嘘つきは世界の始まり

玉山 遼

嘘つきは世界の始まり

 悠人さんは優しいし、惜しみない愛情を注いでくれるし、物足りなくもないのに、私は涼と寝てしまう。

 今までの恋人の数に一を足した数が、私と寝た人の数。それが標準なのか異常なのか、わからない。恋人だけの子が圧倒的多数なんじゃないか。でももっと好き放題寝ている子もいるにはいるし。

 たとえ統計を取ったとしても、きっと真相は藪の中。浮気をしたとか、しているとか、そういう話をするとき人は声を潜める。

 もっとも私は話さない。いったん外に出したものは、ふつう出たままだ。出たままのものを悠人さんに見られたとしたら、うまく取り繕えるはずがない。私は嘘が下手だから。

 嘘をつけなそう、つかなそう、そう言われて育ってしまうと、嘘がつけなくなる。そのいい例がここにいる。

 涼とは、恋人がいようがいまいが寝た。別れた恋人たちは、誰も涼の名を口にはしなかった。浮気という単語も。

 それは私に嘘をついている意識がないからだろう。

「浮気は恋人に対する嘘である」。そんな感じの話は聞いた。

 仮に私が悠人さんのことを好きじゃないのに付き合っていたとして、その上で涼と寝るのならわかる。それは悠人さんに、「あなたが好き」と嘘をついている。

 しかし私は悠人さんのことが好きだ。キスをするだけでぞくぞくするような快感を覚える。一緒にいるとほっとして、恋に付き物の多少の依存もあって、だけど何でもかんでも話せるわけではない。

 もし世界が終わるなら、悠人さんとずっと抱き合っていたい。怖いと呟く悠人さんに、私も行くから怖くないよと囁いて、そうして世界を終わらせたい。

 涼にはそういう感情を抱かない。キスもしない。一緒にいると落ち着くけれど、いらないことまで話してしまう。依存はしていない。はずだ。世界が終わる前に一度は寝ておきたいが、だからといってずっと一緒に寝ていたいわけではない。

 けれど悠人さんと抱き合っているその瞬間、頭のどこかの一部分で、きっと涼に思いを馳せる。僅かに、覚られぬ程に、ごく微量の思考。

 おそらく、悠人さんを好きな気持ちは本当で、涼と寝たい気持ちも本当なのだろう。本当と本当が、ぶつかる寸前でするりと互いを避ける。だから、露見しないのかもしれない。

 そんなことを、いつだったか考えた。世界の終わりが来るとは知らずに、考えた。


 ぽつ、と文庫本のページに雫が滴る。染みになったそこをぼんやり見つめていると、もう一つ雫が滴る。私の鼻先から、汗が落ちていた。

 悠人さんは身体が弱い。おまけに寒がりで、クーラーが嫌いだと言う。熱中症になっちゃうよ、と言っても、よっぽど暑くならないかぎりエアコンはつけない。

 暑さに弱いわけではないし、講義室が冷蔵庫のように冷え切っていると回れ右をしてサボりたくなる性質だから、それは構わない。しかし汗は湧いて出るので面倒だ。

 ポケットからハンカチを取り出して、鼻先にそっと当てる。汗はハンカチに吸い取られた。そのさまを悠人さんは見ていた。

 そして、ずっと知っていたけれど口にするのを止していたことを話しはじめるように、私を呼んだ。割に、はっきりとした声だった。

「明後日の夜、世界は終わるんだよ」

 文庫本から顔を上げて、悠人さんの汗ばんだ額に手をやる。熱はない。顔をまじまじ見る。眼鏡の奥の、読みにくい心。真一文字に結ばれた口もと。

 そんなの、聞いてないよ。テレビでもやっていないし。

 電源を入れて画面を見ても、明日と明後日の天気予報が流れているだけだ。明日の最高気温は。明後日の最高気温は。熱中症に気をつけて。

 蝉のしゃわしゃわ鳴く声。お天気キャスターの、へんに明るい声。世界を構築している音。

「でも明後日、終わるんだよ」

 悠人さんの声と引き換えに、蝉の声が絶えた。キャスターの声も遠く遠くで微かに聞こえるだけで、何も頭に入らない。

 彼はときどき、こういうふうに言う。ごっこ遊びをしようと、提案する。

 そういえば私はおままごとが好きだった。おままごとやごっこ遊びは、一つの嘘ではないか。嘘の中で遊ぶ子どもたち。そうすると、私も嘘が上手いのか。

「そっか、そうなんだ」

 電源を消す。蝉のしゃわしゃわが帰ってきて、世界を構築する音はその音だけになる。

 悠人さんは、明後日も来てくれる? と頼りなさげに囁いて、私の身体に腕を回した。首元が触れ合うと、ぬるりとした。

 世界が終わるなら、夏がいい。それも、夏の初めごろ。これから生命が活発になる、そのころがいい。これから何かが始まる予感がする季節の中で世界が終われば、恐れることなく終わりを迎えられる。もっとわがままを言うならば、夜がいい。明日が来るだろうという根拠のない予感を抱いて眠って、そのまま終わりを迎えたい。

 そんな空想を悠人さんは見透かしたのか。そんなはずがないのは薄々わかってはいたが、じわりと嬉しくなる。

 ふと、思考が降ってくる。世界が終わると知ったなら、涼はどうするだろう。

 その先はなかった。どうするだろう、だけが降ってきて、ぽろりと転がった。そこから思考は発展しなかった。

 私は、明後日も来るよ、と囁き返して、悠人さんの背中を擦った。


 涼は、友達だ。寝ることもあるけど、だからと言って特別な位置づけをしているわけではない。

 からっとした気風で、くだらない話も真剣な話もそこそこにできる。十人に問えば九人が悪い人でないと答えそうな人。残る一人は、何を考えているのか測れなくて怖いと答えそうな人。

 新歓コンパでたまたま隣の席になって、そのまま何となく続いている。言ってしまえば腐れ縁だ。

 涼も恋人がいようがいまいが、私と寝た。恋人に私の存在が露見したこともないし、浮気を疑われたこともないと言っている。

 スマートフォンのメッセージでは「寝る」だの「する」だの、そう言った単語を出していない上に、余計な話もしない。運悪く恋人にスマートフォンを覗かれたとしても、危ういことは一切ない。もし危ういことを話したなら、私たちはすぐさま会話の履歴を消す。

 私も涼も、恋人を愛していた。涼には今、恋人はいないと聞いているが、気になる子はいるそうだ。その子に私の存在を覚らせることは、ないのだろう。

 ほんとうは、ただの友達として一生を終えるつもりだった。だけど、二人で飲みに行った冬、私がどろどろになるまで酔っぱらってしまって、涼に何かを言ったらしい。その折、私は恋人に振られたばかりだった。推測するに、今ならいいよ、とか何とか、酔い果ててとろけた瞳で見つめてしまったのだろう。そこで一夜をともにするという「あやまち」を犯した。

「あやまち」はそれっきりだった。以降は、したいときに誘い誘われの関係が続いている。私も涼も「寝たい」と意思をはっきり持っているので、「あやまち」ではない。

 涼とは、キスをしたことがない。「あやまち」を犯したときのことは覚えていないが、その後にキスを求められたり求めたり、したことがなかった。

 キスには避妊具に値するものがない。だから、生産性を感じてしまう。

避妊具があれば妊娠することはないし、吐き出された精子はどこへも行かず避妊具の中で息絶える。だから、寝ることも現代においては生産性のない行為と言える。もしかしたら殺戮に近い。

 しかしキスはそうでないように感じる。何を生み出すかと聞かれても定かには答えられないのだが、新しい世界を生み出すような行為に思えてならない。

 悠人さんと、延いては恋人と生産性のある行為をするのは全くためらわないし、むしろ生み出したいと感じるが、涼と生産性のある行為をしたいとは感じない。

 だから、キスをしたことがない。

 キスをしたら。束の間、考えたことはあるが、そうして生み出すものは自らを滅ぼしかねない。どんなものが生み出されるのかはさておき。


 世界が滅びる前日、悠人さんとの最後の晩餐を何にするか、食品売り場で頭を悩ませていた。

 悠人さんは好き嫌いが多い。偏食で、ややへそ曲がりな、へんな人。それでも私は彼がいとしい。

 何も考えずに、赤ワインを一瓶、買い物かごに入れる。赤ワインに合う料理は。作ったことのないローストビーフか、それともいつものようにビーフシチューか。

 少し奮発して、牛頬肉のビーフシチューを作ることにした。最後の晩餐は、食べ慣れたものの方がいい。仕込み用の安い赤ワインをもう一瓶買う。

 悠人さんは、牛肉なら何でも好きだ。とくにホルモンを焼いて食べるのが好きだけど、最後の晩餐に焼肉はなんだか違う。ホルモンはもっと違う。

 付け合わせのサラダは明日、デパートの地下にあるお総菜売り場で買うことにして、シチューに力を入れよう。

 生ものがあるので、足早に店を後にした。蝉は世界が終わるとも知らずにしゃわしゃわ鳴いていて、呑気なのか必死なのか、一瞬迷ってしまった。色濃くなってきた緑はつややかに輝いていて、未来への希望とやらに満ち溢れていた。

 間近に迫っている否応ない死に直面して、私は全くの無抵抗である。

 死ぬのは、怖い。死にたくない。ただそれは、おそらく生存本能が死に直面したときに出すシグナルめいたものであって、死にたくない理由があるのか、明確でない。

 この世界への未練だったり、やりのこしたりしたことが、浮かんでこない。世界も滅びてしまうし、のこしたとしても一瞬で宇宙の塵だ。

 結婚。それを思ってみても、さして悔いが残らない。悠人さんと結婚したくないわけではないが、できなかったらできなかったで、まあしょうがない。

 死んだ後は、何もなくて、どこへも行けないんじゃないか。私はそう、ずっとずっと信じている。死んだら天国に行くんだよ、悪いことしたら地獄行きだよ。そう躾けられても、何もない、どこへも行けない世界を信じていた。黒くて暗くて、目を開けているのか閉じているのかもわからない世界。

 怖いと言われても、どこへも行けないのは今だって同じじゃないか。歩けて、好きなことができても、それは肉体的なことである。心は結局どこへも行けない。自分の中に、あるだけだ。

 どれほど悠人さんを想っていたとて、悠人さんの心を直接知るなんてできないのだから、生きていても死んでいても、同じようなものだ。心は。

 それは寂しいようでいて好都合だった。もし悠人さんに心を見られたら、涼のことが露見しそうだ。想っていなくても、心の片隅にちんまりと居座っているかもしれない。涼のことだから。

 涼もよくわからない人だ。私のことを特別に好いていないくせに、彼女がいても私と寝る。性欲の発散だったら、彼女とだけでも十分だろう。単なる浮気性だったら、他の女とも寝るだろう。

 ちょっとした逃げ道のつもりなのだろうか。行き詰まったときに、私と寝ることで活路を見出しているのだろうか。でもきっと、それは私の思い上がり。

 ふいに、蝉のしゃわしゃわが戻ってくる。ビニール袋の表面には水滴がついていて、お肉が傷んじゃう、とさらに急いで帰った。

 お肉をしまってから文庫本を手に取り、昨日の続きから読む。読んでいる間は、本に没頭できて余計な思考が止まる。


 私には持病がある。そこまで深刻なものではないにせよ、生活するのに少し困る病気だ。

 嫌な思考が止まらなくなる病気。過去の恥ずかしかった出来事や、思い出したくない出来事が浮かんできて、悪い方向にばかりその思考は転がっていく。そして心が重くなる。

 今は薬を飲んでいるから、症状はだいぶ緩和されている。口が開くようにはなったけど、そんなことが苦にならないくらいには楽になった。

 どうやらこの病気を、モーツァルトも患っていたらしい。彼は頭の中で音楽が止まらず、たくさんの曲を書き遺した。かといって私にはそんな才能もなく、ただ止まらず転がってゆく思考に振り回されてばかりだ。いくら考えることが好きでも、操縦できないならそれはただの暴走だ。

 困っていたとき、主治医に本を読んだらいいんじゃない、と薦められ、本を読むようになった。それまで本を読む生活を送っていなかったけど、意外にすんなり、本を読む生活に馴染んでいった。

 今では部屋の本棚が苦しそうなくらい、本がぎっしりと詰められている。近々新しい本棚を買おうと考えていたが、世界が終わるならこのままでいい。

 だが、床には平積みにされた本の塔がいくつも立っている。さすがに崩れても困らない高さにはしているが、世界の終わりに地震が起きたら、これらの本はしっちゃかめっちゃかになってしまう。

 私を助けてくれた本の最期がそんなでは可哀相だ。大きめの段ボール箱を一つ組み立てて、その中に塔となっていた本を詰めてゆく。この本は面白かった。この本は難解で途中で読むのを止めてしまった。そんなことを思いながら、詰めた。

塔が解体されて、私の部屋は幾分すっきりした。

 そうして広くなった自分の部屋でのびのび本を読んでいると、スマートフォンにメッセージが届く。涼からだった。

「明日の午前中、暇?」

 明日は世界が終わる日で、朝から悠人さんと一緒にいる約束をしていた。わざわざメッセージを送ってくるということは、寝たいということだ。

 だけど私も寝たかった。世界が終わる前に、一回くらいは涼と寝ておきたい。実現させるつもりはなかったが、そう考えていた。

 悠人さんに、「明日の午前中、予定入っちゃったんだけど」とメッセージを送るとすぐに「じゃあ僕は、紗香さんが来るまでに世界が滅ばないよう祈っとく」と返信が来た。悠人さんは、どんな予定かをあまり訊かない。

「暇じゃないけど、暇にした」と涼にメッセージを送る。いつもの場所ね、と返ってくる。そして、メッセージの履歴を消した。

 その晩、恐ろしい夢を見た。朝が来なくなる夢だった。

 永遠の闇に街は溶け、木も草花も枯れ果てた。人々は闇の中に沈むように、澱となるように息絶えていった。

 悠人さんも闇へ沈んでいった。私も行く、と言ったのに、私はなかなか息絶えず、もがき苦しんでいた。

 世界の終わりは一瞬で訪れるように空想していたけれど、現実は徐々に、蝕まれるように終わってゆくのだろう。

 そのとき初めて、終わるのが怖い、はっきり思った。

 

 もやもやした気分のまま、涼との待ち合わせに向かう。

 ラッシュの時間は避けたにもかかわらず、電車は今日も混雑している。パジャマや下着や洗面用具、今晩の薬の入ったリュックは邪魔になる。手にしているビーフシチューの材料を冷やす氷が融けて、他の乗客に掛からないよう気を遣った。

 待ち合わせた時間の数分前には涼も私も着いたので、そこからホテルへと向かう。

 世界が終わるその日の朝に、私は涼と寝る。それは果たしていいことなんだろうか。いいはずはないのだけど、私にとっても、いいことなんだろうか。

 見た夢が恐ろしかったせいだろう。そう気を紛らわせても、もやもやは抜けないし増えてゆく。

 世界が終わるなら夜がいい、なんてわがまま、抱かなければよかった。夜に世界が終わって、そのまま朝が来なくなった世界で生きていくことになったら。

「紗香、どうしたの? なんか元気ないけど」

「なんでもない」

 考え事がぐるぐる巡る。部屋を選べるほどに空いているホテルに着いてからも、私はぐるぐると頭を巡らせていた。巡らせながら、ビーフシチューの材料を備え付けの冷蔵庫にしまった。

「ほら、シャワー浴びて」

 涼に促されてシャワーを浴びに行った。髪を濡らさないように、慎重に身体を濡らした。

 シャワー室から出て、ベッドでスマートフォンを触っている涼に、上がったよ、と声をかけると、じゃあ俺も浴びてくる、とベッドから下りた。

 もし世界の終わりが、太陽の終わりと同義だったら。頭はそちらに行ってしまっていた。朝の来ない世界。闇に溶けてゆく街。沈んでゆく悠人さん。

 怖い。

 何が怖いのか、わからなかった。世界が終わるというのは私と悠人さんのごっこ遊びでしかなかったのに、今は現実となりつつある。現実と嘘とが混じりはじめ、頭痛のように頭が揺れた。

「紗香」

 突然声をかけられて、竦み上がった。怖々振り向くと、シャワーで温まった涼の手が伸びて、私の頬を撫ぜた。

「大丈夫か?」

「涼は」

 瞬時に身を引いた。涼から距離を置いて話さないと、このまま世界が終わってしまう気がした。がらがらと光が崩れて、そのまま闇に放り出される。

「世界が終わるとしたら、どうする」

「え?」

 唐突な問いかけに、涼は半笑いで首を傾げた。

「今日ね、悠人さんと会うんだけど。今日の夜、世界が終わるって、話をして」

「終わんないよ?」

 子どもの遊びに終止符を打つように、何も知らない大人の涼は首を傾げた。

「うん。でも、終わるとしたら、どうする、って話」

 はあ、なるほど。涼は理解したとばかりに、自身の顎を撫でる。それからしばらく考えて、今夜世界が終わるんだよね? と確認した。

「うん。今夜」

「どうしようもないの?」

「人間の力でどうこうできないよ、世界」

「それはわかんないけど」

 うーん、そうだな。涼はまた考え始める。やはり、好きな子の元へ行くのだろうか。私がそうであるように。そしておいしいものを食べて、愛を囁いて、一日を終えるように、終末を待つ。人間は皆、そうなんじゃないか。

 私は、愛しているから悠人さんの元へ行きたいのではなくて、ただ、人間の脳にうまいことプログラミングされているから、悠人さんの元へ行くようになっているのではないか。

 おいしいものを食べるのも、悠人さんと寝るのも、涼と寝るのも、夜に眠るのも、みな本能だ。それと同じように、終末が近づいたら愛する人の元へ行くのも、刷り込まれているのではないか。でもそれは社会性というものだ。でも。でも。

 結局人間が理性のように思っているものも本能なんじゃないか?

「世界が終わるなら、紗香とキスしてみたいな」

 世界が終わる前に、私の時は止まった。瞬時になんでと問いかける。

 私なんかとキスしても、涼は嬉しくないはずだ。涼は私のことを特別好いていない。私と涼は同じだ。考えることも似ているから、腐れ縁が続いている。だから答えも同じになるだろう。そう踏んで問いかけたはずなのに、違う答えが返ってくる。

 それに、生産性のある行為を最後にしたとして、何か生まれてもすぐに消滅してしまう。心の底から、意味のない行為だと吐き捨てたくなる行為。

 なのに、なぜ。

「そしたら世界、救われそうじゃない?」

 何をばかなことを。人類一組のキスで世界なんて救われないよ。そんなことを言いかけて、やめた。

 そうか。涼は己の生産性に全てを賭けるのか。私は諦めていたけど、涼は諦めていなかった。似ている、なんてただの思い込みにすぎなかった。

 いや、涼はキスに生産性があるなどと考えていない。そんなことは考えず、ただ、キスで目を覚ますお姫様のことを想像していたのかもしれない。だとしたら、案外ロマンチスト。

 それも、悪くない。悪くないけど、わからない。わからない人。

涼の頬を、両手ではたくように包む。いたい、と声が上がって彼は目を瞑った。

 その瞬間に、私は自分の唇を、涼の唇に当てがった。それだけをして、離す。

 私のこの行為は、プログラミングされていない行為。言ってしまえば、バグだ。だけど人間が生まれたことも、奇跡というと聞こえがいいが、バグだ。さらに言えば生命が誕生したことも。

 呆けている涼に、私はこう言った。そのとき、昨晩薬を飲み忘れていたことを思い出した。

「世界、救われたよ」


 いつも持ち歩いている予備の薬を飲み、それから涼と寝て、すっきりしたような釈然としないような心地でホテルから出る準備をする。

 涼と寝た後、やはり悠人さんと寝る方が気持ち良いな、としみじみ思う。涼が下手なわけでも、悠人さんが上手いわけでもない。そこはむしろ反対だけど。

 何故なんだろう。これが愛の力というものなのだろうか。いつもすっきりとせず、終わる。

 涼からは離れがたい何かを感じる。しかしこれは愛ではない。それだけははっきりとわかっている。

 シャワーを念入りに浴びて、髪も乾かして、ルームサービスで氷を貰い、それを小さなビニール袋に詰めてビーフシチューの材料を冷やす。

 それから涼にホテル代の半額を渡して、別々に部屋から出た。その足で、悠人さんの元へ向かう。

 昼過ぎになっていた。そのころには電車の混雑も幾分解消されていて、私は悠々とリュックを背負い、ビニール袋を手に持った。途中のデパートでは少し豪華なサラダを買った。

 悠人さんはドアを開けるや否や、「世界が終わらなくてよかった」と私を抱きしめる。変わらぬ香りに安堵し、悠人さんに身を任せた。

 ビーフシチューの仕込みをし、それから悠人さんとも寝て、本を読んだりゲームをしたり、蝉のしゃわしゃわ鳴く声を聞きながら思い思いに過ごした。

 夕暮れが近づき始めたころ、ビーフシチューを作った。デミグラスソースの甘く香ばしい匂いが部屋いっぱいに漂い、お腹が空いてくる。

 そして最後の晩餐をとった。その際悠人さんは、午前中は何をしてたの、と問いかけた。

「世界、救ってきた」

 悠人さんは目を大きく見開いて、そっか、と言い、私の頭を撫でた。

「よくできました」

 私は犬になったように、悠人さんに撫でられた。髪が乱れることなんて、厭わなかった。

 夜、薬を飲んで、もう一度寝てから、お互いに愛してるとか、最期まで一緒だよとか囁きながら、世界の終わりを待たずして眠りについた。

 その晩は、世界が変わらず続く夢を見た。悠人さんも、私も、涼も、変わらず生きていた。それは当たり前でも、奇跡でもなく、運命なのだと知っていた。なんでか、知っていた。


 翌日、世界は終わっておらず、続いていた。

 私は悠人さんより早くに起きて、朝日が生まれるのを見た。涼しくて、街は朝焼けに染まり、木も草花も朝露に濡れる。人々が動き始める気配がして、車や自転車が道を通ってゆく。

 世界は救われたんだ。私の手によって。私の手というか、涼の提案によって。

 網戸は閉めたまま、窓をそっと開ける。その音で悠人さんは身じろいだが、起きてはこない。可愛くて、いとしくて、大切な人。

そんな人を裏切っている、と糾弾されればそれまでだが、そんなつもりは毛頭ない。でも、そう考える時点で、どこか後ろめたいのだ。きっと。

 これからも涼とは何度も寝るのだろう。その度に、悠人さんとの方が気持ち良いだとか、次の恋人との方が気持ち良いだとか、心の内にしまいつつ考えるだろう。後ろめたいからそう思うように、私の脳にプログラミングされている可能性もある。

 悠人さんが好きなことは本当。涼と寝たいのも本当。それらがぶつかり合う日は来るのか、来ないのか。

確信はなかった。でも、来ないように感じられた。そう信じ込みたいだけかもしれないけれど。

 風が、頬を撫で、髪を梳かした。昼間の暑さを彷彿させる、ぬるい風。

 私は生まれ変われるだろうか。

 涼とのキスで、世界が救われたように、私も救われるだろうか。

 風に吹かれながら、ほんの一瞬、祈りにも似たものが胸をよぎる。しかし、しばらくするとばかばかしくなった。

 それは嫌だ。きっと嫌だ。それっぽっちのことで変われる私だったら涼と寝てなどいない。

 涼と寝るのは、そうしたいから。それ以上でもそれ以下でもない。

 決して褒められたことではない。だけど、露見しなければしていないのと同じことだから。

 布団の擦れる音がして、悠人さんが起きる気配がする。すると涼のことは、雲が散り散りになるように、消えた。

「おはよう。朝日が綺麗だよ」

 私は寝癖のついた頭のまま、悠人さんに声をかけた。

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