の顔は濡れていた。目が合うと、彼女は満面の笑顔になった。ずっと見たかったものだ。

 もう、死んでもいい。高根聖也は、ふっと微笑んだ。




 生命の宿ったものは誰もいない。肖像画や粘土細工、石膏像に囲まれた、高校の薄暗い美術室。

 廊下側の棚に立てかけられた、抱えるほどの大きさの二つのキャンバス。一つには一人の少女が、もう一つには一人の少年が描かれている。少年の絵の上部には、少年に手を差し伸べる、ふわりと浮いた白い女性の影が描かれている。

 暗い色使いの二つの絵は、窓から差し込んだ光に照らされて、輝いていた。



(了)



 小田原 真波(Odawara Manami)

 …… ミランダ(Miranda)


 高根 聖也(Takane Seiya)

 …… イーニアス(Aeneas)


 小田原 真吾(Odawara Shingo)

 …… ゴドウィン(Godwin)


 寺口 琉大(Teraguchi Ryudai)

 …… ジェラード(Gerard)


 羽田 健人(Haneda Kento)

 …… ケネス(Kenneth)


 ネロ(Nero)

 …… ロン(Ron)


 古瀬 邦明(Furuse Kuniaki)

 …… フランキー(Frankie)


 中井 理央(Nakai Rio)

 …… オリアーナ(Oriana)

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Another World 夜野 明 @yanoakari

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