第3話:ネズミ狩り(4)

 蓮華は私邸に戻ると、タロウを晩酌に付き合わせた。そうでもしなければいつまでも起きているように見えたからだ。年代物のウイスキーを出して、しこたま飲ませて、酔わせて。二十三時も過ぎた頃には、タロウはソファで寝てしまっていた。

 毛布をかけてやったあと、蓮華はしばし思案した。時計と、外の様子と、タロウを見た。タロウは静かに寝息を立てていた。蓮華は私邸をあとにすることにした。


 玄関を出ると、夜が薄絹を広げていた。視界の隅々まで暗い。どうやら街の一部で停電が起きているらしい。人工の光が消え去ると、夜空は星々の海だった。蓮華はバイクにまたがると、ライトを消したまま発進した。

 無人の通りを走り抜ける。どこかで、野良犬の遠吠えがしている。


 蓮華は折鶴邸に向かっていた。アザータの調査に取り掛かるためだった。アザータは、まがりなりにも公人で、折鶴組とは先代が存命の当時からの仲である。であれば、彼の調査ファイルがあるはずだ。

 調査ファイルは折鶴邸の資料室にある。そこが蓮華の目的地だった。


 五分ほど走らせると正門が見えた。蓮華は手前でバイクを降りるとエンジンを切り、ゆっくりと門に近づいた。鍵を開けて中に入り、バイクは壁の影に隠す。近づいてきたクロをいなして、蓮華は裏口から中へ入る。


 廊下をそっと歩いても、板張りはぎしぎしと音を立てた。だがいるはずの見張りはなかった。

 角を曲がると、客間の方に明かりが見えて、そちらから駱太郎の声がした。麻雀で遊んでいるらしい。蓮華は呆れて、頭を抱えた。

 これに出世を絶たれたと思うと、薄れたはずの忌々しさがこみ上げる。蓮華は溜息にやるせなさを吐き出した。


 扉にはダイヤル式の南京錠がかかっていた。手に取ってみると、見覚えのあるものだった。蓮華は古い記憶を呼び出してダイヤルを回した。あっさりと、留め具が外れた。蓮華は中へ入った。


 資料室はかすかにかび臭かった。埃っぽくて、口元を手で覆う。二十四時間休みなく動かしているはずの乾燥機は、音を立てていなかった。

 持ってきた懐中電灯を点けると、整然と並んだパイプラックが浮かび上がった。五十音順にファイルが並べられている。検討をつけて、目当ての場所に光を向ける。

 目的のものはすぐ見つかった。

 中をさっと眺めて間違いのないことを確認すると、蓮華はファイルを手に来た道を戻った。


 バイクに近寄ると、クロがエンジンの側に伏せっていた。蓮華は素振りで追い払おうとしたが、クロは足にまとわりついた。

 蓮華は舌打ちした。クロは嬉しそうに吠えた。辺りに、鳴き声が響いた。慌てて人差し指を唇に当て、その額を指先で叩く。蓮華の仕草に、クロは寂しそうに喉を鳴らした。


 今度会うとき厄介だ。そう思いながら、しかし長居するわけにも行かず、蓮華はバイクを引いて門の外に出る。

 バイクを押して、ある程度距離を稼ごうと思った。だが、三歩進んだとき、背後で再びクロが鳴いた。


 屋敷の方で明かりがついた。背後で、クロを叱る声がする。蓮華はバイクを走らせて、夜の帳に飛び込んだ。




「おい、……おい」


 肩をゆすられる。蓮華は重たいまぶたに力を込める。開かないから、そっぽを向く。


「おい、起きろ、……起きろ、蓮華」


 名前を呼ばれる。育ての親に似た、低い声。蓮華は、手のひらの感触が硬い事に気がついて、飛び起きる。

 八畳ほどのリビング。窓からは、レースのカーテン越しに朝日が差し込んでいる。空気中を漂う塵を背に、切れ長の目の男がセルフォンを差し出していた。


「電話だ」


 それがタロウだと気がつくのに、蓮華は少し時間を要した。

 蓮華は少しずつ、理解していく。自分がソファにいたこと、テーブルの酒の空き瓶やタバコの灰皿の隣に、昨日持ち出したファイルが置いてあること。帰り着いたあと、そのままリビングで寝てしまったようだった。

 蓮華はセルフォンを受け取った。洗面所へ、気だるい足を向けながら、通話をつなぐ。不愉快な声がした。


『人をいつまで待たせる気だ』

「どうしたっていうんだ」

『どうしたもこうしたもない。お前昨日、折鶴亭に来ただろ。なにしにきた』

「なんのことだ」


 顔を洗って昨日のメイクを落とし、軽く肌の手入れをする。今日はどうしようかと考えて、蓮華は普段どおりで行くことにする。鏡を開けて、内側の小物入れから化粧品を取る。


『とぼけても無駄だ、証拠はあるんだぜ』

「証拠? 言ってみろ」

『なんで言わなきゃいけないんだよ』

「言えないんだな」

『そんな態度をとっていいのか。どう報告してもいいんだぜ』

「証拠なんてないだろうに」

『ハッタリ抜かすな』

「タロウに聞いてみるといい。私は昨晩はあいつといた」

『……なに? かるた組の?』

「そうだ」


 メイクをして、口紅を塗る。鏡に映る折紙蓮華は、いつもどおりだ。蓮華は洗面所を出てリビングへ向かう。


『おまえ、あいつとどういう関係だ』

「は?」


 突拍子もない質問に蓮華は戸惑った。だが駱太郎は切羽詰まった口ぶりで繰り返す。


『どういう仲なんだって聞いてんだ』

「なぜ答えないといけない」

『答えろよ』


 舌打ちする。

 ただでさえ駱太郎は嫌いだった。以前から、いけすかない目を向けてきていたからだった。蓮華が苦手な男という生き物、そのまま。まるで人を所有したがっているような、コンプレックスをむき出しにした目。思い出して、無意識に蓮華の頬が引きつった。

 リビングに戻ると、タロウが水の入ったコップを差し出した。


「飲んだほうがいい」


 小声で言われ、蓮華は受け取る。礼を言うと、その声が聞こえたのか、駱太郎は声を荒げた。


『そこにいるのか、あの男は。おまえ、あいつと一晩過ごしたのか』

「それがどうしたっていうんだ」


 蓮華はうんざりした口ぶりで言った。


「いいか、お嬢様はかるた組との連携を憂慮していらっしゃるんだ。だからタロウと接触し、私がそれを引き継いだ。なんの問題もないはずだ」


 電話先で、駱太郎が絶句する。酸欠の魚のように、唇を開閉しているのが目に浮かんだ。


「お前はお前の仕事をしていろ、ノロマのラク」

『な――レン、てめえ』

「お前にそう呼ばれる筋合いはない」

『後悔するぞ』


 蓮華は通話を切った。

 深く息を吐くと、携帯電話をソファに投げる。自分が寝ていたクッションが、背もたれの隙間で受け止めた。せいせいしたと思ってぐっと伸びをした時、蓮華は視線に気がついた。


「……大丈夫か?」

「見苦しいところをすまない」


 蓮華はタロウに頭を下げる。


「ああやって無下にしていいのか」

「私と駱太郎の仲が悪いことは組長もみな知っている。怪しまれたりはしないだろう」


 タロウは曖昧にうなずくと、視線をテーブルの上へ向ける。


「……そのファイルは?」

「アザータの調査資料だ。屋敷から持ち出した。だいたいの事が書かれているはずだ」

「見ていいか」

「どうぞ」


 ファイルを手渡すと、タロウは一ページずつ目を通していく。


「細かいな。毎年……調査を更新していたのか」

「折鶴組は関わった全員の調査を行い、プロファイリングを行っていた。FBIで扱われていた最新の方法論を先代は取り入れていたんだ。最新のデータが要なんだ」

「折鶴隆一は、そう思っていないらしい」


 蓮華は苦笑する。タロウからファイルを返される。分厚い束の最初の扉ページには、先代の亡くなった年月が左上に書かれていた。


「実際、単にプロファイリングをするだけなら必要十分のデータがあればいいらしい。心理分析は現在よりもむしろ過去に重きをおく」

「細かいことはわからないが」


 タロウは氷入りの水を飲む。


「アザータに関して手伝うことはないらしい。俺はアーサーのほうを当たろう」

「いいのか?」

「手伝えといったのはお前だろう」


 タロウは口元を小さく持ち上げた。蓮華は頷くと、立ち上がるタロウを見上げる。


「よろしく頼む。また夜にここへ」




 蓮華は車の中で書類を広げる。フロントガラスの向こうに伸びる道の先には十字路があり、反対車線の側に大きな煉瓦造りがある。国家警察、コロン署本署。その最上階にいるはずのアザータを睨みつけながら、蓮華は書類に視線を通す。



 新暦九二年作成

 名前

 アザータ・ウィリアム・マシャード。

 肩書

 国家警察コロン署署長。

 概略

 新暦十八年生まれ。妻帯者。娘、一人。類縁関係、不明。

 一三年前、折鶴組に協力を申し出てきた。コロン内部の犯罪勢力、及び警察内部の汚職に精通していたため、現在に至るまで取引を続けている。

 経歴

 新暦七二年、警察学校卒業。新暦七三年一月一日よりコロン南区分署にて勤務開始。はじめは交通整理や下級犯罪の取り締まりなど目立った活動はなかったが、新暦八〇年、突如コロン署本部に異動、上級犯罪取締課一班へ配属。違法賭博の摘発、犯罪者の検挙率の高さなどで実績を重ね、新暦八五年、班長へ就任。新暦八九年、異例の若さで署長へ就任。その高い実績が買われたものとされている。

 実態

 アザータは勤務開始からの五年間を、セロン裏社会の情報収集に充てていた。軽犯罪の取締を通じて、警察を含む各勢力の事情に通じた。その後、成長の見込みがあると考えた折鶴組に情報を投資した。マッチポンプを作り出し、また脅しと賄賂を利用して、のし上がった。折鶴組は彼が任務中知り合った女性を間接的に彼との恋愛関係に誘導することで、彼の生活に接近した。現在、悪事の証拠と家族への危害に基づきアドバンテージを確保している。

 所見

 性格は粗暴だが、非知性的ではない。教養はないが、頭の回転は早い。機運を読むことに長けている。また、危険に対する嗅覚も効く。以前より尾行等で調査していたものの、私生活に目立った隙はなく、取引の他に弱みを握るのは難しい。

 日に一度、スーパーマーケットに寄る。その後の行動もルーチン的に定まっているため、以下にそれを記述する。しかし、接触は困難である。



読み終えて視線を上げると、ちょうど正面玄関から続く階段をアザータが下りてくるところだった。

 蓮華は息を吐き、書類をしまってダッシュボードに入れた。困難だとしてもやるしかなかなかった。

 それに、と蓮華は息を整える。五年前の記録なのだ。いまでは違うかも知れない――そう言い聞かせて、蓮華はハンドルを握りしめた。



 結果、努力は徒労に終わった。

 五年前の最新の記録は、未だ事実を伝えていた。そのことを、一日がかりで蓮華は学んだ。



 ダンシング・フィッシュの片隅で、蓮華は三杯目のウイスキーをあおった。強力な一撃が喉を刺した。見立ての甘さを戒めるように。


 ダンスフロアを彩る光が時折蓮華のいるバーカウンターにまで届く。目まぐるしく、何色もに色を変えるテーブルの木目を見ながら蓮華は、深いため息を吐く。

 アザータには付け入る隙がなかった。思い出して、蓮華はハンドルを殴った手のひらの痛みを思い出す。尾行を撒かれたことを、車のせいにはできなかった。

 日中の、会合等のための移動。フードマート――セロン最大のスーパーマーケット・チェーンでの買い物。そしてその帰り道。

 そのすべてで、一度はアザータを見失った。


 屈辱だった。


 折鶴邸に呼ばれたときの姿がすべてだと思いこんでいた。それが失敗の要因の一つだ。彼は隆一の前にいると、蜘蛛の巣に囚われた羽虫のように哀れにもがいた。だから見くびっていた。


 考えてもみたら当たり前だ。蓮華は酩酊した意識の中、何度も頷く。先代も隆一も、彼から協力を申し出てきた過去と、家族を巻き込める勢力規模で、アザータの優位に立ってきたのだ。裏を返せばそれ以外で、つけこむことは難しかったのだ。


 蓮華は深い溜息を吐いた。

 与えられた期限は二日後に迫っている。

 時間はなかった。だがアザータの調査は、暗礁に乗り上げていた。


「疲れた顔だね」


 馴染みのバーテンダーが苦笑する。かつて、蓮華が男とのトラブルを解決してやった女だ。


「ほっといてくれ」

「踊りなさいよ」


 蓮華は顔の横に伸ばされた浅黒い肌を鼻先で撫でながら、指差された光に目を向ける。ハイテンポなディスコミュージックに合わせて、男女が入り混じって身をくねらせている。蓮華は苦笑した。


「冗談だろう」

「気が紛れるわよ。たまに、私も踊ってる」


 バーテンダーは真剣な目で返答した。

 蓮華は曖昧に首を振って、再び酒を飲み始めた。一杯、二杯……しかし、そのうち、だんだんと鼓膜を叩くビートが大きくなってくるような気がした。ビートは無視できないくらいに、やかましく、だけどどこか心地よく、空気を等間隔に揺らしている。

 そのうち、だんだんと気が変わった。

 やったことのないことをやることでしか、気が紛れないと思えていた。

 蓮華は料金の倍額をカウンターに置くと席を立った。

 飲食用のテーブルを横切ると、光の奔流が目を刺した。


 来たときは気にもしなかった雑音が、像を結び、途切れないメロディを浮かび上がらせる。なんとなく、体を動かし始めると、頭に浮かんだイメージがより鮮明になっていった。

 蓮華は静寂を好んだ。育ての親の影響だった。折鶴一は、静寂の音を味わうように生活をした。記憶が呼び起こされた。


「水の音は透明な藍色をしているのだよ」


 そう言われ、お風呂の水を流し続けて、溢れさせてしまった過去。

 汚れた、だけど無垢でいられた幼い頃が、明滅の中に浮かび上がる。

 あのときの私と同じ顔を、数日前まで、美友梨も浮かべていたはずだ。

 そのとき、誰かに手を取られる。蓮華は導かれるままに踊る。

 どこかで嗅いだことのある香水――白と黒との瞬きの中、バーテンダーの顔がある。


「楽しい?」


 耳朶を打つ声に、首を振る。肯定したつもりだったが、できているかはわからない。バーテンダーは微笑んだ。

 動いているせいか、熱い。

 酔いが、回っている。

 夢を見ているような気分が、今までのすべてが嘘だったような気にさせる。

 この手で人を殺したことも。

 ほんの、十数時間前なのに。

 蓮華はアルコールがもたらした酩酊の中、体をゆする。明滅の中に、アニメーションが浮かび上がる。

 穴の空いた顔。

 虚ろな闇が広がっている。

 次の瞬間、影が消えて光が浮かぶと、美友梨の笑顔が現れた。


 視界の中で、二つのアニメーションが重なり合っている。それが、飲んでいたウイスキーの効果なのか、一定のリズムがなすトランスなのか。区別のないまま、惹起された高揚感に身を揺する。


 フィルム・ノワールとラブロマンス。

 夜鷹と、美友梨と、三人で歩いた、クリスマスの思い出。あの日も暑く、けど楽しかった。

 同じ暑さが、死を呼んだ。

 引き金。

 発射炎、薬莢の跳ねる甲高い音――その甲高さが別の連想を引きずり出す。学生の思い出――リコーダー。

 学生の頃、みんなで吹いた。あの子たちはどうしているだろう。


 学校へ行けと先代は言った。だから蓮華は学校へ行った。セロンでも有数のお嬢様校。隆一が娘を通わせなかった花園の、幻のような思い出が確かにあった。

 拾われてから、蓮華は義務教育を英語で学び直させられた。必ず一日に一度はそうさせられた。そのおかげで学校で目立つことはなく、周囲の水準通りに振る舞えた。


 あのとき、未来は選ぶことができた。

 重なる二つのアニメーションではない、どちらか一方の人生を。

 だが蓮華は二重写しを選んだ。

 そして美友梨も。


 不意に、涙が溢れた。

 踊りの手が止まった。

 蓮華は口早に謝ると、バーテンダーの手を離した。

 ダンスの波を破いて、影の濃い場所へと逃げる。


 蓮華は柱に腕を預けた。嗚咽をこらえられなかった。

 美友梨の人生の可能性が喪失した痛みが、いまさら、全身を貫いた。

 慟哭を、長く、吐き出して。どれくらい経っただろうか。


「――あの、大丈夫ですか?」


 肩に手を置かれた。

 咄嗟に蓮華は身を翻して、後退る。

 振り向くと、驚いた様子で、女が両手をあげていた。

 なにもしていませんよとアピールするように、やけに白い手を揺らす。


「ミユちゃんのお姉ちゃん、ですよね? あの……わたしです、覚えてますか?」


 女は微笑んだ。目をこすって、顔を見つめる。蓮華は光のアニメーションの中にその顔を見つけた。


「……ええっと……確か、ミユの……」

「あの……これ、よかったら」


 ホットパンツの尻ポケットからレースのハンカチを取り出して、サシャは言う。そこにプリントされた、デフォルメされた牛の絵には、確かな記憶が伴った。


「噴水の、あのときの子?」

「はい。同級生の、サシャです。お久しぶりです、レンゲさん」


 サシャは明るく頷いた。

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