ⅩⅩⅠ
ソラが転校するという話は瞬く間にクラス中に広がり、それからの1ヶ月と少しはクラスのあちこちでソラに隠れて寄せ書きが書かれたり、ソラを送り出す準備が進められていた。
まだ1ヶ月以上も先だと思っていたのに、人間はリミットを決められると時間を飛ぶように感じてしまう生き物らしく、あっという間に期末試験期間を迎える。この試験が終わればソラは海の向こうへと旅立つのだ。
ソラに引越しを告げられてから、僕は何となくロンドンについて調べてみた。ヨーロッパ最大の都市で日本との時差はマイナス8時間。雨が降る日が多いらしく、ソラがちゃんと学校に行くのか少し不安になったが、あれ以来雨の日でもちゃんと学校に来ることが多いので大丈夫だろう。
最後の科目の試験終了を告げるチャイムが鳴り、教室内に張り詰めていた空気が一気に緩む。答案用紙の確認も済み試験監督をしていた先生が教室を出ていくと、筆記用具を投げ出さん勢いで試験終了を喜ぶ生徒があちらこちらで遊ぶ予定を立て始めた。まだ来週に答案返却と終業式を控えているとはいえ、生徒にとっては今この時間から実質の冬休みが始まっているのだ。
ホームルームも終われば、試験から解放された生徒達は部活動停止期間が明けて嬉嬉として部活に向かう者、早速寄り道をしようと仲のいい友達に声をかける者、自宅への帰路を急ぐ者と思い思いの放課後に散っていく。勿論僕は自宅への帰路を急ぐ者で、その理由は異なれどソラも同じだった。
「準備は進んでるか?」
12月に入ってから一段と温度を下げた空気が吐いた息を白く染める。
「うーん、ぼちぼちかな...なんか最後だって思ったら勉強の方が捗っちゃって」
「なんだそれ」
通学路でソラに会うのもあと片手で収まるほどの回数だと思うと、他愛のない会話もなんだか名残惜しく感じた。
「でも英語とかはちゃんと頑張ってるんだよ!...まだ全然、だけど」
尻すぼみになる言葉にソラが自信なさげに笑う。
「へえ、でも案外なんとかなったりしてな。ジェスチャーとか、単語とかで」
「そうだといいな、英語でまだ良かったよ。だって、フランスとかドイツとか言われたら単語すらも全くわかんないもん」
「確かに」
まず音を聞き取ることすらも難しそうだ、と頷く。
「あ、そうだ。飛行機ね、日曜日の10時の便だって」
「了解」
いよいよ来週にはソラがいなくなるのだという事実を、ここに来てやっと実感しているような気分になった。
「寂しくて泣かないでよね」
「誰が泣くかよ」
こんな巫山戯た会話もあと少し。刺すように冷たい北風を吸い込んだ鼻の奥がツンと痛んだ。
ソラの最後の登校日となる終業式の日、クラス全員からの寄せ書きを渡されたソラは、色紙を抱えたままま涙声でお礼を言っていた。その涙はソラと仲の良かった女子グループの中で連鎖して、教室内が一気に湿っぽくなる。人には泣くなと言ったくせに、泣いてるのはそっちじゃないかとツッコミたくなった。 最後にクラス全員で写真を撮って、いよいよソラに会うのも残すところ出発の日だけとなる。
遂に訪れたその日の朝は、日曜日だというのにやけにすっきりと目が覚めて、まだ陽も登りきっていないうちに家を出る準備をした。冬のぱりっとした空気の中を歩き滅多に乗らない電車に乗ると、ICカードのチャージが足りるのかとか、乗り継ぎがちゃんとできるのかとか色々なことが頭の中を巡った。車窓に流れる景色は何処まで行っても雲一つない快晴で、リズミカルに揺れる車両も、ふかふかした座席も、いつもなら直ぐに眠気を誘ってくるものなのに、不思議と全然眠くならない。
何度かの乗り換えを経て空港に辿り着くと、国際線と書かれた看板に従って歩く。電車の駅なんかとは比べ物にならないくらい程に広い空港を見回していると、まるで蟻にでもなったかのような気分だった。
「ソラ」
列を成すベンチに見慣れた背中を見つけて声をかけると白いコートを着たソラが振り返る。隣には高柳さんも居たが、ちょっと手続きをしてくるよと言うと何処かに去ってしまった。
「ほんとに来たんだ」
「ソラが来いって言ったんだろ」
「冗談だって、ありがと」
そう言って笑うソラはいつもと何一つ変わらなくて、新学期もまた学校に行けば教室に座っているのではないかと思う。
「元気でな」
「うん、優太も。あ、そうだ、住所教えてよ。手紙書くから」
「手紙?電話もLINEもあるのにわざわざ?」
エアメールとなれば料金もそれなりにかかるだろうに、敢えて手紙を選ぶ必要があるのか。
「時差とかあるし、電話番号とかはケータイ壊れたら変わっちゃうかもしれないじゃん。それに手紙の方がなんかそれっぽくてよくない?」
「それっぽいってなんだよ、まあいいけどさ」
トーク画面に住所を打ち込み送信すれば、ソラが満足そうに頷く。そこへ丁度高柳さんが戻ってきて、そろそろ搭乗開始の時間だと告げた。
「じゃあな」
「うん、ほんとに、色々とありがとう。私、優太に会えてよかったよ」
「僕も、ソラに会えてよかった」
搭乗ゲートまで見送ったソラの瞳は少し潤んでいるように見えて、やっぱり泣くのはソラの方じゃないかと思いながら小さくなっていく白い背中を眺めた。
轟音を響かせて地を離れる巨大な翼は、やがて青い空を真っ直ぐに飛んでいく。
過去が変わったわけじゃない、後悔が消えたわけじゃない、それでも一歩前へと足を踏み出す。
タンポポが綿毛になり大空へ舞い上がるように、新たな地で再び鮮やかな花を咲かせるように、雨の多い国で、彼女もまた鮮やかな黄色を咲かせるのだろうか。
足元のロゼットは春を待ち、冬の大地に力強くその葉を広げていた。
雨に咲く蒲公英 茴香 @wing
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