第3話:ネズミ狩り(1)
二人が家の前に辿り着いたときには、もう辺りは暗くなっていた。虫除けスプレーはとっくに効果が切れていて、飛び交う蚊が美友梨に群がった。蓮華はスリーウィーラーの運転手に多めに金を持たせると、ポーチから鍵を出しながら、門の中に手を入れて、南京錠のロックを外した。
音を立てないようにしながら小さく開けて美友梨を通すと蓮華も中に入り鍵をかけた。飼い犬のクロが二人に気づいて、家へと続く道を駆けてきた。クロは二人の周りをぐるぐると回った。蓮華は舌を歯に当て擦過音を出した。クロは顔を伏せた。美友梨は苦笑した。
「そう邪険にしなくても良いだろう」
「犬は嫌いです。なんどご飯を争ったか」
言ってから、蓮華は恥ずかしそうに顔を伏せた。美友梨は眉を下げるとその腕を軽く撫でた。蓮華は首を横に振った。
「それより、いいんですか。泳がせておいて」
「密偵のことか?」
蓮華は頷いた。
タロウと密約を交わし、連絡のための符丁を決めると、美友梨はすぐさま帰ることにした。それが蓮華には気にかかっていた。
「誰がネズミか、もう解っています。あの場で捕まえなくてはいけなかったのではないですか」
「ネズミが一人だとは限らないだろう、レン。もしあの場で捕らえたら、別のネズミが正体を悟られまいとする。決めた符丁は早速活用させてもらったよ」
「じゃあ、もう伝えているんですか」
「ああ。あのハタロウとかいう男、警察の手先にしては気が小さそうに見えたが……あとでレンに連絡が来る。タロウが信頼する部下をよこしてくれるらしい」
「こちらの面子で調査をしろと?」
「ああ。おそらく、私はしばらく動けなくなるからな」
美友梨が言うと、蓮華は悲しそうに目を伏せる。美友梨は腕を絡めると蓮華を抱き寄せた。
「必要な処置だよ。その間に、武器の調達を考えておくさ」
「決めてなかったのですか?」
「ああ」
美友梨は苦笑した。
「だがなんとかする。目星はつけてある。お父様が予想通りに動いているならな」
「動いてなければ?」
「なんとかするさ。今回の一件で、警察が関わってくれたのが功を奏した。思ったより信頼を掴めただろうから」
「シーヴァ・アクヌ・アルウィス……聞いたことのない名前でしたが」
「調べておいてくれ。おそらく、計画に必要になる。私たちを踏みつけてきたものを全部踏み潰すためにはな」
蓮華は頷いた。美友梨は蓮華から離れた。家はもう目の前にあった。明かりがついており、歓談の声が聞こえた。窓の格子の合間から、男四人がテーブルを囲んでいるのが見えた。蓮華は美友梨に会釈して裏口へ向かった。あとで、部屋に来てくれる。美友梨は深呼吸すると、蚊除けの網戸を抜けると、靴棚にヒールを置きながら、スリッパに指を入れた。
「ミユ、おい、帰ってきたのか?」
隆一に声をかけられて、美友梨はそっと扉を開けた。客間の強すぎる照明が夜に慣れた目を刺した。美友梨は頭を下げた。
「ただいま帰りました、お父様」
テーブルには、マサフミ・アンドウとジョー・アンドウが隆一の向かいに腰掛けていた。そして警察署長のアザータが美友梨に背中を向けていた。床にぞんざいに帽子を置いて、四人で興じていた麻雀に夢中になったままだ。
隆一は顔を上げると肘掛け椅子に背を預けると、口元にたくわえた髭に触れた。
「こんな遅くまでどこへ行っていた」
「街へ、蓮華と出かけていました」
「またレンか」
隆一は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「あまり遊びすぎるんじゃない。お前ももう嫁に行く歳だからな」
「女二人飼う度量くらいなくっちゃね、男には」
「こら、ジョー! すみませんリュウさん」
マサフミは隆一に頭を下げる。ジョーも父に腕を叩かれて、渋々サングラスを下ろし、隆一に会釈して詫びを述べた。隆一は首を横に振った。
「ジョーくんの言う通りだ。女はそうして舐め合うものだよ」
「セロンの女は旺盛だからな」
アザータが言うと四人は下卑た笑い声を発した。隆一は扉の側で待っていた美友梨に視線を向けた。
「サーバントが寝てしまった。水を持ってきてくれ」
美友梨は頷いた。隆一の後ろを通ってダイニングへ向かった。奥へそのまま進めば廊下を抜けた先にキッチンがあり、そちらはもっぱらサーバントが使っている。ダイニングは左手にあったが、酒の入った男たちが道を開けることなんてない。美友梨は壁に体を押し当てるようにして通った。後ろを見るとアザータと目が合った。アザータはさっと目を逸らして牌を指先で弄り回したが、なおも視線を背中に注いでいた。
左の扉を開けると月明かりがダイニングを包む闇を押しのけてくれていた。真ん中には大きな食卓があって、椅子が四つ、奥の辺を除いて適当に並べられていた。冷蔵庫は壁の隅にあった。美友梨は中身がなみなみと満たされた二リットルのボトルを取り出した。容器の表面はすぐ部屋の気温のせいで汗をかいた。滴り落ちるしずくもそのままにして美友梨はトレイにコップを三つ用意した。囁き声がして目を向けると、ダイニングの左奥のリビングに蓮華がいた。蓮華は上を指差した。美友梨は頷いた。蓮華が階段を登るのを見てから美友梨は客間に戻った。四人の手元に水を置くと、それぞれがぞんざいに礼を言った。四人は視線すら向けなかった。
「稼ぎは変わらないんですよ、署長さん」
と隆一が言った。美友梨はリビングとダイニングの出入口近くの壁に背を預けた。アザータは手で顔を仰いだ。
「変わらないけど仕事は増える。今日の大統領選のニュース、見てないのかよ」
「もうそんな時期でしたかな。なにか変わったことでも?」
「そういえば、無党派無所属の新人が立候補してましたなあ」
マサフミが付け足すと、隆一は思い出したように頷いた。アザータは気忙しく牌の頂辺を撫でる。
「その新人が問題なんだよ、困ったことに。アーサー・ウィクラマシンゲの名前で気づかないのか? 日本人はもっとこの国を知るべきだ。ウィクラマシンゲは植民地化以前から続く一族で、つまり、セロン王国の王族の末裔なんだよ。長い植民地時代もその勢力を維持し、財を民のために使い続けた。これまでは政府に関わりを持とうとせず、下からの改革を続けていたが、それが国政に打って出た」
「つまり?」
「次の大統領選は今まで通りじゃあいかない。既に、国家警察に圧をかけて、人事刷新が行われた」
「なんだあ、結局は金の力じゃねえかよ」
ジョーが言うとアザータは舌打ちした。
「違う。自発的に長官が辞めたんだ」
「どうして」
「民に申し開きできるのかと迫られたからだ」
隆一とマサフミは笑った。が、ジョーは笑わなかった。分厚いサングラスごしに、アザータの危惧を共有した。アザータは溜息まじりに隆一らに言った。
「あんたがたは日本で育った。生まれはここだが、心はよそものだ。だからわかりっこないんだ。セロンの連中にとって古王国の血はいまなお力を持っている。金や暴力よりも遥かに重たい、神話の世界の信仰だ」
「そんなバカな」
「ここは仏教国だぞ。それも最古の教えが残る国だ。そして北にある大陸とは異なる神話が発達してきた。なぜ植民地以前の歴史が曖昧だと思う? ずっとこの国を、神が支配してきたからだ」
バカバカしい。そう言いたげにマサフミは隆一に同意を求めて視線を向けたが、感じるものがあったのか、隆一は視線を下げていた。
「……で、それと金の上乗せがどう関係するというのです」
「ウィクラマシンゲは金になびかないんだ。そして独自の警察機構を味方につけた。公正部隊、その隊長はシーヴァ・アクヌ・アルウィス。元陸軍大佐、ギシリーヤ山の戦いでカラマ人ゲリラを皆殺しにした男だ。コイツが度々、私らが見逃しておいた連中を摘発している。介入を止めたければ今まで以上に面倒になる。同じ額では話にならない」
「フウム……考えておきますよ。額面の相談は、また後ほど。先に考えをお聞きしたいですね」
「なんのだ」
「就任式ですよ」
「なに?」
「かるた組の就任式です。もともと一週間後に予定していたものですが」
「延期すべきだな。公正部隊は反社の集まりを見逃すまい。一斉摘発の危険もある」
隆一は溜息をつくとマサフミを見た。マサフミはアザータに眉根を寄せる。
「困りますな。隆一さんは金を払っている。これからは私もだ。取り分の二割は収めてるんだ。あなたも仕事をしてもらいたいな」
「だから金が更に必要だと言っている」
「立場がわからねえのか、土人が」
マサフミは日本語で吐き捨てた。アザータは意味を理解しなかったが、侮辱だということは理解した。アザータは顔を真っ赤にして立ち上がった。その太ももをジョーが蹴りつけた。アザータは仰向けに倒れた。体を起こそうとして、アザータは唇を震わせた。エンフィールド・リボルバーがまっすぐ彼の額を見つめていた。
「ハジくなよ、ジョー」
マサフミが言った。ジョーはにやにやと笑いながら撃鉄を起こした。アザータは唇を引きつらせた。
ジョーはにやにやと笑った。引き金に力が込められた。弾倉が、ゆっくり回転した。
「俺は立場をわきまえないやつが嫌いなんだ」
ジョーはサングラスの奥からアザータを見下していた。アザータの額から流れ落ちた汗が、突き出たぶ厚い唇に溜まっていく。隆一が苦笑した。
「アザータさん。わかっていますか。あなたの代わりはいるんだ。あなたもよおく知るように、この国は我が身が可愛い人ばかりだから。あなたは汚職警官として名を知らしめる。十歳になる娘さんは、まだあなたが清廉潔白だと信じているらしいが……どう思うかな」
アザータは目を剥いて、隆一を見た。隆一は卓の向こうで下卑た笑みを浮かべていた。アザータは再びジョーを見た。マサフミを見た。そして哀れな呻き声を漏らした。
「ばん!」
「クソッ!」
ジョーが引き金を絞り、だが撃鉄は鉄を叩いただけだ。ジョーは驚きを隠しきれない目でエンフィールド・リボルバーを見た。ジョーは笑いながら真ん中で折って、なにもない弾倉をアザータに向けた。そして子供でもあやすように、脂肪のついた頬をぺちぺちと叩いた。
「なんだ、本気にしたのか? 冗談が通じないな。ジョークだよ! 仕事はちゃんとしてくれよ、署長さん」
ジョーは笑うと席に戻った。アザータはよろよろと立ち上がると、服の埃を叩いて、倒れた椅子を引き起こした。のろのろ腰を下ろす太った体は震えていた。隆一はマサフミに笑いかける。
「まあ目立たないようにしてやりましょうか」
「それじゃあ困る。すでに組の宥和は知られているはず、ならその路線を進めるべきでしょう。なあジョー?」
「んん? ああ、そうだな、親父」
ジョーはリボルバーを布で拭きながら美友梨に視線を向けた。美友梨の心臓が跳ねた。見定めるような視線の奥に、かすかな警戒心があった。先程から美友梨は、壁に背中を預けたまま、目を逸らすこともしていなかった。隆一の中では、美友梨は従順な娘子のままだ。変化を気付かれるわけにはいかなかった。
「今度遊びに来てください」
「娘を連れていきますとも。ミユ、いいな?」
「はい。それより……もう行っていいですか? 今日は疲れました」
隆一はマサフミに目を向けた。マサフミは笑顔を浮かべた。隆一は視線を戻し、顎で去るように促した。美友梨は背を向け、ダイニングへ向け歩き出した。
「いや、待て。忘れていることがあった」
背後で隆一が立ち上がった。美友梨は足を止めた。息を吸い、振り返る。
「なんですか」
隆一は美友梨の頬を叩いた。
ひどい音がした。美友梨は床に手をついた。
「後ろを向いてひざまずけ」
隆一の命令に、美友梨は黙って従った。背中を向けて、美友梨はタイルの床板に膝をついた。唇を噛んで、屈辱に耐える。血が滲んで、鉄臭い味が口の中いっぱいに広がった。
「お前には、ずっと言ってきたはずだ。お前は一人しかいない私の娘で、お前の体はお前だけのものではないとな。お前がどうなるかは私の運命をも左右する……なのにお前は女二人で、遅くまで街にいた。なにをしてきたかは聞かない。お前には自由があるからな。だが夜の街が危ないと知っていたはずだ。危険に自ら身を晒したのだ。私を危険に晒したと言ってもいい。だから二度とさせないために罰を与える。いいな」
美友梨は自身の油断を責めた。隆一もセロンの男であり、暴力で心を支配できると考えている。帰ってきてすぐ何も言われなかったせいで、美友梨はそのことを失念していた。
ふくらはぎに痛みが走った。反射的に美友梨は苦痛を漏らした。
「返事は!」
隆一は踵をねじった。小さく悲鳴が漏れ出た。隆一はいっそう体重をかけた。
「……わかりました」
「背中を出せ。服は傷つけずにおいてやる」
隆一は足を離した。美友梨はジッパーを下ろしてワンピースの肩紐から腕を抜いた。白い背中があらわになった。背後で口笛がした。たしなめる声が聞こえた。美友梨は背中に向けられる、男たちの視線を感じた。
隆一はズボンのベルトを外した。バックルを握ると、その端を反対側の手で掴んでピンと伸ばした。ベルトは音を立てた。その張りに問題がないことを確かめると、隆一はベルトを鞭のように使って美友梨の背中に叩きつけた。
食いしばった歯の間から、美友梨の呻き声が漏れた。隆一は何度も叩きつけた。白い背中に幾筋もの腫れができた。白い肌は赤く染まった。隆一はやめなかった。赤黒い筋を二、三度強く叩いた。美友梨は耐えきれずか弱い悲鳴を漏らした。隆一はそれで手を止めた。
「服を着なさい」
「……はい」
美友梨はワンピースに袖を通して立ち上がった。振り向くと、顎で早く行くよう促された。美友梨はよろめきながらダイニングを抜けた。背中が痛んで上手くジッパーを上げられなかった。壁一枚隔てた客間から、天井にほど近い通風孔を歓声が伝った。打ちっぱなしのコンクリートは冷たく、薄いスリッパ越しにも冷えた。蒸せた空気のせいで、背中の焼けるような痛みが、いっそう熱く、刺すようだった。自室へ通じる廊下にたどり着いたとき、再び背後から声がした。
「いただいた、ロン! 大儲けだ、ハハハ。今日は愉快なものを見れたなあ。あの白い肌がいつか俺のものになると思うと気分がいい」
「おいおい、悪趣味だぞ、ジョー」
「いやマサフミさん、男はそのくらいでなくっちゃ。その時はよろしく頼みますよ」
「ハハ、わかりました。ハハハハハ……」
第3話:ネズミ狩り(2)へ続く
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