第8話

それから数日間、伊藤幸一はネットを見ることもテレビの情報番組を見ることもできなかった。


 噂が一人歩きし始め、伝染病のように広まり、無知で自分の思考を持たない無能な羊の群れのような人々を洗脳するのを見たくなかったし、知りたくもなかった。実際にそうなる現場をかつて何度も見てきたし、その時に人がどのような反応を示すかも知っていた。


 一週間もすれば少しは気を取り直して再び事件を追うこともできたが、言い知れない孤独が伊藤幸一を頭から透明なビニールで覆うように極端に狭い世界に閉じ込めた。


 伊藤幸一は食欲をなくし、自室からもほとんど出ず、その容貌はますます荒んでいった。青白い顔、こけた頬、やせ細った手足。風呂に入らないのでべったりと脂じみた髪。腐臭のような体臭。でも伊藤幸一は今の自分を客観視することはできなかった。


 情報を追えば追うほど、ネットを見れば見るだけ、自分は世界にたった一人きりだと思う。誰とも分かりあうことはできないし、誰にも自分の気持ちなど分かるはずはないと思う。


 ふと絶滅の危機に瀕した、最後の一頭となった動物のことを考えたりする。動物たちに思考や感情があるなら、自分と同じ気持ちなのではないだろうか。孤独。ただひたすら孤独。


 一方で、ほとんど何も食べた形跡のない息子の気配に怯えたのは母親だった。


 野生動物たる息子が自由に何か食べられるようにさまざまな買い置きをしてあるが、それらに手をつけた様子はほとんどなく、申し訳程度にパンをかじるだとかしているだけでまず一番に考えたのは、息子の死だった。


 ジャングルで息を潜める動物のように気配を消して部屋に閉じこもっている息子が、本当に生きているのかどうかが分からなくて、母親は慎重に、物音を立てないようにして息子の部屋のドアに耳を押しつけ様子をうかがった。


 ドアを開けることは、できなかった。心配の次に母親の胸中を去来したのは恐怖だった。


 息子が自室で謎の死を遂げているのを発見するよりも、母親に向って暴力をふるったり暴言を吐いたりしたらと思うと到底やりきれない。そんな仕打ちを息子から受ける覚えは一切ない。おとなしい、優しい子だったからそんなことはすまいと思うが、この十年ろくに姿を見ないできた今となっては自信が持てなかった。


 全身の神経を研ぎ澄まして聞き耳を立てれば、部屋からは微かに物音が漏れ聞こえるので、どうやら生きているらしいことは知れる。それは籠の中のハムスターを連想させる。秘かな、乾いた物音だ。


 生きていると分かると安堵と落胆のないまぜになった涙がにじんだ。そして母親は自分の中のネガティブな感情を必死になって打ち消すのだった。


 次に息子の動静に注意を払っていたのは父親だった。


 父親はあの日テーブルの上にコンビニのデザートカップを見つけた日からずっと、誰にも気取られないように息子を監視していた。


 息子が社会へ、即ち外の世界へ出て行こうとしているのではないかという微かな希望。


 それはどんな形でもよかった。とにかく一歩も家から出ない十年を払拭して、深夜徘徊だろうと、単なる買い物だろうとかまわないから新たな展開が見られるのならどんなことをしてでも息子をサポートしてやりたかった。


 怯える母親と違って父親は時に果敢に、物皆眠る深夜にそっと息子の部屋のドアを叩いて「幸一、いるのか」とか「大丈夫か」とか「腹減ってないか」などと語りかけた。もちろん返事はなかった。が、父親はそれを無視されているとは思わなかった。


 返事がなくても構わなかった。声をかけてやり、息子が一人ではないのだと思わせてやりたかった。世界は色彩に溢れ、まだまだ希望の欠片を手に取ることができ、人生は何度でもやり直すことができると思わせてやることができたなら。もし本人がそう思ってくれたなら。息子がこの家に隠れ住む野生動物なら、父親たる自分は動物保護監察員だ。辛抱強く、見守り続ける。父親は毎日決意を新たにするのだった。


 そんな彼らのそれぞれの思惑がまったく交錯しない生活の中、事件は突然起こった。


 日曜のお昼前のことだった。


 父親と母親は二人ともリビングでお茶を飲んでいた。前日から降り続いたしつこい梅雨の雨は一時的に止んだが、水はけの間に合わない庭土が田圃の泥のようにぬかるんでいた。


 その時伊藤幸一は自室で寝ており、階下で起こったことは微塵も知らなかった。インターフォンが鳴り、来客があったことも。


 朝昼兼用の食事をすませた二人は不意の来客に一瞬顔を見合わせたが、母親はすぐにリビングの壁に取り付けられたインターフォンのモニターを見た。


 玄関に取り付けられた防犯カメラが映し出していたのは、二人の中年男性でいずれも日曜だというのにスーツ姿で、むずかしい顔をして立っていた。


 母親はセールスかなにかだろうかと訝りながら、応答のボタンを押した。


「はい」

「日曜なのに突然申し訳ありません。警察の者ですが、ちょっと息子さんのことでお話しをおうかがいしたいのですが」

「えっ……」


 母親は彼らの言葉に息を呑んだ。目の前が一気に真っ暗になる錯覚を覚え、思わず壁に手をついて体を支える。


 警察がなぜ。なんの用で。息子が一体何をしたというのだ。どうして。


 いくつもの疑問符が頭を駆け巡ったが、言葉が、声がうまく出てこない。


「伊藤さん?」


 インターフォン越しに警察と名乗る男は名前を呼んだ。


 沈黙はそう長いものではなかった。が、父親は不穏な様子を感じ取ると、立ち上がって「どうした?」と尋ねた。


 母親は今や壁に体をもたれさせ、血の気の引いた顔で喘ぐように呟いた。


「警察が……」

「警察?」


 父親はオウム返しに頓狂な同じ言葉を発し、慌てて二階に視線をやった。


「ちょっと待ってください」


 インターフォンに向ってそう言うと、応答ボタンを切り母親を支えながらソファに座らせた。


「幸一のことでなにか聞きたいことがあるって……」


 母親はもう涙声になっていた。そこには絶望が漂っていた。


 父親は言った。


「心配するな。幸一がなにをするって言うんだ。なにをそんなに不安がるんだ。大丈夫。落ち着いて」

「……」


 父親も知っていた。近所の人々が自分たち一家を、とりわけ十年も姿を見せない息子のことをどんな目で見ているのかを。けれど、それは彼らの無責任な憶測と、暇つぶしの噂話しに過ぎない。実際、自分たち家族は誰にも迷惑をかけたりしていない。


 父親はリビングを出て玄関へ向かった。


 三和土に立ち、そっとドアを開ける。すると、ドアの前に立っていた男二人はさきほどと同じことを復唱し、頭を下げ、ポケットから警察手帳を示して見せた。


「息子のことでって……一体どういうことでしょうか」

「息子さんは今ご在宅ですか?」

「はい」


 警察の二人は父親の返答に顔を見合わせた。


「お会いすることはできますか」

「……それは……」


 瞬時に父親は何らかの嫌疑が息子に持たれているのを察知した。なので、答えた。


「それはどういったご用で」


 父親は冷静なつもりだったが、その表情には不快感が表れていた。警察の二人のうち、やや年かさの方がそれを見るやすぐに柔らかな口調で言った。


「や、どうも失礼しました。先日、近くのコンビニに強盗が入ったのはご存知で?」

「はあ」

「私達は防犯カメラの映像をもとにして、若い男の人がいるお宅をあたってお話をお窺いしてるんです」

「息子を疑っているということですか」

「そんな。そういうことではありませんよ。でもカメラの映像から似た人物がいれば確認しに行くのが我々の仕事でして」

「それでしたら、必要ありません。息子はもう十年も家から出たことがありませんから」


 警察の二人はまた顔を見合わせた。


 父親は玄関を出て、後ろ手にドアを閉めた。万一、息子が起き出して階段の陰からこの会話を聞いたりしたらと思うといたたまれなかった。


 嫌疑に対する怒りや不満は感じなかった。コンビニで若い店員が刺殺された事件は知っているし、未だ犯人が逃走中であるのも知っていた。無論、それによって町内が厳戒態勢であることも。


 然し、である。今返答したように息子が「ひきこもり」であるのは事実だし、家を出ていないのも事実なのだから、どのような疑いもやましさがないだけに怒るようなことはない。


 大切なのは息子が「コンビニ強盗」の疑いをかけられることで一体どんな風に感じるか、だった。清廉潔白なのだから「失礼だな」と思うだけなのか、鼻先で笑うのか。見当もつかない。


「調べているならもうご存知だと思いますが」


 父親はそう言い置いてから言葉を継いだ。


「息子は中学の時にいじめにあってましてね。不登校になり、その後もずっとひきこもったままなんです。親としては出来る限りのことをしたつもりですし、これからも彼をサポートしていくわけなんですが……。とにかく、もう十年ほど家から出たことはないんです」


 そこまで言って父親ははっとした。


 いや、違う。そうではない。十年間家を出ていないのは本当だ。でも、この前息子が「自らコンビニに行ってスイーツを買ってきた」のは、あれは。


 息子が外出したであろう日はすでにコンビニ強盗事件の後のこと。やましいことなど何もない。少なくともコンビニ強盗の犯人だなんてとんでもない疑いだ。


 父親は鼻から不自然でない程度に深く息を吸い込んだ。緊張しているせいかうまく空気が入ってこない。


 警察の二人がこちらを見ているのが、自分までも疑われているようでひどく息苦しかった。


 そんな動揺を察したのか、それともはじめからこういう風に段階を経て核心に迫るような質問をする捜査のテクニックなのか、警察は伊藤幸一の父親に問い質すように言った。


「でも、息子さんが深夜に買い物に行ったり、散歩したりすることはあるんじゃないですか? 人目につかないように一人で」

「……さあ……」

「コンビニへ行くぐらいはするのでは?」

「……」


 返答に窮する様子を警察の二人はじっと見つめている。否定するべきか、肯定するべきなのか。伊藤幸一の父親は短いながらも激しく苦悩した。


 その時、背後のドアが恐る恐る開き、母親が青い顔をのぞかせた。


 警察はそれが何かの吉兆であるかのように、ぱっと表情を変え、朗らかに親しみやすげに微笑むと、


「奥様ですか。日曜なのに突然お訪ねして申し訳ありません」

「……あの……」


 母親も同じことを考えているのだろう。苦しげに呻くように言った。


「お話は窺いました。写真、見せてもらえますか。見れば分かりますから」

「……」


 父親は隣に並んだ母親の肩に腕をまわした。母親が父親の顔を見上げると、「大丈夫」というように父親は頷いた。


 しかしその力強い頷きも彼女の心にはなんの支えにもなりはしなかった。


 この時、父親が息子の潔白を信じたのに反して、母親は息子への信義に自信が持てずにいた。


 ずっと心配だったこと。歪んだ青年のいびつな性的衝動、暴力行為。バーチャル世界に毒され、侵された思考。幻聴や幻覚の如く、人の心を操作する妄想の数々。虚構と現実の境目を失った人々が起こす悲劇的な事件の数々。そこにいつだって息子の存在がちらついていたのだ。


 そんな風に考えてしまうのは十年という歳月は母親を不安と疑心暗鬼の塊にしてしまうには充分に重いものだった。


 父親は、長年連れ添った妻の細い肩に力がこもっているのを感じると、そのまま「息子を信じていない」その悲しい心をも感じ取った。


 警察は「わかりました」と頷くと、手にしていた鞄からクリアファイルに挟んだ写真を取り出した。


 写真はカラープリントされ、A4サイズに引き伸ばされていた。防犯カメラの映像と思えないほど鮮明で、クリアで、不謹慎だが父親は思わず目を見張った。


「この写真だけで息子さんだと断定するわけではありません。見ていただけたら分かると思いますが、カメラの位置関係上、そんなに顔がはっきり写っているわけではないんです。どの写真もみんな俯き加減ですから」

「付け加えると、私達はもう五人ほど似ているんじゃないかと思われる男性宅を訪問しています。ですから、気を悪くしないでください。これも捜査上、やむを得ないことなんです」


 二人の警察が言い募った。


「そうですね。分かります。仕事ですもんね」


 父親は写真を見ながら頷いた。


 母親も同じく写真を覗き込んだ。


 どの写真も痩せていて、眼鏡をかけた若い男が写っている。


 父親は意識を集中させて写真を丹念に観察した。それぞれをよく見て、それから、それぞれを比較して、また見た。


「違いますね」


 父親は顔をあげると警察の二人にはっきりと断言した。


「息子ではありません」

「失礼ですが息子さんの最近の写真などあれば見せていただけませんか」

「できることならそうしたいし、捜査に協力したいんですが、さっきも言ったように息子はもう十年もひきこもりなんです。写真なんてあるわけがない。親である僕らだってほとんど滅多に顔を見ないんだから」

「それではこの写真が息子さんではないとも断言できないのでは?」

「いえ、できます。分かります。親だから」


 親だから。それは父親のアイデンティティのようなものだった。


 警察の二人は顔を見合わせた。彼らにもこれ以上踏み込んだ聞き込みをすることは、到底できるものではなかったので、差し出された写真のファイルを受け取ると何度か頷いた。


「そうですか。分かりました。どうも何かと失礼なことを言って申し訳ありませんでした」

「いえ、警察の仕事は理解しているつもりです」

「そういって頂けると……、いや、恐縮です」


 二人は頭を下げた。


 父親は警察が門を出て行くまで見送ると、ドアの前にまだ立ちつくしている母親を省みた。母親は明らかに不服そうな顔をして、父親を睨んでいた。


「説明して」


 母親は奥歯を噛みしめるように、言葉を吐き出した。ひどく感情的になっているようだったし、本人は気づいていないかもしれないが泣きそうな顔になっていた。


 自分の息子を信じられない悲しさに父親は一瞬だが、微かに溜息を漏らした。


「なにを?」

「今の写真……」


 母親の目が無言のうちにも「幸一でしょう?」と問いかけていた。


 父親は警察にはあんな風に言ったものの、実際のところ十年もの間ろくに姿を見ない野生動物のような息子の姿を、あんな写真で判別できるわけがなかった。そうだと言われたらそうな気もするし、違うと言われたら違うという気もする。そんなぐらいに自信のもてない、実にあやふやな認識だった。


 そもそもどこから息子の存在が捜査線上に浮上したのかが分からない。町の噂なのかもしれないが、似ているなんていうのは誰が言い出したことなのだろう。同じ家に住まう自分たちだって息子の顔が分からないのに、他人になぜ分かるのだろう。なぜ似てると言えたんだろう。


 面影といえばそうなのかもしれない。が、一体彼の面影を誰が記憶に留めているのだろう?


 中学はかろうじて卒業はしたものの、アルバムの写真は集合写真の中にはなく、片隅に四角く欠席者の枠として、それも直近のものが一枚もないから二年生の新学期の集合写真から無理に嵌めこんだねつ造というか、まるで合成のような写真だった。そこから彼を窺い知ることができるとしたら「眼鏡」しかない。この眼鏡というキーワードだけで疑惑を持たれているのだとしたら、一体警察はどれほどの人数をあたってまわることになるのだろう。「ちがう」と言ったのはあくまでも息子を信じるが故だった。


「違うよ。心配しなくてもいい」

「でも……」

「大丈夫だから」


 父親は母親の肩をぽんと叩くと、先に玄関のドアを開けて家の中へ入って行った。


 すぐ後に続くと思った母親は、しかし、頑なにドアの前に立ったまま警察が去って行った通りの向こうを睨んでいた。


 父親は諦めたように頭を振ると「雨、降りそうだな」と独り言のように言った。返事はなかった。


 一時的にやんでいた雨だが、空は警察の不穏な来襲と時を同じくして暗くなり、濃い灰色の雲が彼方から迫ってきていた。空気は雨の匂いをふくみ、しっとりと重くなっていた。


 高まる湿度を感じながら、母親は背後でドアが閉まるとその場に崩れるようにしゃがみこんだ。目には涙がいっぱいに溜まっていた。


 警察が来たことの衝撃は彼女の精神を破壊しそうなほどの打撃だった。不安という空気をぱんぱんに孕んだ風船が破裂するかのように。


 母親にはなぜ父親が「違う」と断言できたのか、その理由が分からなかった。母親はもう息子の顔が分からなかったのだ。


 母親はその事実に我ながら驚愕し、打ちのめされていた。


 あんなに何枚も写真を見せられても、そのどれもが同一人物なのか、それとも違うのか、息子なのか、他人なのかも何も分からなかった。


 だってもうずっと顔も見てないんだもの。母親は声を殺して泣きながら、自分への言い訳を繰り返し胸の中で呟いた。


 記憶の中にあるのは中学生の頃の息子だ。二十歳を超えた息子の、恐らくはすでに大人になった顔はどれほど変化し、また、どこに面影があるのかも知らない。


 父親が堂々と、長らく見てもいない息子を「親だから分かる」と断言したことも驚きだった。なぜなら、母親にはそんな自信到底なかったから。


 それでは分からない自分は親ではないのか。親としての情愛がないのか。親失格なのか。


 涙は後から後から溢れて止まらなかった。今この瞬間も家の二階では息子がひっそりと生息していると思うと、どうしていいか分からなかった。


 実のところ、母親はこの日が来るのを前から知っていた。分かっていた。ようするに、息子に注がれている疑惑の目を。


 父親はネットサーフィンを趣味とするような人ではないので、知らないのかもしれない。通勤途中も電車の中では最新のニュースをさらうだけだろう。でも、母親は知っていた。近所のコンビニで店員の若い女の子が刺殺され、その逃走中の犯人の容疑が自分の息子にかけられているという、ネット上の噂を。


 発端は何かのサイトでたまたまちらっと見かけた情報のかけらにすぎなかった。いつもなら気にもしないで見過ごしたかもしれない。が、警察によって公開された画像が同じ町内の「白豚眼鏡」に似ているというキーワードは母親をはっとさせた。


 屈辱的で侮蔑的な呼称。それが中学時代に息子につけられた呼び名であることは、絶対に忘れることなどできないものだった。


 それをきっかけにして母親はその無責任な発言を調べ始めた。


 そして、図らずも息子が中学時代に受けていた悲惨ないじめの数々を追体験するという事態に陥っていた。


 なんの根拠もない噂話が面白おかしく語られ、拡散されていくのは凶悪な伝染病が広まっていくかのようだった。


 許せない。こんなこと、絶対に許せない。母親は激しく憤った。


 しかし、その反面で、心のどこかで「まさか」という気持ちが拭えない自分がいることにも気づいていた。


 そうなると職場の同僚たちも、近所の人たちも疑惑の目を向け、暗に非難しているような気がして神経がすり減っていった。


 どうにかして自分を奮い立たせて疑心暗鬼だと自嘲しても、不安はすぐにぶり返し蟻地獄のように心を引きこんでいく。


 夫に打ち明けようかと何度も思ったが、そうすれば母親である自分が息子を疑っているということを話すことになってしまう。一番信じてやらなければいけないはずの自分が。そう考えれば今度は信じてやれない自分を責めるしかなくて、ますます精神は消耗していく。


 せつない地獄。母親は涙を拭うとふらつきながら、立ち上がった。黒い雲はそのまま母親の心のようだった。


 室内は日曜午後のテレビ番組が呑気らしく流れていたが、足元から冷気が立ち上ってくる錯覚に父親は思わず身震いをした。


 二階へ続く階段に目をやったが、息子がそこからこちらを窺うとか、部屋から出た様子はなかった。


 話しかけるべきだろうか。あの「野生動物の巣」と化している息子の部屋のドアを叩いて、久方ぶりに顔を突き合わせ、そしてたった今起こった出来事を話し、「彼ではない」という事実を確認するべきなのか。


 父親はそこまで考えて、ソファに深く腰を下ろし、頭を抱えた。


 そんなことができるぐらいなら、苦労しない。ひきこもりの息子に「コンビニ強盗の犯人だと疑われている」なんて、どうして言えるだろう。けれどはっきり断言できるのは、息子は犯人ではないということ。ただそれだけ。


 母親が暗い顔で玄関から入ってきたが、声はかけなかった。母親もまた、何も言わなかった。彼らはこの時、それぞれに頭がいっぱいで、余裕というものが一ミリもなくなっていた。

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