第3話:ネズミ狩り(3)

 スーフォアが雄叫びを上げた。蓮華は体に力を込めた。左右の車道が動くより早く、スーフォアはベルーガを追跡し始めた。

 左の車線へ――遠ざかった背中を見つけて更に速度を上げていく。

 クラクションが通り過ぎる。

 スリーウィーラーから悲鳴が上がる。罵声も上がる。ベルーガに、スーフォアに向けられて。二台は、いま逆走していた。

 だが蓮華は気にしなかった。騒ぐだけ好都合だったからだ。


 蓮華は細かく減速と加速を繰り返してネズミとの距離を縮めていく。

 ネズミは周囲の目を気にして車線を変える。人通りの少ない小道へ、人が死のうと気にも留められないスラムへと続く道へとハンドルを切る。

 蓮華は拳銃を抜いた。

 デニムに挟んで、腰に留めておいたグロック。腕を背中に回して、シャツの下に手を入れて、抜きざまに引き金を引く。

 ネズミが情けない悲鳴を上げてハンドルを切る。

 必死に、前も見ず、考えなしに。


 街の中心部を抜ける。

 外へ外へ、そして海へ。

 観光客の多いビーチではなく、港湾側へ。


 道路は舗装を取り戻し、堤防に打ち寄せる穏やかな波が視界に入り込んでくる。貿易船の荷下ろし場へと続く道だと蓮華には解った。

 蓮華は、今度はネズミの右肩を狙う。左にハンドルを切るはずだ。

 銃声。

 破砕、続いて悲鳴。

 人目を避けるための誘導は、確かにネズミの向きを決める。


 蓮華はさらに距離を詰めた。

 もう少し近づけば手が届く距離を維持する。

 ネズミはポケットをガサゴソやるとトカレフを出した。

 蓮華を見ようともせず、後ろに腕を向けて撃つ。

 当たることはなかった。


 蓮華はアクセルを回した。

 スーフォアがベルーガに追いついた。

 隣に並んだ蓮華を見て、ネズミは頬を引きつらせた。


「あんた何だ、誰なんだ」

「気づいたから逃げたんじゃないのか」

「知らねえよ! カンだよ!」

「いい鼻だな」


 蓮華は車体を寄せると右手を伸ばした。グロックを上下逆に持ち直すと、グリップをさっと襟足に引っ掛けた。


「だが活かし方を間違えてる」


 ブレーキを掛けながら腕を引いた。

 布の感触――喉を捉えた確かさ。

 ネズミは手から力を抜いてしまう。百六十センチの体が浮く。ベルーガが制御を失い横転し、電信柱にぶつかった。

 ネズミを地面に叩きつけたのと、それは同時だった。


 蓮華は銃から手を離し、車両の加速度をゆっくり落としながら停車する。

 足を下ろし、腰を車体に預けながらセルフォンを取り出す。

 ネズミを確保、どうする。

 ぴったり一分後に返事――人に知られない場所がほしい。

 蓮華はタロウに返事を書いた。ダンシング・フィッシュ、場所は港湾部の近く。

 蓮華はネズミをバイクの後部に乗せた。



「おう、起きたか、ハタロウ。よくもやってくれたな、お前」


 目覚めるなりタロウは鼻を殴った。悲鳴とともにネズミは椅子ごと仰向けに転がる。粘っこい、少し湿った土が顔を振るネズミの無精髭に絡む。


「どこですかここ」

「どこだと思うんだ」

「なにもないじゃないですか」

「あるだろうが言ってみろ」


 タロウは椅子の裏を蹴る。ネズミは悲鳴を上げて口にする。


「木の柱、土、影、電球の光」

「ほかには」

「タロウさんと蓮華さんです!」

「あるじゃねえか、目玉付いているじゃねえか、おいハタロウ、ええ?」

「ついてました、ついてました」


 タロウが倒れたネズミの腕を蹴るとネズミはこくこくと頷いた。骨が折れたのか、歪んだ鼻っ柱が真っ赤に腫れている。タロウはピクピクと震える、椅子の足に縛られた毛だらけの足を、用意していたハンマーの槌で殴りつけた。

 ネズミは悲鳴を上げた。そのまま三度、脛を殴られる。悲鳴が大きくなっていく。タロウはノルマをこなし終えたかのように、血のついたハンマーを地面に投げ捨てた。


 ネズミは痛みで気が遠くなっているだろう。蓮華は扉に背中を預けながら、聞こえてくるディスコミュージックに意識を向ける。

 ダンシング・フィッシュは娼館だ。地下に折鶴組の施設を持つ、地上二階建ての施設だ。先代が存命だった頃、隆一が父親が世話する孤児やはぐれものの再就職先として用意した場所の一つだった。


 同様の施設はコロンの街にいくつもあった。だがこの店は蓮華が面倒を見た子が多く、ほとんどが志願して娼婦をやっていた。頭を使ったり、汗をかいたりする仕事が、バカバカしくてやってられず、いざという時の保証も欲しいから選んだ。そういう実用的な発想の持ち主ばかりだったから、干渉しないと踏んでいた。


 事実、聞こえてくるディスコは遠く、見張りをつけると言っていたのに、今はその気配もない。階下に上がって、おそらく友達と踊っているのではないだろうか。殺風景な、何もない部屋で行われる暴力を見るよりよほど有意義なことだろう。

 信頼してくれるのもいいが、少しは疑うべきだろう。蓮華はポケットから煙草を出した。


「ハタロウ、お前なんでこうなってるか解ってるんだろうな」

「知らねえ、しらねえよアニキ」

「すっとぼけんなアホンダラ」


 タロウは拳を左足の膝に振り下ろした。ネズミは悲鳴を上げて、芋虫のように体を揺らした。椅子に拘束されているから身動きは取れない。それでもネズミは痛みを主張するべく、悲鳴を上げて、口から泡を飛ばして、白目をむく。


 タロウは大きく息を吐いた。

 天井から吊るされたむき出しの電球が左右に動いて、薄暗い部屋の影を揺らす。

 タロウはネズミのそばに腰を下ろした。ネズミはひくひくと泣いていた。タロウは蓮華の方に手を伸ばした。


「おい、一本……いや、二本くれないか」

「自分じゃ吸わないのか」

「喪に服するために捨てたんだ」

「道理が通らないな」


 蓮華は自分のぶんに火を点けてから、ライターと箱をタロウに投げる。タロウは受け取ると、一本を取り出し、ネズミに咥えさせた。

 自身のぶんに火をつけて、それからネズミのぶんにも点ける。煙を吸い込むと、ネズミは涙を溢れさせた。


「うまいか」


 ネズミはなんども頷いた。


「おまえに、チャンスをやる。お前がもう隠し立てしなければ、もう一本だけ吸う権利をやる。二本目から先は、諦めろ。俺がお前を殺らなくても、組の誰かがお前を殺す」


 ネズミは嗚咽を漏らした。タロウは憐れむように見下ろして、その頬を軽く叩いた。


「選んだんだろ、お前が」

「だって、だって、バイク乗りたかったんですよ」


 ネズミは泣きながら話した。


「クラブで遊んでたら、スクーターなんかダセえって言われて。でもバイクなんて乗れないじゃないですか、俺じゃどう稼げばいいんですか。ドカタやったって、時間かかるじゃないですか。そしたらジョーのやつが、買ってやるって。そのために仕事しろって言って……」


 タロウは煙を吸い込んだ。深く、吸い込んで、長く吐き出した。煙は天井へと向かい、電球の周りでたむろした。

 タロウは立ち上がった。ネズミの目を見て、再び問いかけた。


「どうする。もう一本だけ……ついでに飯もつくかもな。そっちを選ぶか、それとも、今ここで死ぬことを選ぶか」


 タロウの静かな目に向かって、ハタロウは何度も頷いた。



「マサフミは考えてたんだ、初めっから、親分殺して組織奪い取ろうってよ……組織を太らせるのは、俺らに任せてそれから殺そうって考えてたんだ。デカい領地を動かすほうがデカい仕事ができるから、って。それで折鶴組と手を組んだんだ。

 折鶴隆一は先代が亡くなってからずっとデカい仕事をしたがってた。そうじゃないと箔が付かねえからな。

 マサフミは内偵を使って聞き出すと、話を持ちかけにいった。親分を、トミナガの親父を殺さねえかって。二人で最後にデカい組を作って、港湾開発を本格的にやろうじゃねえかってよ。

 折鶴組の領地があれば港の開発が進められる。かるた組の領地があれば、武器や薬を軍と反政府軍の両方に流すこともできる。デカい範囲で物流を組む事もできる。欲に目がくらんで、折鶴隆一は飛びついたんだ。

 その鍵として、夜鷹幽助を殺すことになった。夜鷹は折鶴組の依頼しか受け付けていなかった。だから夜鷹に仕事をさせれば、隆一を通じて作戦が解った。待ち伏せをして、マサフミが親父ともども夜鷹を殺す作戦だった。

 それがどうして失敗したか、折鶴の屋敷まで夜鷹がやってきたかは知らねえ。だがマサフミは、念には念を入れようと思った。違和感を抱かせる結果に終わったから……疑っているであろうタロウさんを殺そうと思った。それで、俺みたいなやつを買収したり、タロウさんが配下に加えそうなやつを選んで送り込んだ……」


テープレコーダーを止めると、タロウは耳元に近づけて再生ボタンを押し込んだ。声は正しく繰り返され、聞き間違えることはない。タロウは再生を停止すると、ハタロウに煙草を差し出した。


 震える指で受け取ると、ゆっくりと口元へと近づける。先端に火をつけてもらうと、ハタロウは気持ちよさそうに煙を吸った。赤熱した先端が、腫れ上がった頬を照らし出した。

 人生の最後の一本を、たっぷりと、ハタロウは味わった。


 火がフィルターに達した頃、ライトが闇を切り裂いた。数台の車とバイクが、タロウたちのいる木陰の脇を走り抜ける。タロウは顔を上げ、その車両のテールランプを追う。

 鶏たちが騒ぎ出す。ライトが照らした先に、左右に広い鶏小屋が見えていた。

車から男たちが降りて、ハタロウの名を呼んだ。数は十人を越えていた。少ないが、女の姿もあった。タロウはその一人ひとりに見覚えがあった。


「トハチ、ミナ、ナイチ、……情報通りだな」


 タロウはチャージングハンドルを引いた。M16が装弾される。


「わかっているな」


 ハタロウは小さく、何度も頷いた。目尻に涙が浮かんでいた。血で汚れた手で拭おうとしていたので、タロウはハンカチを渡してやった。

 ハタロウは何かを思い出したようにタロウを見た。タロウはその、懐かしむような視線を受け止めた。出会ったばかりのハタロウが、タロウに見せていた目を。

 ハタロウは微笑むと、目元を押さえて、ハンカチを返した。


「今まで、ありがとうございました」


 タロウはハンカチをポケットに仕舞った。タロウが小さく頷くと、ハタロウは踵を返して、木陰から走り出た。


「おうい!」


 大声を上げて、ハタロウが男たちに歩いていく。ボロボロの姿を見て、車から降りた男たちはざわついた。何人かが周囲を気にしながら、残りがハタロウを取り囲み、応急手当ができないかなどと話しあう。

 蓮華は引き金の重さを確かめた。装弾して、両手でしっかりと構える。タロウは蓮華と目を合わせた。そして、ハタロウのほうを見た。


「とにかく手当てをしよう」

「誰にやられた」

「いや、いいんだ!」


 ハタロウが男たちを遮った。男たちは、困惑した。ハタロウはにこやかに笑っていた。


「俺たちみたいなドブネズミ、これでちょうどいいんだよ」


 ハタロウは握りしめていたスイッチを押した。


 刹那、夜が、昼に変わった。


 周囲にいた男たちは、わけもわからないまま吹き飛んだ。

 離れていた男は、顔や体に飛んできたものがくっついたことを感じるやいなや、衝撃で思わずよろめいた。そして、事態を了解する間もなく、横ざまに浴びせられた銃弾に全身を食い破られた。

 銃弾を浴びせる蓮華とタロウを目視することができたのは、せいぜい二人くらいだろう。


 男たちが地面に倒れると、二人はゆっくりと近づいていった。タロウは持ってきていたコンパクトカメラを取り出すと、一人ひとりにレンズを向けた。フラッシュが血に汚れ、銃弾に食い千切られた身体を写した。


 一人は正面から顎骨を撃ち抜いた弾があったらしく、顎が片側だけだらりと下がって、両方の奥歯をむき出しにしている。

 一人は爆発をもろに食らったらしく、顔面が焦げ付いていた。

 肉の焼ける臭いがしていて、それが鶏たちを刺激するのか、小屋のほうが騒がしい。

 蓮華は、タロウと同様に、カメラを構えた。


 彼らの最期の写真を撮ると、一人ひとり、とどめを刺した。顔を撃つと、血が花開いて、彼女の頬や服を濡らした。すべてが終わるまで、五分もかからなかった。


「処理を頼む」


 終わるなり、タロウはふらふらと歩き出す。


「おい、どこへ」

「少し、疲れた」

 タロウは振り返りもせずに言って、車の方へと歩いていった。

 蓮華はしばらくその背中を見つめていたが、小さく溜息をつくと、車両の台数を確認した。

 車が三台、バイクが二台。

 事件化するのは厄介だった。少し考えてから蓮華は、セルフォンのアドレス帳を検索した。電話をかけると、すぐに繋がった。


『こちら宝石店、アッラーホ・ユサッリムカ。こんな夜分にどうしました。まさか恋人へのサプライズというわけではないでしょう』

「そちらに掃除を頼みたいんだ」

『業務外は少々値段が張りますが』

「問題ない」

『フウム……わかりました。では、ご用件をどうぞ』


 蓮華はタロウを視界の端に捉えて言った。


「十分後までに、ここにどんな車も来なかったことにしてくれ」




 その場を後にして、十分。蓮華は運転席で電話を受ける。

 聞き終えて、サヒードに礼を言って通話を切ると、セルフォンをサイドブレーキのそばにある、小物入れに向けて手放した。


「片付いたそうだ。いまごろ、あの鶏小屋の管理人は別人になっているだろう」

「……そうか」


 タロウは助手席で、吐き出すように言った。

 くたびれた横顔だった。夜闇の重さに潰されそうな、消えてしまいそうな横顔だった。

 蓮華は少し考えて、ハンドルを切った。

 予定のコースを外れても、タロウはなにも言わなかった。


 外を流れる風景は、点在するネオンライトのけばけばしい光の塊から、月明かりを揺らす水面へと変わっていった。窓の隙間からは冷たい潮騒が入ってきた。彼の頬の小じわの陰は、流れ行く街灯のせいで形を変えた。蓮華はじっとそれを見ていた。


 ふと、タロウの視線が一点に向けられていることに気づく。

 目を向けた先には、ダッシュボードに置かれていた煙草の箱があった。

 蓮華は箱をタロウに手渡した。

 咥えられた煙草に火を点ける。煙が細く、吐き出される。


「……ラジオ、点けていいか」


 蓮華は頷いた。


『……次は政治のニュースです。一ヶ月後に選挙を控え、立候補者の出馬表明が出揃いました。無所属、現大統領、ラーマジヤ・ハプスリゲン氏、愛緑党党首、イルトゥンガ・ワラダナ氏、……』


 ラジオを点けるなりうねるようなメロディを流した。立候補者の演説の時間だった。

 初めに、現大統領ラーマジヤによる出馬表明が聞こえてきた。ラーマジヤは挨拶すると、愛国的な言葉を並べ、耳触りの良い調子で演説した。がなり立てるような、粗雑で、乱暴な声だった。


「変えよう」


 蓮華が言うと、タロウは首を横に振った。タロウはじっと、ラジオに耳を傾けていた。

 ラーマジヤは当選の暁には戦争を追い風にいっそう国を豊かにすると述べて投票を呼びかけた。

 タロウは、口元を歪めた。街灯に照らされた目元が浮かべる感情がなにか、蓮華には読み取れなかった。


「……ヤタロウは戦争があったから、こんな道に転がったんだ」


 声は震えていた。蓮華は胸に痛みを感じた。ラジオの周波数をタロウは睨みつけていた。そこにラーマジヤがいるかのように。


「出会った頃、ヤタロウは痩せこけていた。水ばかり飲んでいたせいで、骨と皮だけの身体なのに腹が膨らんでいた。

 トハチは山の方から出稼ぎに来て、悪い店主に捕まっていた。店のネズミ取りをさせられて、それを料理して食えと言われていたんだ。ミナは母親に体を売らされて、稼ぎは家族を養うために使われた。

 違う道が、あったはずなんだ。あいつらにも……たまたま北の方で生まれてなければ、たまたま、あの親のもとで生まれてなければ、金があれば、チャンスがあれば」

 口の中に土の味が広がった。思い出せる、最も古い記憶――泥の凹凸に溜まった水を、啜ったこと。

「そうだな」


 蓮華は、わけもわからないまま、同意していた。


「きっと、そうだ」

「どんな生き方か知らないが、だが、それでも、他にあったはずだろう。あんな……あんな終わり方以外に、あったはずだ」


 タロウは手のひらで煙草を握りしめた。目は見開かれ、歯は食いしばられ、額に脂汗が浮いていた。だが、痛みと熱さがなければ、もっとひどいことになっていただろう。

 蓮華はハンドルを握りしめた。軋む音がしたけれど、手の中の痛みのほうが、よほど大切で、逃し難かった。


「マサフミの好きにさせてたまるか」


 タロウは言った。そしてきつく握りしめた拳を震わせながら、目を向ける。

 蓮華はその視線を受け止めた。


「そのためにも、手伝ってもらうぞ」

「ああ」


 タロウは頷いた。

 二人の視線の先には、底なしの夜が広がっていた。


第3話:ネズミ狩り(4)へつづく

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