第3話:ネズミ狩り(5)

「それにしても驚きました。レンさんが、こんなところにいるなんて」

「君こそ、こんなところにいるなんて。ガラのいい場所じゃないだろう」


 カクテルを飲みながら、サシャは蓮華に目を向ける。上目遣いの、栗色の瞳。ほんの少し潤んでいる。

 二人はコの字型のソファに、テーブルを挟んで向かい合って座っていた。

 サシャに介抱された蓮華は、こうして出会えたことも縁だと言われ、サシャと一緒に飲むことになった。助けられた手前断れなかった。蓮華は疎ましさを笑顔で隠して、かつて美友梨の友人たちに見せていた、話しやすいお姉さんを演じてみせる。

 サシャはグラスを置くと、垂れた髪をかきあげた。


「あはは。まあ、仕事で縁があって……でも、いまは憂さ晴らし」


 うっとりと、どこか夢見心地のような目で、サシャはテーブルに肘をつき、組んだ手の上に顎を置く。

 蓮華はズボン越しの硬い感触に気づいた。サシャの爪先が触れていた。ヒールの先端が持ち上がり、誘うように蓮華のふくらはぎを撫でる。


「噴水でのこと、覚えててくれて、嬉しいです」

「あれ以来懐かれたから。ミユにもその友達にも」


 蓮華がサシャと出会ったのは、美友梨がハイスクールに上がってすぐのことだ。友人らと街に出かけた美友梨を迎えに行った時、待ち合わせ場所の公園で、サシャが男に絡まれていた。


「カッコよかったなあ」


 サシャは視線を指先に移す。

 サシャの爪先が再び降りてきて、蓮華の足の爪先に触れる。いじいじと、先端で、革靴の表面を撫でる。


「男の人に、手首を掴まれて。わたし方向音痴だから、美友梨たちと噴水の真逆にいたのに気づかなくて……怖くて、不安でした。あの時助けていただいたから、わたし、今の職を選んだようなものなんですよ?」

「ふうん……」


 通りがかった店員に注文をして、蓮華は当時を思い出す。

 サシャを助けたのは全くの偶然だった。美友梨を迎えに来た蓮華は、待ち合わせ場所で一時間近く待たされていた。加えて、組の都合で車を使えず、冷房と縁のない二時間を矯正させられた。いつもより暑さはひどく、悪条件も重なって、蓮華は本当にイライラしていた。そのとき、男に絡まれるサシャを見つけたというわけだった。


 当時いたずらに暴力を行使したことを蓮華は反省していた。しかし反省の一方で、その軽率は良い結果をもたらした。美友梨からは信頼が高まり、蓮華の周囲からは好印象を抱かれた。


 助けたサシャは中でも特に蓮華になついた。蓮華が迎えに顔を出すたび、話しかけられていたことを、ぼんやり蓮華は思い出す。

 蓮華はサシャと思い出話を続けた。当たり障りのない会話だった。サシャの過剰なスキンシップを、蓮華はいなしながら話した。


「そういえば、今の職って……?」


 ふと気になって口にした疑問だった。しかしサシャは、予想外にも顔色を変えた。ちょっと緊張した様子で周囲を伺うと、サシャは顔を蓮華に近づけた。


「えっと……驚かないでくださいね。わたし、警官なんです」


 蓮華は口元に運んだグラスを止めた。サシャは慌てて取り繕った。


「ここにいるのは捜査とかじゃないですよ? 違法性があると指摘はされてたんですけど、三回か四回、指摘は棄却されてますし……」

「ん……わかってる。大丈夫だから」


 サシャは机に置かれた蓮華の左手を両手で包む。

 蓮華は曖昧に頷くと、ウイスキーを一口なめた。

 緊張を必死にこらえる。腰には、冷たい鋼の感触があった。

 赤道近縁のセロンではどうしても軽装になりがちで、拳銃を隠すとしたらポケットかそこくらいしかない。そしてこの国では、民間人の銃火器所持は禁止されている。


 酔いはすっかり醒めた。酩酊がもたらしていた高揚感は消え去った。

 だが、蓮華は酔ったふりをし続けた。騙し通すべきだと直感的に思ったからだ。


「そういえばミユちゃん、一緒じゃないんですか?」

「美友梨は……家族とお出かけ」

「え? 蓮華さんを一人にして?」


 サシャは目を丸くする。蓮華は苦笑した。


「お姉ちゃんじゃないから、私。親戚……叔母さんってとこかな。早くに両親が亡くなったから、美友梨のところに引き取られたの」


 サシャは青ざめた。


「ごめんなさい……」

「大丈夫」


 性格の良さを感じ取りながら首を振る。そのとき、取るべき戦略を蓮華は思いついた。かつて抱かれていた淡い感情を利用することにしたのである。


「サシャだから、話してもいいかなと思ったから」


 蓮華が親しげな声を出すと、サシャは少し驚いた様子を見せた。蓮華は腰を上げ、サシャへとすこし体を寄せる。


「サシャ、むかしから優しかったよね」

「いえ……臆病なだけ。嫌われたくないから。昔と変わらないんです」

「いいことじゃないかな」

「臆病なことが?」

「変わらないことが」

「どうして?」

「ずっと素直でいつづけてるんでしょう。誰かを騙そうとか、自分を自分以上に大きく見せようともしていない。すごいことだよ、それは」

「本当?」


 サシャは頬をほころばせる。


「うん。サシャはいい子だね」


 蓮華に名前を呼ばれた途端、サシャは顔を赤くした。

 蓮華は微笑み、さらに近づく。

 さきほど、サシャがしたみたいに、テーブルの上の手に手をかぶせる。

 指先で、相手の指先を求めると、サシャは蓮華に手のひらを重ねた。


「それに、カッコよくなってるよ」

「本当ですか?」

「うん」


 蓮華は指先を引っ込めて、サシャの手のひらをくすぐった。きゃあきゃあとはしゃいだ声が漏れ出る。蓮華は手を腕に滑らせる。サシャは一瞬身をこわばらせたが、力を抜いて、蓮華に体を預けた。

 蓮華は細い腕を愛撫した。慎重に、演技を悟られないようにしながら。


「筋肉ついてるし、今ならあんな変なやつに襲われても大丈夫だよ」

「襲われる前に逮捕しますけど」

「こわいなあ」

「力より、ナメられない威厳がほしいなあ」

「こんな感じ?」


 蓮華がしかめ面を作るとサシャは笑った。


「署長そっくり! おもしろいなあ」

「そうなの?」


 蓮華は作り笑いを浮かべる。内心の焦りに蓋をする。だが、サシャは安心しきった様子で頬をほころばせた。


「うん。署長、いつもそんな顔してるんですよ」

「ふうん」


 もう一度しかめ面を作る。道化になった成果はあった。サシャはけらけらと笑うと、蓮華に体を預けて赤くなった頬を寄せた。


「いつも威張り散らしてばかりで。うるさくて、つまんないんです。なんであんなひとが署長なんだろ。そう思いません?」

「よくわかんないや」


 甘えるような声音に変わる。蓮華はサシャの髪を撫でる。猫のような甘えた鼻息。蓮華は手応えを感じていた。続けた言葉が、予想外の事実を引き出した。


「なにか嫌なことでもあるの?」

「毎日一回は署を抜け出して。でも何食わぬ顔して戻ってきて……知られてないとでも思ってるんですかね?」


 サシャは不満だらけ、と言わんばかりに腕を伸ばす。つらつらと、酔いに任せて話し続ける。


「たぶん地下通路を使ってどっかいってるんですよ。現場で制服汚れたときとか、マスコミに変に書かれてもやだからってことで、建物の半地下を通じた道があるんです。わたし交通課なんですけど、デスク、階段近くにあるから。署長、いつもそこ使うんですよ」


 はあ、とサシャは溜息で締めた。


「あんな人も、アーサーさんが政権をとったら辞めるんですかねえ。ただの扇動家じゃなさそうだし、期待してるんですよね、わたし」

「そっか」


 蓮華はサシャの頭を撫でて、肩を抱き寄せる。サシャはくすくすと、わけもなく微笑む。とろけた視線を蓮華に向ける。冷徹な瞳に気付かないまま、酩酊と高揚に欺かれたまま、蓮華の胸に顔を乗せる。


「ごめんなさい、色々話して」

「頑張ってるんだね」


 蓮華は冷めた頭で考えていた。ただ騙すだけでは足りない。この女に取り入らなくてはいけない――残酷なことをしていると理解しながら、蓮華はサシャの頭を引き寄せる。

 それから、続けて耳に触れて。

 首筋を、腕を、太ももを撫でて。

 愛撫がじわじわとむしばんで、サシャは小さく吐息を漏らして、震えた。


「夢みたい」

「夢じゃないよ」

「本当? 本当に、レンゲさん?」


 サシャは蓮華の頬に手を伸ばした。


「あのとき助けてくれた人? なんだか、怖い」

「そうかな」

「うまくいきすぎてるみたいで……れんげさんに会ったことも、……覚えててもらえたことも、なにもかも。わたし、酔ってるから、わからないや」

「なら、嫌なこと、全部話してごらん。スッキリするよ」


 蓮華は、慎重に言葉を選びながらサシャの首筋に唇を寄せる。


「全部聞いてあげる。お礼も、かねてさ」

「お礼……?」

「泣いてた理由、聞かずにいてくれたから」


 声をひそめる。肌が震える。ダンスフロアの光が目を刺す。作り出された強い影の中、サシャは小さく、うなずいて、だけどすぐ首を横に振った。


「ここじゃ、イヤ」


 サシャは囁いた。

 蓮華は背中と膝の裏に腕を通した。抱き上げると、勘定をテーブルの上において、出口に向かった。

 背中に視線を感じて手を振った。バーテンダーのものだと思ったからだ。

 サシャが蓮華の所作に目を留めた。蓮華は、汗ばんだ首筋に何度も唇を落として、繰り返した。


「話してみて。もっとしてあげるから」


 そして、サシャは蓮華の思い通りになった。


 サシャは念願が叶った高揚に任せて、何もかもを話してしまった。

 嫌なことを言えば言うほど、溜め込んでいたものを話すほど、恋い焦がれた初恋の人が甘やかしてくれたから。

 サシャは、純潔を、快楽に満ちた甘い夢に捧げた。


 翌日、蓮華は昼前にゆっくり目覚めた。


 蓮華は清々しい気持ちでベッドを出ると、シャワーを浴びて汗を流した。

 熱を肌に感じていると、じわじさと喜びがこみ上げてくる。これで美友梨の役に立つことができる――そのことが、ふつふつと、実感できた。

 シャワーを浴びて着替えていると電話が鳴った。表示された名前を見て、片手で着替えを続けながら通話をつなぐ。


「タロウ」

『昨晩のメールは見たのか』

「……すまない」

『見てないのか。まあいい、口頭で伝えよう。

 アーサーの調査は終わった。残念な知らせだが、やつは清廉潔白で、裏から接触するルートはない。情報も、公開されているものがすべてだ。お前が知っていることに付け足すとすれば……やつは正面からいけば、誰であっても受け入れる』

「なに?」

『冗談だと思うだろうがな、本当だ。俺は身分を偽ってアーサーの事務所に電話をかけた。新聞記者で、インタビューをしたいと。すぐに本人に代わった。そしてアーサーは俺の名前を言ってこういった。話をしたいなら直接会いに来なさい、道は誰にでも開かれている……』

「バカな」

『だが本当だ。バカバカしいがな。それともう一つ。折鶴美友梨が今日の昼に帰ることになった。むこうでデモがあったらしくてな。そのあおりだ』

「デモ?」

『それもアーサー絡みだよ。民衆に怒れと、そういったそうだ。不正に怒れ、団結せよ、正義をなせとな……とにかく折鶴美友梨は昼には戻る。それまでには折鶴邸に戻らないとまずいぞ』

「わかった。ありがとう」


 電話が切れた。蓮華はブラのホックを留めてシャツを着ると、美友梨を迎える喜びがにじむ頬に力を入れ直し、腰にしっかりと拳銃をねじ込んだ。


「レンゲさん……よかった、本当だ」


 部屋を出るとサシャは安心した様子で蓮華を見上げた。シーツを胸に手繰り寄せて、目に涙を浮かべている。蓮華はサシャにキスした。


「夢じゃないよ。シャワー浴びておいで。それから、ゆっくり帰ろうか」


 ホテルを出ると首筋に汗が吹き出した。空は高く澄み渡り、セロンの土を熱している。店の軒先では野犬が丸まり、舌を出し、猛暑に耐え忍んでいる。蓮華は犬の上をまたいで、道に出る。

 繁華街は嘘のように静まり返っていた。店の前には掃除をする店員らがまばらにいるくらいだった。みなが等しく、ろくでなしだ。蓮華は顔つきから読み取った。それがなぜか、落ち着いた。


「大通りに出よう。タクシーで送るよ」

「あ……えっと……」

「どうしたの?」

「その……仕事柄、こういうところに居たって知られることは避けたくて……」


 サシャは申し訳なさそうに言った。蓮華は安心させるように微笑むと、裏路地へと向かった。


 コロンの裏路地は街の区画間を繋ぐ、無造作な毛細血管に似ている。地理が正確に把握できれば、人目につかず区画間をどこまでも移動し続けられる。裏を返せば迷ったら、容易に出られないことも意味する。


「大丈夫なんですか、こっち使って」

「私を信じて」


 挙動不審に辺りを見回すサシャの腕を引き寄せて、周囲に蓮華は睨みをきかせる。この辺りのチンピラで彼女の顔を知らないものはいなかった。みんな見て見ぬふりをして、各々の人生に没頭する。


(うまく抜ければ海沿いに出る。そうすれば問題ないだろう)


 二人は街のより深い影へと進んでいく。土埃の多い路地は次第に湿り気を帯び、ネズミの死骸や、店の残り物を食べる人々の数が増す。サシャは蓮華の腕に抱きついた。蓮華は手をつないでやった。恋人繋ぎだった。サシャの腕から、力が抜けていった。そうしてもっとも濃い影を抜けると、次第に土埃が増えていった。

 サシャが突然、くすくす笑った。訝しむと、サシャは蓮華に囁いた。


「仕事、休むって連絡入れちゃった」

「え?」

「さっき、待ってたとき……ダメだった?」


 蓮華は焦った。彼女に付き合っていれば、昼までに帰れなくなるだろう。迎えに出ないわけにはいかない。どう断ろうか考えていると、サシャは蓮華の腕を抱き寄せる。海外製の、弾力のいいマシュマロのような柔らかさが、汗ばんだ感触と共に伝わる。


「よかったら……レンゲさんが、イヤじゃなかったらでいいから」


 そのとき、背後の足音に気づいた。


「レンゲさん?」


 人差し指をサシャの唇に当てると蓮華はさっとあたりを見回す。野犬が日陰でとぐろを巻いているほか、目についたものはない。だが、蓮華は野犬の目が、背後に向けられていることに気づいた。


 蓮華はサシャの手を取ると、更に人のない路地へと進んだ。

 サシャは、蓮華の顔つきに余裕がなくなったのを見て、戸惑いを隠せずにいる。


 蓮華は足早に歩きながら、目まぐるしく過ぎ去る視界の中、なんとか背後をうかがおうとする。光るものに気づいて蓮華は足を止めた。

 地面に鏡が転がっている。

 砕けた鏡面に、いくつもの顔。

 蓮華は横に少しずつ、路地の中央へ動く。

 角度が変わると、あるとき、二人の女の顔の背後に男の横顔が映った。


「……レンゲさん?」


 咄嗟に蓮華はサシャごとそこに転がった。

 風を切る音がした。

 頭を持ち上げる。

 黒いコートの端が目に入る。

 殺意。

 蓮華はサシャごと横へ転がる。さきほどまでいた場所にナイフが突き刺さる。

 肩が痛んだ。転がったとき、打ったせいだ。動かない程度ではない。

 蓮華は再び転がりざまに銃を引き抜くと、およその狙いを定めて撃った。

 二発。うめき声。

 顔を上げて黒い人影に狙いを定める。

 三発目。

 人影が倒れた。


 蓮華はゆっくりと身を起こした。近づいて、足でうつぶせの男を転がす。渇いた土が、広がっていく血をすすっている。だが、男はまだ息をしていた。


「誰に雇われた」


 男はニヤリと笑った。バカにしたような笑みだった。


「誰に雇われたんだ」

「ドブさらいの親玉さ」


 蓮華はその顔に銃口を向けた。


 赤い花が咲いた。


 息を整える。

 血の臭い。

 硝煙。

 いまさら、命を狙われた事実の意味に気づく。

 疑われているか、計画が漏れた。だがどこから?

 蓮華は昨晩の、バーテンダーのものだと思った視線を不意に思い出した。あのときからつけられていた。

 まだバレてはいないだろう。直感しながら蓮華は、ナイフを避けきれずに喉を貫かれた自分と、吹き出したであろう赤い血飛沫を思い浮かべた。


「……殺したの……」


 蓮華は顔を上げた。

 サシャは尻餅をついたまま、程よく肉のついた脚を地面に転がしていた。

 サシャは煙を吐く銃口を、続けて殺人者を見つめた。


「あ、あなた、誰? レンゲさんじゃ、ない。ありえない、だって、レンゲさんは、立派な仕事をしてるって、ミユちゃんが」


 殺人者はゆっくりと歩み寄った。サシャは、逃げようと後退った。だがもつれた手が空を切った。蓮華はサシャの上で体を下ろすと、グロックを顎の下に突きつけた。


「私はネズミだよ」


 自然とその言葉が出た。


「人のものを奪うしか能がない、いざとなったら共食いをし始める野蛮なネズミだ」


 サシャの目から涙が溢れた。こらえきれなかった嗚咽を、蓮華はやさしく頬を撫でて慰める。震える肩に手を置いて、蓮華はやさしく、微笑んでみせる。


「これは夢だった。あなたは、初恋の人に抱かれたあと、夢見心地で家に帰った。あなたは昼からずっと寝て、幸せな夢の続きを見た。……そう話さなかったらどうなるか、わかるだろう」


 サシャは打ちのめされた目を向けた。



 用済みになった女をその場に残して蓮華は裏路地を向けた。急いだせいで、またサヒードに借りを作ることになった。サヒードの手でサシャは送り届けられ、死体はなかったことにされた。処理を終えて、折鶴邸の前に着いたとき、もう屋敷へ続く道には車が停まっていた。

 蓮華は息せき切って走った。屋敷の入口に近づいたとき、美友梨の声が耳に届いた。自然と表情が笑顔に変わる。蓮華は植え込みの角を曲がって、美友梨の名前を呼ぼうとした。そして、思わず、口を押さえた。


「――条件を呑むと言ったな」


 家の壁に腕をついて、ジョーが美友梨に顔を近づけていた。見下ろす顔を、美友梨はまっすぐ見つめている。後ろでひとつ結びにされて、肩から垂らされた髪の毛を、ジョーの指が無造作に触れた。


「ならば、俺がこうしてもいいわけだ」

「ああ」


 美友梨は表情を変えずに言った。

 蓮華は植え込みの影に身を隠した。そして、口元を押さえたまま、そっと、二人を覗き込んだ。

 ジョーのゴツゴツした指が、美友梨の顎を掴んだ。持ち上げて、上を向かせ、そして乱暴に唇が押し当てられた。

 蓮華の見ている眼の前で、美友梨の唇は蹂躙された。舌を入れられ、ぐちゃぐちゃにされた。目を逸らしても、口を押さえていなければ、悲鳴を上げてしまいそうで。

 だから、その、つばが絡む音から、蓮華は逃れられなかった。


「……こりゃ傑作だ」


 音がやみ、声がする。蓮華は視線を、抗いようもなく、向ける。ジョーは舌を伸ばすと、美友梨の頬を舐めた。美友梨は、無感動に、男の目を見ていた。


「本当になんでもさせるんだな」

「私の自由は保証させてもらうがな」

「好きにしろ。だが契約は契約だ。こっちだって無理をするんだからな」

「利するのだから感謝してほしいくらいだがね」

「ほざけ」


 ジョーは大声で笑うと、美友梨の肩を軽く掴み、それから屋敷の玄関をくぐった。


「約束は約束だ。次の日曜日、その日に結婚式を挙げてやる」


 蓮華はその言葉がなにか、理解できなかった。

 膝から力が抜ける。蓮華は何が起きたか理解できずにいた。気づけば、目の前に美友梨が立っている。困ったように、汚れた頬もそのままに、以前と変わらず、蓮華に微笑む。


「必要なことだったのよ」


 美友梨は蓮華の頭を撫でると、踵を返した。美友梨はそのまま動かない。意図に気づいて立ち上がると、美友梨はゆっくり、歩き始めた。

 蓮華はその後を追った。足に力が入らなかった。自分がなぜこうまで傷ついているのか、それが必要なことだと言われたのに、なぜ打ちのめされているのかわからないまま、蓮華は思った。

 いったいなにが、あったんですか。

 だが、それを口に出すことはできなかった。答えを聞くことが、いまは恐ろしかったから。


第4話「覚悟」に続く

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憤怒 犬井作 @TsukuruInui

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