MISSION 22「ただ暗いイドの底で」
何かが頬を撫でた。それは、私の顔に添うようにおでこに触れ、前髪を揺らした。そして、そのまま通り過ぎていく。
存在することは知覚できるが、決まった形状を持っていないことがわかる。掌を這うように流れ、指先を縫うように流れゆく。
ゆっくりと、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
暗い。私は、ただ暗い水の中にいた。穏やかな水流に誘われるかのように、この体は沈み続けている。
光のない水中は、青色のかけらも見せない。濃紺とも、あの人の髪の色とも違う。形容しがたい、黒……闇色の世界。
なんでここにいるんだっけ。ぼんやりとした思考の歯車をゆっくりと回転させる。
まず、現場に着いた。状況は終了していたのでクロイさんとトレーラーに入り、バルーンのサンプルを見た。そして……
うなじを撫でる殺意。
そして私は、さも当然であるかのように一つの事実を受け入れた。
あーこれは……死んだんだな、私。
死というのはもう少し実感のあるものだと思っていたけど、こうもあっけないなんて。
「……」
「…………」
何も見えない。光のない水の中。
何も聞こえない。音もなく肌をなでる水流の中。
もがくこともなく、体は仄暗い水中に沈み続ける。
沈む。 誰の期待にも答えれぬまま。
沈む。 誰かに看取られることもないまま。
沈む。 己の夢も叶えられぬまま。
―――悔しい。
ただ一言。水中で呟いた。
その言葉は泡に消えた。誰にも聞き取られることはないと知りながら。
―――悔しい。 もっといろんなところに行きたかった。
…
―――悔しい。 もっと誰かと笑いたかった。
……
―――悔しい。 もっと美味しいものを食べたかった。
……あ…
―――悔しい。 もっと音楽を聴きたかった。
…だ……あ…
―――悔しい。 もっと泥だらけになるほど遊びたかった。
…だ…にあ…
―――悔しい。 もっと心から歌を叫びたかった。
…だま……う
―――悔しい。 誰にも好きだと言われずに死ぬのは。
まだ………う
―――悔しい。 誰かに好きだと言えずに死ぬのは。
「まだまにあう」
その声は、はっきりと聞き取れた。
―――まだ間に合う?
誰の声か分からない。
そもそも自分にかけられた言葉かもわからない。
それでも、その声は今までに会った誰よりも優しく、力強い声だった。ただ昏い闇の中、確かに私は声を聞いた、聞こえた。
まだ間に合うと。
言葉の意味を理解した時、冷たく固い何かが掌に触れる。それは腰に備え付けられた、ダガーナイフのグリップだった。
手に触れた感覚を頼りに手を伸ばす。グリップに指を絡め、掌に収める。
私は肩を軸にし、静かに鞘から引き抜く。闇の帷が降りた水中であるにもかかわらず、刃の長さが手に取る様に解る。
逆手に持ったダガーナイフ。
それは触覚を通して伝わる、確かな現実。その存在を確かめるように、強くつよく握りしめる。
胸の前に構える。刀身は見えない。それでも、何を切るべきかは理解した。
―――もしここが、本当にバルーンの胎の中なら。
私は歯を食いしばり、力任せにナイフを振り下ろす。
「……!!!」
顔面を幾千の泡沫が覆う。
声にならない絶叫をあげながら、私は暗闇に刃を突き立てた。
BB.Front line -short barrel ver. - 本の魚 @book_of_fish
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