第9話

午後に押し寄せてきた黒い雲は夕方になってぱらぱらと雨粒をばらまき、夜には屋根を叩く音が聞こえるほどの大雨になっていた。


 伊藤幸一は昼間にあった出来事など一切知らなかった。近頃の激しい感情の波に自ら翻弄され、すっかり疲れて眠りこけていたのだ。そのせいで夜はあまり眠れずに、ゴミと埃の堆積する部屋でインターネットの動画サイトを眺めていた。


 寝ているであろう両親の眠りを妨げないように、ヘッドフォンをしていた。


 伊藤幸一は元来優しい性質の持ち主だった。素直で真面目で、勉強もできたし、両親に対しても従順だった。


 こんな風に世界のすべてから隠れるようにして生きていること自体も、それが本当には正しいことだとは思っていなかったし、いずれ終わりが来る日を迎えるのだろうと漠然と考えていた。それがいつ、どのようにしてやってくるのかは想像もできなかったけれど。


 両親のことを思うと一日も早くこんな生活はやめなければと思うのだけれど、どのようにしてやめればいいかが分からなかったし、やめた後にどんな暮らしが待っているのか考えると罪悪感は伊藤幸一の中で「一時停止」になった。


 両親のことを嫌ったことは一度もないし、思えば彼には反抗期もなかった。彼が反抗したのは学校に行くという地獄のような行軍に対してであって、教師や両親に対してではない。


 伊藤幸一はヘッドフォンから耳へ、脳内へ、直接注ぎ込むようにして鳴っている流行りの曲に心を傾けていた。大切な人との死別を歌うような曲だった。


 美しい旋律を聴き入り、歌詞を頭でなぞっていく。何度も同じ曲を繰り返す。


 彼の心は遠いところにあった。人間は残酷だ。世界は恐怖に満ちている。そこへ再び出て行き、世の中を戦っていけるのだろうか。


 悪い心を持った人間が本当に更生することはあるのだろうか。悪人に反省はあるのだろうか。


 その物思いは即ち「いじめの加害者たちは反省することがあるのだろうか」ということであり、「河野智美を殺害した犯人に贖罪はあるのだろうか」ということだった。


 誰も反省などしていなかった。それは十年前にも分かっていたことだった。謝罪など口先だけのもので、彼らは誰ひとりとして罪の意識を持っていなかった。そして今も。


 河野智美を刺殺した犯人はいずれ捕まるのだろう。警察の威信をかけて探し出され、明るみに引きずり出され、そして裁かれる。


 コンビニのレジにどれだけの金があったのだろう。所詮ははした金だ。人を殺してまで得るほどの金額ではない。なのにそれを実行した浅はかさと、逃げる女を執拗に刺したこと。見ずとも犯人像は浮かぶ。無知で自己中心的であさはかで粗暴で。そんな人間が反省などするものか。


 そんな人間たちの蔓延する世界で生きていかなくてはいけないのか。……本当に?


 伊藤幸一は動画サイトを見るのをやめ、インターネットの掲示板へアクセスした。


 氏素性も分からない人々の誹謗中傷、悪口雑言、社会への不満がそこにはぶちまけられている。


 コンビニ強盗事件に関する書き込みは少しずつ数を減らしていた。伊藤幸一への疑いも、彼らにとっては単なる話題作りだったのだろう。もはや遠い過去ログになりつつあった。


 伊藤幸一は再び書き込みを読み始めた。


 何度読み返しても彼らの気持ちが理解できない。なぜこんなことを言えるのだろう。なぜ、こんな風に誰かを攻撃したくてたまらないんだろう。そうしないと自分の位置を確認できないのだろうか。


 伊藤幸一はおもむろにキーボードをぽつぽつと叩いた。


 僕は誰も傷つけたりはしなかった。これまでも、これからも、それは変わらない。でも君たちはどうだ。自分の言葉で誰かが傷つくとは考えたことはないのか。自分たちの発言を愚かで無責任だと思ったことはないのか? 白豚眼鏡が河野智美を殺さなければいけない理由がどこにあるんだ。君たちにとっては冗談のつもりかもしれないけれど。言っていいことと悪いことがあるってどうして分からないんだ。自分がどこの誰だか分らないからと思って、言いたい放題なのか。だとしたら、僕は、何からも逃げ隠れはしない。僕はここにいる。卑怯な君たちに屈したりはしない。


 前回と違って躊躇はしなかった。エンターキーを押すと、大きく息を吐いた。


 掲示板の文字列ではあったが、十年ぶりに発する「声」だった。伊藤幸一が誰かに何かを語りかけるなんてありえなかったことだし、そんなつもりはなかった。が、ごく自然にそれは伊藤幸一を動かしていた。


 正義感ではなかった。怒りや憎しみ、軽蔑や憎悪でもなかった。自然な感情であり、単純な疑問だった。なぜ。なぜ。なぜ。


 ヘッドフォンで耳を塞ぎ、思いがけなく未来に思いを馳せ、考えに耽る伊藤幸一には雨の音も気配も感じられなかった。背後で部屋のドアがそろそろと開くのも。


 次の瞬間、体に何かがぶつかり、首筋に痛みとも衝撃ともつかないものが走った。


 それは本当に一瞬の出来事だった。振り返ろうとして体をねじったところ、伊藤幸一はそのまま椅子ごとばたんと音を立てて床に倒れた。


 彼が見たのは母親と、自分の頸動脈から噴水のように吹き上げる血しぶきだった。


 あっと思い伊藤幸一は手のひらで首を押さえたが、すぐにカーテンを引くように目の前が暗くなった。


 倒れた時、ヘッドフォンがはずれて床に転がり、微かに悲しい旋律が漏れ聞こえた。


 伊藤幸一は母親を見上げたままの格好で、まるで風船から空気が漏れるように口からひゅーひゅーという自分の喘ぎを聞いていた。


 ああ、死ぬんだ。伊藤幸一の脳裏に浮かんだ最後の思考は、それだけだった。


 なぜとか、やめてくれとか、そんなことは浮かばなかった。ああ、死ぬんだな。終わるんだな。それだけだった。


 薄れゆく意識の中で見た母親は包丁を手に仁王立ちになり、荒い呼吸に肩を揺らしながら涙を流していた。


 こんなことを一体誰が予想できただろう。まさか母親に刺されるなんて。けれど伊藤幸一は涙を流す母親の姿に、ああ、そんなにも自分は母親を苦しめていたんだなと悟った。こんなにも追い詰めてしまったんだな、と。そしてこんな真似をさせてしまったのだ、他ならぬ自分が。


 こんな幕切れとは思わなかったものの、伊藤幸一の長きに亘る苦悩は終わりを迎えていた。激しい失血でショック状態になった伊藤幸一は床の上で、自らの血だまりに横たわりがくがくと激しく痙攣した。


 そして、一切は終わった。


 不審な物音を聞きつけた父親が起き出して惨状を目撃し、息子に駆け寄り大声で名前を呼んだ時にはもう伊藤幸一の生命は終わっていた。


 父親は血まみれの息子を抱きしめ、叫び、包丁を手にして立ちつくしている母親に向って泣き喚いた。


「なんで! どうして! どうして、こんな……」

「……」

「お前は自分が何をしたか分かってるのか!」

「……」

「幸一が何をしたっていうんだ……」


 父親の叫びに、母親はかすれた声で答えて言った。


「……なぜって、分かるでしょう?」


 父親は愕然としていた。母親の中で一人息子はすでに「コンビニ強盗事件の犯人」だったのだ。それは到底かばいきれない罪だ。逮捕されれば息子は白日の下に晒され、激しく非難され、罵倒され、地獄を見るだろう。法が彼を裁くだろう。そして社会は親である自分たちを裁くだろう。彼女の頭にはもうそのシナリオができあがっていたのだ。不安と絶望が書かせたシナリオ。


 しかし実際のところ母親の疑いの理由は、ネットの噂でも警察が持ってきた写真でもなかった。息子が部屋に閉じこもり、傷を癒しながら貯め続けたであろう復讐の念の方を母親は信じたのだ。それならば十分に理解できるから。息子はいつか誰かに復讐する、と。


 やった方は忘れても、やられた側は忘れないものだ。母親は誰よりも息子の傷ついた心と呪いの心を知っていた。


「ああ……」


 父親はうめき声を漏らし、頭を抱えた。


 母親は息子を守ることができるのは「死」以外にあり得ないと、もうずっと前から思っていた。それを遂行する日が来たのだと、今日の午後確信したのだ。こうするより他に息子を守ることはできないと信じて。


 ネット社会はたちまち息子を槍玉にあげ、自分たち家族も凄まじい攻撃を受け、社会生活は終わるだろう。仕事も辞めなくてはならないだろう。どんな嫌がらせを受けることか、それは計り知れないものだろう。この家にも住み続けることはできず、どこか遠くへ追われていき、名前さえも変えなければならないだろう。


 息子の体に縋って泣く自分の夫を前に、彼女は無言だった。


 嗚咽とうめき声の合間に幾度も繰り返し「なぜ」と言う言葉が挟まれたけれど、それに答えることはしなかった。彼女がすべきことはあと一つだけだった。


 母親は包丁を振りかぶった。その目には暗い、暗い未来が宿っていた。


 父親は興奮状態にありながらも、いや、だからこその動物的本能で襲いかかってきた母親の刃を避けると、その手を力いっぱい叩いた。


 二人の間に包丁が乾いた音を立てて落下した。


 父親は身を躍らせて、妻の頬を渾身の力で殴りつけた。生まれて初めて女性に揮う暴力だった。


 血溜まりの中に倒れ込んだ母親は同じく横たわっている息子の顔を十年ぶりに間近に見た。


 いい子だった。優しい子だった。どうしてこの子があんなにいじめられなくてはいけなかったのか。未だに分からない。いじめられる方にも原因があるなんて言葉は絶対に容認できない。原因があったとして、それがいじめる理由になどなるものか。迫害する理由など何一つあっていいわけがないのだ。それなのに、どうしてこんな風になってしまったのだろう。


 あの時、もし可能だったならば、自分こそがこの手であの憎たらしい同級生たちを一人一人殺してやりたかった。


 母親の目に再び新しい涙がじわじわと浮かんできた。殴られた頬はみるみる腫れあがり、鼻血がたらたらと流れだしていた。もう誰の血なのか分からない濡れた手で息子の頬に手を伸ばした。


 こんな顔だっただろうか。白豚眼鏡なんて呼ばれていた頃は確かにぽっちゃりしていたけれど、今はずいぶん痩せてしまって面影などどこにもない。


 よく見るとかすかに顎髭があり、いつのまにか息子が少年から大人の男になっていることに気づく。今になって。この期に及んで。


 息子の頬を撫でながら、母親は不意に「あ」と呟いた。


 夫を仰ぎ見ると、拳を握りしめ、泣いていた。歯を食いしばり。そしてこくりと頷いた。分かっただろう? とでも言うように。


 分かっただろう? 昼間見た写真が息子ではないということが。お前は無実の息子を殺してしまったのだ。息子を信じることができず、自身の不安に飲み込まれてしまったのだ。が、その気持ちも理解できるよ。もうずっと、ずいぶん長いこと、自分たち夫婦は子供を失ってしまっていたのだから。


 父親は屋根を叩く大粒の雨の音が室内を満たすのを黙って聞いていた。


 伊藤幸一の家の庭には大きな白木蓮や姫林檎の木があり、オリヅルランやハーブが下生えに茂っていて、バラの鉢植えなどもあって美しい庭だった。


 テラコッタのタイルを敷いたテラスには野良猫がよく昼寝をしていて、彼ら一家はこの庭を愛していた。


 梅雨の長雨が庭の土を泥田のように柔らかくしたので、地面を堀起こすのは容易だった。


 それでも二人は数日かけて少しずつ、夜の闇の中で庭に穴を掘った。穴は深く、それは深く掘られた。


 その間、伊藤幸一の体は床の上に横たえられたままだった。冷たく固まり、部屋には拭いても拭いても消えない血の臭いが漂っていた。


 母親は息子の血のしみついた衣類も、それを拭った雑巾もすべて洗濯し、漂白した。血は濯がれ、布は白くなりはしたが母親の心は絶えず血を流し続けており、それを拭う術はなかった。


 父親は妻をもう責めなかった。責めたところで息子が生き返るわけでなし、警察に通報して妻を子殺しの罪で逮捕させるのもまた本意ではなかった。かばうというのでは、ない。罪をかばうことなどできはしない。罪から逃れることも。ただ彼女の果てしない絶望だけが理解できるものだったのだ。二人は憔悴しきっていた。


 彼らは二人で伊藤幸一を庭に埋め、その肉体が土の中で腐り、微生物に分解されるのを想像する。文字通り土に返る場面を。もう誰も彼を傷つけはしない。永遠に。初めて二人は息子の平穏を思った。


 裸にして穴の底へ横たえた伊藤幸一に、二人はシャベルで土をかけながら静かな涙を流した。思わず母親は夫の手を握ろうと右手をさまよわせたが、夫はそれを避けた。


 そうして穴を埋め戻した後には再びローズマリーやマーガレット、クリスマスローズが植えられた。庭中、土の匂いでいっぱいだった。


 町内を騒がせたコンビニ強盗の犯人はほどなくして隣の県で逮捕され、伊藤幸一への疑惑が晴れたのは秘かな葬送の翌週だった。


 その事に父親と母親は心底安堵した。これでもうあらぬ疑いをかけられてこの家に警察がやってくることはない。


 母親の疑惑の引き金を結果的に引くことになった無責任なネット社会の匿名の中傷は、謝罪があるわけでなし、伊藤幸一の汚名も誰が濯ぐでなし、すぐに忘れ去られていった。


 連日の報道で犯人は伊藤幸一の同じ年の無職の男で、犯行の動機については「生きているのがいやになったから」「死刑になりたかったから」「誰でもよかった」「本当はセンター街で大量殺人をするつもりだった」などと口走っているらしかった。


 当然のことながら河野智美とは一面識もなく、彼女を刺したのも「逃げようとしたから」と供述している旨がニュースで幾度も流れた。


 ネット民はまさかの伊藤幸一本人のカキコミも歯牙にもかけず黙殺し、再び活力を得て今度は犯人の氏素性を、経歴を洗いだし、猛烈に批判と攻撃を加えながら「正義」を奮いだしていた。


 それらの報道を見守りながら、伊藤幸一の父親と母親は日常生活へ戻ろうとしていた。


 十年来のひきこもりで隣近所を不安にさせていた伊藤幸一は、今もこの家にいる。深く穿った庭土の底に。


 いつの日か彼の存在が再び世界の明るみへ出ることがあったなら。誰かが彼を思い出すことがあったなら。その時世界はどのようになっているだろう。


 今と変わらず、人を傷つける者がおり、罪の意識もなく、反省もなく、悪が横行し続けているのだろうか。


 近所の野良猫は今日も土の匂いのする庭を横切り、テラスで昼寝をする。猫たちだけが、室内からこちらをうかがっていた暗い顔の男の不在を知っていた。


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僕はぬけがらだけ置いてきたよ 三村小稲 @maki-novel

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