星の緑の花の歌 後編

 だが、やることがある山本先輩はともかく、僕はやはり、ただ暇をもてあますだけだった。山本先輩は相変わらずもくもくと作業を続けているので、話しかけづらかった。結局、僕はまた一人で花の咲き乱れる島を歩くほかなかった。幻の少女を連れて。彼女はやはり何もしゃべらなかったが、時折歌を歌っていた。美しい、のびやかな歌声だった。


「君は本当に幻なのかい?」


 少女に向かって何度も尋ねたが、彼女はこの質問だけは肯定も否定もする様子はなかった。他の質問には、時にうなずいたり時に首を振ったりで、わりと明確に反応するわけなんだが。


「まあいいや。今は僕一人なんだから、僕が存在を認めれば、それは成立するんだよ、きっと。古典量子力学における、観測問題的な感じで」


 物理学は専門外だったが、ようするに何かが人間によって観測されたら、その時点で存在が確立されるってことなのだ。そう考えて、僕はもう目の前の女の子の正体について考えるのをやめた。周りに咲く花はサイズこそおかしいが、色とりどりできれいだし、蜜は甘くて美味しいし、その上かわいい女の子が近くにいるんだ。これ以上、何を望むって言うんだろう? むしろ、この世の楽園じゃないか……。


 そんななか、やがて地球時間換算で数日が過ぎ、山本先輩の作業が終わった。なんと、あのぐちゃぐちゃに壊れていた通信ユニットが直ったというのだ。しかも、運よく、この星の近くを航行する宇宙船と連絡が取れたらしい。


「やったぞ、田島。すぐに救助用の無人小型ポッドをここに投下してくれるらしい!」

「本当に? 僕たち、助かるんですね!」


 と、僕は喜んだが、よく見ると山本先輩はなんだか素直に喜べないような、微妙な顔をしている。


「何か問題でもあるんですか、先輩?」

「ああ、実はその救助用のポッドは今は一人用しか用意できないらしい」

「え? 救助ポッドに乗れるのは一人だけ?」

「そうだ。だから、俺たちのうち、どちらかはまだここに残ることになる……」


 僕たちは顔を見合わせた。一瞬、気まずい空気が流れたが、僕はすぐにこう言った。


「じゃあ、先輩が先に行ってくださいよ。僕はここに残ります」

「え? いいのか?」

「はい、だって、先輩が直した通信ユニットで呼べた救助ポッドじゃないですか。先輩が先に使うのが当たり前でしょう」

「だが、こういうのは若いお前に譲るのが筋ってモンじゃ――」

「何言ってるんですか。先輩には奥さんと子供がいるじゃないですか。今頃地球で、先輩のことを心配していますよ。早く帰って、安心させてあげないと。その点、僕は独身ですし」

「す、すまん! ありがとう、田島!」


 山本先輩は僕の手を固く握り、深く頭を下げた。


 それから約十二時間後、いよいよ救助ポッドが近くに落下してくることになり、山本先輩は防護服を着て、島の中央の広場から浜辺のほうに去っていった。僕は広場から動かずに、手を振り、彼と別れた。


 少女はそんな僕の顔を、何か言いたげにじっと見ていた。


「何だ? 見送りに行かなくていいのかって顔だな?」


 と、僕が言うと、少女はこくん、と、うなずいた。


「いいんだよ。どうせ先輩について行っても、僕が救助ポッドに乗れるわけじゃないし。先輩が助かる様を、こっちはただ見てるだけってのも辛いしな。一人だけとり残された感っていうか」


 それに、立ち去る間際、先輩は僕宛の救助が一刻も早く来るよう手配すると言っていた。今はその言葉を信じるほかない。


 だが、座り込んだまま空を見上げ続けても、一向に救助ポッドがこの島の近くに投下されてくる気配はなかった。変だな。何かの間違いで遠く離れた場所に落とされたのか、予定の時間がズレているのだろうか。


 と、そのとき、ずっと僕の隣に座っていた少女は立ち上がり、山本先輩が残していった通信ユニットの前に行った。そして、それをじーっと見つめ始めた。


「そうだ。予定が狂ってるとしたら、宇宙船から何か連絡が着てるかもしれない」


 僕ははっとして、あわてて通信ユニットに飛びつき、それをいじった。


 だが、操作パネルのタブレットをさわっても、何の反応もなかった。大きくひび割れたそれは、何をやっても電源が入らなかった。さらに、通信ユニット本体も、まったく動作していないようだった。さわっているうちに側面のプレートが外れ、中の基盤がむき出しになったが、そこには緑のツル植物の細かいヒゲ根がびっしりと絡みついていた。


「どういうことだ? 先輩はこれが直ったと言っていたのに……」


 わけがわからなかった。だが、そこでふと、この島に最初に足を踏み入れたときの山本先輩の言葉を思い出した。そう、彼は言っていた。この島に充満する花の香りは、幻覚作用があるんじゃないか、と……。


「まさか、先輩は幻覚のせいで、これが直ったと勘違いして?」


 僕はあわてて島の浜辺に行き、山本先輩を探した。きっと、今頃砂浜で、一人途方にくれているころだと思ったのだ。


 だが、僕が見つけられたのは、少し離れた沖合いの波間に浮かぶ山本先輩の体だった。一目散にそっちに泳いでいき、浜に引き上げたが、防護服の中は海水でいっぱいで、山本先輩の体もすっかり冷たくなっていた。


「先輩、しっかりしてください!」


 人工呼吸と心臓マッサージを繰り返しながら叫んだが、山本先輩が息を吹き返すことはなかった……。


「そんな――」


 僕は砂浜の上に崩れ落ちた。ショックと絶望で頭が割れそうだった。


 ただ、どうして山本先輩がこうなってしまったのかは、なんとなく想像できた。彼はきっと、海のほうに、あるはずのないものを見たんだろう。だから、そこへ向かって行っただけなんだ。


 僕もいつか、この島の花が見せる幻に殺されるんだろうか?


 ふと、顔を上げ、僕の近くに立っている少女を見た。彼女は心配そうな顔で僕を見下ろしていた。


「君は僕を殺すかい?」


 ゆっくり上体を起こしながら尋ねたが、幻かどうか尋ねたときと同じように、彼女は肯定も否定もしなかった。その代わり、僕のすぐ近くにやってきて、しゃがんで、僕の顔についた砂を払っただけだった。


「変なもんだな。まるで君が本当にここにいるような感じだ」


 頬に触れる彼女の手は暖かく、砂粒はきちんと払われて下に落ちているように見えた。どこからどこまで幻で、どこからどこまで本当に起こっていることなんだろう? わけがわからなくて、山本先輩が死んでしまったショックもあり、頭の中がぐちゃぐちゃになっていくような気がした。さっき見た、通信ユニットの中の基盤のように、僕の頭の中にも、ツル植物のヒゲ根がびっしり絡み付いているんじゃないだろうか。


 僕はそのまま少女の体にもたれかかり、泣いた。彼女の体はやはりあたたかくて、やわらかくて、心地よかった。


 そして、少したって気持ちが落ち着いたところで、僕はそのとき初めて、防護服なしでまったく問題なく呼吸できている自分に気づいた。


「あれ? ここの酸素って薄いのかな?」


 とっさに山本先輩の防護服の腕の計器を見てみたが、花の島の内部と違って、酸素は薄くなっていないようだった。


「……よくわからないが、体が慣れたのかな、この星の環境に」


 もういちいち考えたり悩んだりするのもばからしかった。酸素中毒にならないのなら、それでいいじゃないか。


 それから、僕は少女とともに花の島の中に戻った。再び甘い香りに包まれて、体がひどく軽くなったような、ふわふわした気分になった。まるで酔っ払ってしまったような。少女とともに一つの花の根元に腰を落とし、彼女に寄りかかりながら眠った。まどろみの底に落ちていきながら、遠くかすかに、彼女の歌声が聞こえてきた。やさしい、美しい歌声だった。


 やがて目を開けたとき、僕は裸になっていた。僕の隣で横たわる少女もまた、そうだった。驚きはなかった。むしろ、僕たちは本来あるべき姿に戻っただけのように思えた。僕たちは目が合うと、微笑みあい、キスした。体が自然とそう動いた。彼女の体からは、周りに咲いている花と同じ、甘い香りがした。


 それから僕たちは、二人きりで、ただ穏やかに静かに過ごした。彼女はやはり何もしゃべらなかったが、僕は彼女と肌を重ねていくうちに、だんだんそれがなぜなのかわかってきた。きっと、彼女は言葉という文化を持っていないのだ。そして、それでいながら、僕の言葉が理解できているような雰囲気なのは、なんらかの方法で、僕の考えていることを読み取っているからに違いなかった。


 僕はよく、彼女に自分の話をした。地球でどう過ごしていたか、家族の話、会社の話、仕事の話、山本先輩の話……。もの言わぬ彼女の前で言葉をつむぎながら、僕は次第に自分がどんどん空っぽになっていくような気がした。頭の中にある過去の記憶は、もはや僕の感情になんら影響を与えることはなかった。地球での楽しかった思い出も辛かった思い出も、全てはとても遠いことのように感じられた。山本先輩のことですら、もはや何の感情もわいてこなかった。


 そして、一方で、この不思議な花の島の色彩が、僕の中でどんどん鮮明になっていくように思えた。二つの恒星の光を受けるこの星には夜がなかった。恒星は、両方空に輝いているときもあれば、どちらかしかないときもあったが、空から両方消えることはなかった。そして、空の色は、それらにあわせて少しずつ変化していった。あるときは紫で、またあるときは桃色で、またあるときは灰色だった。そのグラデーションの移ろいは、美しかった。この、高濃度の酸素で満たされた星の大気は、澄明すぎるほどに澄明だった。


 海も澄みきっていて、美しかった。この星は、地球で言うなら、ちょうど酸素を生産するシアノバクテリアが誕生したばかりのころの状態だったが、そのときの地球とは違って、砂浜は白いままだった。この星の海には鉄イオンがごくわずかしか存在せず、かつての地球のように酸化鉄で浜という浜が赤く染まるということはないのだった。


 僕は少女と二人で、よく島の周りの海を泳いだ。生物は、ごくわずかな種類の嫌気性微生物しか確認されてない星だ。海の中にも、空にも、僕たち以外生き物の姿はなかった。世界はどこまでも純粋で、無垢で、空虚だった。


「それにしても、どうして急に花なんて咲いたんだろう?」


 あるとき、僕はふと少女に尋ねた。答えの言葉が返ってくるわけはないとわかっていたが、尋ねずにはいられなかった。過去の記憶が希薄になっていく中で、その疑問だけが、僕の中でどんどん重量感を増していた。


「花っていうのはさ、繁殖のために咲くもんだろう。色とりどりのきれいな花弁と甘い蜜で虫をおびき寄せ、他の個体の花粉を自分の中に招くためのものだ。でも、ここには虫なんていない。花の中にも花粉なんてない。それに何より、この星にはびこる植物は、たった一つの株でしかないんだ。本来繁殖手段を持たないそれが、何かの間違いで急に子孫繁栄に目覚めたとしても、他の個体が存在しないんだから、せいぜい単為生殖や自家受粉するしかない。花なんて、咲く必要はないんだよ」


 僕がこう言うと、少女はひどく困惑したような顔をした。初めて見る表情だった。


「まあ、そんなこと急に聞かれても困るよな。たぶん、世界のありようの一つ一つに『なぜそうなったか』なんて理由は、いちいち用意されてないんだ。自分や世界が存在する意味なんて、どこにも正しい答えはないんだから」


 それが、僕が発した人間らしい最後の言葉だった。それから、僕はもう何も言わなかった。言葉が口から出てこなかったのだ。けれど、何も不自由はなかった。目の前の少女とは触れ合うだけで気持ちが通じたし、僕たちの周りの世界は、何か絢爛豪華な言葉で表現する必要がないくらい、純真で美しかった。僕たちは全てが満たされていた。知恵の実を口にする前のアダムとイブの暮らしはきっとこんな感じだったんだろうなと、ぼんやり思った。


 だが、やがて、僕たちの幸せな時間は終わりを迎えた。島の花が次々と枯れ始めたのだ。


 浜から海の向こうを見ると、遠くの緑のツルの森も同じように枯れ始めているようだった。どうやら寿命のようだ。


 なんだ、少し予定が遅れてただけじゃないか。


 それらの景色に寂しさを感じたが、悲しみや絶望の感情はわいてこなかった。花が枯れるということは、僕も死ぬということなのに。


 そう、花の蜜はもうなかった。僕は次第に衰弱し、やがて動けなくなり、島の浜にうずくまった。少女は変わらず僕のそばにいたが、僕と同じように憔悴しているようだった。僕はうずくまったまま少女にもたれかかり、その豊かな胸に顔をうずめた。


 ああ、そうか、彼女は……。


 少女のぬくもりと、その体からたちこめる甘い香りの中で、僕はようやく気づいた。彼女が何者であるかということに。その答えはとても簡単で、単純で、どうして今までわからなかったのか、不思議なくらいだった。


 そう、彼女はこの島に咲く花、そのものだった。女の子としての姿は、きっと、化身アバターのようなものだったんだろう。


 ややあって、頭上から彼女の歌声が聞こえてきた。静かな波の音とともに聞こえてくるそれはやはり美しかったが、今は少し悲しげだった。そして、僕はまどろみ、それは次第に遠く、かすかな響きになっていった。




 それから約百年後、僕は目覚めた。そこは漁港のようだった。僕は裸で、水浸しで、埠頭に寝かされていた。周りにはたくさんの漁師らしき男たちがいた。


「お、お前、生きているのか?」


 目を開け、上体を起こすと、漁師たちはいっせいにぎょっとしたようだった。話を聞くと、どうやら僕は、ついさっき、海の底から引き上げられたらしい。枯れた植物の葉っぱのようなもので何重にも包まれた状態で、ずっと眠っていたようだった。


 やがて僕は近く病院に運ばれたが、どこも悪くないことは僕自身よくわかっていたので、医師との簡単な問診をすませると、すぐにそこを出た。そして、近くの街を歩き回り、その様子を見た。ここは、かつてあのツル植物がはびこっていた星に間違いなかった。それが枯れ、百年ほどの月日を経て、人が移り住んできて、街が開発がされたのだろう。おそらく、大気の酸素濃度もだいぶ薄まっているはずだ。


 やがて、僕は公園に入り、その中央の噴水のところまで行った。周りに人気はなかった。噴水のへりに腰かけ、空を見上げた。今は紫色だった。かつて、少女と一緒に何度も見た色だ。


 僕はそこでふと、右手の親指を噛んでみた。傷口から甘い花の香りがした。そして、それを噴水の中に浸してみた。すぐに裂けた皮膚の中から、小さなヒゲ根が出てきた。


 ああ、やっぱり僕はもう、かつての僕じゃなくなってるんだな。


 噴水から手を引き上げ、指からはみ出したヒゲ根を引きちぎり、捨てた。傷口はすぐにふさがった。


 そう、僕はもう人間ではなかった。人の形をした植物の種子だった。正確には、珠芽と言ったほうが適切かもしれない。


 僕は自分のやるべきことを知っていた。ここは人が多い。騒々しい。例え、根付いても、すぐに枯らされてしまうだろう。だから、どこか遠くの星に行かないと。できれば穏やかな気候の星がいいな。人がとても少ないようなところで、誰も来ないような島を見つけて、そこで静かに根を下ろすんだ……。


 僕は噴水のへりから立ち上がり、歩き出した。頭の中に、あの少女の歌声がどこまでも響いていた。

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星の緑の花の歌 真木ハヌイ @magihanui2020

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