彽徊

清野勝寛

本文

彽徊



「あ、あいっ、してる、あ、いしてるよ……!」

耳元で喚く女の声を鬱陶しく感じながら、そっか、そうだね、と笑い跳ねる。どうしてこんな女と、こんなことをしているのだろう。俺は俺自身を理解出来ないでいた。こんな形でも、肌が重なった時の温かさはどこか落ち着くし、唇を重ね合わせれば心が安らいだ。ただ、昂ぶることはなかった。満たされることもなかった。温かさを求めるなら、風呂にでも浸かればいい。安らぎを求めるなら、犬猫の動画でも見ていればいい。それなのに、俺は言葉巧みにこの女を連れ出し、何度も俺自身のために利用していた。


「ねぇ、そろそろ言って欲しい言葉があるのだけれど」

「……ごめん、それはもう少しおあずけかな。お互いの生活があるでしょ、今はまだ」

女の唇に軽く触れ拘束からそっと抜け出し、シャワーを浴びた。じとっと体にまとわりついた汗が流れていく。あぁ、心地好い。

「また会ってくれる? 次は一晩、一緒にいたいな」

「最近忙しくてさ、この後も、色々やらないといけないことがあって……ごめんね」

頭を撫でてやると、女は目を閉じて首を横に振った。この女は、自らに酔っている。なんて扱いやすいのだろう。俺に愛されていると思い込むことで、自身のアイデンティティを保っている。聞いていないのにポロポロと話していたがこの女、俺と同じような関係の男が、少なくともあと二、三人いるらしい。自分を「イイ女」だと勘違いしている。実際は違う。「都合のイイ女」だ。それでも、本人がそれで心も体も満たされているのなら、別に否定はしない。ただ少し、鬱陶しく感じることがあるくらいだ。


ホテルを出ると、外は雨が降っていた。どしゃ降りとまではいかないが、それなりに灰色を濃くしている。予報にない雨は本当に腹が立つ。思い通りにいかないことが、年を重ねるごとにムカつくようになっていった。小さく舌打ちをした後、コンビニで傘を買い、二人で透明なビニール傘に収まって、肩を濡らした。

「風、強いね」

「そうだね、最近は特に」

適当な会話をしながら、駅まで女を送る。電車を待つ時間まで、女と一緒にいたくはない。少しだけ時間を空けてから改札に入ろう。


空を見上げる。どんよりとした灰色の雲が、分厚く空の青を隠している。先ほどから、雨は少しずつ勢いを増しているようだった。

スマートフォンを確認する。返信はない。やはり、返信はなかった。

どれだけ欲しても、届かないもの。思い通りにいかないもの。

本当は、愛してほしい人がいる。筈なのに、俺は一体何をしているのだろう。

分かっている。これはただの憂さ晴らしだ。どれだけ気を紛らわしても。何も変わらない。いっそなかったことに出来れば良かったのだが、欲しいという事実も、変わらなかった。俺はどうしても――。


改札へ向かう人々の傘が閉じられる度、水しぶきが俺の身体を濡らす。それにまた苛立ち、煙草を探す。

これが最後の一本だった。傘と一緒に買えばよかった。ライターの石を数度擦るが、中々火が点かない。隠すこともなく舌打ちをして、ライターをそこらに投げ捨てる。


投げ捨てたその先には、腹を上に向けて、ぐちゃぐちゃに砕けた体と、臓物を垂れ流す虫があった。なんて汚い。醜いのだろう。嫌なものを視界に入れてしまった。また舌打ちが出る。

すると、その虫の足がひくひくと動いた。信じられないことに、まだ生きているようだった。惨めだ。その状態で生きていて、一体何の意味があるのだろう。さっさと死んでしまえばいい。それじゃあまるで、

「……まるで、今の俺、みたいじゃないか……」

声に出して呟く。何を言っているんだ俺は。靴の裏で虫を擦り潰す。煙草の火をもみ消すように。さっさと死んでしまえばいい。さっさと死んでしまえばいいのだ。


頭に血が上っていた。虫相手に何をしてるんだ俺は。無意味に靴を汚してしまった。帰ったら靴を洗おう。改札に入る。ちょうど到着した電車に乗り、五駅ほど進んでから降りる。返信はない。返信がない。俺が、こんなに思っているのに、こんなに愛して、愛しているのに! どうして返信を寄越さない……!? 意味が分からない。理解出来ない。愛されたいと言っていただろうが。友達みんな結婚して寂しいと、言っていただろうが! なのに、何故、なんで、俺じゃないんだ。


改札を出て、傘を開く。その瞬間、強い風が吹いて、俺の傘を破壊した。俺の怒りは、最高点に達した。


傘を両手で無理矢理捻り、骨を折る。それを思い切り叩きつけ、踏みつける。何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も。


ぐしゃぐしゃになった傘を見て、心が満たされる。これでいい。思い通りにいかないものは、全ていらない。壊れた傘を見る。先ほどの虫と、重なって、苛立つ。違う、違う! 俺は違う!

「俺はこいつらとは違う……違うんだ……」


はっ、と顔を上げると、周囲の人間が俺を見ている。俺が、ゴミの群衆に、好奇の目を向けられている。耐えられず、走ってその場から逃げ出した。傘も差さず、闇雲に手足を振って。


家へ着く頃には、全身がぐっしょりと濡れていて、より一層惨めになった。玄関に跪き、吐き出したくて仕方なかった言葉の数々を、吐き出す。


「俺は、あんな風にはなりたくない……」

「あんな小汚い、羽虫のようにはなりたくない」

「汚れた靴のようには、なりたくない」

「壊れて使い物にならなくなった傘のようにはなりたくない」

「自己に陶酔して酔いしれるような生き方なんてしたくない」

「俺は、俺が愛したい人と、ただずっと、一緒にいたいだけなんだ」

「俺は、ただ、愛したいだけなのに」


言葉にしたところで、心が晴れることはなかった。異物感が腹の奥底にあって気持ちが悪い。トイレに向かい、無理矢理口に手を突っ込んで、中のものを吐き出す。吐き出す。それらをすべて、水に流す。それでも、俺の中にある穢れは、まだ俺の中に留まったままだった。


何も変えられない。何も変わらない。

だから、慰める。自分を。都合の良いモノを使って。

それで満たされないことなど、もうずっと前に理解している筈なのに。


「いっそ、生きている意味さえ、ないと思える。今なら」


全てを吐き出した後、服を脱ぎ棄て、ベッドに倒れ込む。


あぁ、せめて夢の中でくらい。

満たされたい。

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