波音の幻聴
自宅のマンションに着いたのは、夜の八時を少し過ぎた頃だったと思う。
仕事用のスラックスとシャツを脱いで部屋着に着替え、帰り道の途中で買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞ったところまでは、はっきりと覚えている。それからスマートフォンをベッドのそばのテーブルに置いて横になった。
眠るつもりはなかった。それほど疲れているわけでもなかった。しかし、いつの間にか僕の意識は途切れていて、つけっ放しだった部屋の明かりの不快さで目を覚ました。
目を傷めないように、僕はゆっくりと瞼を開いた。時間の感覚はなかった。静かで、何の音もしない。ぼんやりとしたまま、スマートフォンを手に取って画面を見ると、時刻は午前一時近くになっていた。
まったく予想していなかった時刻に、は? と思わず声が出てしまった。四時間も寝てしまっていたことになる。しかし、それだけ長い時間眠ったにもかかわらず、すっきりとした感じは全くなかった。むしろ眠る前よりも疲労感が強くなっているようだった。
疲労感が溜め息になった。僕はスマートフォンの画面に表示されていた様々な広告的なメッセージやアプリの更新情報などを消去し、再びテーブルの上に置いた。
ひどく億劫だったが、身体が汗ばんでいたのでシャワーを浴びることにした。重い身体を起こして浴室でシャワーを浴び、別の服に着替えた。
そうしているうちに、次第に目が冴えてきた。しばらくの間、眠りに就くのは難しそうだと感じたので、ベッドには入らず、リビングの椅子に座った。
相変わらず気分は良くなかった。読みかけの本を開いてみたが、文字が上手く頭に入ってこない。僕は数分で本を閉じ、その後は何もせずに時間を過ごした。やがて、無音の部屋の中にいることを気詰まりに感じて、ベランダに続く窓を開けた。
湿度の高い夜だった。蒸し暑く、
僕の部屋は七階にあり、ベランダからこのあたりの地域をある程度広く見渡せる。街灯や信号機の光が灯っているので真っ暗ではなかったが、ほとんどの建物の明かりが消えていた。人影は僕の見える範囲にはどこにもなかったし、車もほとんど走っていない。ひっそりとした街のなかに所々灯っている明かりは、なんとなく無残な感じがした。
僕は頭を休めようと思い、深い呼吸をしながら、その中途半端に光の残った夜の街を眺めていた。
そのとき不意に、波の音が聞こえてきた、ような気がした。
この街の近くに海はない。だからすぐに気のせいであることはわかった。けれど、その幻聴は止まなかった。そしてその周期的に響く音に続いて、かつて歩いた海沿いの夜道の景色が僕の脳裏に広がった。
中学生の夏のことだ。一度その風景を想起した途端に、次々にその夜の記憶がよみがえってきた。それらはとてもはっきりとした記憶で、まるで僕の周りの時空が歪んだような、妙な感じがした。
☆
十代半ばくらいの時期、夜の道を一人で歩くことが、なぜか好きだった。
あらゆる季節でそうだったけれど、夏の夜が特に好きだった。だから、翌朝早起きをする必要がない夏休みの夜には、よく外を出歩いていた。
中学三年生の夏休みも終盤に入った頃の、あの日もそうだった。
うたた寝から覚めたあと、夜の十時過ぎに僕は家の外に出た。条例で、中学生は夜の十一時以降に外を出歩いてはいけないことになっていた。また、夏休み中は、非行防止のために夜中でもパトカーが
当時僕の住んでいたマンションは海の近くにあり、近所には海沿いに長く伸びている道があった。日中は車がよく通るが夜になると静かで、波の音がよく聞こえる。その道を僕は気に入っていた。
生ぬるい風が弱く吹くなかをしばらく歩き、砂浜に下りる階段が設置されている場所にさしかかったときだった。ふと、小さな白い光が暗闇にちらついた。その光の方へ眼を凝らすと、砂浜の上で誰かがスマートフォンを持って立っているのが見えた。
誰だろう、と思ったのと同時に、彼女が僕の方に顔を向けた。手元に持っているスマートフォンの画面の光が、その顔を淡く照らしていた。
知っている顔だった。
佐々木梓。
彼女は、三年前、小学六年生の頃から僕と同じマンションに住んでいた。中学一年生の時に同じクラスになっていたので、顔を合わせれば挨拶し軽く言葉を交わすくらいの仲にはなっていた。
佐々木は、良くも悪くも、接しやすい人だった。あまり遠慮がなく、どんどん人を自分のペースに巻き込んでいくところがあるタイプだった。学校でも友人が多く、そして時折誰かと揉めていて、わりと目立っていた。
僕たちの周りにあまり明かりはなかった。少し離れたところに古い街灯があるだけだ。しかし、その薄暗さのなかでも、彼女と目が合ったのがわかった。彼女は驚いた表情を浮かべていた。
たぶん、僕も同じような顔をしていただろうと思う。こんな夜の時間に佐々木に出くわすというのが意外だったという上に、その目が、うっすらと濡れているように思えたからだ。
見間違い、あるいは光の加減のせいなのかとも思ったけれど、彼女は僕からさっと顔を逸らすと、慌てたように手で目元を拭った。
僕は、まずいところを見てしまった、という気まずさを覚えた。すぐにその場から立ち去ろうと思い、歩を前に進めようとした。
そのとき、佐々木の声が響いた。
「こんな時間に、なにしてんの?」
いつも通りのくだけた口調だった。目にはまだ濡れたような輝きがあるように思えたが、彼女が
歩きかけていた足を止め、視線を彼女の方へ戻す。
「いや……。ただ歩いてただけだよ」
僕が答えると、彼女は怪訝そうに首を傾げた。肩につくくらいの長さの髪がさらりと揺れた。
「――散歩してたの? なんの目的もなく?」
そうだよ、と、少し気まずさを覚えながら、その問いに答える。
「ふーん」と、佐々木は不審げに相づちを打ち、しかしそれ以上は追及してこなかった。彼女は階段を上ってきて、その一番上に、すとん、と腰を下ろした。
どうしたのだろう、と僕は思った。
会話は途切れていたが、なんとなく立ち去るタイミングを失って、僕はその場に突っ立っていた。黙っているのも間が悪かったので、「佐々木の方はなにしてたの?」と、彼女に尋ねた。
「ちょっと、兄貴とラインしててね」
と、彼女は答えた。
佐々木のお兄さんのことは知っていた。本人とはあまり話したことはなかったけれど、面識はある。昨年大学生になって、一人暮らしを始めたというのも噂で聞いていた。
佐々木は溜め息をつき、また目元をさっと拭った。その様子から、もしかしてお兄さんと喧嘩でもしていたのかと思い、
「なんかあったの?」と軽い気持ちで尋ねた。
一瞬、奇妙な間が空いた。それから彼女は小さく頷いて、平坦な口調でこう答えた。
「今日、おじいちゃんが亡くなったんだ」
僕はそれを聞いて絶句した。まったく予想外の言葉で、うまく反応を返すことができなかった。沈黙のなかで彼女は咳払いをし、それから言葉を続けた。
「そのことについて、兄貴と話してたの。今こっちに向かう夜行バスの中らしいんだけど」
「そうだったんだ……」
ようやくのことで、僕は、その一言だけを絞り出すようにして口にした。それ以外には、ただその階段の上に立って、座り込んでいる佐々木の後ろ姿を見ていることしか出来なかった。
僕が佐々木の言葉から受けた衝撃に立ちすくんでいると、やがて、彼女は身じろぎして、座っている位置を少しだけ左にずらした。
「まぁ座りなよ」と、彼女は僕の方を見て言った。そして手のひらで、自分の横の地面を軽く、ぽんぽんと叩いた。「立ったままだと疲れない?」
ほとんど何も考えないまま僕は曖昧に頷き、彼女の隣に、一人分の距離を置いて腰を下ろした。砂埃にまみれたコンクリートは生暖く、履いていたジーンズの布を通して、皮膚よりも少しだけ温かな熱が伝わってきた。
僕たちは黙ったまま、並んで座っていた。波の音だけがあたりに響いていた。穏やかで規則正しい波音だった。その音が、気まずい沈黙を埋めてくれていた。
「いつもこんな時間に散歩してるの?」
ふいに、彼女がそう尋ねてきた。
頷くと、佐々木は少し興味を引かれたように、「なんで?」と尋ねてきた。
そんなことを誰かに説明する日が来るなんて思ってもみなかった。どう答えたらいいだろうかと少し考えたあとで、こう言った。
「別にこれといった理由はないよ。ただ、夜にこの道を歩くことが好きなんだ」
「ふーん」
彼女は雑に相槌を打った。あまり共感されていない感じだった。
「佐々木はどうしてここに?」
「――まぁ、あたしも散歩みたいなもの。お母さんたちは今色々と忙しくて、家に一人でいたんだけど、なんだか気詰まりで」
「そうか」
彼女は頷いた。そしてまた会話が途切れた。
しばらくすると、彼女は詰めていた息を吐くかのように大きなため息をついた。
「なんだか、今、変な感じなんだよ」
僕たちの前に広がる暗い海を見つめたまま、佐々木はそう言った。
「突然だったの。今日の早朝に、おじいちゃんが亡くなったって連絡が入って。確かに、少し前に体調を崩してはいたんだけど、でも、大丈夫そうだって聞いてたから。それで今日は一日ずっと、現実感がないんだ。今、君とこうして座っているっていうのも含めて、なんだか全部が嘘みたいに感じる」
「うん」とだけ、僕は頷き、声に出した。
「この世界から、人が一人いなくなっちゃったってことが、うまく理解できない。本当なのかな」
そんなことを、彼女はぽつりとこぼすように言った。
答えに困った。どう返したらいいだろうかと言葉を探したけれど、何も見つからなかった。
佐々木は僕の方にちらりと顔を向けた。それから考え込むような間のあとで、補足の言葉を続けた。
「……おじいちゃんがいなくなっても、あたしの生活にはほとんど影響ないはずなんだ。小さな頃はよく遊んでもらってたけど、ここ何年かは、一年に一回か二回、会うくらいになってたから。――でもね、そんなふうに思えないんだ。私の生活にはきっと何の変化もないんだろうけど、でも、昨日までの、おじいちゃんがいた世界と、今日からの世界は、何かが違うような気がする。はっきりとは言えないんだけど、でも、何かが変わっちゃったような気がするの」
そこまで言うと、彼女は空を見上げた。湿気っぽい空気のせいか、夜空の星の光は弱く、いつもよりも暗く感じた。
「そう思うと、なんだか怖い気がする」と、彼女は続けた。
「その、何かが変わっちゃった世界がこれから先続いていくって考えると、心細い。――わかるかな?」
そのときの佐々木の話し方はたどたどしかった。自分でもうまく把握出来ていないことを、なんとか言葉にしようとしていたのだろう。
「なんていうのかな、今までの、何も考えずに安心してた世界から放りだされちゃった、みたいな感じ。……クラス替えで新しい教室に入っていくときの不安な感じに、ちょっと近いかもしれない」
なにかを探り出していくような佐々木の話し方に、僕はどこか切実なものを感じていた。彼女は、おそらくは他人に説明することがとても難しい個人的な感覚を、僕に伝えようとしているのだと思った。
どうしてかはわからない。共感を求めていたのか。あるいは僕の反応などどうでもよく、ただ話すことによって自分が感じていることを整理しようとしていたのか。それでも、僕も彼女になにかを言うべきだと思った。聞き流してそれでおしまいにしてはいけない、という気持ちが、なぜか僕のなかに生まれていた。
しかし、僕が何かを言い出す前に、ふと、視界の端に赤い光が映った。パトカーだった。サイレンは鳴らしていない。道路の向こう側、闇の奥から、その赤い光は僕たちの方へ向かって、ゆっくりと近づいてきていた。
「やば」と、彼女もそのパトカーを見て言った。持っていたスマートフォンの時刻表示を見たら、十一時はもうとっくに過ぎていた。
「隠れよう」
僕はそう言って、コンクリート階段の下に降りていった。そこで佐々木と共に身を屈めた。階段の傾斜は急なので、そこにいれば、上から見つかる心配はないと思った。
身を屈めた際に、僕たちの距離は肌が触れ合うくらい近くなって、ふいに、甘いような、爽やかなような香りがかすかに漂ってきた。佐々木の服か、あるいは制汗剤か何かの香りだったのだろう。
顔を上げると、ふと佐々木と目があった。そのとき彼女は小さな笑い声をもらした。何がおかしいのかはわからなかったが、僕の方にも笑いが込みあげてきた。
二人で小さくかたまりながら身を隠している間、僕たちは、かみ殺すような声で笑い合った。
「くだらないね。馬鹿みたい、あたしたち」
彼女の言ったことに、僕も頷いた。
しばらくして道路の方を見ると、すでにかなり遠ざかっていたパトカーが角を曲がり、その姿は完全に見えなくなった。
僕は息を吐いて、階段の上に腰を下ろして言った。
「もういなくなったよ」
佐々木は頷き、立ち上がって、腕やショートパンツについた砂を払った。それから、「さすがにもう帰らなきゃ」と言った。「君も帰るでしょ?」
「うん」と僕は答えた。
僕たちは住んでいるマンションに向かって、海沿いの道を並んで歩き始めた。街は静止しているかのように静かだった。相変わらず一定のリズムで寄せては返す波の音だけがあたりに響いていた。
やがて、マンションが見えてきた。そのとき僕は無意識に、このあと彼女が(おそらくは一人きりで)過ごす夜の時間を想像していた。
弱い風が吹いた。その風に乗って、身を寄せ合ったときと同じ匂いが運ばれてきた。
「佐々木」と僕は彼女に呼びかけた。
「うん?」彼女はこちらを見ずに、声だけで返事をした。
「頑張って」
結局、どんな言葉をかけたらいいのかはわからなかった。もっと何か適切な言葉があるような気がしたけれど、たったそれだけの言葉しか出てこなかった。口に出してしまった後には、なんだかひどく見当違いなこと、あるいは不適切なことを言ってしまったような居心地の悪さだけが残った。
しかし、彼女は短く頷いた。
「うん。ありがと」
その後、僕たちはマンションのエントランスでの別れ際に「さよなら」と言い交わすまで、無言で歩き続けた。
☆
まだ幻聴は続いている。ひどくリアルな響きだった。目を閉じると、本当に海が近くにあるみたいだ。
僕はしばらくの間、この現実世界の感覚と、思い出していた記憶の感覚が混ざり合ったような状態に置かれていた。十年ほどの時を隔てたあの夜のことを、つい先ほどの出来事のように感じていた。
あのとき僕は、佐々木にどういう言葉をかけたらよかったのだろう。
ふとそう思い、考えてみたが、やはり、あの頃と同じように上手い言葉は見つからなかった。
その後、夏休みが明けるまで、佐々木には会わなかった。二学期の始業式の日、あの夜以降初めて目にした彼女は、普段通りの明るい雰囲気を醸し出しながら、友達の女の子たちと会話をしていた。その姿に、『何かが変わってしまったかもしれない世界』に不安を抱いていたあの夜の彼女の姿は、うまく重ならなかった。
あの不安は佐々木のなかでどうなったのだろう。
幻のように、すみやかに消えていったのだろうか。何らかのきっかけがあって乗り越えたのだろうか。あるいはあの時もまだ、どこかにあの不安を隠していたのだろうか。
今となってはもうわからない。
僕と佐々木は、それから高校を卒業する春まで同じマンションにいたのだが、その後進学に伴って僕は東京へ行き、彼女は家族共々、別の街へ越していった。別れるまでの数年間、マンション内で顔を合わせた時に短い立ち話を交わしたことはあったけれど、それ以上に僕たちの親交が深まることはなかった。
僕と佐々木の関係は、『友達』と呼ぶこともためらうくらいに、浅い関係だった。たぶん、『知り合い』くらいが適切なんだろうと思う。
けれど、あの夜のことだけは、どうしてか、今でもよく覚えている。
僕はあの夜に初めて、自分ではない他の誰かが深いところで抱えている不安に触れたような気がする。そして誰もが、そのような感情を抱え得ることを――初めて、体感として、思い知った。
僕は薄く目を開き、少しずつ小さくなっていく、あるいは遠ざかっていくような波の音を聞きながら、眼下に広がっている夜の街を眺めていた。
幻聴が遠ざかっていくとともに眠気が増し、意識がぼんやりと霞んできていた。今はいったい何時なのだろう。なんの変化もない夜空と街を眺めているうちに、時間経過の感覚が麻痺してしまったようだった。
そろそろ眠ろう、と思った。僕は最後に一度、静かな真夜中の街を見渡し、それから室内に戻った。
ベッドに入り目を閉じると、瞼の裏の暗闇に、ふと、あの夜の海辺で僕の隣に座っていた佐々木の姿が浮かんできた。
佐々木が今元気でいるといいなと、僕は薄れていく意識の片隅で思った。
掌編作品集 久遠侑 @y_kudo
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