眠れない夜のメトロノーム

「じゃあ、また明日」

 分かれ道で立ち止って、沙智子さちこは三人の友達に向かってそう言った。

「うん。またね」

 幼馴染の詩織が笑みを浮かべて答え、他の二人の友達も別れの挨拶を続けた。それに沙智子は手を振り返して、家路を歩き出した。

 日没の時間をわずかに過ぎ、周囲はぼんやりと薄暗い。陽が暮れてから気温も下がってきていた。肌寒さに、彼女は羽織っていた赤いカーディガンの袖を引っ張って、手の甲までを覆った。

 沙智子は今日、友人の詩織と一緒に、彼女たちが住んでいる地域では一番大きなショッピングモールへ遊びに行った。

 昨日、所属している吹奏楽部の練習の終わりに、とても久しぶりに、詩織から声をかけられたのだった。

「さち、明日ヒマ?」

 サックスの手入れをしながら、彼女はそう言った。

「えっ。なんで?」

 思わず、フルートをケースに仕舞っていた沙智子は、その動きを止めてしまった。

「明日、SさんとNちゃんと、一緒に出掛ける約束をしてて。さちも、よかったらどうかなーと思って」

 名前があがった二人は、同じ吹奏楽部の、明るくてノリのいい子たちだった。

「うん。それなら、わたしもいく」

 このごろ関係が希薄になっていた詩織と一緒でも、あの子たちがいるなら気まずい思いをしないでいられるだろうと考えて、沙智子はそう答えた。

 ――けれど、なんで彼女はわたしを誘ったのだろう。

 中学生のころには、詩織とよく二人で遊んでいた。

 学校の帰りに公園に寄って取りとめもなく話し込んだり、テスト前にはカフェやドーナッツショップで一緒に勉強をしたり、今のような季節の変わり目には服を買いに行ったり……。

 しかし、同じ高校に進学してから一年半が経ち、沙智子は詩織との間に距離が出来てしまったと感じていた。

 なんという理由もなく(少なくとも沙智子には、詩織に嫌われるようなことをした覚えはなかった)、沙智子と詩織が一緒に過ごす時間は減ってきていて、最近では、吹奏楽部の活動中にコミュニケーションをとらなくてはいけないとき以外には、ほとんど話をしなくなっていた。

 高校生になって、詩織は変わった。

 そう沙智子は感じていた。

 中学生の頃はショートだった髪を伸ばし、パーマをゆるくかけたミディアムロングの髪型になった。それから学校にいるときでも、うっすらと化粧をするようになった。

 どこが、と聞かれたらはっきりと指摘するのは難しいくらいに些細なところでだけれど、言葉の使い方や、会話のときのリアクションの取り方も、中学生の頃とは違う。

 誰かと付き合っている、という話こそ聞かないけれど、クラスではうるさいくらいに元気のいい女の子のグループにいて、派手な男の子たちと一緒にいるところもよく見かけた。

 ――学校ですれ違うとき、最近の詩織はちょっとだけ、見下すような視線でわたしのことを見ていたような気がする。

 もちろん彼女が何を思っているのかはわたしにはわからないけれど、でも、中学生の頃、仲が良かった頃の詩織は、あんな目でわたしを見たことはなかった。

 沙智子は薄く暮れた道を歩きながら、どうして詩織がこの日、自分を遊びに誘ったのかを考え続けた。しかし、もっともらしい理由は思い当たらなかった。

 ――何かの気まぐれでも起こしたのかな。それともわたしと仲良くすることで、彼女にとって何かいいことがあるんだろうか。

 たとえば、わたしの友達の誰かと繋がるためのきっかけにしようとか……。もしくは、詩織との間に距離が出来てしまったと感じているのはわたしの思いこみで、詩織の方ではそんなこと全然思ってなかったとか……。

 ふと、道沿いにある家の庭から、金木犀の香りが漂ってきた。その甘い匂いに、考え事のなかに深く沈み込んでいた意識が、表面へ浮かびあがってきた。

 沙智子はため息を吐いて、視線を上にあげた。

 薄い紫色だった空は、徐々に暗さを増してきている。遠くの鉄塔の先についている赤いランプがゆっくりと明滅しているのが、薄暗い景色のなかに見えた。


 ☆


 その夜、沙智子はなかなか寝つけなかった。

 暗い部屋のなかで、枕もとのランプのオレンジ色の柔らかい光が、ぼんやりと彼女の周りを包んでいる。

 ベッドサイドテーブルの上には目覚まし時計と、それから振り子式のメトロノームが置いてある。

 高校に入った頃に電子式メトロノームを新しく買ってから、楽器の練習用に使うのはもっぱらその新しい方で、振り子式の方はもうほとんど使っていない。ただ、可愛いデザインが気に入っていたので、飾りとしてベッドサイドに置いている。

 沙智子は、メトロノームのおもりを動かし、自分が心地いいと感じるテンポに設定した。

 左右に動き始めた金属の振り子が、リズムを刻みながらランプの光を反射しているのをしばらくぼんやりと見続け、それから明かりを消し、枕に頭を乗せた。

 ――これがわたしのリズム、と沙智子は思った。大体50BPM。このくらいのテンポが、一番、落ち着く。

 深く息を吸い、目を閉じる。夕方からの考えごとはこの日ずっと頭の片隅にあった。

 食事と入浴を済ませ、ひとりベッドに横になっていると、再び意識がそこに向かっていってしまった。

 もしかしたら、と彼女は思う。

 もしかしたら、詩織のリズムは、わたしよりも少し早くて、今まではかみ合っていたものが、少しずつ、ずれてきていたのかもしれない。

 今日、久しぶりに一緒に遊んでいたときのことを思い返す。すると、やはり自分と詩織の間には、どこか違ったリズムがあったように思えた。

 気まずい思いをしたわけではない。全体的にはむしろ、同じ部活の友達と一緒に楽しく買い物をして一日を過ごすことが出来たと思う。

 けれど、詩織と言葉を交わしたときには、中学生の頃には感じなかった違和感をずっとどこかで感じていた。

 かち、かち、かち、と、メトロノームの音は、彼女が設定したリズムを正確に刻み続けている。その音を聴きながら、彼女はふとこんなことを考えた。

 ――なんていうか、テンポが違うんだ。

 もしかしたら詩織は、もっと早いテンポで生活したいのかもしれない。もっと早く、大人に向かって自分の時間を進めたいのかもしれない。だから、彼女とわたしの距離は、離れていったんじゃないか。

 そして、沙智子の頭に、二つの異なったリズムを刻むメトロノームが並んでいるイメージが浮かんできた。

 ――違うリズムで鳴っているメトロノームの音は、いつもはバラバラでも、どこかで、ぴたりと瞬間的に重なり合うこともある。

 わたしたちが今日一緒に遊びにいったのは、そういうことだったのかもしれない。

 彼女はそんなことを思った。するとふいに、とても寂しい気持ちが胸に湧きおこってきた。

 沙智子はどこまでも続いていきそうな自分の考えを振り払いたくなった。それで、小さく頭を振った。

 ――今はもう、このことを考えるのはよそう。

 そう思って、枕もとで鳴り続けているメトロノームの音に身を委ねた。

 そして、この日詩織と出かけたときの、出来るだけ楽しい場面の記憶を思い起こしながら、まぶたの裏側の、深い闇のなかに、意識を沈めていった。

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