いわながひめ

十八 十二

銀鏡

 汗が空気に溶け込んでいく。

 鍛錬後の座禅。

 眼下に広がる壮大な自然。

 川の囁き。滝の騒ぎ声に木々の呟き。虫が鳴き、鳥が飛ぶ。

 ああ、私もこの中に溶けていきたい。


「お姉様ー! 岩長お姉様ーー!!」


 珍しく妹の佐久夜が走ってきます。

 私の妹はとても可愛く美しい。決して姉贔屓ではなく。

 ふっくらとした顔の輪郭。細く切れ長の目。何色にも染まらない白い肌。全てが完璧に整っていて、どこから見ても美しい女性。それが私の妹、木花之佐久夜姫このはなさくやひめだ。


「どうしたのですか? そんなに慌てて」

「素晴らしいお方がいらっしゃるのです!」

「素晴らしいお方?」

「はい! あのニニギ様です!」


 ニニギ様といえば、高天原を治める天照様のお孫様で先日ここ芦原中津国に降臨されたお方ではありませんか。私も一度お目にかかりたい。

 私が思考の海を潜っていると「それでですね」と佐久夜が続けました。頬がほんのり色づき、目が泳いでいます。何でしょうか。


「結婚してくれと言われました。一目惚れだと」

「それは良かったではありませんか! おめでとう、佐久夜。姉として鼻が高いです」


 確かに妹ほどの美人と釣り合うのはここではニニギ様しかいないでしょう。しかし、本当にめでたい。我が大山津見一族で二人も天つ神と、しかも三貴子の方々との縁が得られるなんて、なんと名誉なことか。あとは月読様でコンプですね。ただ性別が分かりませんが。

 おっとその前に、父上にお知らせしなくては。

 私は佐久夜に「おめでたいことなのだから貴方の口で伝えなさい」といって父上のもとに送り出しました。


「よかったわね佐久夜。おめでとう」


 走って行く愛しい妹の背に言葉を送りました。


 座禅に戻るも妹との思い出が溢れてとまりません。


 佐久夜は何でも出来きました。『才色兼備』。この言葉は佐久夜のための言葉だと思っています。佐久夜以外にこの言葉が合う女神など一柱だっていないと断言できるほどに。

 佐久夜との思い出は、敗北の思い出ばかりです。木登りもかけっこも泳ぎも、読み書きそろばんだって、私はいつも負かされっぱなし。

 悔しかった。自分は姉ではないのかと自問しては己を責め立てました。

 勝ちたかった。姉の威厳を示したかったのです。

 だから努力を積み重ねました。勝つまで。


ぼーっと景色を眺めていると佐久夜と父上が来ました。二人ともきっちりした服装です。

私が見送りの為に立ち上がると父上が「お前も行くぞ」と言いました。私は意味が分からずに固まってしまいました。


「……あ、挨拶に行くのですね」

「違う。岩長、お前もニニギ様のお嫁さんになるんだ」

「……え?」


どういうことでしょう。私は結婚の申込なんて受けていません。


佐久夜が困惑している私の背を押して着替えさせようとします。


「お姉様とずっと一緒ですね!」


嬉しそうに笑う妹に見蕩れてしまいましたが重要なことに気がつきました。


「ちょっと待って、佐久夜。私汗かいてるいるので水を浴びたいのです」


 こんな汚い身体で会いになど行けるはずがありません。

 私は崖から滝壺に飛び込みました。ニニギ様を待たせるわけにはいきませんから。それから目一杯のお粧しして、一番いい服を来てニニギ様に会いにいきました。


「ブスは帰れ」


 私に向けられた最初で最後のお言葉です。

 視界が真っ暗になっていきます。

 本気で怒ってくれる妹と怒りを必死にこらえ姉妹で娶ることの利点を解く父が私の沈み行く心を救い上げてくれました。


「分かりました。帰らせていただきます。お目を汚してしまい申し訳ございませんでした」


 頭を下げ、家に帰り、しばらくして帰って来た妹を宥めした。


「とても名誉なことなのだから結婚を断ってはいけません」

「私のことなど些事ではありませんか」

「それほどに貴方を好いているのですよ」

「貴方に釣り合う殿方はニニギ様しかいません」

「素晴らしい結婚が無かったことになるなんて私は悲しいです。」


 なんとか佐久夜を結婚に前向きにさせることに成功しました。

 その甲斐あってか二人は結婚。


 そして結婚の宴が催されることになりました。このときも一悶着あったのですが、無事この日を迎えることが出来ました。

 礼装を着た父上と綺麗な服を着た妹が並んでいます。


「じゃあ、岩長。行ってくる」

「お姉様……」

「はい、父上。佐久夜、ちゃんとニニギ様を支え幸せになるのよ」

「……はい、必ず……」


二人を送り出した私は家に入ろうとしました。そのとき、石や岩、土の神達がやってきました。


「どうしたのですか? 今日は妹の結婚を祝う宴ではないのですか?」

「ええ、だから来たのですよ。岩長姫様と一緒にお祝いたくて」


 気を使わせてしまったようです。

 それでも私は嬉しかった。良い家臣に恵まれて私は幸せです。

 騒ぎ、佐久夜との思い出話に花を咲かせ、歌い、踊りました。


 翌日、花の神や木の神などが昨日の宴がどんなに面白かったか教えてくれました。個人的にはウズメ様の踊りが特に気なります。

 昨日の宴について話していると、石の神が来て「自分たちも楽しい宴をした」と言ったものだから、宴の自慢大会が始まってしまいました。


 ある日、ニニギ様から贈り物を頂きました。今までの無礼に対するお詫びの品だそうです。

 箱を開けると布に包まれた何かが出てきました。布を解くと美しい装飾がされた円盤が。鏡だそうです。


 鏡というのは光を反射するもので、自分の顔がくっきり見られる道具で、誰でも持てるものではありません。超が付くほどの高級品。


 布を解いて鏡を手にとり、覗き込んでみました。


 そこに映っていたのはあまりも醜い顔。


 顎にかけて細くなっている顔の輪郭。褐色の肌にふっくらとした唇。鼻だけは小さく。しかし、がっと切り開かれた大きな目が驚愕に大きく見開かれて。巌のような身体にはお似合いの顔の構造。しかし、やたら広い肩幅の上に不自然に乗っているようで、気味が悪い。

 醜い。あまりにも醜い。気持ち悪くておぞましい。

 これが自分の顔なんて信じたくありませんでした。自分の姿が化け物のようだなんて。


 気付いたら私はその鏡を投げ飛ばしていました。遥か遠くの山の彼方でキラリと光るアレがきっと。


 それから私は顔を隠すようになりました。


 顔を隠して生活するのが習慣化して来た頃、ある男神が訊ねてきました。


「私は八島士奴美やしまじぬみと言うもの。貴方の名前を知りたい」


 頭にカッと血が上ります。


「馬鹿にしているのですか!!?」


 自分の名を名乗り、名を聞くのは、共寝のつまり求婚の儀式なのです。

 私は顔を覆う布を取りました。


「これでも名を聞きたいと?」

「ああ、聞きたい! 寧ろこの思いは強くなりました!」

「貴方の目は腐っているのですか!? この筋肉だらけの男のような身体! 汚い色の肌! 大きな目も! 貴方には見えないのですか!?」

「私の目が腐っているだと! 無礼な! 私にははっきり視えている、貴方の美しい姿が!!」


 この男の雰囲気がガラリとかわり、距離を詰めてきます。私は呆気にとられ動けません。


「困った神がいれば助けられる貴方の引き締まった肉体と、見ているこちらまで元気なるような健康的な肌の色も、笑ったときに細まる目も、美しい。貴方は美しい。聡明で慈悲深い。私は貴方の、優しい貴方の心に惚れたのです」


 私は足を掛けられ倒されました。あんなにも鍛えたのに、いとも簡単に。でも、この人も一緒に。この人の顔がまさに目と鼻の先に。


「共寝の体勢ですね」

「何を言って……!」


 突然、視界いっぱいのあの人の顔が消えました。代わりに飛び込んで来たのは赤い紅葉と青い空。

 右側から。


「私は君と季節の移り変わりを見ていたい。何周も、何万周も、永遠に。」


 あの人の声。


 真っ赤な紅葉が降り積もっていきます。


 あの人の左手が私の右手に触れ、指と指が絡まって――。




 眩しさで意識が浮上していきます。


「おはよう。何の夢を見ていたの?」


 彼が私の顔を覗き込むようにして言いました。


「昔の思い出の夢ですよ」


 寝顔を見られた恥ずかしさから少しむっとした顔で答えます。


「そっか。ほら早くしないと遅れてしまうよ」

「それはいけません!」


 私は急いでクローゼットを開けました。


 二人で何周の季節を巡ったでしょうか。千と幾つでしょうか。

 その間にどういう訳か私は美人の扱いを受けるようになりました。

 もちろん、私の容姿が変わった訳でなく、周りの対応だけが変わったのです。

 彼は「やっと時代が岩長の美しさに追いついたか」などと言っていますが。


 今日は妹の二回目の披露宴。

 このごろ会うたびにぺこぺこ頭を下げるニニギ様に「私に妹のウエディングドレス姿を見せくれたら昔のことはお酒と一緒に流しましょう」と言ったところこのような催しが実現されました。


「ほら行くぞー」


 彼が急かします。

 私は急ぎ支度を済ませ彼の元へ。


 会場はたくさんの神でいっぱいです。

 そして、あっという間に家臣やその他の神達に囲まれてしまいました。

 お祝いの言葉の他にも私のことを褒める言葉が多く聞こえます。


「そのようなことは御座いません。 私など――」


 そう言うと彼が。


「いいや、君はいい加減自分の美しさを自覚すべきだ」

 

 と言いました。そして「そうだそうだ」と続く家臣達。


「分からないものは分かりません!」


 でもこれだけは分かっています。私は一番幸せな女神であることを。


「ほら、佐久夜が入ってきましたよ! ああ、なんて美しいのでしょう」


 ああ、佐久夜、尊い。

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