泣き虫の幸福論

詩章

泣き虫の幸福論

 僕は自分の人生について、いったいなにをどうすればいいのか、わからなくなっていた。

 いつからそんな風になったのかすら、もう覚えていない――



 僕は本当の両親の顔を覚えていない。

 ずっと昔に事故で亡くなったらしい。それが本当なのかさえ僕に確かめる手段はなかった。


 親戚の家に数ヶ月あずかってもらっては別の親戚の家へと移る。そんな生活が続き、僕は家族というものは様々な形があるのだと知った。そしてたとえ同じ家に暮らしていたとしても、自分はその家族というものの中には含まれないのだと実感させられていた。長く一緒にいるほどにその歪みは大きくなり、僕はいつの間にか居場所を失っていた。


 先日、また別の親戚の家で預かってもらうことになった。

 ここに来てからまだ数週間しか経っていないが、僕はなに不自由なく生活させてもらっている。


 朝と昼は渡されたお小遣いから食事を取るように言われていたので、僕は毎朝通学の途中でコンビニを利用した。それでも、夜は一緒に食事を取らせてもらっている。


 ありがたいことに、僕は自分の部屋を用意してもらっていた。

 その部屋は、去年までこの家の娘さんが使っていたそうだ。去年大学に入学して一人暮らしを始めたため、その空いた部屋を使っていいとのことだった。


 僕は女の子らしく装飾された部屋で生活していた。

 




 朝、テーブルに綺麗に並べて置かれたお小遣いを手に取り学校へ向かう。


 いつものコンビニに入り、いつものおにぎりといつものお茶を買った。

 学校につくと仲の良い仲間にだけ挨拶を済ませ、勉強に励んだ。

 

 変わらない街並み、変わらない日常に僕は埋もれ安堵し始めている。

 わだちの上を歩くことは僕に安らぎをもたらす。今日も昨日を繰り返すことができた、そう思えることを僕は幸せだと考えていた。


 だけど、ずっと前から思っていることがあった。


 僕は、早く大人になりたかった。


 いつか、僕は轍をはみ出さなくてはならない。本当は、その準備を今しなくてはならないのかもしれない。

 だけど僕には、なにもなく、きっと恵まれた環境にいる訳でもない。僕に許されたことはあまりなく、無力で、無気力だった。いつの間にか全てが、どうでも良くなっていた。




 ホームルームを終えると僕は直ぐに教室を出る。


 いつもの自販機でいつもの缶コーヒーを買い、いつもの公園に入るのだ。

 いつものベンチに座ると今日も僕は考えてしまう。

 僕は、どうすれば何かに興味を持てるのだろうと――




 今日も、まっさらな雲が流れていくようにコーヒーだけが着々と減っていく。


 僕はこのどうしようもない問題を考える時間について、自分がコーヒーを飲みきるまでと決めていた。そう決めなければ、思考の迷路から抜け出せなくなってしまうのだ。

 ふと、顔をあげると日が暮れ始めていた。


 辺りにはブランコで遊ぶ小学生や、砂場で遊ぶ親子、ベンチで騒ぐ女子高生、たくさんの人がいた。この街にだって多くの人がいるのに、僕の人生に影響のある人間なんていったいどれだけいるんだろうか。いつの間にか、僕はまた俯いていた。

 そして、時間が来てしまう。

 すすった缶からは、わずかに残ったコーヒーが流れ込み喉を通り抜けていく。



 今日もまた、答えは出ない――




 帰宅すると何故か鍵が開いていた。

 基本的に家主のおじさんとおばさんは19時くらいまで仕事で家を空けているのだが、早く帰ってきたのだろうか?

 リビングに行っても誰もいないので、もしかしたら朝鍵をかけ忘れてしまったのかもしれないと焦った。

 泥棒が入っていたらどうしようかと考えながら部屋のドアを開けると、僕の思考は停止した。


「え? 誰?」

 ベッドに寝転ぶ女性が問う。

「あ、あの、吉岡渓といいます。この家で預かってもらってます。今はこの部屋を使わせてもらっています」

 途端に、彼女は目を見開いた。

 彼女がこの部屋の持ち主であることは直ぐにわかったので、精一杯自分が不審者ではないことを伝える他なかった。

「えっ!? マジ!?」

 どうやら何も聞いていないようだ。

「マジです。えっと、とりあえず机で宿題をやってもいいですか?」

 イレギュラーはあったが、ひとまずいつもの日常をなぞろうと試みる。

 今日は数学と国語の宿題が出ている。

「え、あ、うん。どうぞ……」

 彼女は変な目で僕を見てきたが気にせず机へと向かった。

「ありがとうございます」

 僕は感謝を告げて宿題を始めた。



 しばらくすると彼女が部屋を出て行った。他人がいるというのはこちらとしても気を使うのでありがたい。


 数学の宿題が終わり国語の宿題に移ろうとした時、コンコンとドアをノックする音がした。

「どうぞ」

 そう答えると缶ジュースを持った彼女が入ってきた。

「どっちがいい?」

 戸惑いつつも差し出された缶の片方を受けとる。正直甘いものは苦手なのでどちらもいらなかったが、彼女の好意を汲んで受けとることにした。


 彼女は両親から僕のことを電話で聞いたそうだ。僕の事情もわかってくれたようで、自身の部屋を自由に使っていいと言ってくれた。

 僕が教科書を机の引出しではなく床に積み重ねていたことや、部屋をそのままの状態で使っていることから遠慮していると思っているようだ。だが実際はそうではない。


「あの、ありがとうございます。ですが心配しないで下さい。僕は今まで通りで大丈夫です。ベッドも使っていないので安心してください」

 僕はいつもベッドは使わず床で寝ていた。おじさんたちは、部屋は自由に使っていいと言ったが流石に彼女の気持ちを考えると、知らない他人が自分のベッドを使うというのは気持ちが悪いだろうと容易に想像できた。それに引き出しはほとんど空だったが、彼女の持ち物が入っている場所もあったため、使うことはいけないことのように感じたのだ。

「君、歳は?」

 彼女の質問の意図が理解できなかった。

「13です」

 答えると彼女はため息をついた。その理由はわからなかったが、何故かイラついているような表情に見えた。

「ちょっとこっちおいで」

 ベッドに座った彼女は、隣のスペースをトントンと叩いた。

 僕は指定された場所に座った。

「まだ宿題が残ってるんですが……」

 夕食までには終わらせて、ご飯を食べたら風呂に入り明日に備えて寝なくては授業に集中できない。いつもはそうしているのだから、今日だってそうしなければいけないんだ。

 隣に座ると、少し甘い匂いがした。そして、わずかに僕の体は強張った。

「宿題ってあんたねえ……」

 彼女は僕の頭を指で軽く小突いた。また、イラついているようだ。だけどやはりその理由がわからなかった。

「あんたのことはマ、じゃなくてお母さんから聞いた。それにちょっとビックリしたけど、あんたと話してたらママの言ってたこともなんとなくわかった気がする。まぁその、大変……だったんだね」

 その言葉は、酷く複雑に絡まった僕の心をほどいていく。

 わずかな緊張はほどけ、自分でも理解できない感情が芽生えていくのを感じた。


 頭を軽く二度トントンと叩かれ、そのまま彼女の手が僕の頭に乗っかった。

 誰かに頭を撫でられたのは、初めてかもしれない。誰かとこんな距離で話すのだって初めてだ。

 彼女の言葉の意図はわからないが、「生きていていいんだよ」と僕を肯定してくれたように感じた。


「え!? ちょっとぉ!」

 不意に視界がぼやけ、涙が頬に線を引いた。

「す、すみません。自分でも……よく、わからなくて……」

 僕は両手で目を抑え、深く俯く。

 なんで、僕は泣いてるんだ?

「え?」

 ぐらりと体が揺らぐのを感じ、小さく声が漏れた。

 僕は、名も知らぬ先ほど知り合ったばかりの女の人の言葉で泣いてしまった。しかも、彼女が僕の頭を引いたことで僕は今何故か、彼女に膝枕をされている。

「んぐっ!?」

 慌てて起き上がろうとしたが、彼女から押さえ込まれてしまう。わずかに試みた抵抗も諦め、彼女に全てを任せることにした。

 僕の頭を押さえつけていた彼女の手から力が抜けていく。

 そのまま、優しくまた頭を撫でられた。

「偉い偉い。君、最後に誰かに甘えたのいつよ?」

 甘える? 考えたこともなかった。そもそも誰に甘えれば良いんだ……

「あららぁ……よし、泣け泣け!」

 静かに流れ続ける涙は、彼女のスカートに滲み溶けていった――





 まどろむほどの時間が流れ、いつの間にか差し込む夕日が茜色に部屋を染めていた。

「ねえ、そんなんで生きてて楽しいの?」

 少し笑いながら彼女は聞いてくる。それが、僕を本気でバカにしているわけではないことは理解できた。

「わからないんです。だから僕は毎日考えていました。どうやったら楽しくなるのか。だけど、今日もわかりませんでした……」

 なんで、僕はこんなことを話しているのだろう。だけど、言葉は止まらなかった。

「へー感心感心。でもさ、みんなそんなもんだよ? 君のは、ちょっと深刻過ぎだけどねー」

 そう言って彼女は笑った。

 そう……なのだろうか? 皆、考えているのかな……

「僕は、どうしたらいいのでしょうか?」

 僕は何をいっているのだろう。そんなことこの人にわかるはずがない。

「そんなこともわからないの?」

「え?」

 思わぬ答えに、僕は驚いてしまった。

「恋だよ恋」

 彼女はそう言って笑った。

「僕は誰かに興味が持てないんです」

 だからこそ、僕は毎日考えている。

「それは違うんじゃない?」

「え?」

 まさか、否定されるとは思っていなかった。

 思わず彼女の顔を見てしまう。視線が交わると、少しだけ体が熱くなった。

「君ってけっこう綺麗な顔してるんだね」

 彼女は僕の輪郭を指先で優しくなぞって笑った。そしてこう続けた。

「君は興味を持てないんじゃない。君は、距離の取り方がわからないんじゃないの?」

 そう、なのだろうか?

「一度、本気で誰かと距離を詰めてみてはどうかな? そうしたら、その人に興味が湧くかもしれないよ。別に女の子じゃなくていいと思うよ。最初は男の子と本心で話せるような関係を築くところから始めると良いのではないだろうか?」

 彼女は人差し指を伸ばし少しお姉さんぶったような口調で楽しげに提案した。

 先ほど自分の母親のことをママと呼んでいたのを思い出し、なんだかその姿がおもしろく思えた。口元は自然と緩み、文字通り笑みが零れた。

「お、笑った」

 彼女も楽しそうで、なぜだかそれがうれしいと感じた。



 僕は、今少し思ったことがあった。

 だけどそれは、言葉にすることはできなかった。途端に、今の状況が異常であることに気付き、恥ずかしくなった。

 ゆっくりと体を起こしベッドに座り直す。

「あ、あの……なんでもないです」

 もう一度伝えようとしたが、やっぱり言葉にできなかった。

 体に帯びた熱で湯気が出そうだ。

「そっか。とりあえず元気出たかい?」

 微笑み、温かな眼差しを送ってくれた。

 人の笑顔になにか思うことなんて今までなかった。笑顔は上手いか下手かのどちらかでしかなかったはずなのに……

「はい。ありがとうございます。あの、それで……次は、いつ帰ってくるんですか?」

 きっと彼女はすぐに自分の住んでいるところに戻るのだろう。そしたら、しばらくの間声を聞くこともできなくなってしまう。それが辛いとすら思っている自分がいた。

「なに? 私に興味持っちゃったの?」

 彼女は少し驚いた顔で聞いてくる。

 僕はコクリと頷いた。

「君、可愛いね。でもごめんね私、彼氏いるんだ」

 そう……なんだ……

 素敵な人だ。彼氏がいるなんて、考えてみればすぐにわかることだ。


 なんで、こんなに悲しいのだろうか?

「君、ホントに可愛いね。いいこと教えてあげよっか? さっきの嘘だよ」

 再び彼女は僕の頭を小突いた。僕は、ただただうれしくて、うれしくてしかたがなかった。悪戯に笑う彼女はちょっと意地悪な人なのかもしれないと思った。

 締め付けられていた心が、ゆっくりと弛緩していくのがわかる。

 安堵の涙が流れ落ちると彼女はフフっと笑った。

「そんなにか。君、さては泣き虫だな」

 僕は泣き虫だったようだ。

 今まで我慢していた涙が、感情が、今日は押し寄せてくる。

 僕が、僕でなくなっていくのを感じた。



 気づけば部屋は差し込む西陽すらも陰り、すぐそこには夜の気配があった。

 時間も忘れ沢山の言葉を交わし、季節が巡るようにいくつもの表情が、感情が流れていく。


 ただただ楽しくて、僕は生きている喜びを初めて感じた。



 どうやら僕は、恋をしたようです。


[おしまい]

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