雪のあとの奇妙な世界

 街に薄く積もった雪が、よく晴れた空からの陽射しに溶けていた。

 三連休最終日の祝日。朝の九時に、僕はパンとコーヒーを買いに、家から徒歩十分ほど先のコンビニへ向かっていた。

 忙しかった仕事を終えて迎えたこの連休の二日間、ほとんどの時間を僕は眠り続けた。

 体調が悪いわけではなかったが、仕事の疲労からかどうにも頭が上手く働かず、まともな食事もとらずにずっとベッドに横になっていた。ようやくこの日の朝に頭がすっきりとしてきて、空腹感とともに、外に出る気力が湧いて来たところだった。

 昨日の夜はずっと雪が降っていた。けれど、今日の空にはもう雲一つない。家々の屋根や、あまり人通りのない道の上などにはまだ雪の白が目立つが、大きな歩道や車道の雪は、もうあらかた溶けている。


「……あの、すみません」


 目的地のコンビニが見えてきたとき、ふと背後から声をかけられた。

 振り向くと、二十代半ばくらいの女性が立っていた。茶色に染めた長い髪の上からマフラーを巻きつけ、チャコールグレーのコートを着ている。僕の周りには、歩道の反対側からこちらに向かって歩いてくる男性が一人いたが、彼女と会話ができるような距離にいるのは、僕だけだった。

「……なにか?」

「あの。中上さんですよね。このあいだ、隣の部屋に引っ越してきた宮原です」

 遠慮がちの口調で、彼女はそう言った。そう言われてみれば、彼女の顔には見覚えがあった。先月、僕の住んでいるアパートに引っ越してきて、その時に一度挨拶に訪ねてきてくれたことがある。

 僕が会釈を返すと、「お散歩ですか」と彼女は言った。

「はい。ちょっと、そこのコンビニまで」

「そうですか」

 宮原さんはにこにことしながら言い、それから周囲に目をやり、少し低い声で、

「……昨日、このあたりで何か事件があったんでしょうか」

「え?」

「朝早くから、パトカーが何台もこのあたりを通ってるんです。警察の人も多いですし……。ほら、あそこにも」

 彼女が、僕の背後を目で示した。そこにはたしかに濃紺の制服を着た警官が二名、分厚い紙のファイルを広げて話をしていた。

「本当だ」

「ネットで検索してみたんですけど、それらしいニュースはなかったので、大変なことではないと思うのですが……」

 そうしていると、ふいに警官二名のうち、一人が顔を上げ、僕たちの方を見た。そして彼はもう一人に何かを短く言い、二人そろって僕たちの方へ向かってきた。

 すると、

「あの。わたし、失礼します」

 宮原さんは急にそう言って、僕のそばから立ち去っていった。一人の警官は僕の前で立ち止まり、もう一人の警官が早足に宮原さんの後を追った。

「すみません。少しお尋ねしたいことがあるのですが。このあたりに住んでおられる方ですか?」と、僕の前に立ち止まった警官が言った。

「そうですけど」と僕は頷いた。

「昨夜、カゲヤミがこのあたりに出たらしくて……。彼らは人間に成りすまして潜伏している可能性があるので、警戒しているんですが」

「はぁ?」

 何かを考えるよりも早く、言葉の方が先に出ていた。

「なんですか、それ?」


です」


「いや、その言葉の意味がわからないんですが……。?」

 何を言っているんだこの警官は、と思った。

 カゲヤミ?

 影闇、影病み、影止み、と、僕は混乱気味の頭のなかで、その言葉の響きから当てはまりそうな漢字を思い浮かべてみた。警官はさも常識であるかのような口調で言ったが、そんな言葉に聞き覚えなどなかった。

 一瞬にして現実感が希薄になり、もしかして僕は夢を見ているんじゃないかと思った。まだ仕事の疲れが抜けず、変な夢を見ながら、泥沼のような眠りのなかにいるんじゃないかと。

 しかし、夢にしては、僕の感じている五感の感覚はあまりにもリアルであり、警官の表情も、真面目そのものだった。

 彼は、僕の問いには答えず、動かない表情で僕を見つめ、それから言った。

「確認させてもらってもよろしいでしょうか?」

「確認?」

 彼の表情には、緊張が少しだけ滲んでいた。

 警官は、腰のポーチから、やや丸味のあるリモコンのようなものを取り出した。持ち手のところにいくつかのボタンと、それから液晶画面がついている。

「手を」と短く彼は言った。

 あっけにとられたまま、半ば無意識に僕は右手を差し出していた。

 警官はそのリモコン状のものを、差し出した僕の手のひらに向け、ボタンを押した。カチリと音がし、液晶画面が光った。手に向けられている器具の先端からは、光も熱も出ていない。なにかの非接触式の測定器なのかもしれない。

 警官は数秒ほどの間、画面を注視していた。それから、唐突にその器具を持っていた手を下ろした。

「ご協力ありがとうございました」

 そう言って、彼はリモコン状の器具を腰のポーチに仕舞い、小さく会釈をした。彼の表情からは、すでに緊張が抜けていた。

「……そういえば、さきほどあなたと話をしていた人は……?」

「近所の人です。つい先日引っ越してきて」と僕は答えた。

「はあ」

 警官はどこか訝しげな表情になった。

「ではあまり面識のない人だったんですね」

「はい」

 頷くと、彼は頭痛を感じているかのように顔をしかめ、細く息を吐いた。

「誰かに成りすましているカゲヤミは、『人間』になっているうちは、自分がカゲヤミであることを忘れています。無意識的に、正体を見破られる危険を回避する行動を取る傾向にあるらしいのですが……。――お気をつけて。一度彼らの世界に連れ去られてしまえば、それまでですから」

 彼は僕に一礼すると、小走りで宮原さんが歩いて行った方向へ向かった。僕も振り返ってみたが、宮原さんも、彼女を追って行ったもう一人の警官の姿も見えなかった。

 細く雪が積もっている電線から水がしたたり落ちて来て、アスファルトの上で小さく弾けた。

 僕は一人になり、ふたたびコンビニに向かって歩きはじめた。相変わらずの、穏やかな休日の朝だ。

 しかし、と僕は歩きながら考えた。


 ここは本当に昨日まで僕がいた世界なのだろうか?


 微弱だった音がハウリングしながら大きくなるように、僕のなかの疑念と、恐怖のような、なにか得体の知れない不快な感情が増大してきた。寒い冬の日なのに、いつの間にか、背中に汗をかいていた。

「……カゲヤミ?」

 僕はその妙な響きのする言葉をつぶやいてみた。

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