28 再会
外は薄暗い、紫の夕暮れ。雪は、降り止むことを知らない。
真波は床に座り込んだまま壁にもたれかかり、ガラスの向こうの中庭に降る雪を、ただ茫然自失と眺めていた。
どれだけの時間、泣いていただろうか。七年分の涙を一度に流した気がする。喉はカラカラ。動く気力もない。
老爺が言っていた、彼の思い。それはゴドウィン、いや、兄のあの言葉だったのだろう。不安だったり、悲しくてどうしようもないときは、泣いたっていい。
きっと、兄も後悔していたのだ。それは七年前一緒に遭難したとき、真波に言った言葉である。
泣くな。泣いたって、現実はどうにもならないだろ?
真波が今まで泣かなかったのは、その兄の言葉が大きかったからかもしれない。
老爺の言う通りだ。涙は負の感情を洗い流してくれる。それを今、真波は身をもって実感している。だから兄は、七年前のあの言葉を撤回したかったのだろう。
そう思えば思うほど、また涙がこみ上げてくる。真波は鼻をすすりながら、両頬に伝った涙を手で拭った。
なんだか目の奥がすっきりした気がする。七年間溜まっていたものが、なくなったような。
真波は、ガラスに映った自分に視点を合わせた。髪の乱れた、腫れぼったい顔。
「ミランダ?」
それは、幻聴かと思った。ガラスに映った、薄いブルーの入院着を着た青年。顔は外の暗闇に溶け込んで見えない。真波は、恐る恐る振り向いた。
「フランキー?」
「やっぱお前、ミランダやんな!」
誰かを認識したころには、真波は青年に肩を揺さぶられていた。同い年くらいの短髪の青年。
信じられない。今目の前にある顔は、美術館やスキー場で出会った関西弁の修学旅行生であり、あのもう一つの世界で一緒に戦ったフランキーである。
やんちゃそうな見た目に反し、青年は真波を気遣って椅子のある廊下に移動させてくれた。腰を下ろしたあとは、青年は、真波が泣いていた理由を真剣に聞いてくれる。叩けば気持ちいい音が出るような木の箱みたいな、「ほんで?」「そうなん!?」などの相槌は、真波の口からどんどん言葉を引き出してくれた。
真波は青年にすべてを話した。兄のこと、ジェラードとケネスの事件のこと、柚果と詩織のこと、自分のこと、そして、平野現夢という美術館で出会った老爺のことと、老爺が語ったあのもう一つの世界のこと。青年は否定も肯定もせず、話を熱心に聴いてくれた。真波の心は、いつの間にか安らいでいた。
青年の名前は
「一緒におった奴がまたスマホ落とした言うてな。雪ん中探しとったら、吹雪で帰られへんようなってもうたんや。あ、またっていうのは、スキーの前日にも美術館でスマホなくしたゆうて……って、そういやそのときに偶然おったのがお前やったな。しかしそのスマホ拾った爺さんが、目の前の絵の作者やったとは思いもせんかったわ」
「その美術館でスマホを落としたっていう女の子が、オリアーナ?」
「そう。中井
それまでと一変。古瀬は両ひじを両太ももにおいた前傾姿勢のまま、しばらく真波に顔を見せなかった。真波も途端に頬が重くなる。
「俺が目覚めたときには、もう息を引き取っとった。ほんまアホなやつ。自分との戦いに負けるやなんて」
言葉の語尾は震えていた。古瀬は誤魔化すように鼻をすする。
「あいつとは幼馴染やねん。昔っから勉強も運動も俺よりできるくせに、めっちゃ物落とすくせがあってな。家の鍵やら携帯やらをようなくしたゆうて、探すの付き合わされたわ。まあ、一緒に探しとったんはもう一人の仲良い奴で、俺はからかうだけやってんけど。からかったら口答えしてくるとこも、昔っからでな」
古瀬の言葉が詰まり出したころには、真波も相槌を忘れていた。
「でも、あいつ、内心は気にしいやねん。俺らの前でくよくよしたら俺らが困る思て強がってるだけやって、俺も気づいとったけど、あいつに気を遣うのがなんか恥ずかしくて、からかうのをやめれんかった。言い過ぎたこともあった。でも、改まって謝るような仲ちゃうかったし、あいつも笑っとったからいいんやと思ってた」
古瀬はしばらく黙った。涙を堪えているのだろう。
「それが……あいつを殺したんかもしれん。実は、吹雪の中遭難したんも、あいつがスマホ落としたんも、ほんまは俺のせいやねん。俺がスキー下手なくせに、もっと難しいとこ行こゆうてな。案の定うまく滑れんくて、スマホで写真撮ってたあいつに向かって突っ込んで、そのせいでスマホがどっか行ってもうたんや。それやのに、また俺はからかって。……もう、後悔するしかないねんな。今になって謝ろ思ても、あいつには届かへんねんもんな」
「届いてるよ」
古瀬の潤んだ目は、不安が募っているのが分かるほど鋭かった。真波はその目を真っ直ぐ見つめる。
はっきり言えたのは、真波には気づけたことがあったからだ。
「古瀬くんが十分後悔した姿を見て、きっと笑って許してくれてる。そう、信じてあげて。古瀬くんの中で生きている理央ちゃんの笑顔を、絶やさないために」
あの世界で様々な苦難を乗り越え、散々泣いたあとに見つけた、生き残った人間に出来ること。それは後悔し続けることではない。
誰だって最初は綺麗事に聞こえるだろう。真波自身もそうだった。でもそれは、自ら負の感情のバリアを張って閉じこもっていたせいだ。
思う存分泣いていい。そうすれば、綺麗事に対して何も反論できなかったことに気づかされる。綺麗事だと、遠ざけていただけだと。泣いてバリアを取っ払えば、言葉はすっと心に染み渡る。
真波は思いを込めて頷いた。古瀬は両手で顔を覆って泣き出した。
古瀬の泣き声を聞いて、真波も涙を流していた。
古瀬が泣き止むまで、どれくらいの時間が経っただろう。真波も夢のことや、父や兄との思い出を偲んでいた。
真波と古瀬はお互いに顔を見合わせて、照れ隠しに笑った。
「せやな。いつまでもくよくよしとったらあかんな」
真波は満面の笑みで頷く。
「あ、そういえば」
古瀬が突然声を上げた。「あいつはどうなったんやろ」
「あいつ?」
「もう一人おったやろ。あれ、なんやったっけ……ほら、二つ目の試練で囮になって、俺らを先に行かせてくれた、黒い仮面の。えっと、名前は……」
真波も思い出そうとするが、もう忘れかけていることに焦って頭を抱える。
思い出した。黒い仮面を被った、関西弁の剣士。
「あ、イーニアス!」
「そう、それ! あいつもやっぱり、あかんかったんかな。なんか知らん? お前んとこの学校の生徒やろ?」
「え?」
真波は耳を疑った。「何言ってるの? あの人は、古瀬くんと理央ちゃんと仲の良かった、あの黒縁メガネの子じゃ……」
「ああ、あいつはちゃうちゃう。だって、あいつは遭難なんかしてへんもん。俺が難しい上級コース行こゆうたとき、あいつ、なんかしんどいって言うて、一人施設の中に戻ったんや。こういうの、ことわざにあったよな。塞翁が馬、やっけ」
「ちょっと待って。ほんとうにそっちの学校の生徒じゃないの? だって、イーニアスは関西弁だったじゃん」
「関西弁やったか? ……あかん、ほんまに忘れてきてしもてるわ。でも、俺んとこの学校のやつちゃうで。目覚ましてから親に電話したとき、ほかの学校の修学旅行生も二人、同じように意識不明で見つかったって聞いたから。でも、あのスキー場に修学旅行で来とったんは、俺んとこの高校とお前んとこの高校だけやったらしいし」
真波は動揺を隠せない。誰、誰、誰?
「ええやつやったけど、仮面かぶった変なやつやったなあ」
真波はゆっくり立ち上がった。イーニアスの仮面の意味が分かったからだ。
「ごめん……私、行かなきゃ」
「え、ちょっと、小田原!?」
古瀬の声に背を向けて、真波は走り出す。足音が響く。
イーニアスの正体――その予想は確信に変わっていった。
関西弁はおそらく、老爺のいう思い込みだろう。あの二人と一緒にいたから、てっきりもう一人の関西弁の高校生だと思ってしまったのだ。
何よりも、あの仮面の意味。……そうだ、そうじゃないか。彼はかつての真波と同じ、本心の分からない、いつも仮面を被ったような表情だった。
でも、どうして彼が……。
真波は角を曲がり、一心に走った。枯れるほど泣いたはずなのに、耳に涙がかかる。
イーニアスの正体は、高根聖也だ。
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