言葉を集める人
冷えた空気のなかで、僕の吐く息が白く浮かび上がる。枯れた葉を地面に落とし、枝だけになっている木々の隙間から見える大きな月が、ほの暗い青白さを夜空に滲ませるように広げている。
今は、何時なんだろう。
僕は上着の袖を捲り、腕時計を見た。時刻は、午前一時二十分を少し過ぎたころだった。
街は寝静まっている。このあたりに住んでいる人たちは皆、暖かな布団のなかで眠っているか、あるいは暖房の効いた部屋でテレビを見たり本を読んだりしているのだろう。
団地のそばを通りかかった。四角い建物がいくつも並んでいる。灯っている明かりは少ない。駐輪場や外階段の踊り場にある蛍光灯の白い光と、それに照らされた灰色のコンクリートの色、古いトタンのくすんだ青色だけがこの夜の景色を彩っていた。近くに止めてあるバイクのミラーが、真上にあった街灯の白い光を鋭く反射させている。
すでに、一月の寒さは僕の上着やセーターや下着を透し、やわらかな皮膚に染み渡っている。踏みしめるアスファルトの表面は黒々とし、側溝には、朽ちかけた枯葉が溜まっている。
ふいにポケットのなかの振動を感じた。スマートフォンを取り出して、画面を見る。知らない番号からの着信だったが、僕は応答の操作をし、スマートフォンを耳元に当てた。
「こんばんは」
冷たい響きのする女の声が聞えた。聞き覚えのない声だった。
「……誰ですか」と僕は言った。
彼女はそれに答えず、僕に質問をした。
「今、何をしているんですか」
「家に帰っている途中ですけど」
「あなたの家は、どこにあるの?」
僕は口を閉じた。答えずにいると、唐突に電話が切れた。耳元からスマートフォンを離して、再びポケットのなかに入れた。そして背後を振り返った。
一人の女がそこにいた。ほっそりとした体形の、美しい容姿の女だった。彼女は微笑を浮かべ、一月の夜の空気を震わせて、僕に言った。今の電話で聞いていた声に、彼女の声は似ていた。
「一晩、お邪魔してもいいかしら?」
僕は首を傾げた。混乱の末に、こんな言葉しか出てこなかった。
「どうして」
僕の問いに彼女は答えず、小さく肩をすくめただけだった。そして、僕を急かした。
「早くいきましょう。この夜は寒すぎるわ」
どうしてか、僕はそれ以上何も言う気が起こらなかった。妙なことだが、僕はこの間の彼女との遭遇を、夢のなかの出来事のように感じていた。まともな思考は働いていなかった。
見知らぬ怪しい女性が僕の部屋に来るというのに、ただ、奇妙なことが起こっている、という感覚しか僕にはなかった。何かの犯罪に巻き込まれるのではないかという不安感すら起こらなかった。
僕たちは並んで薄暗い団地の敷地内を歩き、狭い階段を上り、家の前についた。僕は鍵を開けて、玄関のドアを開いた。僕の家の匂いが、屋外とさほど変わらない冷たい空気とともに、漂ってきた。
玄関で靴を脱ぐと、今まで一緒に歩いていた女は、僕の後に立ったまま、ハンドバッグに手を入れて、本を一冊取り出した。そして、無言で僕にそれを差し出してきた。
僕はその分厚い本を受け取った。表紙には何も書かれていなかった。彼女も靴を脱ぎ、リビングの椅子に腰かけた。僕は電気を点けて、彼女から受け取った本を机に置き、二人分の、これからの眠りを妨げないくらいの濃さのコーヒーを入れた。
そうしている間、僕と彼女の間には何の会話も無かった。冬の深夜の冷えた静けさだけがあった。
僕はカップに注いだコーヒーをテーブルの上に出した。
「それで、いつまであなたはここにいるつもりですか」
僕は彼女に訊ねた。
「朝になったら、出て行くわ」と、彼女は言った。
「そうしてくれると助かる」
「今日は、こんな夜まで、何をしていたの?」
「仕事ですよ。いつもこの時間に帰宅しています」
ふーん、と彼女は言い、コーヒーカップに口をつけた。
「……あなたは一体何者なんですか?」
僕が言うと、彼女は、さきほど僕に手渡した本を指さした。
僕は手を伸ばしてその分厚い本を手に取った。それを開くと、午前一時二十分くらいのころから今までの間に僕が考えていた言葉たちが、一人称小説のように記述されていた。そこに並んでいる文字は、整ってはいるが人が書いたようにも機械が書いたようにも見える、不思議な字体だった。
「わたしと『通じた』人の思考が、この本に記録される。わたしは、いろいろな地域の、いろいろな人の言葉の世界を、この本に記録している」
「何のために」と僕は無意識のうちに聞いていた。
「記録そのものが目的。言葉そのもの、文章そのもの、言語化された世界の断片の収集」
彼女は、言うことは言ったという感じで話を切り上げ、僕が出したコーヒーを飲んだ。
「暖まるわ」
「……それは、よかった」
急に、何かを考えることが困難なほどに眠気が増してきた。僕は飲み終わったコーヒーカップをそのままにし、脱衣所で服をスエットに着替え、ベッドに向かった。それから、曖昧な意識のなかでふと思いついて、押し入れから余っている掛け布団を取り出して、ソファーの上に置いた。
「僕は、もう寝ます。朝までいるなら、そこのソファーと布団、好きに使ってくれていいから」
眠くて仕方なかったが、なんとかそれだけを彼女に伝えた。
「おやすみなさい。ゆっくりと、疲労した頭を休めるといいわ。意味の分からないことに遭遇すると、頭はひどく疲れるものよ」と、彼女は言った。
僕は、彼女のことは放っておいて部屋の灯りを消し、そのままベッドにもぐりこんだ。体温が布団のなかを徐々に暖め、意識が薄くなっていく。
眠りに落ちる前に、一度だけ目を開けた。
彼女が見えた。閉め切っていなかったカーテンの隙間から射し込んでいる月の光が、背筋をすっと伸ばし、手を膝の上で重ねた美しい姿勢で座っている彼女の横顔を青白く照らしていた。黒い髪の輪郭はその光を受けて、暗闇のなかでぼんやりと輝いているように見えた。
壁にかけてあるアナログ時計に、視線を移す。前に時刻を確認したときから、長くもなく、短くもない時間が経過していた。
奇妙な夜だ、と僕は思った。
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