第3話:ネズミ狩り(2)

 部屋に戻ってきた美友梨は憂さ晴らしのように蓮華を激しく抱いた。

 背中に手を回すことすら許さず、道具のように蓮華を責めた。

 何度も絶頂を繰り返し、悲鳴とも嬌声ともつかない叫び声を上げ、蓮華はぐったりとベッドから動けなくなった。

 美優梨は視線も向けないまま、意識の消えかけた蓮華に言った。


「就任式が延期になりそうだ。策は考えているから、気にするな。明日から数日間お父様に連れ回されることになる。その間に三つ、やっておけ。

 一つ、警察署長アザータの調査。二つ、アーサー・ウィクラマシンゲの調査。どんな些細なことでもいい、接触する糸口がほしい。三つ目は、繰り返しになるがネズミの処理。帰ってきたら報告をくれ。どんな手を使うかは任せる」


 そして蓮華はネズミの処理から当たることになった。タロウ・カルタ・ホンディンから、連絡があったからだった。


 耳慣れない着信音に目を覚ますと、蓮華は手探りで携帯電話を耳に当てた。タロウの低い声がまどろみを揺らした。

 さっそくネズミが動き出した、逐次メールで連絡を入れる。連絡には、今かけたセルフォンを使う。

 通話が切れた直後にショートメールが届いた。北欧製の小さな画面に、街へ出ろと書かれていた。


 蓮華はベッドに一人だった。屋敷には見張りが数名いるだけだった。蓮華は見つからないように抜け出すと、私邸――折鶴一の所有していた別荘だ――に戻り、装備を整えた。


 蓮華はスーフォアに跨ると、エンジンを吹かし、発進した。早朝の、車通りの少ない通りに、水冷四気筒の猛りは気持ちよく響いた。

 コロンへ向けて飛ばしていた蓮華に連絡があったのは七時頃。無愛想な単語の羅列――海、喫茶店、ホワイトハーパー。しかし、それで十分だった。


 ホワイトハーパー。コロン港湾部にある海に面した喫茶店。植民地時代から続く老舗だが、度重なる改修のおかげで、先進国で標準程度の味と内装を実現している店だ。


 蓮華は通りにバイクを停めると、ガラス張りのドアを押し開けた。蓮華はさっと視界を巡らせる。店内は広く、奥にはちょっとしたホールと雛壇がある。夜はそこで演奏とダンスを楽しめるようだった。店員が近づいてきたころ、蓮華は左手の壁際に席を取っていた男が手を上げていることに気がついた。


 蓮華は向かいに腰掛けてコーヒーを頼む。男は顔も上げることなく、マグカップから立ち昇る湯気を見ていた。

 伸びっぱなしの髪を後ろで縛り、派手なパーカーに身を包んでいる。下はデニムだろうか。動きやすそうな格好だ。歳は、二〇代後半だろう。蓮華はそう当たりをつける。記憶に間違いがなければ、最近流行っているファッションだった。

 男はようやく顔を上げると、蓮華を一瞥して言った。


「今日は一人か」

「……タロウ・カルタ・ホンディンか?」

「タロウでいい、折紙蓮華」

「……蓮華でいい。変装か、それは」

「ああ。そっちこそ変装か」

「まあな」


 蓮華はピッチリしたデニムに派手な模様がプリントされたTシャツを重ね着した、ストリート系ファッションをしていた。耳には刺々しいピアスも付け、いつもは手を付けていない短髪も、後ろでゴムで縛っている。下手に民間人を装うよりは、派手なファッションでアーティストにでも見せかけたほうが人に正体を悟られない。経験的にそう知っていた。


「ネズミは?」


 蓮華が尋ねるとタロウは顎で窓際を指した。ウエストバッグを背もたれに引っ掛けながら目を向けると、窓際に、貧乏ゆすりをするパーカーのセロン人。ハタロウだ。気忙しく飲料水を口元に運びながら、通りに目を向けている。手元のサンドイッチには、手もつけていなかった。


「三十分前からああだ」

「そうか」


 タロウはマグカップに口をつけた。


「部下が来ると聞いていたが」

「盗聴の可能性を考えて嘘をついた。信用できるのは自分だけだ。騙したことは謝罪する」


 ネズミが出たような状況だ、仕方のない処置なのだろう。蓮華は内心を察した。タロウはマグカップに口をつけた。


「折鶴美友梨はどうしている」

「今日は、隆一に連れ回されているらしい」

「延期になったらどうするか、ちゃんと考えているんだろうな」


 蓮華は首を横に振った。


「策は講じている」

「証拠は」

「私がここにいることだ」

「……いいだろう。だが武器が間に合わなかったら、ケジメはつけてもらうぞ」

「それはありえない仮定だ。ところで、そちらこそ、ネズミをどう捕まえるつもりなんだ」

「追いかけて、現場を押さえる」

「単純だな」

「やつは街に出た。危険を冒して。雇い主と接触するか、情報を渡すための仲介人に接触するはずだ」

「言い訳を潰す以外の手はないか……尾行に気づかれたら?」

「アドリブだ」

「シンプル・イズ・ベストか」


 コーヒーが届く。インスタント特有の、のっぺりした匂いがしていた。蓮華は口をつけて、ちょっと顔をしかめた。ためらいながら喉を通して、口の中に残る甘味に耐える。この国ではコーヒーにも紅茶にも砂糖を入れすぎる習慣があった。


 ネズミが動き出すまで待たなくてはいけなかった。二人は根気強く、腰を上げず、ちびちびとコーヒーを飲みながら、たびたび視線を交わして、雑談した。

 カモフラージュのために打ち合わせはいらなかった。二人は恋人を装った。蓮華は彼のファミリーの話を聞いたり、流行の音楽について話したりした。蓮華はそのうち、自分の肩から力が抜けていることに気がついた。

 蓮華は先代の生前を、駱太郎と組まされたときのことや、隆一のサポートをしなくてはならなかったときのことを思い出した。タロウと一緒にいる時間は、比較にならないほど気楽だった。


「……あいつめ」


 会話が途切れたとき、不意にタロウはそう言った。顔を上げると、タロウは苦笑いしながら、家族を見る優しい目を、まっすぐネズミに向けていた。


 ネズミはいつの間にかサンドイッチに加えて、セロン料理の揚げ肉団子を食べていた。こういった店は慣れていないのか、周囲の客と食べ方が異なっていた。他の客が最小限の動きを心がけようとする中で、ハタロウは手を大仰に振って、団子やサンドイッチを口に運んだ。それが彼を目立たせていた。


 タロウはコーヒーを飲むと、蓮華に視線を向けた。


「目立つだろう」

「……ああ」


 迷ったが、蓮華は正直に答えることにした。タロウは手のかかる弟について話すような口ぶりで言った。


「昔から、あいつは動作が大きいんだ。直すように言ったんだがな」

「昔から?」

「俺が拾ったとき、あいつは八歳だった。タロウが拾った八歳だから、ハタロウだ。親父がそう名付けたんだ」


 タロウは懐かしむように目を細めた。やわらかく弧を描いたまぶたは、しかし、すぐに鋭く吊り上がった。タロウはため息をコーヒーと共に飲み込んだ。


「俺が親父の真似事をするようになって、三人目だったかな。とにかく、最初の頃に拾ったんだ。他のやつと同様に、面倒を見て……大変だった」

「そうか」

「ああ。お前は、こういう店は珍しいか」

「なれっこだよ。日本にいた頃からな」

「そうか」

「日本では、このくらいの店ふつうだ。十歳のときからこっちへいるが……そうそう感覚は抜けない」

「金持ちだったんだな」

「そうでもない、が……そうでもあるか。海外旅行にいけるような家庭だもの。日本の平均以上はあっただろう」

「そうか。俺は、……あいつも、珍しいんだ。こういう場所に来れるような生活を、そもそも送ってこなかった。所作が行き届いていないのは、仕方のないことなんだ」

「……そうか」

「ああ」


 タロウはマグカップを口に運んだ。どこか言い訳がましい言い方に、蓮華は笑みを返していた。彼が語るファミリーの紐帯を、感じ取ったからだった。

 そしてこうも感じていた。この男は本来、人を殺すような男ではない。

 だからだろうか。不意に蓮華は尋ねていた。


「……自分から、暴力を振るったことがないというのは本当か」


 意図してはいなかった。気が緩んでいた。だが蓮華が謝るより早く、タロウが感慨もなく言った。


「そうだ」


 蓮華は好奇心がくすぐられるのを感じた。ヤクザとなって、働いてきて、多くの仲間と肩を並べたが、蓮華は部下も同僚も持ったことがなかった。その出自の特殊さと、先代による扱いが原因だった。だがタロウは仲間だった。

 蓮華は探るように尋ねた。


「素手で男の頭を砕いたそうだな」

「ああ」

「……なぜだ?」

「なぜ?」


 タロウは不思議そう問い返した。だが、蓮華の問いに表裏のないことを悟ると、マグカップを握った手の親指で、飲み口の縁を触った。


「どうして俺がその殺しをしたか知ってるか」


 蓮華が首を横に振ると、タロウはゆっくり話しはじめた。


「そいつは地元のギャングだった。あらくれもので有名で、オヤジも手を焼いていた。

 ある日のことだった。やつは俺たちの家に来た。オヤジに会わせてくれという。同盟を組みたいのだと。オヤジは会って、話を聞いた。同盟とは名ばかりで、無法を許せという要求だった。賄賂をバッグ一杯に詰めてきていた。

 オヤジは、拒否した。するとそいつは怒鳴り出して、オヤジの顔と、止めに入った俺の顔に、唾を吐いて浴びせかけた。そしてそいつが帰った夜、部下の一人が殺された。そいつがやったのは明らかだった。

 オヤジは俺にこう言った。あいつはメンツに泥を塗った。メンツをこい、と。家族の恥を濯いでこいと。……だから俺は、。家族を汚すやつは、誰であっても、許せないからだ」


 言い切ると、タロウはマグを口に運んだ。そして一息に飲み干して、長い息を吐いた。

 蓮華はタロウの横顔を一瞥しながら、確信した。

 こいつとなら仕事ができる。


 九時を知らせる時報が鳴った。選挙放送が流れ出す。ネズミは立ち上がると両手をポケットに突っ込んで、扉の方へ歩いていった。二人はチップ込みの代金をテーブルに置くと、扉が閉まると同時に立ち上がった。



 店を出ると蒸し暑い空気が顔を覆った。ネズミはベルーガに乗ると、増え始めた朝の車通りに身を投じた。

 蓮華はスーフォアに飛び乗った。クラウンが彼女の脇を通り過ぎた。タロウの車だった。すれ違いざま、ハンドサインで先へ行くぞと告げられた。蓮華はその後ろについた。


 二台先にネズミの姿があった。クラウンの背中がネズミから蓮華を隠した。朝の陽射しが、車体についた砂埃の黄色を目立たせた。そして並走する車と同様の、清掃の行き届いていない、働き人の普段遣いに見せかけた。クラウンは周囲の車に溶け込んでいて、周囲の注目を惹かなかった。


 蓮華の見た目とクラウンの地味さは対照的だったが、何食わぬ顔で走らせれば不審な印象は抱かせない。もちろん、時折奇異の眼差しを投げかけられたが、ほとんどが蓮華の容貌への好奇心によるもので、車やバイクの特徴を詳細に覚えている連中はいないだろう。ネズミも、何度かクラウンとスーフォアを視界に入れていたが、尾行に気づいた様子はなかった。


 最初の一キロは問題なかった。ネズミはツーリング客を装って、コロンの街を適当に走らせているようだった。いや実際に、ただ時間を潰しているだけのようにも見えた。ネズミは露店で揚げ物を買い、それをつまみながら、すれ違う顔見知りに手を振ったり、気に入った女性に声をかけたりして街を一周した。


 二周目は、しかし目的を持った走りだった。時折クラクションを慣らして並走するスリーウィーラーを驚かせるような悪戯をしてはいたが、ハンドルに悩んだ様子がなかった。同じように追いかけたが、嫌な予感がし始めた。周囲から浴びる視線が増えていた。


 長時間の、それも同じルートを二回も回るような尾行には、今日の格好は不向きだった。暑さのせいで、ヘルメットを着けてこなかった。蓮華が後悔を覚えた時、それは起こった。


 突然、背後でクラクションが鳴った。よりにもよって赤信号で、車の波が止まった時に。振り向くと、スリーウィーラーの運転手が、半身を出して笑顔を蓮華に向けていた。


「姉さん、きれい、ビューティだね」


 後部座席には乗客らしき幼い少女が膝に毛の短い中型犬を乗せて、興味津々に蓮華を見ている。蓮華は舌打ちすると視線を戻した。だが、そうすると再びクラクションが鳴った。無視しても、効果はなかった。

 蓮華はバックミラー越しに向けられたタロウの視線を感じた。首を横に振って、こう願った――離れてくれ、今のうちに。


 クラウンは右折のランプを点けた。蓮華は安堵の溜息をつく。クラクションが何度も響く。額に浮いた汗が気持ち悪い。蓮華は頭を振って髪を揺らした。少しだけ気持ちが楽になった。


 信号機は右折のみ動いていた。クラウンはのろのろとレーンを変更した。抗議を示すクラクションが、あちらこちらから鳴った。

 クラウンがいなくなって生じた間隙をすぐさま別の車が埋め合わせたが、振り向いたネズミの視線を遮るには遅かった。


 ネズミははじめナンパ男と美人のやり取りに好奇心を抱いたらしかった。口笛を甲高く鳴らして、蓮華の気を引こうとしていた。だがその好奇心に満ちたにやにや顔は、ゆっくりと青ざめていった。浅黒い肌が青紫色に変わろうかというほど、窒息したような顔つきになって、ネズミは声にならぬ悲鳴を上げた。

 彼は蓮華の顔を見ているのだ。気付かないはずがなかった。


 ベルーガが勢いよく交差点へ飛び出た。赤信なのが幸いして、ネズミをじゃまするものはなかった。ネズミは左にハンドルを切った。

 信号が一度黄色を示し、それからまた赤へ戻った。蓮華は振り向いて運転手を睨みつけた。殺意を抱いた。だが時間がなかった。

 蓮華は舌打ちした。そしてアクセルを握り込んだ。



第3話:ネズミ狩り(3)に続く

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